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2013年8月16日 (金)

「世間教」の二本柱

現代日本の「世間教」の二本柱をあげるなら、次の2つになるであろう、ということが、最近よく分かってきた。

1  「曖昧な唯物論」
2  「病人はおとなしくしていろ」(病人または患者に主体性をもたせない)

1の曖昧な唯物論は、はっきりと意識された「唯物論」ではなく、「曖昧」な唯物論であることが、ポイントである。「日本的唯物論」は、「曖昧」で漠然たるものであることによって、「世間」と共存し、また、言挙げされることも少なく、永らえているのである。

「唯物論」が、唯物論として明確に意識されたものであるとき、そこには、「世間」なるものが入り込む隙はほとんどない。「世間」なるものは、物質的なものだけが存在するものとして徹底されるとき、重視される余地はないからである。「世間教」にとっては、それはまずいのである。それは、できる限り、漠然とベールに包まれたようなものである必要がある。

また、明確に意識された唯物論というのは、何かの折りに、その世界観が、問題としてとりあげられ、問われることになりやすい。その世界観が、明確なものとして意識されていれば、その世界観と相いれない事柄に出会ったときには、それが問われることになるはずだからである。しかし、それが曖昧とした、漠然としたものであれば、そのようなときも、あえてそれが問題に付されることもなく、素通りされることにもなる。これは、そのような世界観を長く存続させるには、都合のいいことである。

「世間教」は、そのように、曖昧にしておくことで、自分自身とそれが取り入れた世界観を、巧みに永らえされているのである。

しかし、それは、曖昧ではあっても、やはり一つの「唯物論」ではある。明治以来の日本は、曖昧な形ではあっても、西洋由来の物質的な考え方を取り入ることになった。ただ、それを、それまでの伝統的な信仰や精神を入り込ませた、「世間」にくるむようにして取り入れたのである。それらは、曖昧なものとしなければ、互いに共存できなかった。そして、戦後には、そのような「物質的な考え方」はよりはっきりと強められた。その世界観が、一つの「唯物論」であることは、よりごまかしようのないものとはなった。しかし、それでも、それは、明確に自覚され、意識されることは、多くはなかったと言える。それで、「世間」も、表面上、形を変え、薄められながらも、その裏では、根強く力を発揮しながら、生き残っているのである。

私は、10代の頃、「唯物論者」だったと言ったが、それは、はっきりと自覚された形での、「唯物論者」だった。だから、「唯物論者」でありながら、周りの特に大人の、一応は「唯物論」に基づくはずのものの見方には、大いに違和感を抱いていた。そもそも、唯物論を徹底すれば、「権威」やら「道徳」やら「しきたり」やら、「精神的価値」などは、一切、本来根拠のない、「作り事」に過ぎないものになる。だから、本来「唯物論」を信じているはずなのに、そのようなものを、当たり前のように押しつけてくる大人というものは、信じ難かったし、「偽善者」としか思えなかった。 

しかし、逆に、私は、「自覚的」な「唯物論者」だったために、それに適合しない事象に出会うなどして、割と容易に、それを覆すことができた。ところが、今の「世間教」は、そのような場合にも、「世間」にくるまれた、曖昧なものである分、容易に覆えすことは難しいものになっているのである。

2の「病人はおとなしくしていろ」(病人または患者に主体性をもたせない)というのは、「病人」という限られた範囲の者に対してのものだから、「世間教」一般の柱になるはずはない、と思われるかもしれない。しかし、そんなことはない。

「世間教」といえども、常に、個人に対して力を発揮するわけではない。特に、個人が強い力を発揮できる状況では、「世間教」も、ほとんど口を挟む隙がない。「世間教」が力を発揮するのは、個人の力が弱まったとき、個人の主体性が剥奪されるような状況においてである。そのような機会こそ、「世間教」が活躍して、個人に、その威力を植えつけることができる。そのような機会とは、まさに、個人が「病人」として扱われるような状況を代表とする。

「病気」の者は不安に陥り、気分的に弱まっている。そのようなときこそ、「世間」の出番である。「病人」に対しては、できる限り「おとなしく」させて、主体的に「病気」に関わるようなことはさせず、「世間」がいろいろと「おせっかい」を焼き、主導権を握る。「病院に行きなさい」「薬をちゃんと飲みなさい」「安静にしなさい」「食べ物に気をつけなさい」などなど、「世間」の「教え」を強制し、うえつけていく。そのような機会こそ、「世間」は十分、主体性を発揮できるのである。その、押しつける内容は、必ずしも、重要なことではない。個人の主体性を奪い、依存心を生じさせ、「世間」が主体性を発揮できること自体が重要なのである。

「病人」に対しては、「世間」の「教え」を具体的なレベルで実行し、施行するのは、もちろん、医師、看護師等の医療機関である。しかし、それらは、それのみで単独の「力」を発揮するわけではなく、「世間」の「教え」を身に体現するからこそ、個人に対して、逆らい難い権威のようなものをもって、作用するのである。

そして、このような力を一番発揮するのが、「精神医学」である。精神医学は、本来、個人の性格やら性向であるものも、「病気」として抱え込むことを可能にする。つまり、「世間教」の布教対象としての「病人」を、いくらでも増やすことができる。

また、精神医学の扱う「病人」こそ、最も個人の主体性をはく奪し、「おとなしく」させることの可能で、必然性ある存在である。他の「病人」にも増して、「病人」に「主体性」を与えるなど、とんでもないことだからである。その意味では、精神医学の「病人」こそ、「病人」の中の「病人」である。これ幸いと、「世間」が好き勝手に、教えをたれ、自らを押しつけることができる。いわば、「個人」を「世間」が侵食していく、またとない機会である。

これは、医学、中でも精神医学が、「世間」にうまくとり込まれることに成功して、自ら威力を拡大したとも言えるし、「世間」の方が、自らの権勢を維持するのに、医学ないし精神医学を取り込んで、うまく利用したともいえる。いずれにしても、一種の「共犯関係」である。それは、日本においてこそ、特に成功しているものというべきである。

このように、「病人」とは、決して、特殊な、限られた範囲の人たちではなく、誰もが予備的、潜在的にそうであるような、いやむしろ、積極的にそのように方向づけられる人たちなのである。そして、それは、「世間教」の洗礼を受ける、またとない機会でもあるのである。

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コメント

確かに純粋な唯物主義よりも、曖昧さを兼ね備えた唯物主義のほうが考えを覆すのは難しいですね。
私が以前コメントで支配層、捕食者が知能戦、心理戦に優れていると言ったのもこの点が含まれており、全てを嘘で塗り固められたものより、嘘の中に真実を織り交ぜたほうがごまかしやすいということを彼らは熟知していると思ったからです。
この場合、曖昧さこそ一種の緩衝材になっているんでしょうね。

また統合失調症と診断された私にとっては、「病人はおとなしくしていろ」ということが身にしみて感じます。私自身の体験から言えば、現在完解状態になったのは薬の効果というよりも、統合失調症的体験を自分なりに総括したということに尽きると思います。薬はむしろ副作用のほうが大きく、日常生活を送ることさえ困難でした。以前テレビで精神病患者の薬を漢方薬に置き換えてみたら患者に見られるろれつが回らないなどの症状が改善されていて、精神病患者独特の雰囲気がなくなっていました。

私としては薬よりもカウンセリングのほうが効果があると思っていますが、実際の治療ではカウンセリングなどは全くなく、病気になった表面的な経緯だけ聞いてあとは薬をのませるだけという治療がほとんどだと思います。しかしおそらくカウセリングを実施したとしても、この「病人に主体性をもたせない」姿勢が改善されなければ、患者の話も「それは病気だからそうなった」という身も蓋もない話になりそうなで怖いです。
この病気の最大の問題は「あれはいったいなんだったのだろう」という想いが心に残ることだと思いますが、あまり深刻にならずに、このブログでも取り上げたかもしれませんが、「まあそういうこともあるさ」ぐらいに気楽に構えることも必要かと思います。


トシさん。ありがとうございます。

薬の問題は、「副作用」ということもありますが、それは、薬がもたらす作用と認識されている分まだましで、さらに、薬によってもたらされたにも拘わらず、「病気」の症状とみなされてしまうことにあるといえます。トシさんのいう、「ろれつがまわらない」などの精神病患者独特の「雰囲気」というのも、多くは薬によってもたらされたものと思われます。他にも、「脳の委縮」や薬を止めたことによる「離脱症状」なども、「病気」がもたらすとみなされてしまうことが多いでしょう。

それだけ、特に「精神病」では、「病気」ということが、「悪いもの」「マイナスのもの」とみなされているわけで、生じた「悪い」状態、「マイナス」の状態は、「病気」という「器」に盛られてしまうことになります。というより、「病気」という概念は、まさにそのような「器」としてこそ、使われているというべきです。それは、「病者」から主体性を奪うことを、徹底的に可能にするものでもあります。

私も、「統合失調症的体験を自分なりに総括する」ということ以外に、統合失調状態を回復させるものはないと思います。と言っても、それには、当然「主体的」な取り組みを必要とします。しかし、それをさせないのが、「精神医療」及び「世間」で、「ただの病気」であるということで、「おとなしく」させたうえで、「薬を飲んでいればいい」ということを、押しつけようします。

「カウンセリング」も、本人の主体的な取り組みを「助ける」ようなものであれば、意味があると思いますが、「病気」という観念の上にたっているものは、基本的に精神医療と変わりないと思います。「主体性を奪う」結果にしかならないだろうということです。

結局、「世間」と「精神医学」にとっては、「病人」は治らない方が都合がいいということになるのでしょうね。

ティエムさんコメントありがとうございます。

ちょっと話題が変わりますが、私が病気になった一番の原因はサイエントロジーに足を運んだことでした。私がリストラに合い、支配者層のことをあるサイトで頻繁に書き込んでいると、そのサイトにサイエントロジーによって作られた適性検査のリンクがいつの間にか張られるようになっていました。私は当時サイエントロジーについて何も知らず、何気なくサイエントロジーの適性検査を受けてしまいました。当時は早く新しい就職先をみつけるために、自分がどんな適性があるのか調べるためにその適性検査を受けました。

しかし、その適性検査の結果をサイエントロジーのスタッフから電話で聞いているときに、初めて幻聴が聞こえました。電話を通してだったのですが、突然「泣け泣け」という女の人の声が聞こえました。
そのときはちょっとおかしいなと思う程度で終わりました。それから東京に行く予定があったので、ついでに軽い気持ちでサイエントロジーの本部に行ってしまいました。今思うと統合失調症の引き金になったのはこのサイエントロジーへ足を運んだの大きくて、そこで今までの学校教育は真実を隠すための嘘だと教えられました。またサイエントロジーに通っている人が私の顔を驚いた様子で二度見したり、私のことを離れた位置から怯えたようにチラチラと見る人もいました。そういう細かい不自然なしぐさや、今まで聞いたこともない教え、また「泣け泣け」という幻聴らしき声が積み重なり妄想を酷くさせ、最終的に錯乱状態にまでなりました。
私が書き込んでいたサイトも、管理者が命の危険を感じる出来事があったということで今は閉鎖してしまいました。

あり得ないかもしれませんが、支配者層について頻繁に批判めいたことを書き込んでいた私をやっかいだと思った人物がいて、サイエントロジーに働きかけて私がサイエントロジーに来るように仕向けられた可能性も考えました。最初に聞いた幻聴も、もしかしたら電話口で誰かが実際に「泣け泣け」としゃべったのかもしれません。しかしこの「泣け泣け」という言葉がのちに妄想をひどくさせる布石の効果がありました。結果的に私は精神病患者になったわけで、なんだか仕向けられたような気もするのです。サイエントロジー自体は精神科医を批判する立場なのですが、実際にサイエントロジーに通っている人たちは精神的に危うい感じがします。
なんだか自分達は他の人が知らない「真実」を知っている特別な存在だと思っている人がいて、
これは妄想を酷くさせる要因になることで、いつ錯乱状態になってもおかしくない状態だと思います。

新興宗教というのは心が弱っている人に近づいてくるのでその点は世間教と同じだと思いました。

くわしいことは分からないので、何とも言えませんが、私の感じでは、サイエントロジーに足を運んだことが原因なのではなく、リストラにあった、支配層への批判を書き込んでいたなどのことから、「世間」から「外れて」しまったことを意識し、それがさまざまな不安と葛藤のもとになったのだと思います。たとえば、批判の裏返しとして、何か仕打ちを受けるのではないかとか、将来に対する不安などから、心理状態が相当追い込まれていたのではないかと思います。「幻聴」を聴いたのは、そのような心理状態が大きく影響していたはずです。私も、それに近い状況はありましたし、分裂気質の人は、そのような状態に陥りやすいです。

そして、分裂気質の人がそのような心理状態に陥ると、一緒の意識の変容を起こし、「幻聴」や「幻覚」を見やすい状態になると思います。サイエントロジーの件は、ますます不安や葛藤が増し、そのような心理状態を助長するように働いたということだと思います。

そして、そのような「幻聴」や「幻覚」には、「捕食者」またはそれに類する存在の影響が大きく働くことは、何度も言ってきたとおりです。サイエントロジーとの関わりも、「捕食者」が「布置」(演出)したという可能性はありますが、この世的な意味で、「仕向けられた」のではないと思います。「捕食者」は、そのような「不安」を読んで、いかにもそれが実現されたかのように見せかけることは得意です。迫害妄想の多くが、そういうものと思います。このあたりのことは、もう一度確認しておいた方がいいと思います。(あまり、この世的な状況のみに囚われ過ぎないように)

「世間教」と「カルト的な新興宗教」が、弱っている者に近づいてきて、何かと「押し付ける」というのは、本当のことと思います。一方は、「多数派」の宗教、一方はごく「少数派」の宗教ですが、そのあり方は、とても似ていると思います。どちらも、強い「集団性」に支えられており、やはり背後には、「捕食者」的な存在が働いています。

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