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2013年8月

2013年8月25日 (日)

「あと10年!」という言葉と「41才寿命説」

記事「「あと10年!」という言葉に絡めて 」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-b708.html)では、「捕食者」の「あと10年!」という言葉に、様々に振り回されたことを述べた。これは、始め、自分の寿命のことを言っていると思われたわけだか、それには次のような理由もある。

当時、西丸震哉という人の『41才寿命説』というのが話題になっていた。確か本は読んでいなかったと思うが、どのような内容かはある程度知っていた。要するに、食事や環境等により様々な化学的害毒物質を蓄積している、私たちの世代以降の人は、(平均)寿命が41才になるという説だ。

一連の体験をしているときの私は、ちょうど30才で、「あと10年」後というのは、まさに41才になる年を意味していた。そんなことも、「あと10年」という言葉が、寿命と結びつけられて受け取られた一つの理由になっている。

私たちの世代が、食事や環境等により様々な害毒物質を蓄積しているということには、疑いがないし、実感もある。我々の前の世代も、化学的害毒物質を蓄積していることには違いないだろうが、それらが技術的に大量生産されるのは、ちょうど我々が生まれて以降くらいであり、幼児のときから大量にさらされていたのは、やはり我々の世代以降のことである。いわば、「化学物質漬け」の始まった最初の世代なのである。しかも、この時期は、危険を理由とする規制も少なく、それ以前に危険自体よく認識されていなかったこともあり、その後禁止された物質も、多く出回っていた。

その代表が「チクロ」という甘味料で、私たちも子供心に、それが毒であることはよく知っていて、「チクロ」入りのジュースを、「毒入りジュース」とか「ドクロジュース」などと呼んでいた。どぎつい着色料の色、また石油のしみ出しそうなポリ製品の袋を口でチューチュー吸って飲むという飲み方など、それは、「毒入り」ジュースというよりは、「毒」そのものジュースという感じだった。私は、本能的に、あまり飲む気にはならなかったが、周りの者たちは、何だかんだ言って、結構気に入って飲んでいた。これは、あくまで代表であり、ほかにも、似たようなものは、いろいろあった。

また、我々の世代は、多くのワクチンが普及し、学校で集団的に予防接種を受けることの一番多かった世代だった。インフルエンザを始め、チフスや日本脳炎その他、ほとんどの感染症のワクチンは、受けていたはずである。小学低学年、中学年頃には、学校で何を教わったかなどほとんど覚えてないが、このような感染症の恐ろしさだけは、刷り込まれるように教わっていたのを覚えている。ワクチンの普及(布教)は、教育とワンセットになっていたのである。

また、健康診断、歯科検診、眼科検診、耳鼻科検診などが、執拗に繰り返され、ちょっとでも引っ掛かった者は、医者に行かされた。私は、幸い健康診断、歯科検診では引っ掛かったことはないが、何か、どの医科にも罹らせないことは許されぬことであるかのように、眼科検診、耳鼻科検診で何の自覚症状もないのに引っ掛かり、かなりの期間医者に通わされた。

病気のときに飲む薬なども、今以上に、副作用への警戒、配慮はなく、かなりきつい薬が当たり前に処方されていたはずである。

また、学校では、給食がある。漂白剤や保存剤たっぷりのパンに、マーガリンを塗って、牛乳で口に押し込む。クーラーなどはなく、夏の暑いときでも、一応溶けずにいるマーガリンには、トランス脂肪酸がたっぷり浮いている。こんな食事が、毎日のように続くのである。

また、環境では、中学から東京だったが、スモッグが毎日のように出て、雨が降れば酸性雨となって体を襲った。東京湾は、ヘドロだらけだった。

「なんて日だ!」どころじゃなくて、こんなのが毎日のように続くのである。「なんて世代だ!」とは、間違いなく言えるだろう。もっとも、当時の自分らは、感覚も既にマヒしていたか、あまり深刻にも受け取らず、当たり前のように日々を過ごしていた。

この「あと10年!」という言葉を受けたときには、「41才寿命説」のことを思い浮かべ、かつての自分らのこんな食生活や環境生活を思い出し、改めて、いかに毒が溜まっているかに思いを馳せた。それを抜きにしても、ただでさえ、様々な「声」や幻覚の攻撃にさらされて、脳や身体は、疲弊し切っている状態である。こんなので、あと10年以上もまともに生き続けられる訳がないと改めて感じられた。「あと10年!」という言葉には、強い「説得力」が加算されてしまったのだ。(前も言ったように、実際には、その後、もはや、「即」死ぬというところまで追い込まれたから、「後10年」などは、まだ「かわいい」ものだったわけだが)

実際のところ、もちろん、文字通りの意味では、「41才寿命説」は実現していない。しかし、我々以降の世代も、表向き、規制が厳しくなって、禁止されたり、実行されなくなったものはあるが、巧妙な形でより広まったものも多く、実質的には、我々以上に害毒が減少している保証は何もない。つまり、このまま蓄積が続けば、何世代か後には、「41才寿命説」が実現する可能性は十分ある。

また、「41才寿命説」は、文字通りの意味ではなくとも、一種の「象徴」として受け取ることもできる。「41才」は、肉体的には一応生き続けるにしても、精神的に、または「実質的」に、「死んでしまう」年として受け取ることもできるのである。そして、だとすれば、これはもはや、とっくに実現しているとみることもできる。

「41才」というのは、「生きる屍」と化す年齢の象徴ということである。そこには、様々な精神的、社会的理由もあるだろうが、化学的害毒物質の蓄積などの身体的理由も大きく作用している。

そうだとすると、「あと10年!」といいう言葉には、やはり、かなり大きな意味合いがあったと言わねばならない。

2013年8月16日 (金)

「世間教」の二本柱

現代日本の「世間教」の二本柱をあげるなら、次の2つになるであろう、ということが、最近よく分かってきた。

1  「曖昧な唯物論」
2  「病人はおとなしくしていろ」(病人または患者に主体性をもたせない)

1の曖昧な唯物論は、はっきりと意識された「唯物論」ではなく、「曖昧」な唯物論であることが、ポイントである。「日本的唯物論」は、「曖昧」で漠然たるものであることによって、「世間」と共存し、また、言挙げされることも少なく、永らえているのである。

「唯物論」が、唯物論として明確に意識されたものであるとき、そこには、「世間」なるものが入り込む隙はほとんどない。「世間」なるものは、物質的なものだけが存在するものとして徹底されるとき、重視される余地はないからである。「世間教」にとっては、それはまずいのである。それは、できる限り、漠然とベールに包まれたようなものである必要がある。

また、明確に意識された唯物論というのは、何かの折りに、その世界観が、問題としてとりあげられ、問われることになりやすい。その世界観が、明確なものとして意識されていれば、その世界観と相いれない事柄に出会ったときには、それが問われることになるはずだからである。しかし、それが曖昧とした、漠然としたものであれば、そのようなときも、あえてそれが問題に付されることもなく、素通りされることにもなる。これは、そのような世界観を長く存続させるには、都合のいいことである。

「世間教」は、そのように、曖昧にしておくことで、自分自身とそれが取り入れた世界観を、巧みに永らえされているのである。

しかし、それは、曖昧ではあっても、やはり一つの「唯物論」ではある。明治以来の日本は、曖昧な形ではあっても、西洋由来の物質的な考え方を取り入ることになった。ただ、それを、それまでの伝統的な信仰や精神を入り込ませた、「世間」にくるむようにして取り入れたのである。それらは、曖昧なものとしなければ、互いに共存できなかった。そして、戦後には、そのような「物質的な考え方」はよりはっきりと強められた。その世界観が、一つの「唯物論」であることは、よりごまかしようのないものとはなった。しかし、それでも、それは、明確に自覚され、意識されることは、多くはなかったと言える。それで、「世間」も、表面上、形を変え、薄められながらも、その裏では、根強く力を発揮しながら、生き残っているのである。

私は、10代の頃、「唯物論者」だったと言ったが、それは、はっきりと自覚された形での、「唯物論者」だった。だから、「唯物論者」でありながら、周りの特に大人の、一応は「唯物論」に基づくはずのものの見方には、大いに違和感を抱いていた。そもそも、唯物論を徹底すれば、「権威」やら「道徳」やら「しきたり」やら、「精神的価値」などは、一切、本来根拠のない、「作り事」に過ぎないものになる。だから、本来「唯物論」を信じているはずなのに、そのようなものを、当たり前のように押しつけてくる大人というものは、信じ難かったし、「偽善者」としか思えなかった。 

しかし、逆に、私は、「自覚的」な「唯物論者」だったために、それに適合しない事象に出会うなどして、割と容易に、それを覆すことができた。ところが、今の「世間教」は、そのような場合にも、「世間」にくるまれた、曖昧なものである分、容易に覆えすことは難しいものになっているのである。

2の「病人はおとなしくしていろ」(病人または患者に主体性をもたせない)というのは、「病人」という限られた範囲の者に対してのものだから、「世間教」一般の柱になるはずはない、と思われるかもしれない。しかし、そんなことはない。

「世間教」といえども、常に、個人に対して力を発揮するわけではない。特に、個人が強い力を発揮できる状況では、「世間教」も、ほとんど口を挟む隙がない。「世間教」が力を発揮するのは、個人の力が弱まったとき、個人の主体性が剥奪されるような状況においてである。そのような機会こそ、「世間教」が活躍して、個人に、その威力を植えつけることができる。そのような機会とは、まさに、個人が「病人」として扱われるような状況を代表とする。

「病気」の者は不安に陥り、気分的に弱まっている。そのようなときこそ、「世間」の出番である。「病人」に対しては、できる限り「おとなしく」させて、主体的に「病気」に関わるようなことはさせず、「世間」がいろいろと「おせっかい」を焼き、主導権を握る。「病院に行きなさい」「薬をちゃんと飲みなさい」「安静にしなさい」「食べ物に気をつけなさい」などなど、「世間」の「教え」を強制し、うえつけていく。そのような機会こそ、「世間」は十分、主体性を発揮できるのである。その、押しつける内容は、必ずしも、重要なことではない。個人の主体性を奪い、依存心を生じさせ、「世間」が主体性を発揮できること自体が重要なのである。

「病人」に対しては、「世間」の「教え」を具体的なレベルで実行し、施行するのは、もちろん、医師、看護師等の医療機関である。しかし、それらは、それのみで単独の「力」を発揮するわけではなく、「世間」の「教え」を身に体現するからこそ、個人に対して、逆らい難い権威のようなものをもって、作用するのである。

そして、このような力を一番発揮するのが、「精神医学」である。精神医学は、本来、個人の性格やら性向であるものも、「病気」として抱え込むことを可能にする。つまり、「世間教」の布教対象としての「病人」を、いくらでも増やすことができる。

また、精神医学の扱う「病人」こそ、最も個人の主体性をはく奪し、「おとなしく」させることの可能で、必然性ある存在である。他の「病人」にも増して、「病人」に「主体性」を与えるなど、とんでもないことだからである。その意味では、精神医学の「病人」こそ、「病人」の中の「病人」である。これ幸いと、「世間」が好き勝手に、教えをたれ、自らを押しつけることができる。いわば、「個人」を「世間」が侵食していく、またとない機会である。

これは、医学、中でも精神医学が、「世間」にうまくとり込まれることに成功して、自ら威力を拡大したとも言えるし、「世間」の方が、自らの権勢を維持するのに、医学ないし精神医学を取り込んで、うまく利用したともいえる。いずれにしても、一種の「共犯関係」である。それは、日本においてこそ、特に成功しているものというべきである。

このように、「病人」とは、決して、特殊な、限られた範囲の人たちではなく、誰もが予備的、潜在的にそうであるような、いやむしろ、積極的にそのように方向づけられる人たちなのである。そして、それは、「世間教」の洗礼を受ける、またとない機会でもあるのである。

2013年8月 5日 (月)

「支配層・捕食者」の「恐れること」

記事『「精神医学」と「児童相談所」の「介入」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-c611.html)では、「支配層、捕食者」は、現代の子供を直接管理、支配(弱体化)すべく、戦略を切り替えている。それは、現代の子供が、彼らの意図しない方向にいくことを強く恐れているからだということを述べた。

具体的に、「支配層・捕食者」が、現代の子供について恐れていることを推察すると、次の3つに絞ることができる。

1 彼らの「支配構造」について、知ること
2  「霊的知識」、「オカルト的な知識」を得ること
3  「宇宙人の存在」と「地球外起源の技術」について知ること

1 彼らの「支配構造」について、知ること

いつの時代も、子供は、大人の文化程度を超えるものをはらんでいるかのように、恐れられて来た面がある。現代でも、大部前から「新人類」などといわれ、子供は、新種の人類かのようにみなされて来た。最近では、さらにそれが、加速しているといえる。テレビの子役タレントなどを見ても、そのませた様、聡明さには驚く。少し前は、ファッションや流行の発信元は、女子高生だったが、今やそれは女子小学生となっている。

「精神世界」では、「インディゴ・チンドレン」とか「クリスタル・チルドレン」などと言われ、進歩した宇宙的な魂が、地球に生まれていることが、実しやかに語られたりする。

彼ら「支配層・捕食者」だけでなく、「大人」一般が、現代の子供に「異質性」や「恐れ」を抱くことがあるとしても、不思議ではないかもしれない。

しかし、「支配層・捕食者」の恐れは、もっと具体的、現実的なもので、現代の「聡明」な子供たちが、彼らの「支配構造」そのものを知ることにあると言うべきである。

現代では、インターネットを初めとする、民間、個人レベルで発信された「情報」が、大きく浸透している。子供たちもまた、そのような「情報」に触れる機会が、いくらでもある。あるいは、テレビや新聞などの大手メディアの情報よりも、そういった情報の方に、親近感を感じるようになっているともいえる。

もちろん、ネットなどの技術や情報には、依存しやすいこと、混乱のネタが豊富であることなど、「支配層・捕食者」にとっても都合がいい面が多くある。しかし、うまく利用する限り、彼らの「支配構造」について知る機会というのは、いくらでもある。既に「洗脳」され切った、現代の「大人」には、もはや難しいが、現代の「聡明」で、情報の収集力に長けた子供たちが、こういったことを知るというのは、かなり現実味のあることだといえる。

実際に、子供たちが、そこまで、「聡明」かどうかは別にしても、「支配層・捕食者」にとっては、その可能性ある限り、それは大きく恐れられるということである。あるいは、デーヴィッド・アイクも言うように、今後、様々な理由づけにより、ネットの表現も大幅に規制されるかもしれない。そのような「情報」そのものを、規制し、シャットアウトするというのは、それに対する一つの有効な防御方法である。

しかし、一方で、「支配層・捕食者」は、もっと一般的、包括的に、子供の健全な思考能力そのものを、早いうちから、切り崩そうとしているかのようである。学校やそれを取り巻く環境から、様々なストレスを与え、精神的に不安定に陥れ、「病気」を作り出して、精神医学の対象とし、薬漬けにすること。ワクチンや食品、環境から、さまさまな化学物質を浸透させ、身体や神経を脆弱にさせることなどである。

2  「霊的知識」、「オカルト的な知識」を得ること

世間に、「唯物論的発想」が行き渡っている方が、彼らの支配にとって都合がよいことは、何度も述べた。しかし、現代の子供は、このまま「唯物論的発想」を維持し続けるか、疑問である。彼らは、現代に行き渡っている「常識」のようなものには、大いに疑問を抱いている。「スピリチュアル」な事柄が、若年齢層に受け入れられつつあることにもそれは窺える。

もともと、社会に毒される度合いの少ない子供は、感性において霊的なものを受け入れやすい基盤がある。しかし、さらに聡明な現代の子供は、我々の時代以上に、「霊的な知識」または「オカルト的な知識」を、獲得する可能性がある。

「捕食者」や「支配層」が、こういった「知識」が広まることを恐れているのは確かである。しかし、そもそも、(「捕食者」は当たり前だが)、「支配層」自体は、こうした知識について、いくらかでも知っているのだろうか。もちろん、彼らは、かなりの程度これらの知識を重視しており、また、実際に、少なくとも、ある程度の知識はもっているはずである。彼らの立場からは、その気になれば、こういった情報や体験へのアクセスは、容易だし、また、霊能者や超能力者を実験したり、直に交わって説明を得るなどのことも簡単である。そういったことを通して、これらの知識の重要性や内容も、十分認識しているはずなのである。その点では、それらの情報や体験に接する機会の少ない、一般人よりはるかに、有利な立場にある。

彼ら自身が、その知識を彼らの目的のために利用しているということも当然ある。こういった知識は、逆の意味(幻想や麻薬的な依存を生むものとして)も利用でき、カルト的な偏った内容や、現実逃避的な内容ならば、むしろ世に広まることが奨励される。しかし、一番憂えられるのは、多くの者が、「現実」と結びつく形で、こういった知識を探求したり、獲得することで、今の「体制」以外のあり方を真剣に探られることである。つまり、「霊的知識」、「オカルト的な知識」は、彼らの都合上利用できるものでない限り、秘密にし、多くの者に行き渡らないようにすることが重要なのである。

しかし、現代の子供は、情報収集力にも長け、先の「インディゴ・チンドレン」とか「クリスタル・チルドレン」などとも言われるように、霊的なものについても、鋭い感性をもっていて、こういったものを、容易に身につけていくかもしれない。

これも、実際に、現代の子供がそうであるということではなく、「支配層」にとって、そのように見える、その恐れがあるということが重要なのである。

3  「宇宙人の存在」と「地球外起源の技術」について知ること

記事、『「人間の支配層の陰謀」と「地球外存在」の影響』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-9948.html)で述べように、これこそが、「支配層」にとっての一番の危惧であろうと察せられる。と同時に、「支配層」の焦りを、本当にリアルに感じさせるものである。これらは、被支配層の意識を、もっとも現実的なレベルで、変えさせてしまう可能性を秘めたものだからである。

「宇宙人の存在」を間近にすることは、「地球人」ということの意味と意識を大きく変えるものだし、「地球外起源の技術」は、今の体制をすぐにでも覆しかねないものを秘めている。これらは、「物理的」な基盤があるので、「霊的知識」、「オカルト的な知識」以上に、具体的で現実的なものとみなされ、それが広まることを恐れられるのである。そして、「霊的知識」、「オカルト的な知識」以上に、強く秘密と「独占」が図られるのである。

彼らの思惑どおり、「霊的知識」、「オカルト的な知識」と同様、これらのことも、多くの大人にとつては、「非現実的」なもので、まともに考える対象ではないと思われているかもしれない。しかし、現代の子供となると、そうとは言えない。

情報の収集の仕方によって、これらの知識が得られる可能性があるのも、「霊的知識」、「オカルト的な知識」と同じだし、「インディゴ・チンドレン」「クリスタル・チルドレン」的な感性が、こういった情報を引き寄せ易いのも、同じである。

さらに、「支配層」は、「宇宙人」に関しては、彼らが手を組む宇宙人以外の宇宙人が、将来的に地球人に手を差し伸べ、交流が始まる可能性も恐れているはずである。そうなれば、宇宙起源のさまざまな知識や技術が、彼らの手を介しないで、直接地球人の手にわたることになる。将来の地球人とは、現代の子供やその子孫のことにほかならないのである。

そして、現代においても、彼ら「支配層」や「捕食者」は、その可能性がかなり高いことを予測しているはずなのである。この点は、宇宙人についての情報や、その知識や技術の意味を、その立場からよく知るがゆえでもある。そして、そうなった場合には、彼らの立場がいかに不利なものであるかを、十分認識していると思われるのである。

                                                               
こういったことから、彼らの、最近の支配を強めようとする様々な行動は、焦りとともに、混乱や、自暴自棄的なものも感じられる。そこには、「支配力を失うくらいなら、支配している層をダメにしたい」という、実利的な効果を度外視した、より直接に「破壊的」なものも感じられるのである。

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