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2013年7月 6日 (土)

「虚無」または「闇」という理由

『用語集』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/cat22977689/index.html)のところでも、少し述べたし、これまでにも何度か述べたことだが、改めて、このブログで、「虚無」または「闇」という理由についてまとめておきたい。

記事『「虚無」・「闇」あるいは「無限」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post-6f09.html)でも述べたように、「虚無」または「闇」というのは、「光」に対立するものとしてではなく、「光」をも超える、最も「根源的なもの」を言い表している。「虚無」は、「無」と同時に、「無限」とも言い換えられる面をもつ。要するに、全く「無限定」で、規定しようのないもの、枠付けることのできないものである。「闇」は、そのぎりぎりの狭間で、ある種の「存在性」をもっているといえるが、「虚無」というのは、もはや「存在」ということのできない、究極のものである。だからこそ、「現実」という枠組みが取り払われたときに、「根底的」なものとして、最終的に浮かび上がるものなのである。

その意味では、「光」もまた、ある限定された存在であり、「神」もまた、究極の「存在者」としても、やはり、限定というものを免れることのできないものである。(「一神教」は、「神」を「絶対化」するが、その根拠は自明ではない)

このようなものに相当するものは、仏教でも言われており、普通「空(くう)」とか「空性(くうしょう)」と言われる。それに対して、「虚無」または「闇」という言い方は、「光」に対立するものというイメージがあり、「否定的」なものというイメージもある。誤解を受けやすい表現だが、しかし、私はあえてこの言葉を使っている。その理由を簡単にまとめると、次のようになる

1 安易な「肯定」を排すること
2 それ自体の「実在性」を強調すること
3 「闇」と「虚無」の区別をつけて全体を捉えること
4 自我または自己にとっての「否定性」は、厳としたものであること
5 「狂気」との関連でも適当なこと

1安易な「肯定」を排すること

もともと、インドでは、「空」(シューニヤ)という言葉は、「空っぽでなにもないこと」、「実体として存在しないこと」という、否定の意味合いが強かったようである。

しかし、般若心経の「色即是空、空即是色」という言葉に端的に示されるように、中国特に日本では、「空」はかなり肯定的な意味合いに変じている。「色即是空」で一旦、「色」(色・形のある物質的現象)は、「空」(実体がない)とされながら、「空即是色」で、そのような「空」なるものだからこそ、「色」として現れるのだということが強調される。これは、現象としての「色」は、「色」として、そのままに肯定されることにつながる。「空」という媒介を通してこそ、成り立っていることだが、「空」そのものは、忘れ去られる傾向にある。

特に日本では、「本覚思想」などといわれ、全ての自然的な現れ、さらには、人間的、または社会的な現状を、「仏性」の現れなどとして、そのままに「全肯定」していくという発想がある。これは、日本人の、変革を嫌い、現状受容的な、安易な「肯定性」に、通じていると思われる。

つまり、「空(くう)」という言い方では、もはや、それ本来の「否定性」を表すことは、難しい状況になっているというべきである。「空(くう)」という「字」や「言葉の響き」すら、もはや、あまり「否定」の響きは、感じられなくなっているだろう。

そこで、そのような「安易」な「肯定性」を排したいというのが、「空」という言葉を使わない一つの理由である。

2  それ自体の「実在性」を強調すること

私もそうだったが、「色即是空」などの、「空」とか「空性」という言葉を聞いたとき、そこにそれ自体の「実在性」が感じられるだろうか。それは、どこか、「観念」の遊戯のような、「思想」上のものに過ぎない印象を受ける。しかし、もちろん仏教でもそうだが、それは本来、「実在的」なものなのであり、その実在性の「体験」が、「空」の思想の元になっている。「空」を徹底すれば、「空」自体も「空」じられて、「空がある」という言い方も超えられなければならない、というのは確かなことである。しかし、それは「空がない」ということではない。まずは、その「実在性」が、はっきりとつかまえられなければ、意味がない。

「闇」という言い方は、「空」に比べれば、ぐっと、その「実在的」なイメージが増すであろう。それは、実際、次にみるように、厳とした「実在性」のあるものである。「虚無がある」という言い方は、語義矛盾のようでもあるが、「空」に比べれば、「実在性」の「手ごたえ」のあるものだろう。「虚無」なるものが「ある」というのは、逆説的で、インパクトある言い方でもあり、その言い方自体で、その「実在性」を強調することになっているとも思う。

3「闇」と「虚無」の区別をつけて全体を捉えること

「闇」というのは、私の一連の体験の最終段階で、まさに「実体」そのものとして現れた、「暗黒の塊」様のものに対して言われている。それは、「物質」でないことは明らかだが、「ダークマター」にもたとえたように、巨大かつ強力なリアリティある、「実在」そのものとして、明白に感じられるものである。ただし、「魔」のようなものを、ときに比喩的に言い表すような「闇」ではなく、いわば、その大本の、「闇そのもの」であり、「実体としての闇」である。それが自己に迫るときは、確かに、このうえない恐怖をもよおすが、それに接触し、「包まれる」に至るときは、もはや「恐怖」などというものは存在しない。その意味でも、本来は、「否定的」というよりは、「中性的」なものであり、「宇宙空間」のような、「闇そのもの」なのである。

これについては、私は、「闇」という以外の呼び方をしようがないと思う。

しかし、その「闇」とは、実際には、記事『「闇」と「ダークマター」/「ダークエネルギー」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-bfac.html)でも述べたように、「自己」という枠組みが壊れかかって、いわば瀕死の状態にあるときの、「虚無」のぎりぎりの現れであり、その一つの「様相」と考えられる。「虚無」そのものは、無限定のものであるから、本来、自己に対するところの、「対象」として現れることはできない。しかし、そのぎりぎの「様相」は、「闇」という「実体」的なものとして、「自己」という枠組みが取り払われてしまわない段階でも、現れ得るということである。

「自己」という枠組みが取り払われて、「虚無」そのものとして現れたものは、もはや、「自己」に対する「対象」ではなく、「自己」そのものの根底であり、それと「一つ」のものである。それを「空」なり「空性」の体験と呼ぶのはよいが、「闇」という現れ方と対比するとき、それでは、全体を連続的に捉えることが難しいだろう。

「自己」のあり方との関係でささまざまな「様相」を現す、ある「根源的なもの」を、「虚無」と捉えて、その一つの、ぎりぎの「様相」が「闇」なのだと捉えた方が、しっくり来る。また、全体を、静態的にではなく、動態的に捉えることができると思う。

4 自我または自己にとっての「否定性」は、厳としたものであること

「闇」または「虚無」は、本来は「中性的」なものだと言ったが、「自我」または「自己」にとっては、厳として、「否定的」なものとして現れる。それは、「自我」または「自己」という枠組みを、破壊するように働くのだから、当然である。言い換えると、「闇」または「虚無」を、「否定的」なものとしてみるのは、「自我」または「自己」の側の問題なのである。それは一つの、防衛意識の現れである。しかし、「空」という言い方では、この辺りのことが、十分浮かび上がって来ないだろう。

安易な「肯定」を排するというだけでなく、それは、実際に、我々が、「自我」または「自己」というものを有する限り、厳として、「否定的」なものとして現れるのである。そのことを、明確にしておきたい。そのためにも、「闇」または「虚無」という、「否定性」を帯びた言い方の方が、ふさわしいのである。

5 「狂気」との関連でも適当なこと

私は、「狂気」という過程を通して、このようなさまざまな体験をし、それを通して考察しているので、このブログも、「狂気」に関することがメインになる。また、実際にも、記事『狂気(統合失調症)の「原因」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html)、『「うつ」の原因』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-de23.html)でも述べたように、「狂気」とは、実は、このような「虚無」との関係で起こるものといえるのである。

「統合失調症」の場合、「虚無」や「闇」は、自己を脅かす、「実体」そのものとして、より直接的に現れるし、「うつ」の場合、「虚無」や「闇」は、強迫観念や虚無感として、間接的に現れる。このように、「狂気」との関係も、深いものなのである。ところが、「空」という言い方では、そのような「狂気」との関係を、浮かび上がらせることはできにくいであろう。

そこで、「虚無」や「闇」という言い方は、「狂気」との関連でも適当なことといえるのてある。

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コメント

このブログではある表現に対して読者の主観的なイメージをできるだけ排除しようとしているのは理解できます。なるべくそのものの性質や本質を表す表現をしようと試みているのは伝わってきます。
数学で言えば素因数分解をしているような感じでしょうか。

本来全てのものはニュートラルなのかもしれませんね。人間というフィルターを通してみると世界は脚色されてしまいますが。もちろんそれも文化的な面では必要なことだと思いますが、このブログの趣旨からすると味付けの無い言葉を選択するのは正しいと思います。
                         

トシさん。ありがとうございます。

「虚無」や「闇」も、否定的な意味で主観的なイメージを受けやすい言葉てはありますが、そこにはそれなりの必然性もあり、より現実を反映するふさわしいものだとは言えると思います。

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