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2013年7月

2013年7月26日 (金)

「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」

プレアデス+かく語りき』(太陽出版)というのは、バーバラ・マーシニアックという人をチャネラーとした、プレアデス系のチャネリングもので、1980代後半の古いものだか、なななか興味深いことが述べられていた。

プレアデス系に限らず他の星雲系も参加しているので、「プレアデス+(プラス)」と呼ばれる。プレアデス系といえば、ビリー・マイアーのコンタクトを思い出し、言っている内容も皮相な感じがあったので、これまで読む気にならないでいた。しかし、この度読んでみたら、意外なほど、興味深いものがあった。

後半は、「アセンション」に向けての進言という感じで、つまらないものも多かったが、セックスや男性性と女性性の統合の話は、なかなか面白く読めた。「アセンション」についても、恐らく、これは、それを言い出した最初の部類に入るのだろうが、あくまで、肉体次元での次元(密度)の上昇ないし融合ということであり、「進化」というよりは、本来あったものを取り戻すという意味合いが強く、あくまで可能性として述べられているので、穏当なものと言える。

しかし、何より興味深かったのは、前半の宇宙や地球、人間に関わる「創造神」についての話で、これまでに聞いたものの中でも、ごまかしのない率直なことが、具体的かつ説得力に、述べられていると思う。それは、かなり厳粛な事実で、プレアデス系のイメージからすれば、驚きが多い。

たとえば、「創造神の中の創造神」と言うべき、最も根源的な「創造神」は、「根本創造主」と呼ばれ、―地球ではいわゆる「(唯一)神」と呼ばれている存在だが―、そのような存在も、完全であるどころか、模索と進化を続けていること。その「創造行為」は、一種実験的なもので、あらゆる「創造神」がそうであるように、被創造物を通して、自己を認識したり、自己の滋養を得るために利用するという面があること。

さらに、そのような、人間の創造に関わった「創造神」の中には、30万年前に、地球を支配すべく人間を遺伝的に分断、改変して、今日までの奴隷的な支配状況を築いた存在がいること。それは、その「創造神」が、人間のそのような破壊と混乱の状況から生じる感情を、食料とするためであることなどが、淡々と述べられている。

最後のものは、まさに、このブログでも述べている「捕食者」のことだが、それが明確な形で打ち出されているのである。実際、記事『『捕食者」についての本』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post-967b.html)に加えてもいいくらいである。

「アセンション」というのも、そのような30万年越しの、人間の分断された状態が、今後、脱されて、元の統合状態をとり戻す可能性があるということであり、この「プレアデス+」もそうだが、その創造に関わった「創造神」たちも、現在行き詰まっており、彼らのさらなる進化のためには、そのようなことを支援する必要があるということである。そこには、様々な「創造神」同士の思惑や争いの反映もからんでいる。

このような、「神」や「宇宙的存在」のからむ「物語」は、一見、規模の大きい、宇宙的な話だが、未知の領域への飛躍的な「進化」というよりも、元々そうであった状態に戻るということであり、「創造神」同士の争いの「尻拭い」という、我々からすれば、とばっちりのような面もあるわけである。

人間の「遺伝的な改変」というのは、端的には、12束(ないし螺旋)のDNAがバラバラに分断されて、2束(二重螺旋)にされたということに表わされ、その影響は、神経組織に大きく現れる。神経組織が未熟なため、人間本来の在り方に関わる宇宙的な情報(霊的な情報と言ってもいいと思うが)が咀嚼できず、取り入れることができないのである。そのため、本来の在り方から疎外され、非常に限られた範囲の情報しか扱えず、その情報を捕食者的な「創造神」によって操作されることによって、支配を受けているということである。

宇宙的な情報が咀嚼できないとは、そのような情報は、現状の未熟な神経組織には、混乱や破壊をもたらすように作用する、ということでもある。私も、一連の体験時に、一瞬のうちに、一塊のものとして入ってくる宇宙的な情報が、咀嚼できずに、神経がショートしそうになることを、何度も経験した。実際、「プレアデス+」も、「精神病院は、古代の目を開いたけれども、それをどう理解したらよいのか分からない人たちで一杯」だと言う。このような神経組織の未熟さは、人間全体として、「狂気」の一つの前提条件となっているということになる。

だから、このような遺伝的改変を元に戻すこと、つまり本来の12束のDNAを取り戻すことが、今後の「アセンション」の一つの指標とされる。しかし、その過程、特に、このような情報の取り入れの過程では、神経組織の混乱や破壊の状況は、より多く現れざるを得ないという。このことは、「日月神示」などでも、指摘されていたとおりである。要するに、次元の壁、境界が取り払われる方向に進むのだから、このブログでも述べて来た、「霊界の境域」的な現象が、必然的に増えてくるということである

もちろん、「捕食者」的な存在や地球の「支配層」は、それらを阻止して、自分らの支配を継続しようと躍起になっている。神経組織を阻害する化学物質や、電磁波その他の方法による神経への攻撃は、神経組織の未熟さを維持させようとする戦略の一つといえる。

また、「ホログラフィの挿絵」ということも言われている。これは、次元の境界領域で、次元のポータルの力を利用することによって可能となる「技術」とされ、「捕食者」的な存在と、地球の「支配層」による科学技術の協力でなされるもののようである。要するに、この三次元的な世界に、「現実」ないしその基礎となる知覚的な現象を、意図的に創出する技術である。それによって、人間全体の「現実」認識を操作し、支配を継続しようというのである。UFO現象の多くは、このような「ホログラフィの挿絵」であるとされる。「キリストの再臨」のような現象が創出される計画もあるという。(私は、「ケムトレイル」の一部もそうなのではないかと疑う。)

もっとも、何度もみて来たように、「捕食者」のような存在は、単独で、このような「幻覚」的現象を生み出すことができる。ただ、それには、意識状態を変容させたり、「霊界の境域」へ侵入させるというような、ある程度の操作的な前提がいる。また、それは、普遍的に、多くの者に対して起こすというよりは、個人的、または一定の集団などに対してのものに限られる。

「ホログラフィの挿絵」というのは、そのような、これまで一定の(特に「狂気」とみなされて来たような)人に対して起こされて来た、「幻覚的な現象」を、より普遍的、一般的に、人間に対して起こすことを目論むものと言える。

何しろ、今後は、こういった意味でも、多くの者にとって、「現実」や「知覚的な現象」の見極めが、大変なことになってくるはずである。

※「捕食者」が、霊的次元から単独で起こす、個人や一定の集団をターゲットとした「幻覚」と、普遍的、一般的な「幻覚」を生み出す科学技術として、すべての者をターゲットとした「ホログラフィの挿絵」の違いは、記事では分かりにくかったかもしれませんが、コメント(5番目)にて、より詳しい説明をしているので、参照ください。

2013年7月19日 (金)

もう一句

「人は死なない」などと言うが、

「私」はもちろん死ねるし、「自己」も死ぬ。

「魂」だって、死ねる。

本当に死なないのは、「空なるもの」

すなわち「虚無」だけ。

2013年7月14日 (日)

「ちょっと一句」的な話

「心の病に薬はいらない」 ←そのとおり、まちがいない。
                    しかし、薬を飲んでしまったら、

「薬の病に心はいる」     ←その「薬の病」は、やはり「心」でなおすしかない。

「病の薬に心はない」      ←結局、これが結論。

2013年7月 6日 (土)

「虚無」または「闇」という理由

『用語集』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/cat22977689/index.html)のところでも、少し述べたし、これまでにも何度か述べたことだが、改めて、このブログで、「虚無」または「闇」という理由についてまとめておきたい。

記事『「虚無」・「闇」あるいは「無限」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post-6f09.html)でも述べたように、「虚無」または「闇」というのは、「光」に対立するものとしてではなく、「光」をも超える、最も「根源的なもの」を言い表している。「虚無」は、「無」と同時に、「無限」とも言い換えられる面をもつ。要するに、全く「無限定」で、規定しようのないもの、枠付けることのできないものである。「闇」は、そのぎりぎりの狭間で、ある種の「存在性」をもっているといえるが、「虚無」というのは、もはや「存在」ということのできない、究極のものである。だからこそ、「現実」という枠組みが取り払われたときに、「根底的」なものとして、最終的に浮かび上がるものなのである。

その意味では、「光」もまた、ある限定された存在であり、「神」もまた、究極の「存在者」としても、やはり、限定というものを免れることのできないものである。(「一神教」は、「神」を「絶対化」するが、その根拠は自明ではない)

このようなものに相当するものは、仏教でも言われており、普通「空(くう)」とか「空性(くうしょう)」と言われる。それに対して、「虚無」または「闇」という言い方は、「光」に対立するものというイメージがあり、「否定的」なものというイメージもある。誤解を受けやすい表現だが、しかし、私はあえてこの言葉を使っている。その理由を簡単にまとめると、次のようになる

1 安易な「肯定」を排すること
2 それ自体の「実在性」を強調すること
3 「闇」と「虚無」の区別をつけて全体を捉えること
4 自我または自己にとっての「否定性」は、厳としたものであること
5 「狂気」との関連でも適当なこと

1安易な「肯定」を排すること

もともと、インドでは、「空」(シューニヤ)という言葉は、「空っぽでなにもないこと」、「実体として存在しないこと」という、否定の意味合いが強かったようである。

しかし、般若心経の「色即是空、空即是色」という言葉に端的に示されるように、中国特に日本では、「空」はかなり肯定的な意味合いに変じている。「色即是空」で一旦、「色」(色・形のある物質的現象)は、「空」(実体がない)とされながら、「空即是色」で、そのような「空」なるものだからこそ、「色」として現れるのだということが強調される。これは、現象としての「色」は、「色」として、そのままに肯定されることにつながる。「空」という媒介を通してこそ、成り立っていることだが、「空」そのものは、忘れ去られる傾向にある。

特に日本では、「本覚思想」などといわれ、全ての自然的な現れ、さらには、人間的、または社会的な現状を、「仏性」の現れなどとして、そのままに「全肯定」していくという発想がある。これは、日本人の、変革を嫌い、現状受容的な、安易な「肯定性」に、通じていると思われる。

つまり、「空(くう)」という言い方では、もはや、それ本来の「否定性」を表すことは、難しい状況になっているというべきである。「空(くう)」という「字」や「言葉の響き」すら、もはや、あまり「否定」の響きは、感じられなくなっているだろう。

そこで、そのような「安易」な「肯定性」を排したいというのが、「空」という言葉を使わない一つの理由である。

2  それ自体の「実在性」を強調すること

私もそうだったが、「色即是空」などの、「空」とか「空性」という言葉を聞いたとき、そこにそれ自体の「実在性」が感じられるだろうか。それは、どこか、「観念」の遊戯のような、「思想」上のものに過ぎない印象を受ける。しかし、もちろん仏教でもそうだが、それは本来、「実在的」なものなのであり、その実在性の「体験」が、「空」の思想の元になっている。「空」を徹底すれば、「空」自体も「空」じられて、「空がある」という言い方も超えられなければならない、というのは確かなことである。しかし、それは「空がない」ということではない。まずは、その「実在性」が、はっきりとつかまえられなければ、意味がない。

「闇」という言い方は、「空」に比べれば、ぐっと、その「実在的」なイメージが増すであろう。それは、実際、次にみるように、厳とした「実在性」のあるものである。「虚無がある」という言い方は、語義矛盾のようでもあるが、「空」に比べれば、「実在性」の「手ごたえ」のあるものだろう。「虚無」なるものが「ある」というのは、逆説的で、インパクトある言い方でもあり、その言い方自体で、その「実在性」を強調することになっているとも思う。

3「闇」と「虚無」の区別をつけて全体を捉えること

「闇」というのは、私の一連の体験の最終段階で、まさに「実体」そのものとして現れた、「暗黒の塊」様のものに対して言われている。それは、「物質」でないことは明らかだが、「ダークマター」にもたとえたように、巨大かつ強力なリアリティある、「実在」そのものとして、明白に感じられるものである。ただし、「魔」のようなものを、ときに比喩的に言い表すような「闇」ではなく、いわば、その大本の、「闇そのもの」であり、「実体としての闇」である。それが自己に迫るときは、確かに、このうえない恐怖をもよおすが、それに接触し、「包まれる」に至るときは、もはや「恐怖」などというものは存在しない。その意味でも、本来は、「否定的」というよりは、「中性的」なものであり、「宇宙空間」のような、「闇そのもの」なのである。

これについては、私は、「闇」という以外の呼び方をしようがないと思う。

しかし、その「闇」とは、実際には、記事『「闇」と「ダークマター」/「ダークエネルギー」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-bfac.html)でも述べたように、「自己」という枠組みが壊れかかって、いわば瀕死の状態にあるときの、「虚無」のぎりぎりの現れであり、その一つの「様相」と考えられる。「虚無」そのものは、無限定のものであるから、本来、自己に対するところの、「対象」として現れることはできない。しかし、そのぎりぎの「様相」は、「闇」という「実体」的なものとして、「自己」という枠組みが取り払われてしまわない段階でも、現れ得るということである。

「自己」という枠組みが取り払われて、「虚無」そのものとして現れたものは、もはや、「自己」に対する「対象」ではなく、「自己」そのものの根底であり、それと「一つ」のものである。それを「空」なり「空性」の体験と呼ぶのはよいが、「闇」という現れ方と対比するとき、それでは、全体を連続的に捉えることが難しいだろう。

「自己」のあり方との関係でささまざまな「様相」を現す、ある「根源的なもの」を、「虚無」と捉えて、その一つの、ぎりぎの「様相」が「闇」なのだと捉えた方が、しっくり来る。また、全体を、静態的にではなく、動態的に捉えることができると思う。

4 自我または自己にとっての「否定性」は、厳としたものであること

「闇」または「虚無」は、本来は「中性的」なものだと言ったが、「自我」または「自己」にとっては、厳として、「否定的」なものとして現れる。それは、「自我」または「自己」という枠組みを、破壊するように働くのだから、当然である。言い換えると、「闇」または「虚無」を、「否定的」なものとしてみるのは、「自我」または「自己」の側の問題なのである。それは一つの、防衛意識の現れである。しかし、「空」という言い方では、この辺りのことが、十分浮かび上がって来ないだろう。

安易な「肯定」を排するというだけでなく、それは、実際に、我々が、「自我」または「自己」というものを有する限り、厳として、「否定的」なものとして現れるのである。そのことを、明確にしておきたい。そのためにも、「闇」または「虚無」という、「否定性」を帯びた言い方の方が、ふさわしいのである。

5 「狂気」との関連でも適当なこと

私は、「狂気」という過程を通して、このようなさまざまな体験をし、それを通して考察しているので、このブログも、「狂気」に関することがメインになる。また、実際にも、記事『狂気(統合失調症)の「原因」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html)、『「うつ」の原因』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-de23.html)でも述べたように、「狂気」とは、実は、このような「虚無」との関係で起こるものといえるのである。

「統合失調症」の場合、「虚無」や「闇」は、自己を脅かす、「実体」そのものとして、より直接的に現れるし、「うつ」の場合、「虚無」や「闇」は、強迫観念や虚無感として、間接的に現れる。このように、「狂気」との関係も、深いものなのである。ところが、「空」という言い方では、そのような「狂気」との関係を、浮かび上がらせることはできにくいであろう。

そこで、「虚無」や「闇」という言い方は、「狂気」との関連でも適当なことといえるのてある。

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