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2013年6月 8日 (土)

「あと10年!」という言葉に絡めて

記事「13 「妄想」に振り回されること」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/12/13-b0e6.html )で述べたように、私が、初期の頃に振り回された「声」として、よく覚えているのは、「あと10年!」という言葉である。これは、私をとりまくようにして、「捕食者」を始め何体かの存在が、私に指を指しながら、宣告するように、威圧的に言った言葉である。「宣告」というか、ほとんど「脅し」である。

この「あと10年」という、曖昧な言葉の意味を、一生懸命考えることになった。それは、私自身の寿命のことに違いないとか、地球または人類の寿命のことに違いないとか、映画「2001年宇宙の旅」のように人類が宇宙に飛び出し、進化することを言っているに違いないとか、いろいろ「妄想」した。その威圧的で、確信的な声の調子、どうも人間を越えるらしい存在の言っていること、などから、完全にその内容を「真に受け」て、振り回されていたのだ。

何度も述べているように、こういった「声」の言うことは、どんなに強烈で確信的であっても、「真に受けてはいけない」というのが、対処の基本である。それは、私自身、散々振り回されてきた結果として、今は断言できる。しかし、それは、こういった「声」のいうことか、必ずしも、常に「ウソ」だとか、「間違い」ということを意味しない。また、その者にとって、「何の意味もない」ということを、必ずしも意味しない。

彼らが、「人間」とは違った視野をもち、人間より多くを知れる立場にあることは本当だし、「ウソ」だけでは、人間を操れないのも十分承知のことである。これは、たとえ、「本当」であろうがなかろうが、「意味」があろうがなかろうが、それにのっかったり、囚われれりして、振り回されてはいけない、ということなのである。それは、決して容易なことではなく、多少とも、訓練がいることである。

以下、私がどのように囚われたかということや、このような「声」にも、それなりの「意味」があったかもしれないことをみてみよう。

私の寿命ということに関しては、当時「がん告知」の問題が一般にも注目され、私自身、友人の現奥さんが、本人ではなく家族にだが、がんの宣告をされたという出来事を通して、このことは強く心に残っていたことも影響している。私自身は、絶対に本人に知らせるべきだという考えをもっていたが、友人らには、それはとんでもないという、強い拒絶と反発を買った。結局、本人には知らせられなかったが、何と後に、その病気は良性であって、悪性でないということに診断が変更された。その人は、もちろん今も元気に生きている。

がんの判断、診断は難しいということは、今は知っているが、当時は、まさかということで、この事実がなかなか受け入れられなかった。本人に「がん告知」をすべきだという考えも、変わらざるを得なかった。

この「あと10年!」という言葉は、私自身に、「がん告知」と同様の寿命の宣告をされたのも同然の意味があった。疑似的ではあるが、自分自身が、宣告を受けるのと同様の状況に陥ったのである。それにしても、「あと10年」である。なんと中止半端に長い年数であることか。皆さんは、こんな宣告を受けたとしたら、どう感じるだろうか。

数カ月や一年というなら、そのショックも強いだろう反面、覚悟もつきそうなものだが、受け止めるには、あまりに中止半端すぎる。しかし、それにしても、(もちろん、未知の存在、未知の状況ということがその大きな理由を占めるが)、私は、かなり強い恐怖を感じたのである。「がん告知」など、安易にできるものではないということを、改めて思い知らせれた面がある。もっとも、その後には、「あと10年」どころか、「まさに今」死ぬのだというところまでいったので、これはむしろ、悪い冗談のようなものになったが。

まあ、それにしても、一つ言えるのは、この「あと10年!」という宣告は、いかにも「捕食者らしい」宣告だということである。このように、一時に恐怖を与えるより、じわじわと長い期間、心理的に葛藤を与え続けることこそ、彼らの狙いなのである。

地球または人類の寿命ということに関しては、当時、世紀末的な雰囲気が漂い、ちょうどその時期、湾岸戦争が勃発したこともあって、こちらの方にこそ、リアリティが感じられたことがある。

これは、「地球と一体となる」などの、後の私の(妄想的)「体験」にも、大きく影響した。そのときは、地の底から、地球自身の「叫び」が感じられ、人類の行いに耐えかねて、強力な爆発的反応を起こすことが感じられた。映画「2001年宇宙の旅」のように、宇宙へと旅立ち、進化することによって、それは克服されるしかないのかとも思われた。

「あと10年!」という強烈な言い方には、自分らがそうする(それを起こす)という、「宣言」のようなものも感じられた。

この点からすると、確かに、当時1991年の10年後の2001年には、9・11同時多発テロ事件が起こっている。これには、人間の「支配層」が絡んでいるのは間違いないとして、背後に、「捕食者」の影響があったことも、間違いないと思われる。私自身は、事件があったときに、真っ先にそれは感じられた。

また、さらにその10年後の2011年には、3・11東日本大震災が起こっている。これは、「自然現象」としても、シュタイナーも言うように、その背後には「捕食者」(アーリマン存在)という存在がある。そこには、「地球自身」の意志や、人間の集合的な「情念」が絡んでいるとしても、「捕食者」が起こしたものというべき面があるのである。

この出来事も、それが起こった時点で、確かに、「捕食者」の強烈な「力」と有無を言わさぬ、強引な「襲撃」というものを、感じないわけにはいかなかった。

もっとも、この「あと10年!」という言葉には、ある種の「悲愴感」というか、「自暴自棄さ」が感じられたのも事実である。それは、彼らとしては、彼らの「存亡」をかけた戦い、というよりも、むしろ、どこか、もはや「負け」を見込んだ、自暴自棄的な、「自虐」の行いという感じがするのである。

それは、人間の「支配層」の感じていることとは同じではないだろうが、少なくとも、「捕食者」のレベルではそう感じるし、それは、結果として、人間の「支配層」にも影響するはずだと思う。

いずれにしても、「あと10年!」という言葉には、こうして振り返っても、全く「意味」がなかったわけではないということは、感じざるを得ない。ただ、繰り返すが、こういう言葉には、囚われてはならないし、そうするぐらいなら、全く意味のないもののように、切り捨てることの方がマシだといえる。

私としては、当時、「あと10年!」と「宣言」され、その後、「宇宙が死ぬ」という絶望的な状態にまで追い込まれたわけだが、結局は、私自身も、地球や人類も、その20年後の今も、「何とか」生き延びている。これには、やはり、ある種の感慨を感じざるを得ない。もちろん、現在の状況をみれば、今後、どうなるか全く予断を許さないわけだが。

また、この「あと10年!」という言葉とは別に、10年という期間を一つの節目としてみると、自分の体験の10年後、さらにその10年後というのは、その「消化」という意味でも、大きな節目になっているのを感じる。

その「総まとめ」という記事を最近転載したが、前に綴っていた、『闇を超えて』という「日記」は、ちょうど体験の10年後あたりに綴られている。そして、今のブログは、そのまた10年後に当たっている。

体験の当時には、「何もかも分からない」という状態に追いやられ、そのすぐ後も、このようなものが「消化」され、何らかの「理解」がもたらされることなど、予測すらできなかった。が、10年後には(この10年が、長いとみるか、短いとみるかは別にして)、ほぼそれがなされ、「日記」に綴られた。それは、表現や視点が十分ではない面もあったが、内容的には、ほぼ現在のものに通じるだけのものがあった。つまり、一通りの「消化」と「理解」は、このときになされたといえる。

今のブログでは、もっと率直で分かりやすい表現が目指されているのと、「捕食者」という捉え方、「水平的方向と垂直的方向」という視点により、より明確で、洗練されたものになっていると思う。

何しろ、「体験」というのは、「消化」と「理解」ということがなされて、始めて本当の「体験」となるということ、と同時に、そうしてこそ、それへの拘りを捨てることができるということを、改めて感じる。

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精神医学」カテゴリの記事

コメント

はじめてコメントさせていただきます、千里といいます
ホタルさんに教えていただいてから愛読させていただいております

何しろ、「体験」というのは、「消化」と「理解」ということがなされて、始めて本当の「体験」となるということ、と同時に、そうしてこそ、それへの拘りを捨てることができるということを、改めて感じる。

やっと
やっと「消化」「理解」というところにきたのかもしれないなぁと感じていたところでした
14歳から何十年経ったことでしょうか・・
「捉われない」ことも絶対的に必要ですね
でも常に見張られてる感は否めないので相当な鍛錬が必要ですね

今回の記事
すでに始まっている新月モードに重なり
わたしの中での「進化」というワードの答え合わせをさせていただきました
感謝しております、ありがとうございます<(--)>

千里さん。コメントありがとうございます。

<「体験」というのは、「消化」と「理解」ということがなされて、初めて本当の「体験」となる、と同時に、そうしてこそ、それへの拘りを捨てることができる>
ということですが、

もちろんこの「体験」とは、心の奥深くにおいて起こる体験で、容易に「消化」も「理解」もできないような、衝撃となるものについて言っています。誰でも、一生のうちに、または過去に、こういう大きな体験をする可能性がありますね。「精神世界」などでは、その「体験」を妙に持ち上げて、「体験」そのものが重要であって、その解釈や理解は「思考」に過ぎず、重要ではないみたいな捉え方もあります。が、そうではなくて、改めて、「体験」とは、「消化」や「理解」と一体となって初めて、本当に「体験」となり、囚われをなくすことができるということを感じた次第です。

逆に言えば、そういった「体験」は、ある「ケリ」がつくまでは、いくら「囚われない」ようにしようとしても、何かの折に「後ろ髪を引っ張る」というか、心に残って、影響を与え続けるわけで、それは「消化」と「理解」を促し続けることを止めないのだと思います。結局は、各自、そういうことを踏まえて、焦らず、囚われずに、自分のペースで「消化」していくしかないということになると思います。


トシです。お久しぶりです。
私も自分に起きた不可解な体験に対してある程度整理でき、以前ほど拘らなくなりました。
しかし数ヶ月前にもちょっと気になる出来事が起きました。
ジョギングをしているときに後ろから見知らぬ年配の女性が追いかけてきて、
「お前ー!私に何かようか!」とものすごい剣幕で言われ、私は何のことかさっぱり分からなかったのですが、その場は冷静に対処しなんとか逃れました。

病気の症状がひどいときにこのような出来事が起きたら、正直妄想が酷くなったと思います。
安定した精神状態の最近に起きたことだったのでなんとか行き過ぎた考えにブレーキをかけることができました。なんとなく目に見えない存在に仕掛けられたと感じましたが、それ以上は踏み込んで考えませんでした。

私は先ほどの年配の女性の件で、捕食者は何度も同じ人物に攻撃をしかけてくるものだろうかと疑問に思いました。過去の体験から学んでいる分、そう簡単には取り乱すことはないと思っていますが。

トシさん。お久しぶりです。

普通は、その年配の人のことを通りすがりにチラッと見たからとか、一瞬気にしたから、その人がそれに変な反応をしてしまったのに違いないとでも考えるのでしょう。そういう可能性は確かにあるでしょう。しかし、全くそういうことがなかったなら、私は「見えない存在に仕掛けられた」と考えることは、「健全」なことだと思います。

そうでなかったら、たとえば、自分が気づかぬうちに、その人になんか「電波」みたいなのを送っていて、その人がそれを受け取ったから反応してしまったのだなどと、「妄想」的解釈をしたかもしれません。あるいは、混乱して、怒りをその人に向けて、おさまらなかったかもしれません。そのようなことがあったら、「怒り」が起こること自体は自然なことですが、「見えない存在に仕掛けられた」と思うことで、その怒りの矛先を必要以上にその人に向けないで済むことができます。その人は、「見えない存在」に「使われた」だけで、悪気はないのだから仕方ないと思うことができるからです。

私は、実際にそのようなことがよくあります。

また「捕食者」は、同じ人物にだろうが、どんな人物にだろうが、信じられないくらいに「執拗」です。自分が「重要な人物」かどうかなどということには関わりなく、そうなのです。それは、本当に、あきれるほどです。キリスト教では「捕食者」のことを、「試す者」とも呼ばれるようですが、それは、「自分の勢力圏を脱したかどうか」を試すということです。しかし、「捕食者」は何も「試す」意識で仕掛けている訳ではなくて、単純に人が「勢力圏を脱しようとする」ことを許さないのでしょう。結果的に、それが「試す」ことになっているということです。

これは、ある意味で、「目をつけられた」ことにはなるのでしょうが、「統合失調的状況」に陥るということは、基本的にそういうことなので、それは「受け止めて」いくしかないです。そのうえで、あまりそのようなことに巻き込まれずに済んでいけるようになれば、本当に、徐々に影響力を脱していることになるのだと思います。

その年配の方をチラっと見たりとかは無かったと思いますね。たぶんすれ違ってもいなくて、突然後ろから現れたという感じでした。全く心当たりが無かった分、なんか不可解だと逆に冷静になりました。

自分が「重要な人物」かどうかとは関係なくというのはすごく重要なことですね。
というのも私は病的な状況のときは、特異な体験は自分が選ばれた人間だから起きたと思いこんだことがありました。これは危険な妄想で、最終的に自分は神(創造主)だと思い込んだことがありました。これも突然そう思ったわけではなく、通りすがりの人が私の顔を見て驚いたり、振り返って二度見するなどの体験から、自分は他の人には違うように見えるのかもしれないと徐々に思うようになりました。今でも不思議だと思うのは、ネットカフェで歩いているとき、店員が私の顔を見ると、まるで天使か悪魔を見たかのような驚きのリアクションを取ってから、突然店内を掃除し始め、他の店員も一斉に店内の掃除を始めたということがありました。私はその光景を見て、自分が何か神様のような存在に見えたので、それにふさわしいように店内をキレイに掃除し始めたと考えたことがあります。
今考えるとかなり飛躍した思考をしたと思いますが、あの店員の尋常じゃない反応は何だったのだろうと思うことはあります。とにかく自分を特別な存在と捉えるのは妄想を悪化させる要因だと思うので気をつけねばならないことだと思います。

はじめまして。

一年余り前に、初めてブログを拝見致しました。

以来、深く静かに自己内面を考察する時間の中で、姿勢を正し読ませて頂いております。
人間は本来非常に豊かな存在であることを、地に足をつけて過不足なく学び続けたいと存じます。

有難うございます。これからも宜しくお願い致します。

みるくゆがふさん。コメントありがとうございます。

非常に「真摯」に受け止めてもらっていることが伝わります。

「地に足をつけて過不足なく」というところがいいですね。

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