「あいだの病」とその「乗り越え」
木村は、分裂病を、「あいだ」に障害がある、「あいだの病」と捉えていた。それはまさに、「病」であって、「あいだ」がうまく機能している「正常」または「健康」との対比は、はっきりとしたものだった。分裂病質ないし分裂病に対する共感や理解への意欲は、随所にみえるが、分裂病が「否定的」なものであるという基本線は、崩さなかったといえる。この点では、『ひき裂かれた自己』当初のレインと同じである。
木村は、「あいだ」を「重層的」なものとはしていたが、結局、それは、根底の「普遍的生命」との関係ということに帰着する。だから、結局は、「普遍的生命」との関係がうまくていっている「正常者」と、それがうまくいっていない「分裂病質者」または「分裂病者」ということで、割と単純な二元論的発想に陥ってしまっている。要するに、「生命」的で「自然な行い」のできる「正常者」と、「非生命」的で「不自然な行い」になる「分裂病質者」または「分裂病者」ということである。
「あいだ」というものは、単に「重層的」なだけでなく、もっと「多様」である点にも注目する必要があると思う。
木村自身も、『人と人との間』という本で、「あいだ」には「世間」といったものを含み、そこには、「ご先祖様に申し訳ない」というときの、「ご先祖様」なども含まれるとしていた。つまり、この「あいだ」には、かつて日本人が生きるうえで重視した、信仰や信念の名残りが、漠然とながら、「世間」という形で、いわば刻印されているわけである。しかし、「世間」に含まれるのは、何も人間の祖先だけではない。
記事、『「人と人の間」と「霊界の境域」』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post-a866.html )でも示したように、さらに、この「世間」には、「精霊」や「神々」といった人間以外の存在も含まれる。そして、さらにいうと、それらは、文字通り、「実体」的なものとしても、含ませるべきである。「あいだ」というものには、こういった「実体的要素」も含ませるとき、その都度の人間を成り立たせる「場」としての重要性、あるいは、その本当の影響力が、より浮き彫りになるはずだからである。
全体として、「あいだ」ということそのものは、木村も言うように、「こと」的な事柄で、「もの」的なものなのではない。しかし、そこには、また、「もの」的な要素も含まれるということである。ただ、「もの」といっても、これは、まさに、「もののけ」などというときの、「もの」で、「こと」的な広がりと、「漠然」とした捉えにくさを備えている。後にみるように、だからこそ、「あいだ」に「怖れ」をもたらすのである。
また、この「あいだ」には、「捕食者」などの強力な「悪」の存在も含む。というよりも、現代では、シュタイナーもいうように、この「捕食者」こそが、「あいだ」において、最も活発な働きをしている。私も、「捕食者」は、どこか遠くではなく、「人と人の間」でこそ働くということを、強調してきた。分裂病者の聞く「声」などは、まさに「人と人の間」でこそ、生じている現象である。
だから、現代における「人と人のあいだ」は、このような「捕食者」によって創出された「場」であることが多い。多くの者が、そのような「場」としての「あいだ」を「共有」し、分裂気質的な者は、その「場」から弾き出されるということも多く起こる。そのような場合、「あいだ」がうまく機能していることが、「正常」で「望ましい」もので、それがうまくいっていないことが、「病的」で「否定的」なことであるなどとは言えないはずである。
これは、後にレインが、「正常」というのは、「疎外」状態だと言ったことにも、通じてくる。
つまり、「あいだ」の「多様性」に着目すれば、必ずしも「あいだ」との関係がうまくいくことが、「正常」で「健康」ということではないのである。
このようなことは、垂直的方向の「あいだ」にも言え、そこには、前回の図で示したように、「虚無」や「闇」をも含め得る。むしろ、これまでにも述べてきたように、この「虚無」や「闇」こそが、木村のいう「普遍的生命」をも取り巻くような「広がり」を有しつつ、より「根底的」な要素といえるのである。だから、その「あいだ」との関係は、必ずしも、「生命的」なものになるとは限らない。そこには、「闇」や「虚無」のもたらす、「破壊的」な要素もある。「あいだ」との関係がうまくつながることが、必ずしも、「生命的」で「健康的」な結果をもたらすとは言えないということである。
木村は、「あいだ」の根底に、「普遍的生命」を置き、「あいだ」を全体として肯定的な面からみ過ぎたため、そのような「あいだ」との関係がうまくいかないことを、否定的に捉え過ぎたのだと思う。
あるいは、木村は、いわば「色即是空、空即是色」的に、全体を、「アクチュアル」に捉える視点に拘り、「空」(「あいだ」)そのものへの着目を、十分にしなかったのだとも言える。それで、「正常」の者は、「色即是空、空即是色」を「アクチュアル」に生きている者であり、「分裂病の者」は、「色即是空」の「空」で、つまずいて、それができない者という具合に、結局は、抽象的で単純な対比になってしまったのである。
さらに、木村は、「あいだの病」ということが、どうして起こるのかということについては、生命論や進化論と絡ませての考察はあるが、特に明らかにはしていない。ただ、分裂病質者の「先取り的構え」ということが、躁鬱気質や他の気質との対比で言われている。実は、この、「先取り的構え」ということこそが、「あいだ」との関係を途切れさせ、うまくいかなくさせることに、大きく関係しているというべきである。
分裂病質者または分裂病者は、「対人恐怖」などと言われるが、前に述べたように、決して「人間」そのものを恐れているのではなく、「人と人のあいだ」を恐れているのである。「あいだ」こそが、人間に大きな影響を与えていること、また、「自己」をのみこむような脅威を秘めていることを、その「先取り的構え」によって、漠然とながら、感じ取っているからである。
前回みたように、通常は、「あいだ」に「自己」を明け渡すような感覚で、「あいだ」がその都度「生きら」れている。それにより、むしろ「自己」が、その都度「紡ぎ出され」ている。そのとき、「あいだ」は、「アクチュアル」な形で、潜在的には、感じ取られるにしても、「あいだ」を「あいだ」として意識することはない。そのように、「無意識」だからこそ、「あいだ」との関係が滞ることなく、うまく機能しているのである。
ところが、分裂病質者または分裂病者は、この「あいだ」というものを、感受性の過多と、その「先取り的な構え」のため、どうしても意識してしまうのである。それは「あいだ」というものを、明確に捉えているわけではないので、漠然とした曖昧なものだが、しかし、むしろそれが故に、何か「得たいの知れない」、恐ろしいものとして、感じ取ってしまうのである。この「あいだ」には、先に述べたような、「精霊」や「捕食者」、あるいは「虚無」や「闇」のような「実体的要素」も含まれる。それらもまた、「あいだ」に潜む、「もの」的なものとして、あるいは、「もののけ」的な、漠然としてはいるが、確かな「力」をもったものとして、恐れられるのである。
分裂病質者または分裂病者は、このような「あいだ」の、「もの」的に「対象化」できない、「こと」的な要素を恐れるのだとも言える。言語的に捉えようとしても、捉え切れずに残る、「何ものか」が、恐れをもよおすのである。
だから、木村も言うように、分裂病質者または分裂病者は、ときに理屈に拘り、その「あいだ」的な「空間」を、通常は理解できない「理屈」で埋めようとする。が、むしろ、そうすればするほど、それでは埋まらない「あいだ」を意識してしまうのである。からっぼの箱に「もの」を詰め込めば詰め込むほど、むしろ「隙間」が多くできるのを気にするようにである。
このように、「あいだ」は、意識すればするほど、それとの間に隙間(距離)ができ、それを切り離すことになり、「アクチュアル」に「生きる」ということからは、遠ざかることになる。このように、「意識する」ということ、そしてそれに「拘る」ということが、「あいだ」との自然な関係を障害する、一つの大きな理由なのである。
これは、禅などで、たとえ話として出される話のようだが、ムカデは、多くの足を別に絡ませることもなく、自在に動かして、動くことができる。しかし、あるとき、ムカデは、「その多くの足を一体どうやって動かしているの?」と聞かれて、自分でも、意識するようになってしまった。そうすると、足をどう動かしていいか分からなくなり、動けなくなってしまった。
あるいは、足そのものよりも、「あいだ」が問題なので、質問を次のように変えたらいいだろう。「ムカデさん、一体その多くの足と足の間には何があるの?」あるいは、「その多くの足を動かしているとき、その間は一体どうなっているの?」そうすると、ムカデは、足と足の「あいだ」を意識して、動けなくなってしまった。
分裂病質者または分裂病者は、それと同じような状況にあるということができる。
このようにして、分裂病質者または分裂病者は、一旦、「人と人のあいだ」または、自己の根底の「普遍的生命」との自然な関係から、切り離されてしまうのだと言える。それは、まさに、「分裂」という言葉がふさわしいものである。それは、「非生命的」な、「死」との接近であり、「集合的な意識」からの離脱でもある。それは、文字通り「孤独なさまよい」をもたらし、どこに漂流するか分からないものともなる。
しかし、シュタイナーも、思考・感情・意志の「分裂」は、「宇宙秩序」による自然の「統合」を脱して、より高次の「統合」をもたらすために起こるとしていた。つまり、そのような「宇宙秩序」のもたらす自然の「統合」は、高次の「自己」による、より「主体的」な「統合」のためには、一旦は切れる必要があるのである。このような過程は、レインで言えば、「自我として死んで、新たな自己として生まれ変わる」ことに通じる。
記事『「意識」と「無意識」のギャップ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-d2a3.html) 、『「夢見」の中の「無意識」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f71a.html )でも述べたように、それは、より「意識化」を深める方向にいくことである。「無意識」のまま機能している状態から、「意識する」ということが始まると、それは、それまでの自然な「統合」は失わしめる。「意識」が、そのようなものの、自然な成り立ちを障害するからである。しかし、その「意識化」をより深めることで、「あいだ」も、漠然とした、得たいの知れないものではなく、いわば「知れた」ものとなり、もはや、恐れさせるものではなくなる。
但し、この「知れる」とは、これまでみてきたように、対象的な「もの」についての知的理解というよりも、まさに、「アクチュアル」で、感覚的な捉え方を研ぎ澄ますことである。通常は、無意識的、潜在的にこそ働いていた、このような捉え方を、意識にもたらしつつ、より深めることといえる。それには、知覚または認識方法の、新たな拡大という面が、確かにある。
それは、事実上、「無意識と意識のギャップ」を超えることで、容易なことではないし、必ずしも、全面的になされ得るものでもない。しかし、それがある程度なされて、漠然たるものではなく、「知れた」ものとなれば、もはや、「あいだ」ということには、拘ったり、囚われる必要もなくなる。つまり、「あいだ」との関係を途切れさせる理由はなくなり、結果として、もともと、「無意識」にそれを「生き」ていたあり方に、近づくのである。先の、ムカデの足のたとえで言えば、ただ、もともとそうであったように、「自ずから」動くのに、任せるだけである。
このムカデの足のたとえは、普段無意識にしている自然の行いを、一旦意識させ、止めさせるための「方便」といえる。禅の「公案」なども、このように言語的には解けない問題を与えて、それまでの自然な流れを止めさせ、窮地に追い込んでいくことで、言語的にではなく、「アクチュアル」に、そこにある「本性」を、「観る」ように促すものである。そして、それを「通過」した者は、新たな自覚のもとに、「本性」(「普遍的生命」といってもいい)そのものを「生きる」のである。
だから、分裂病質者または分裂病者が、「普遍的生命」から切り離されることは、必ずしも、「否定的」なものとばかりはいえない。それは、事実上難しいとしても、新たに、意識的な自覚のもとに、「普遍的生命」とつながるための契機ともなるのである。シュタイナー風に言えば、それは、より「高次」の「統合」であり、より「主体的」な「統合」をもたらす契機である。木村には、残念ながら、そのような視点はないようである。
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はじめまして。トシと申します。
今回の「あいだ」というテーマとは関係無いのですが、ティエムさんのブログを読んで自分のことを書きたくなりました。
私は統合失調症です。今はほぼ寛解状態で安定しています。。
私は病気になる前、宇宙や愛、生命の根源などに想いをめぐらしていました。そのうち、気づいてはいけないことに自分が気づいてしまったような気がして、このサイトで言う捕食者に狙われているような感覚になりました。
そしていろいろ偶然が起きたりして、その偶然が仕組まれていると考えたり、電話ごしであったのですが幻聴が聞こえたりして妄想がエスカレートしました。
その後、死を覚悟するような状況になりました。笑ってしまうかもしれませんが、全人類のために本気で命を懸けて地球外生物
と戦ったつもりです。しかし、結果的には錯乱状態になり強制入院ということになりました。
一番ショックだったのは、自分の命を懸けて人間を支配している未知なるモノと戦ったつもりが、ただの精神障害者という扱いになったことでした。
基本的に今は大人しくして、薬も服用しています。精神科医は脳の伝達物質の異常が原因だと思っています。私はその背後にあるエネルギーの領域に根本的な原因があると考えていますが。
私は危険な考えかもしれませんが、もう一度幻覚や幻聴を体験したいと思うときがあります。
今なら冷静に対処できる自信があるし、とにかく確信が欲しいと思っています。
ただ、その一方で魔物のような存在とは関わらずに「シルバーバーチの霊訓」に書いてあるような、人のために役立つ生き方に専念すればそれでいいのかなぁとも思っています。
まとまりの無い文になってしまいましたが、長くなりそうなので今回はこの辺で。
またコメントします。
投稿: トシ | 2013年5月18日 (土) 03時56分
コメントありがとうございます。興味深い内容です。
言われていること、よく分かります。多くの人が、似たような体験をしていると思います。体験しているときは、自分一人の特殊な体験と思っているわけですが、このようにエッセンスを取り出してみると、本当に多くの人の共通の体験であることが鮮明になります。
「一番ショックだったのは、自分の命を懸けて人間を支配している未知なるモノと戦ったつもりが、ただの精神障害者という扱いになったことでした。」
ここの部分についても、同じ体験をして、似たような感覚をもった人が多いと思います。そして、多分、このショックは、一種の「ショック療法」的な働きをもたらした可能性がありますね。「ただの精神障害者として扱われてしまう」ということで、自分の特異な体験と世間の考えとのあまりの齟齬というか開きに、絶望的なショックを受け、一種ばかばかしくなるということが、自分のそれまでの考え(妄想)にそれ以上入っていけなくさせる、距離をとらせてしまうということです。冷たい水を浴びせかけられるようなものです。(実際、世間とは「冷水」のようなものですから)
精神薬とか、その他の治療法が効くというのではなく、そのようなショックが、結果的に症状を落ち着かせるということはあると思います。ただし、逆に、その結果「うつ」状態に陥って、回復できないということも起こり得ますが。
いずれにしても、今後も、そのように精神障害者として扱われたという体験も含めて、折に触れて、自分でそのようなかつての体験を自分の中でどう統合していくかということは、かなり長い間をかけてのテーマになっていくと思います。周りや医師はそんなことは忘れてしまうことを勧めるでしょうが、自分を誤魔化さない限り、そうはできないのが本当のところのはずなので、それは、そうするしかないです。ただし、焦らずに、自分のペースでゆっくり取り組んでいくことです。一生かかることも、視野に入れていいと思います。
次回は、偶然にも、「妄想に基づく錯乱」について述べようと思っていたところで、私の立場は、それをできる限り減少させ、「精神障害」などというレッテルを貼られることも含めて、周りや世間との軋轢を最小限に食い止めて、自分自身で起こっていることに取り組むことができるようにしたいというものです。
参考になるかどうかは分かりませんが、そちらも、お読みいただければと思います。
投稿: | 2013年5月18日 (土) 18時23分
トシです。
返答ありがとうございます。
私も精神的ショックからうつ状態になりました。
しかし幸運にも比較的早く安定した状態に戻ることができました。「受け入れる」という姿勢が回復に繋がったと思います。
もちろんまだモヤモヤとした気持ちが完全に無くなったわけではなく、消化不良の部分はあります。
私の中で受け入れることができる部分というのは妄想についてです。
妄想は自分の頭の中で勝手に作りあげた世界なので、あれは間違いだったと認めやすかったのです。
一方、自分が実際に見たもの、聞いたもの、感じたものについては、あれは幻覚だったと認めずらいです。
今はあの異常な体験について結論を出すことはしていません。一生結論は出ないのかもしれません。前のコメントで、もう一度幻覚や幻聴を体験したいと思うときがあると書いたのは、消化不良の部分を解消したいという気持ちがあるからです。
次回のテーマ「妄想に基づく錯乱」は興味深いですね。
楽しみにしてます。
投稿: トシ | 2013年5月18日 (土) 22時11分