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2013年5月28日 (火)

「妄想に基づく錯乱」に対する「理解」と「対処」

「妄想に基づく錯乱」について、前回述べたことを踏まえて、「解解」と「対処」について、さらに詳しく述べる。

まずの、周りや社会の側にとっての「理解」について

ここで、問題の一つは、実は、「妄想」や「幻覚」という言葉を使う時点で、既に始まっている。それらの言葉自体が、「統合失調的状況」を、より不可解で、理解し難いものにしている。とともに、「統合失調的状況」に陥っている本人との間に、大きな齟齬や軋轢を生む。また、それらの言葉は、「精神医学」の発想に、からめとられることであり、そこに、既に、「病気」という「発想」が入り込んでしまっている。

通常は、「妄想」とは、「現実」とは別にあるもので、 「現実」とは異なる、誤った「思考」を意味している。「幻覚」も同様で、「現実」にはない、または「現実」とは異なる、誤った「知覚」である。これらは、ある「現実」を前提にしているのであり、それが「正しい」とされているため、「誤ったもの」、「病的なもの」とみなされる。だから、この言葉を使う時点で、「統合失調的状況」に陥った者は、「誤り」であり、「病的」であるという「烙印」を押しているようなものである。

ところが、「統合失調的状況」に陥った者は、「現実」そのものが、それまでの経験から遊離した、「不可解」なものへと「変容」しているのである。そして、そのような「現実」そのものの、「知覚」として起こるのが、「幻覚」であり、その不可解な「現実」の「解釈」として生じるのが、「妄想」である。

そのような「現実」が、通常の多くの者が「共有」している「現実」と異なっているのは確かであり、次に述べるように、「統合失調的状況」に陥った者も、まずは、そのことを理解することこそが重要である。通常いう意味の「現実」、多くの者と「共有」する意味での「現実」のレベルで、「幻覚」や「妄想」が表現される限り、それは「誤り」とされても仕方がないということである。

しかし、通常いう意味の「現実」、多くの者と「共有」する意味での「現実」とは別の次元の、いわば「もう一つの現実」として、それらが表現されるなら、それは、「誤り」と決めつける根拠はないはずである。実際に、その者にとっての「現実」は、そのような「もう一つの現実」が、その者に侵入し始めたことから、「変容」したものと解することができるのである

この「もう一つの現実」は、「霊的現実」とか、ユング風の「普遍的無意識」の顕現など、理解の仕方はさまざまにあり得る。しかし、ここでは、通常いう意味の「現実」、多くの者の「共有」する意味での「現実」とは異なる「現実」であることを、明確にすることにこそ意義がある。そうしない限り、多くの者にとっては、それはどう言おうと、「現実」とは適合しない、「誤った」、「病的」なものであるとのイメージを払拭することはできないからである。

そのように、「統合失調的状況」に陥った者は、「もう一つの現実」の侵入のために、「現実」そのものが「変容」している。だとすると、その「知覚」は、「もう一つの現実」についての「知覚」であり、単純に「幻覚」と呼ぶことは、適当ではない。また、「もう一つの現実」の侵入は、その本人をも混乱させるもので、その変容した「現実」を、何とかそれまでの「現実」の延長上に位置づけようと、「解釈」させる。そして、その限りで、誤った「解釈」を生じるが、それも、単純に「妄想」と呼ぶことは、適当でない。

このような理解をしない限り、「統合失調的状況」に陥っている者の状況を、「誤った」もの、「病的」なものという先入観抜きに、理解することは難しい。

しかし、実は、それこそが、多くの者にとって、難しいことなのでもある。つまり、「統合失調的状況」に陥っている者について、そこに何らかの「現実」を認めようものなら、多くの者が共有している「現実」についての唯一性や根拠は揺らぎ、ほかにも「現実」があり得るということを、突きつけてくるのである。だからこそ、多くの者にとって、「統合失調的状況」に陥っている者は、独特の不安を喚起する。そして、それは「病気」であり、「誤り」でなければならないものとなる。言い換えれば、多くの者の「現実」こそが「正しい」ことが、確認されなければならないのである。

そのために、「統合失調的状況」に陥った者を、是非とも「排除」するということが、「必要」になる。「精神医学」の思惑とはまた別に、「社会」そのもののそういった、いわば「防衛意識」も、「統合失調的状況」に陥った者を「排除」することに、大きく働いている。そういったことを理解することも、社会の側にとっては、必要なことになる。

そのことが理解できるならば、少なくとも、「統合失調的状況」に陥っている者が、「もう一つの現実」を「知覚」したり、それによる「現実」の「変容」のために、「妄想」的解釈を必要としているという可能性について、まともにみることができるはずである。

改めて言うと、「妄想」は「必要」とされて、出てきているのである。本人も、これまでの「現実」から遊離した、不可解で、未知の状況には耐えられないのであり、そうしないといられないのである。そして、「統合失調的状況」に陥っている者も、それが「もう一つの現実」であり、「未知の状況」であるなどとは認め難いのである。「現実」そのものが、自分にとってなじみのないもの、「未知」のものへと姿を変えたなどとは、認めたくないし、そうすることは、本当に、根本から、多くの者との共通の接点を失うことを意味するからである。

それが認め難いために、それまでの「現実」に引き寄せた解釈(=「特定の誰か」や「組織」による迫害などの「妄想」)をしてしまうのである。そして、それに基づいて行動を起こしてしまうのである。この行動には、他者と共有する「現実」との接点を確認したいという意味があり、ある意味で、自分の身体や生命を確認しようとする、リストカットにも似ている。要するに、そうせざるを得ない内的理由があり、しかも、それは「現実」を指向するがゆえの、「あがき」として生じているのである。

そのことが分かれば、「統合失調的状況」に陥っている者の反応は、本質的には、何ら奇怪で、恐ろしいものではなく、必ずしも、危険でもなく、むしろ同情すべきものであることが分かるはずである。また、後に述べるように、対処の仕方もみえてくるはずである。

次に本人にとっての「理解」について

本人にとっての「理解」は、1で述べたことの、「裏返し」のようなものである。ただし、本人は、まさに、混乱のさなかにあるのだから、このことを、その状況のただ中において、理解することは難しい。

だから、できる限り、予め、以上に述べた大枠的なことがらは知っておくに越したことはない。それは、結局、一般的に、多くの者が、自分自身がなるかもしれないし、他の者がなるかもしれないものとして、「統合失調的状況」に陥ったときに生じる反応というものを、ある程度は理解しておくということに尽きる。

そして、そのポイントは、まず第一に、「統合失調的状況」に陥ったら、通常の者とは異なる「知覚」を生ずるということ。それは、知覚としての「リアリティ」は、通常のものと全く同じだということである。つまり、どんなに、「現実」同様の「リアリティ」があっても、他の者は見たり聞いたりしない「知覚」を生じるということである。ただし、それは、内容としては、これまでの経験に照らしても、異様な要素があるので、その「異様性」には、必ず気づけるはずのものである。

そして、次に、それをこれまでの「現実」の延長上に理解しようとすれば、その「異様性」を反映して、通常は「あり得ない」、他者からは理解されない「解釈」になってしまうということである。

しかし、このことも、先ほど述べたように、「幻覚」やら「妄想」やらと表現したのでは、予め理解することを、寄せつけないものとなる。そのように表現する限り、それは、単に、不可解で、奇妙な「病的」現象でしかないからである。

精神医学の解説書などでも、具体的に、どのようなパターンの「幻覚」(幻聴)が生じるのか、どのような「妄想」が生じるのかが説明されてるている。それらは、どれも、陳腐なくらい、共通の性質を帯びている。だから、それらのパターンを知れば、本来、自分か陥った状態が、そのようなパターンに当てはまることは、すぐ分かるはずのものである。しかし、それを拒むのが、「幻覚」やら「妄想」と呼ぶことで、それが「誤った」ものであり、「統合失調症」という「大それた」「病気」の症状としてしまうことである。それでは、そのようなことを認める可能性というものを、シャットアウトしているようなものだ。むしろ、本人は、「統合失調症」にいう「幻覚」や「妄想」がそういうものであるなら、自分の体験しているものは、はっきりとした「リアリティ」があるのだから、それとは違うものだという認識の方を強めてしまうことになる。

逆に言えば、「統合失調症」などという「レッテル」を剥がしてみるならば、これらのことを理解したり、受け入れることは、それぼと難しいものではなくなるということである。

何しろ、本人にとっても、「幻覚」などとという言葉には惑わされないで、「統合失調的状況」では、通常にいう「知覚」とは異なる「知覚」が生じるのだということを理解することこそが、最大のポイントである。いかに、強烈な「リアリティ」があったとしても、その「知覚」は、他の多くの者が見たり、聞いている「知覚」とは異なるということである。

不自然な状況での、他人の中傷とか、嘲笑その他の「声」という、典型的な「幻聴」とされるパターンにあてはまるものは、ほぼ全てそのような「知覚」と疑っても、間違いないだろう。

そうすることによって、それが、他者と共有する「現実」そのものの出来事ではないことを、自覚できる。つまり、物理的、外的「現実」そのものの出来事と混同することを避けることができる。これこそが、第一の関門なのである。

しかし、そうだとすれば、そのような「知覚」は一体何であるのか(あるいは「病気なのか」)、という新たな問題と不安が巻き起こる。それについては、先ほど述べたように、率直に、自分の体験している「現実」が、これまでの「現実」とは「変容」していること、自分にとって「未知」の、「もう一つの現実」が、侵入していることを認めるしかない

先ほど、知覚の「異様性」は 何ほどか感じられるはずと言ったが、このような「現実」の「変容」感も、本人にも、必ず感じられるはずのもので、「現実世界」の、見るもの、聞くこと、雰囲気その他あらゆる要素が、前とは異なって感じられるはずなのである。要するに、「現実」そのものが、これまでとは同じものではなくなり、従って、他者と共有するものでもなくなっているのである。

それを、「本当に」認めることができれば、起こっていることを、他者と共有する「現実」と同じ次元に、「解釈」すること、つまり、「妄想」的解釈は、避けることができるはずである。そして、この「現実」のさなかに、それに基づいた行動をとることも、避けられるはずなのである

ただし、通常の者にとって、「もう一つの現実」というものを受け入れるのが難しいのと同様に、その者にとっても、それを受け入れるのは難しい。実際に、その状況に陥っている場合はなおさらで、自分が、本当に、多くの者と共通する「世界」を失ったのだと認めざるを得ないことになる。本当に、「未知」の状況に遭遇し、孤独に陥ったこと、誰も助けにはならないことを認めざるを得ない。そうしたくないからこそ、何とか、それまでの「現実」の領域に引き寄せて「解釈」する必要があったのである。しかし、それを認めれば、もはやそうすることも許されなくなる。

しかし、それが「受け入れ」られれば、少なくとも、それまでの「現実」の領域に引き寄せて「解釈」されたからこそ生じる、混乱や錯乱のかなりの部分は抑えられるのである。もちろん、未知の現実としての「もう一つの現実」を認めたことから生じる新たな混乱というものも、そこには多くある。そのようなものに対して、どう理解し、対処していくかということも、新たに抱える問題である。

しかし、それは、必ずしも、「現実」の領域に表現される必要のないものだし、その者の「内面世界」において、何とか理解したり、対処したりができないものでもないのである。それは、少なくとも、「妄想に基づく錯乱」によって、生じてしまった社会との軋轢や本人の抱え込む問題に比べれば、正面から取り組むだけの「意義」のあるものである。そして、結局は、その理解や対処の程度に応じて、そのような「現象」に振り回されることも、その「現象」そのものも減じて行くものなのである。

次に、周りや社会の側にとっての「対処」について
                                          
「妄想に基づく錯乱」を起こしている者に対しては、1で述べたように、「あがき」として、止むに止まれず生じていることが分かれば、たとえ理解できないことを口走ったり、したりしていたとしても、それほど慌てる必要も、恐れる必要もないことが分かるはずである。実際、そのような「錯乱」は、永遠に続かなければならないものではないし、一時的なもので終わる可能性もある。

「対処」と言っても、要は、できる限り、自分も相手も、「落ち着く」「落ち着かせる」ということに尽きる。そして、自分自身が、ある程度落ち着いていられるなら、相手方の反応もまた、激しいものではなくなり、収まってくる可能性がある。自分自身が、相手の錯乱に巻き込まれて、感情的に反応するために、相手方の反応を、さらに刺激している面も強いのである。

相手の「妄想」的な話には、安易に「乗る」のもいけないが、おもむろに否定するのも、反発や混乱を深める反応を引き出すだけである。実際に、その者が「もう一つの現実」を「知覚」していて、それをこの「現実」そのもののこととして「解釈」しているために、そのような反応をしていることが分かれば、そのような態度はとらないはずである。

恐らく、精神科医などは、「ああ、そうですねえー。そうですねえー」などと適当にあしらいながら、「これ飲みましょうね」と、薬を飲ますことしか考えないのだろう。が、一つの手立てとして、相手方に、はっきりと、その者の見たり、聞いたりしている「知覚」が、周りの者の「知覚」と異なっていることを、悟らせるという方法もある。周りの者や社会の側としては、相手も、「現実」との接点を求めて反応しているのである以上、これこそ、唯一できる、「現実」の側からの「証言」であり、対応といえる。これは、相手方の「現実」である、「もう一つの現実」というものを尊重している限り、相手の言うことを、頭から否定することにはならない。

そして、相手方も、いかに認めにくいにしても、「もう一つの現実」(「現実」が変容したこと)というものは、内心には、少なくとも「予感」はしているはずである。だから、そのことを「現実」の側から証言することによって、自然に、そのような視点に誘導することができればよいわけである。「それは、あなたにとって「現実の知覚」かもしれないが…我々の「知覚」ではない」というぐらいに、はっきりと示唆するのもよいだろう。ただし、そのような「現実」に対して、どう対処するかは、もはやその者自身の問題である。むしろ、周りの者や社会が、余計な口出しをするべきことではない。

次に、本人自身の「対処」について

「統合失調的状況」の全体の問題として、本人自身の「対処」については、これまでにも、具体的なレベルで、多くのことを述べてきた。中でも、「攻撃的」で、執拗な「声」に対する対処は、最も身近で、厄介なものの一つである。(記事・「声」への対処法 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post-5c47.html  など)要は、「声」の言うことを、「真に受けない」こと、「囚われない」こと、「気にしない」ことに尽きるのだが、これに対処できないと、「妄想に基づく錯乱」や、「もう一つの現実」を認めたとしても、それとどうやって取り組んでいくかという点にも、大きく支障が出てくる。

「妄想に基づく錯乱」については、結局、2に述べたように、自分に起こっている「現実」が、「もう一つの現実」の侵入のため、他の者と異なる「現実」へと「変容」したことを、どこまではっきり理解できるか、どこまで受け止めることができるかにかかっていると言っても過言ではない。それが、はっきり理解できれは、他の者と共有する「現実」へと引き寄せて「解釈」する傾向は抑えられるし、本当に、それを受け止めれば、もはやそうする必要もなくなる。

それは、結局、他の誰でもなく、自分自身の問題として、ことの全体と取り組むしかないという覚悟を決めることである。生じている「もう一つの現実」と向き合い、自分自身で、それを「見極め」て行くしかないということである。そのようなことについては、基本的に、他の誰も、助けにはならないし、なりようがない。(かつてのような、「シャーマン」の役目を果たせる人は、少なくとも近代世界にはもはやいない。)そのような自覚が深まれば深まるほど、「錯乱」のような反応は、起こらないことになる。外部的に表現することの、無意味性も分かるからである。

ただし、「もう一つの現実」を認めたとしても、起こっていることに対して、何らの「解釈」もしないということは、できない。それは、「未知」の状況に対する防衛的応として、全くなくすことは無理なのである。そして、それは、その都度、何らかの「誤り」を当然含む。だから、はたからみれば、「妄想」ということにもなり得る。そのような「解釈」は、なくすことはできないにしても、決して固定しないようにすることである。それには、「もう一つの現実」は、「未知」のものであり、容易には理解のできないものであることを、正面から認める必要がある。実際、起こっていることを、真に受け止めるなら、いかに、思考力をフル稼働したとしても、その理解など、容易にはかなわないことは、はっきりしているはずである。つまり、「混沌」とした、「訳の分からない」状況こそが、「統合失調的状況」なのであり、現前してる「現実」なのである。「訳の分からない」ことを、「分からない」と認めることこそ、真に、「現実」に適合した対応である。

そのうえで、それを、「見極めよう」という姿勢自体は、失わないことである。そうすれば、必ず、その「混沌」とした中にも、法則や性質など、「見えてくる」ものは増してくる。決して、「対処不可能」なものではないことが、実感されてくるはずなのである。

私もそうだったが、これを経験しているときは、本当に自分一人だけの、(ほとんど「人類が経験したことのない」)特殊な体験だと思ってしまう。実際、信じ難い、「未知」の状況なのだし、他者から切り離されて、自分一人で格闘することになるので、そう思うことにも十分の理由がある。

しかし、実際は、私もそうだし、他の者もそうだが、こういった状況を「くぐり抜けた」者はいくらもいるのである。たとえ、全体として、「乗り越えた」とは言いがたい場合でも、部分的に、何らかの意味で、「乗り越えた」者は、数限りなくいる。というより、この状況を体験する、ほぼ全員が、結局は、何らかの意味で、「乗り越える」のである。つまり、この状況は、いかに大変で、対処し難いと、現に経験している本人が思っていたとしても、いずれは収まるものであることを保証できる

だとすれば、そのような、またとできない経験をする状況に至ったならば、本気でそれと向き合い、できる限り自ら見極めるべく、必死の格闘をしていくことにも大きな意義があるはずである。

ただし、この場合に、「知覚」そのものが「変容」した「現実」のただ中にあって、普通に社会生活をしていくことは、ほとんど不可能といえる。また、そうしながら、「錯乱」などの反応をせずに、その「現実」と取り組んで行くことなども、非常に難しい。

だから、やはり、その期間(少なくとも、2~3カ月)は、治療施設ではなく、ゆっくりと休養しつつ、じっくりと、「もう一つの現実」と取り組むための環境を提供する、一種の「療養施設」が必要と思う。(強度の「うつ」にもそれは言える)

そういったものが、認められるか否かは、社会の側の「許容度」によるわけで、それには、既に述べた、「統合失調的状況」や「妄想に基づく錯乱」などに対する「理解度」が大きく影響する。

しかし、このような「理解」がある程度でもいきわたり、こういった状況には、いつ誰がなるか分からないことが真に理解されるなら、こういったものは、本当に「必要」なものであることが、多くの者にも認められてくるはずである。もはや、「精神医療」に委ねることなど、できないはずなのである。

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コメント

正直なところ私は幻覚そのものがよく分からないし、今だにあれは何だったのだろうと振り返ることはあります。ただし幻覚を見た本人にとってはそれはリアリティのある知覚であるし、そのことについて周囲の理解は必要だと思います。

麻薬などを使用しても幻覚を見る例が知られていることから、脳内物質が幻覚に関わっているということは理解できます。ほとんどの人はストレスから脳に異常をきたして幻覚を見ると考えるでしょう。
しかし幻覚を体験した私の状態を考えると、特別ストレスを感じていたとは言えなかったし、逆に自分の過去最大のストレスを感じた時期に幻覚を見たことはありませんでした。

私の推測ですが、物質とエネルギーには

私の推測ですが、物質とエネルギーには密接な関係があることが知られていることから(よくアインシュタインのE=mc2の式が引用されますが)エネルギーの領域で根本的な原因があり、物質(人体)に影響を及ぼしていると考えています。エネルギーの領域とは霊的領域とも言えるかもしれません。
そうなると霊的領域というものを認めざるおえないのですが、一般的には受け入れられないとも思っています。
統合失調症の状態では、なおさら霊的な話をすると余計に頭がおかしくなった疑われるので基本的に話しません。しかしスピリチュアルで活躍する人が霊視しても社会的に受け入れられるのは、本人の様子とか態度によるものが大きいと思います。落ち着いて自信がある状態のある人には説得力がありますから。そういう意味でも、幻覚を見てもなるべく落ち着くことが大切だと感じています。

ユングも「リビドー」という言い方で、物質的なものを巻き込む形での心的エネルギーということを言ってましたね。

「統合失調症の状態では、なおさら霊的な話をすると余計に頭がおかしくなった疑われるので基本的に話しません」
本当にそうで、それは明らかに偏見なのですが、そうなってしまいますね。だから、賢明なことと思いますが、それがために医師や周りとは本当のコミュニケーションがとれないことになってしまうのでもありますね。

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