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2013年5月21日 (火)

最も「現実的」な問題/妄想に基づく錯乱

ここ最近の記事で、「統合失調的状況」の「本質」については、十分過ぎるほど明らかにできたと思っている。

しかし、「精神医学」のいう「病気」という「常識」が行き渡っている現状においては、このような「本質」を明らかにすることでは、あまり実際的な意味をもてないのも確かなことだろう。理解できる人は、非常に限られるし、多くの者にとっては、必ずしも、実際の「統合失調」とされる者の起こす行動の、具体的な「理解」に直結するものではないからである。

もちろん、私は、このようなことも重視して、「統合失調的状況」での具体的な行動の、現実的な「理解」ということについても、これまで何度も述べてきた。

例えば、「声」などの「幻覚(幻聴)」がどうして生じるのかとか、なぜそれに、はたからみれば、理解できないほど、囚われてしまうのか。また、「特定の誰か」や「特定の組織」などに迫害されているという「妄想」がどうして生じるのか、なぜ、それを修正できずに「囚われる」のか、などのことである。(記事では、「「妄想」の基には「幻覚」があるということ 」http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post-7e0f.html、「「現実」の「解釈」としての「妄想」」http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-73ac.htmlなど多数)

実は、このような、具体的レベルでみられる「不可解」な行動について、本当に、「理解」ができない限り、多くの者は、納得もしないし、その者への恐怖や偏見をなくしもしない。そして、「理解」できないこと、厄介で手に負えないこととして、その者を「精神医療」に委ねるしかなくなる。

「統合失調的状況」に陥った者の反応や行動が、「不可解」で「理解」できないからこそ、「病気」という「烙印」が、一応の説得的な意味をもつのである。(実際には、「病気だから、理解できない行動をする」。あるいは、「病気だから、病的な行動をする」と言っているだけで、完全な「トートロジー」でしかないが)

逆に言えば、「統合失調的状況」に陥った者の反応や行動が、ある程度「理解」できるものであれば、あえて「病気」という「烙印」を押す必要もないことになる。
あるいは、少なくとも、そうする動機は減少することになる。

だから、こういった行動への、具体的で現実的な「理解」は、是非とも必要なことである。そして、こういった行動の中でも、特に「理解」と「対処」を必要とする、「現実的」な問題として集約できるのが、「妄想に基づく錯乱」なのだといえる。

「幻覚」にしろ、「妄想」にしろ、それが、その者の内面で保持されているだけで、外部に表現されなければ、別に周りや社会との問題は生じない。「幻覚」や「妄想」は、それに基づく行動を外部に表現されて、始めて、周りや社会との具体的な軋轢を生む。その中でも、それが、最も顕著で、しかも見るからに、手に負えない「狂気」といった様相を帯びるのが、「妄想に基づく錯乱」なのである。

実際、「統合失調症」とされる者が、周りや社会との間に何らかの軋轢を起こし、病院にかつぎ込まれる事態となること、また、家族の同意や、「自己や他者に対する危険」を認定されて、強制入院されるという事態は、「妄想に基づく錯乱」によることが多いはずである。

「妄想に基づく錯乱」は、いわば、「統合失調的状況」に陥っている者の、周りや社会との「接触面」に生じるのである。そこにおいて、それは、単に、その者の内面の問題ではなく、周りや社会を巻き込む形での、一つの「現実的」な問題となる。その者にとっても、社会の側から、「病気」という「烙印」を押されるということ、さらに、脳や人体に多大な影響を与える、「治療」を施されるという、大きな不利益を受ける問題となる。

だから、周りや社会にとってはもちろん、本人にとっても、「妄想に基づく錯乱」をどう「理解」するかということ、それにどう「対処」するかということが、最も「現実的」な意味での「問題」ということになる。

これらは、次のようなことにまとめることができる。

1 周りや社会の側にとっては、なぜその者が、「妄想に基づく錯乱」という不可解な行動をとるのか、「理解」すること。それによって、必要以上に、慌てたり、不安や恐怖をもたないようにすること。

2 本人自身にとっては、(できれば予め)「統合失調的状況」に陥ると、「妄想に基づく錯乱」が起こり易いことを、「理解」すること。そして、それが、自分自身にとっても、周りや社会にとっても、ためにはならないことを自覚すること。

3  周りや社会の側にとっては、「妄想に基づく錯乱」を起こした者に対して、どう「対処」したらよいかを学ぶこと。それは、社会として対処するのだから、ある程度の危険を受け入れることを意味する。しかし、何の解決にもならない、「精神医療への丸投げ」という事態を避けるには、必要なことである。

4  本人自身にとっては、「妄想に基づく錯乱」が起こるにしても、それをできる限り、最小限のものにくい止めるよう「対処」すること。それにより、自分自身にとっても、周りや社会にとっても、危険度や迷惑度を最小限に押し止どめることができる。

そこで、既に何度も述べたことだが、おさらいとして、まずは、総論的に、「妄想に基づく錯乱」ということの基本的な理解について述べてみたい。それには、まずもって、「妄想」ということを理解することが前提になる。この「妄想」は、通常いう「妄想」とは意味が異なる。それは、「現実」とは別個に、思考されたり、想像されたりしたものではなく、「現実」そのものの「解釈」だからである。つまり、その「妄想」が、その者にとっての「現実」そのものとなるような、「妄想」なのである。

また、それは、多くの場合、「幻覚(幻聴)」に基づいている。言い換えれば、その「妄想」には、元になる「知覚」がある。つまり、その者の「現実」も、「知覚」に基づいている点では、通常の場合と同じである。そして、その「現実」としての「リアリティ」(現実感)もまた、通常の「知覚」と同じである。ただ、その「知覚」は、通常の者とは異なる(共有することのできない)「知覚」なのである。

つまり、「統合失調的状況」では、「現実」または「知覚」そのものが、通常の者とは異なった、「変容」を起こしている。その者も、かつては、通常の者と同じ「現実」または「知覚」を共有していたのだから、それは、その者の、それまでの日常的な体験世界からの変容でもある。そのような、「未知」で、これまでの経験上理解しがい「状況」なのである。「妄想」というのは、そのように変容した、理解し難い「現実」に対して、何とか、これまでの「現実」理解の延長上に引き寄せる形で、なされた「解釈」なのである。

そのような、「現実」の変容は、「統合失調的状況」に陥る者にとっても、真に恐ろしいものであり、混乱させるものである。そこでは、まともで冷静な思考は働きにくい。混乱のさ中で、なんとか、「現実」の変容を、それまでの現実の延長上に「理解」できるものに「解釈」しようと、あがいているのである。

そのような状況において、「現実の誰か」とか、「ある組織」によって「迫害」されているという「解釈」が、―それが本人にとっては、最もそれまでの「現実」の延長上に、ピタリと収まってしまうために―、生まれるのである。そして、それに固執されるのである。

そこには、また、「幻覚(幻聴)」ということの、直接の影響もある。その「現実の誰か」だったり、他の者であるにしても、何か、「迫害」を示唆するような内容の「声」を実際に聞くということが、この「解釈」の元として大きく作用するのである。

このような「妄想」は、一面においては、理解しがたい、変容した「現実」について、一応の「理解」を提供するので、その範囲で、不安定になった「現実」や、それを前にして壊れそうな「自己」を落ち着かせる効果がある。「妄想」というのは、「防衛反応」であるというのは、そのような面を捉えてである。

しかし、反面、そのような「妄想」自体が、新たな「混乱」を生み出す元ともなる。それは、「現実」そのものの解釈としてなされている以上、何らかの「行動」として外部に表現されざるを得ない。そして、それには、「迫害」などの、他者のその者に対する具体的な行いが含まれている以上、周りや社会との間に、軋轢を生まないわけにはいかない。

さらに、そのような「妄想」は、本人の内面世界においても、混乱を大きく膨らませる事態となる。そのような、迫害的な「妄想」は、さらにその「妄想」に沿った形の「幻覚」(幻聴)を誘発し、その相乗効果により、恐怖に彩られた内面世界を、限りなく膨張させていくからである。それは、ついには、耐え切れない地点に達し、「錯乱」に至る可能性がある。

そして、それが外部に表現されるときには、見るからに、「狂気」の様相を帯びることになる。周りや社会は、「理解できない」、「手に負えない」との感触を強く抱く。

このように、「妄想に基づく錯乱」こそが、その者の「狂気」(いわゆる「発狂」)と、それに対する社会や精神医学の側の、厄介払い的な「対応」の始まりとなることが多い。「統合失調症」という、時には「不治」と解される「病気」の「烙印」が押されることも、ここに始まる。病院へと収容され、「隔離」や「治療」がなされることも、そこに始まる。このように、「妄想に基づく錯乱」という、(一回的かもしれない)行いによって、その者の一生を左右するような事態ともなるのである。

こういったことは、できる限り防ぎたいし、あるいは、少なくとも、最小限に押し止どめたい。しかし、そのためには、このような、一見手に負えない、「妄想に基づく錯乱」について、本人も、周りや社会も、「理解」し、さらに「対処」の仕方を学ぶ必要がある。

次回は、以上のことを踏まえて、先にまとめた、それぞれの項目について、さらに詳しく考えていきたい。

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コメント

私も知覚(幻覚)と思考(妄想)が互いに影響しながら錯乱状態になりました。私の場合、妄想が先だったと記憶しています。リストラにあって仕事に行かなくなったことと、一人暮らしをしていたことが妄想を酷くさせた要因だと考えています。要するに社会との接点を失ってから、妄想が酷くなりました。
基本的に働いていて忙しかったときは、そもそも仕事のことで頭がいっぱいだったし、哲学的なことなど考える余裕もありませんでした。しかし社会の歯車から外れたような状況になってから世の中を見渡すと、社会の構造、システムなどが自分の人生観と合わないと感じ始めました。また、時間があったので思考の世界に没頭することも多くなってきました。

私は幼少のころから哲学的なことに興味があったので、もともと分裂病になる気質があったのでは、と最近では思います。宇宙とは何か、自分とは何か、始まりとは何か、など物思いにふけることが多々ありました。ただし社会人になってからは、仕事中心の生活スタイルの中で哲学的思考とは無縁になりました。このブログで過去に取り上げた記事に「忙しくしていることは救いである」と書いてありましたが、まさにその通りの状況でした。

私は捕食者の管理しやすいシステムから逸脱した者は、幻覚妄想状態にすることで、その葛藤のエネルギーを刈り取っているという二重構造になっていると考えています。
私は今は医者からもほぼ寛解状態と診断されて、幻覚も見ることはありません。多分今、幻覚を見ても、妄想にブレーキをかけることはできると思っています。外部に表現しないような注意深さが備わっていると考えているからです。
しかしながら、これからこのまま何も起きないという保証はありません。
過去の記事から察すると、外来の装置が外れてから本当の戦いが始まるとも書いてありました。
私自身、このままで本当に終わるのだろうか、という思いがどこかにあります。

次回の記事も楽しみです。

トシさん。再びコメントありがとうございます。

幻覚と妄想について、妄想が先だったとのことですが、一般にも、「妄想気分」などといわれ、「妄想」が先に起こることが多いとされているようです。ただ、私は、その場合にも、無意識的、潜在的な形では「幻覚」があって、それが影響していた可能性があると考えています。なかなか、「妄想」だけでは、統合失調的なものまでは発展しないのです。「幻覚」は、「妄想」の強力な喚起力になります。それは、初めは無意識的な形で影響し、徐々に鮮明で具体的なものになっていきます。

一人で、社会生活から離れているときに、「妄想」が起こりやすいというのは確かなことだと思います。しかし、それは、「幻覚」が成長しやすい状況でもあって、「幻覚」が成長するのに伴って、「妄想」が発展したという可能性もありますね。

しかし、言われるとおり、(特に初めは難しいことですが)「幻覚」があったとしても、「妄想」を発展させたり、それに基づいて行動したりしないことも可能なことで、次回は、それについても少し詳しく述べようと思っています。

幻覚と一言に言っても、様々なレベルというか多様性があるような気がしますね。幻視や幻聴と言うのは一般的ですが、私の場合は幻臭や幻味もありましたし、もっと微妙な感覚もありました。勝手にこの微妙な感覚を「第六感の幻覚」と名付けています(笑)
無意識レベルの幻覚→第六感の幻覚→五感の幻覚、というふうに表面化されていく感じですかね。
私の体験では妄想気分の段階でなんとなく「監視されているのでは」という思考が働きましたが、
今考えるとそのときなんとなく「視線を感じる」という知覚がありました。

ちょっと自分の体験を振り返ってみたのですが、私の場合、妄想を助長させる要因として幻覚の他に
「偶然が重なる」という体験がありました。例えば陰陽師の 安倍晴明のことをネットで調べた翌日に、近所のコンビニに京都にある晴明神社のお守りが落ちているのを見つけました。私は東北に住んでいるので統計的にかなり低い確率の現象だと思い、納得できる解釈をするために妄想が酷くなった経験があります。

偶然については、ユングのシンクロニシティなどが知られていると思いますが、
心理学ではカラーバス効果というものがあるそうで、ウィキペディアから引用すると
『意識していることほど関係する情報が自分のところに舞い込んでくるようになるといったものである。例えば、「今日のラッキーカラーは赤」といわれると、街でその色ばかりに目が行くなども、カラーバス効果である。』
と書いてあり、これは偶然という現象と大きく関わっていると思います。

陰陽師について意識しなければ、落ちていたお守りが清明神社のお守りだと気づかなかったと思います。そのうち自分から偶然を探しにいってる状態になり、結果として偶然が重なったように見えたのかもしれません。
しかし偶然についてはシンクロニシティなど無意識の領域が関わっているという立場も納得できる部分はあります。一般的には疑似科学という扱いになっていますが。

ティエムさんはこのような偶然については、どのように考えられますか。
ご意見を頂けると幸いです。


「妄想」のもとにユングのいう「共時性」があるというのは、全くその通りのことと思います。

実は、このブログの記事でも、「妄想」のもとになる「共時性」について書いた(転載した)つもりでいましたが、それはかつての『日記』のことで、相当前のことであったのが分かりました。表現とか稚拙なところがあり、今は少し違和感もありますが、記事として、転載しておくことにします。(「共時性」と「魔術的因果論」 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2002/12/post-3e8b.html)大体、トシさんの質問にも答え得るような内容になっていると思います。

また、「関係妄想」については、ユングの「共時性」とは別に(といっても大いに関係がありますが)、「自己と外界の境界が曖昧になる」という視点から、とりあげた記事があります。『「個人的に受け取ること」と「関係妄想」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post-9dab.html)です。先の「共時性」についての記事で、最後の方に、触れている視点からの考察が、これに当たります。こちらも参照下さい。

トシさんのコメントをきっかけに、かつての『日記』の記事の中から、今回の「共時性」についての記事や、次回の記事の参照として、転載しておいた方がいいという記事がいくつかみつかりました。ありがとうございます。

ティエムさん返答ありがとうございます。紹介された過去の記事も読ませて頂きました。自分の過去の体験を整理するのに大変参考になりました。今振り返るともっと心に余裕を持てればよかったなと思います。妄想が酷いときは不安や焦りでいっぱいでした。未知の体験に遭遇したときに冷静さを保つのは難しいことですが。
できるだけ多くの人に統合失調症の本質について理解されることを願います。


トシさん。ありがとうございます。

「今振り返るともっと心に余裕を持てればよかったなと思います。妄想が酷いときは不安や焦りでいっぱいでした。未知の体験に遭遇したときに冷静さを保つのは難しいことですが。」

私もそうであり、「余裕」などというものは持てませんでした。「行動」につながらないですんだのは、どちらかというと、「何もかもわからない」、「どうすることもてきない」という「絶望的な諦め」の気分が支配していたからだと思います。

ただし、後で振り返ってみれば、「もっと余裕をもてたと思える」ということこそが、重要なことですね。つまり、「統合失調的状況」は、そのさなかにあっては、不安と焦燥と混乱が支配するけれども、後で振り返ってみれば、そうならずに済むことのできるような状況である、ということです。

これから、この状況に陥る人にとっては、このことは、とても力づけられる事実だと思います。

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