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2013年5月

2013年5月28日 (火)

「妄想に基づく錯乱」に対する「理解」と「対処」

「妄想に基づく錯乱」について、前回述べたことを踏まえて、「解解」と「対処」について、さらに詳しく述べる。

まずの、周りや社会の側にとっての「理解」について

ここで、問題の一つは、実は、「妄想」や「幻覚」という言葉を使う時点で、既に始まっている。それらの言葉自体が、「統合失調的状況」を、より不可解で、理解し難いものにしている。とともに、「統合失調的状況」に陥っている本人との間に、大きな齟齬や軋轢を生む。また、それらの言葉は、「精神医学」の発想に、からめとられることであり、そこに、既に、「病気」という「発想」が入り込んでしまっている。

通常は、「妄想」とは、「現実」とは別にあるもので、 「現実」とは異なる、誤った「思考」を意味している。「幻覚」も同様で、「現実」にはない、または「現実」とは異なる、誤った「知覚」である。これらは、ある「現実」を前提にしているのであり、それが「正しい」とされているため、「誤ったもの」、「病的なもの」とみなされる。だから、この言葉を使う時点で、「統合失調的状況」に陥った者は、「誤り」であり、「病的」であるという「烙印」を押しているようなものである。

ところが、「統合失調的状況」に陥った者は、「現実」そのものが、それまでの経験から遊離した、「不可解」なものへと「変容」しているのである。そして、そのような「現実」そのものの、「知覚」として起こるのが、「幻覚」であり、その不可解な「現実」の「解釈」として生じるのが、「妄想」である。

そのような「現実」が、通常の多くの者が「共有」している「現実」と異なっているのは確かであり、次に述べるように、「統合失調的状況」に陥った者も、まずは、そのことを理解することこそが重要である。通常いう意味の「現実」、多くの者と「共有」する意味での「現実」のレベルで、「幻覚」や「妄想」が表現される限り、それは「誤り」とされても仕方がないということである。

しかし、通常いう意味の「現実」、多くの者と「共有」する意味での「現実」とは別の次元の、いわば「もう一つの現実」として、それらが表現されるなら、それは、「誤り」と決めつける根拠はないはずである。実際に、その者にとっての「現実」は、そのような「もう一つの現実」が、その者に侵入し始めたことから、「変容」したものと解することができるのである

この「もう一つの現実」は、「霊的現実」とか、ユング風の「普遍的無意識」の顕現など、理解の仕方はさまざまにあり得る。しかし、ここでは、通常いう意味の「現実」、多くの者の「共有」する意味での「現実」とは異なる「現実」であることを、明確にすることにこそ意義がある。そうしない限り、多くの者にとっては、それはどう言おうと、「現実」とは適合しない、「誤った」、「病的」なものであるとのイメージを払拭することはできないからである。

そのように、「統合失調的状況」に陥った者は、「もう一つの現実」の侵入のために、「現実」そのものが「変容」している。だとすると、その「知覚」は、「もう一つの現実」についての「知覚」であり、単純に「幻覚」と呼ぶことは、適当ではない。また、「もう一つの現実」の侵入は、その本人をも混乱させるもので、その変容した「現実」を、何とかそれまでの「現実」の延長上に位置づけようと、「解釈」させる。そして、その限りで、誤った「解釈」を生じるが、それも、単純に「妄想」と呼ぶことは、適当でない。

このような理解をしない限り、「統合失調的状況」に陥っている者の状況を、「誤った」もの、「病的」なものという先入観抜きに、理解することは難しい。

しかし、実は、それこそが、多くの者にとって、難しいことなのでもある。つまり、「統合失調的状況」に陥っている者について、そこに何らかの「現実」を認めようものなら、多くの者が共有している「現実」についての唯一性や根拠は揺らぎ、ほかにも「現実」があり得るということを、突きつけてくるのである。だからこそ、多くの者にとって、「統合失調的状況」に陥っている者は、独特の不安を喚起する。そして、それは「病気」であり、「誤り」でなければならないものとなる。言い換えれば、多くの者の「現実」こそが「正しい」ことが、確認されなければならないのである。

そのために、「統合失調的状況」に陥った者を、是非とも「排除」するということが、「必要」になる。「精神医学」の思惑とはまた別に、「社会」そのもののそういった、いわば「防衛意識」も、「統合失調的状況」に陥った者を「排除」することに、大きく働いている。そういったことを理解することも、社会の側にとっては、必要なことになる。

そのことが理解できるならば、少なくとも、「統合失調的状況」に陥っている者が、「もう一つの現実」を「知覚」したり、それによる「現実」の「変容」のために、「妄想」的解釈を必要としているという可能性について、まともにみることができるはずである。

改めて言うと、「妄想」は「必要」とされて、出てきているのである。本人も、これまでの「現実」から遊離した、不可解で、未知の状況には耐えられないのであり、そうしないといられないのである。そして、「統合失調的状況」に陥っている者も、それが「もう一つの現実」であり、「未知の状況」であるなどとは認め難いのである。「現実」そのものが、自分にとってなじみのないもの、「未知」のものへと姿を変えたなどとは、認めたくないし、そうすることは、本当に、根本から、多くの者との共通の接点を失うことを意味するからである。

それが認め難いために、それまでの「現実」に引き寄せた解釈(=「特定の誰か」や「組織」による迫害などの「妄想」)をしてしまうのである。そして、それに基づいて行動を起こしてしまうのである。この行動には、他者と共有する「現実」との接点を確認したいという意味があり、ある意味で、自分の身体や生命を確認しようとする、リストカットにも似ている。要するに、そうせざるを得ない内的理由があり、しかも、それは「現実」を指向するがゆえの、「あがき」として生じているのである。

そのことが分かれば、「統合失調的状況」に陥っている者の反応は、本質的には、何ら奇怪で、恐ろしいものではなく、必ずしも、危険でもなく、むしろ同情すべきものであることが分かるはずである。また、後に述べるように、対処の仕方もみえてくるはずである。

次に本人にとっての「理解」について

本人にとっての「理解」は、1で述べたことの、「裏返し」のようなものである。ただし、本人は、まさに、混乱のさなかにあるのだから、このことを、その状況のただ中において、理解することは難しい。

だから、できる限り、予め、以上に述べた大枠的なことがらは知っておくに越したことはない。それは、結局、一般的に、多くの者が、自分自身がなるかもしれないし、他の者がなるかもしれないものとして、「統合失調的状況」に陥ったときに生じる反応というものを、ある程度は理解しておくということに尽きる。

そして、そのポイントは、まず第一に、「統合失調的状況」に陥ったら、通常の者とは異なる「知覚」を生ずるということ。それは、知覚としての「リアリティ」は、通常のものと全く同じだということである。つまり、どんなに、「現実」同様の「リアリティ」があっても、他の者は見たり聞いたりしない「知覚」を生じるということである。ただし、それは、内容としては、これまでの経験に照らしても、異様な要素があるので、その「異様性」には、必ず気づけるはずのものである。

そして、次に、それをこれまでの「現実」の延長上に理解しようとすれば、その「異様性」を反映して、通常は「あり得ない」、他者からは理解されない「解釈」になってしまうということである。

しかし、このことも、先ほど述べたように、「幻覚」やら「妄想」やらと表現したのでは、予め理解することを、寄せつけないものとなる。そのように表現する限り、それは、単に、不可解で、奇妙な「病的」現象でしかないからである。

精神医学の解説書などでも、具体的に、どのようなパターンの「幻覚」(幻聴)が生じるのか、どのような「妄想」が生じるのかが説明されてるている。それらは、どれも、陳腐なくらい、共通の性質を帯びている。だから、それらのパターンを知れば、本来、自分か陥った状態が、そのようなパターンに当てはまることは、すぐ分かるはずのものである。しかし、それを拒むのが、「幻覚」やら「妄想」と呼ぶことで、それが「誤った」ものであり、「統合失調症」という「大それた」「病気」の症状としてしまうことである。それでは、そのようなことを認める可能性というものを、シャットアウトしているようなものだ。むしろ、本人は、「統合失調症」にいう「幻覚」や「妄想」がそういうものであるなら、自分の体験しているものは、はっきりとした「リアリティ」があるのだから、それとは違うものだという認識の方を強めてしまうことになる。

逆に言えば、「統合失調症」などという「レッテル」を剥がしてみるならば、これらのことを理解したり、受け入れることは、それぼと難しいものではなくなるということである。

何しろ、本人にとっても、「幻覚」などとという言葉には惑わされないで、「統合失調的状況」では、通常にいう「知覚」とは異なる「知覚」が生じるのだということを理解することこそが、最大のポイントである。いかに、強烈な「リアリティ」があったとしても、その「知覚」は、他の多くの者が見たり、聞いている「知覚」とは異なるということである。

不自然な状況での、他人の中傷とか、嘲笑その他の「声」という、典型的な「幻聴」とされるパターンにあてはまるものは、ほぼ全てそのような「知覚」と疑っても、間違いないだろう。

そうすることによって、それが、他者と共有する「現実」そのものの出来事ではないことを、自覚できる。つまり、物理的、外的「現実」そのものの出来事と混同することを避けることができる。これこそが、第一の関門なのである。

しかし、そうだとすれば、そのような「知覚」は一体何であるのか(あるいは「病気なのか」)、という新たな問題と不安が巻き起こる。それについては、先ほど述べたように、率直に、自分の体験している「現実」が、これまでの「現実」とは「変容」していること、自分にとって「未知」の、「もう一つの現実」が、侵入していることを認めるしかない

先ほど、知覚の「異様性」は 何ほどか感じられるはずと言ったが、このような「現実」の「変容」感も、本人にも、必ず感じられるはずのもので、「現実世界」の、見るもの、聞くこと、雰囲気その他あらゆる要素が、前とは異なって感じられるはずなのである。要するに、「現実」そのものが、これまでとは同じものではなくなり、従って、他者と共有するものでもなくなっているのである。

それを、「本当に」認めることができれば、起こっていることを、他者と共有する「現実」と同じ次元に、「解釈」すること、つまり、「妄想」的解釈は、避けることができるはずである。そして、この「現実」のさなかに、それに基づいた行動をとることも、避けられるはずなのである

ただし、通常の者にとって、「もう一つの現実」というものを受け入れるのが難しいのと同様に、その者にとっても、それを受け入れるのは難しい。実際に、その状況に陥っている場合はなおさらで、自分が、本当に、多くの者と共通する「世界」を失ったのだと認めざるを得ないことになる。本当に、「未知」の状況に遭遇し、孤独に陥ったこと、誰も助けにはならないことを認めざるを得ない。そうしたくないからこそ、何とか、それまでの「現実」の領域に引き寄せて「解釈」する必要があったのである。しかし、それを認めれば、もはやそうすることも許されなくなる。

しかし、それが「受け入れ」られれば、少なくとも、それまでの「現実」の領域に引き寄せて「解釈」されたからこそ生じる、混乱や錯乱のかなりの部分は抑えられるのである。もちろん、未知の現実としての「もう一つの現実」を認めたことから生じる新たな混乱というものも、そこには多くある。そのようなものに対して、どう理解し、対処していくかということも、新たに抱える問題である。

しかし、それは、必ずしも、「現実」の領域に表現される必要のないものだし、その者の「内面世界」において、何とか理解したり、対処したりができないものでもないのである。それは、少なくとも、「妄想に基づく錯乱」によって、生じてしまった社会との軋轢や本人の抱え込む問題に比べれば、正面から取り組むだけの「意義」のあるものである。そして、結局は、その理解や対処の程度に応じて、そのような「現象」に振り回されることも、その「現象」そのものも減じて行くものなのである。

次に、周りや社会の側にとっての「対処」について
                                          
「妄想に基づく錯乱」を起こしている者に対しては、1で述べたように、「あがき」として、止むに止まれず生じていることが分かれば、たとえ理解できないことを口走ったり、したりしていたとしても、それほど慌てる必要も、恐れる必要もないことが分かるはずである。実際、そのような「錯乱」は、永遠に続かなければならないものではないし、一時的なもので終わる可能性もある。

「対処」と言っても、要は、できる限り、自分も相手も、「落ち着く」「落ち着かせる」ということに尽きる。そして、自分自身が、ある程度落ち着いていられるなら、相手方の反応もまた、激しいものではなくなり、収まってくる可能性がある。自分自身が、相手の錯乱に巻き込まれて、感情的に反応するために、相手方の反応を、さらに刺激している面も強いのである。

相手の「妄想」的な話には、安易に「乗る」のもいけないが、おもむろに否定するのも、反発や混乱を深める反応を引き出すだけである。実際に、その者が「もう一つの現実」を「知覚」していて、それをこの「現実」そのもののこととして「解釈」しているために、そのような反応をしていることが分かれば、そのような態度はとらないはずである。

恐らく、精神科医などは、「ああ、そうですねえー。そうですねえー」などと適当にあしらいながら、「これ飲みましょうね」と、薬を飲ますことしか考えないのだろう。が、一つの手立てとして、相手方に、はっきりと、その者の見たり、聞いたりしている「知覚」が、周りの者の「知覚」と異なっていることを、悟らせるという方法もある。周りの者や社会の側としては、相手も、「現実」との接点を求めて反応しているのである以上、これこそ、唯一できる、「現実」の側からの「証言」であり、対応といえる。これは、相手方の「現実」である、「もう一つの現実」というものを尊重している限り、相手の言うことを、頭から否定することにはならない。

そして、相手方も、いかに認めにくいにしても、「もう一つの現実」(「現実」が変容したこと)というものは、内心には、少なくとも「予感」はしているはずである。だから、そのことを「現実」の側から証言することによって、自然に、そのような視点に誘導することができればよいわけである。「それは、あなたにとって「現実の知覚」かもしれないが…我々の「知覚」ではない」というぐらいに、はっきりと示唆するのもよいだろう。ただし、そのような「現実」に対して、どう対処するかは、もはやその者自身の問題である。むしろ、周りの者や社会が、余計な口出しをするべきことではない。

次に、本人自身の「対処」について

「統合失調的状況」の全体の問題として、本人自身の「対処」については、これまでにも、具体的なレベルで、多くのことを述べてきた。中でも、「攻撃的」で、執拗な「声」に対する対処は、最も身近で、厄介なものの一つである。(記事・「声」への対処法 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post-5c47.html  など)要は、「声」の言うことを、「真に受けない」こと、「囚われない」こと、「気にしない」ことに尽きるのだが、これに対処できないと、「妄想に基づく錯乱」や、「もう一つの現実」を認めたとしても、それとどうやって取り組んでいくかという点にも、大きく支障が出てくる。

「妄想に基づく錯乱」については、結局、2に述べたように、自分に起こっている「現実」が、「もう一つの現実」の侵入のため、他の者と異なる「現実」へと「変容」したことを、どこまではっきり理解できるか、どこまで受け止めることができるかにかかっていると言っても過言ではない。それが、はっきり理解できれは、他の者と共有する「現実」へと引き寄せて「解釈」する傾向は抑えられるし、本当に、それを受け止めれば、もはやそうする必要もなくなる。

それは、結局、他の誰でもなく、自分自身の問題として、ことの全体と取り組むしかないという覚悟を決めることである。生じている「もう一つの現実」と向き合い、自分自身で、それを「見極め」て行くしかないということである。そのようなことについては、基本的に、他の誰も、助けにはならないし、なりようがない。(かつてのような、「シャーマン」の役目を果たせる人は、少なくとも近代世界にはもはやいない。)そのような自覚が深まれば深まるほど、「錯乱」のような反応は、起こらないことになる。外部的に表現することの、無意味性も分かるからである。

ただし、「もう一つの現実」を認めたとしても、起こっていることに対して、何らの「解釈」もしないということは、できない。それは、「未知」の状況に対する防衛的応として、全くなくすことは無理なのである。そして、それは、その都度、何らかの「誤り」を当然含む。だから、はたからみれば、「妄想」ということにもなり得る。そのような「解釈」は、なくすことはできないにしても、決して固定しないようにすることである。それには、「もう一つの現実」は、「未知」のものであり、容易には理解のできないものであることを、正面から認める必要がある。実際、起こっていることを、真に受け止めるなら、いかに、思考力をフル稼働したとしても、その理解など、容易にはかなわないことは、はっきりしているはずである。つまり、「混沌」とした、「訳の分からない」状況こそが、「統合失調的状況」なのであり、現前してる「現実」なのである。「訳の分からない」ことを、「分からない」と認めることこそ、真に、「現実」に適合した対応である。

そのうえで、それを、「見極めよう」という姿勢自体は、失わないことである。そうすれば、必ず、その「混沌」とした中にも、法則や性質など、「見えてくる」ものは増してくる。決して、「対処不可能」なものではないことが、実感されてくるはずなのである。

私もそうだったが、これを経験しているときは、本当に自分一人だけの、(ほとんど「人類が経験したことのない」)特殊な体験だと思ってしまう。実際、信じ難い、「未知」の状況なのだし、他者から切り離されて、自分一人で格闘することになるので、そう思うことにも十分の理由がある。

しかし、実際は、私もそうだし、他の者もそうだが、こういった状況を「くぐり抜けた」者はいくらもいるのである。たとえ、全体として、「乗り越えた」とは言いがたい場合でも、部分的に、何らかの意味で、「乗り越えた」者は、数限りなくいる。というより、この状況を体験する、ほぼ全員が、結局は、何らかの意味で、「乗り越える」のである。つまり、この状況は、いかに大変で、対処し難いと、現に経験している本人が思っていたとしても、いずれは収まるものであることを保証できる

だとすれば、そのような、またとできない経験をする状況に至ったならば、本気でそれと向き合い、できる限り自ら見極めるべく、必死の格闘をしていくことにも大きな意義があるはずである。

ただし、この場合に、「知覚」そのものが「変容」した「現実」のただ中にあって、普通に社会生活をしていくことは、ほとんど不可能といえる。また、そうしながら、「錯乱」などの反応をせずに、その「現実」と取り組んで行くことなども、非常に難しい。

だから、やはり、その期間(少なくとも、2~3カ月)は、治療施設ではなく、ゆっくりと休養しつつ、じっくりと、「もう一つの現実」と取り組むための環境を提供する、一種の「療養施設」が必要と思う。(強度の「うつ」にもそれは言える)

そういったものが、認められるか否かは、社会の側の「許容度」によるわけで、それには、既に述べた、「統合失調的状況」や「妄想に基づく錯乱」などに対する「理解度」が大きく影響する。

しかし、このような「理解」がある程度でもいきわたり、こういった状況には、いつ誰がなるか分からないことが真に理解されるなら、こういったものは、本当に「必要」なものであることが、多くの者にも認められてくるはずである。もはや、「精神医療」に委ねることなど、できないはずなのである。

2013年5月26日 (日)

かつての記事の転載

次回の記事に大いに関わるもので、その前提となるようなことにも多く触れられているので、かつての『日記』の記事から、

1 「分裂病」の分かりにくさ  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post-424f.html
2 「総まとめ」(旧「闇を超えて」より) (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html

を転載しておきます。どうぞ、参照下さい。

後者はかなり前のもので、その時期における一応の「総まとめ」をしたもの。今からすると、表現が稚拙だったり、足りない面もあるが、ブログ全体の「序論」のような役目を果たすし、次回の記事にとっても参考になるものが多く、あえて転載することにした。

2013年5月21日 (火)

最も「現実的」な問題/妄想に基づく錯乱

ここ最近の記事で、「統合失調的状況」の「本質」については、十分過ぎるほど明らかにできたと思っている。

しかし、「精神医学」のいう「病気」という「常識」が行き渡っている現状においては、このような「本質」を明らかにすることでは、あまり実際的な意味をもてないのも確かなことだろう。理解できる人は、非常に限られるし、多くの者にとっては、必ずしも、実際の「統合失調」とされる者の起こす行動の、具体的な「理解」に直結するものではないからである。

もちろん、私は、このようなことも重視して、「統合失調的状況」での具体的な行動の、現実的な「理解」ということについても、これまで何度も述べてきた。

例えば、「声」などの「幻覚(幻聴)」がどうして生じるのかとか、なぜそれに、はたからみれば、理解できないほど、囚われてしまうのか。また、「特定の誰か」や「特定の組織」などに迫害されているという「妄想」がどうして生じるのか、なぜ、それを修正できずに「囚われる」のか、などのことである。(記事では、「「妄想」の基には「幻覚」があるということ 」http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post-7e0f.html、「「現実」の「解釈」としての「妄想」」http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-73ac.htmlなど多数)

実は、このような、具体的レベルでみられる「不可解」な行動について、本当に、「理解」ができない限り、多くの者は、納得もしないし、その者への恐怖や偏見をなくしもしない。そして、「理解」できないこと、厄介で手に負えないこととして、その者を「精神医療」に委ねるしかなくなる。

「統合失調的状況」に陥った者の反応や行動が、「不可解」で「理解」できないからこそ、「病気」という「烙印」が、一応の説得的な意味をもつのである。(実際には、「病気だから、理解できない行動をする」。あるいは、「病気だから、病的な行動をする」と言っているだけで、完全な「トートロジー」でしかないが)

逆に言えば、「統合失調的状況」に陥った者の反応や行動が、ある程度「理解」できるものであれば、あえて「病気」という「烙印」を押す必要もないことになる。
あるいは、少なくとも、そうする動機は減少することになる。

だから、こういった行動への、具体的で現実的な「理解」は、是非とも必要なことである。そして、こういった行動の中でも、特に「理解」と「対処」を必要とする、「現実的」な問題として集約できるのが、「妄想に基づく錯乱」なのだといえる。

「幻覚」にしろ、「妄想」にしろ、それが、その者の内面で保持されているだけで、外部に表現されなければ、別に周りや社会との問題は生じない。「幻覚」や「妄想」は、それに基づく行動を外部に表現されて、始めて、周りや社会との具体的な軋轢を生む。その中でも、それが、最も顕著で、しかも見るからに、手に負えない「狂気」といった様相を帯びるのが、「妄想に基づく錯乱」なのである。

実際、「統合失調症」とされる者が、周りや社会との間に何らかの軋轢を起こし、病院にかつぎ込まれる事態となること、また、家族の同意や、「自己や他者に対する危険」を認定されて、強制入院されるという事態は、「妄想に基づく錯乱」によることが多いはずである。

「妄想に基づく錯乱」は、いわば、「統合失調的状況」に陥っている者の、周りや社会との「接触面」に生じるのである。そこにおいて、それは、単に、その者の内面の問題ではなく、周りや社会を巻き込む形での、一つの「現実的」な問題となる。その者にとっても、社会の側から、「病気」という「烙印」を押されるということ、さらに、脳や人体に多大な影響を与える、「治療」を施されるという、大きな不利益を受ける問題となる。

だから、周りや社会にとってはもちろん、本人にとっても、「妄想に基づく錯乱」をどう「理解」するかということ、それにどう「対処」するかということが、最も「現実的」な意味での「問題」ということになる。

これらは、次のようなことにまとめることができる。

1 周りや社会の側にとっては、なぜその者が、「妄想に基づく錯乱」という不可解な行動をとるのか、「理解」すること。それによって、必要以上に、慌てたり、不安や恐怖をもたないようにすること。

2 本人自身にとっては、(できれば予め)「統合失調的状況」に陥ると、「妄想に基づく錯乱」が起こり易いことを、「理解」すること。そして、それが、自分自身にとっても、周りや社会にとっても、ためにはならないことを自覚すること。

3  周りや社会の側にとっては、「妄想に基づく錯乱」を起こした者に対して、どう「対処」したらよいかを学ぶこと。それは、社会として対処するのだから、ある程度の危険を受け入れることを意味する。しかし、何の解決にもならない、「精神医療への丸投げ」という事態を避けるには、必要なことである。

4  本人自身にとっては、「妄想に基づく錯乱」が起こるにしても、それをできる限り、最小限のものにくい止めるよう「対処」すること。それにより、自分自身にとっても、周りや社会にとっても、危険度や迷惑度を最小限に押し止どめることができる。

そこで、既に何度も述べたことだが、おさらいとして、まずは、総論的に、「妄想に基づく錯乱」ということの基本的な理解について述べてみたい。それには、まずもって、「妄想」ということを理解することが前提になる。この「妄想」は、通常いう「妄想」とは意味が異なる。それは、「現実」とは別個に、思考されたり、想像されたりしたものではなく、「現実」そのものの「解釈」だからである。つまり、その「妄想」が、その者にとっての「現実」そのものとなるような、「妄想」なのである。

また、それは、多くの場合、「幻覚(幻聴)」に基づいている。言い換えれば、その「妄想」には、元になる「知覚」がある。つまり、その者の「現実」も、「知覚」に基づいている点では、通常の場合と同じである。そして、その「現実」としての「リアリティ」(現実感)もまた、通常の「知覚」と同じである。ただ、その「知覚」は、通常の者とは異なる(共有することのできない)「知覚」なのである。

つまり、「統合失調的状況」では、「現実」または「知覚」そのものが、通常の者とは異なった、「変容」を起こしている。その者も、かつては、通常の者と同じ「現実」または「知覚」を共有していたのだから、それは、その者の、それまでの日常的な体験世界からの変容でもある。そのような、「未知」で、これまでの経験上理解しがい「状況」なのである。「妄想」というのは、そのように変容した、理解し難い「現実」に対して、何とか、これまでの「現実」理解の延長上に引き寄せる形で、なされた「解釈」なのである。

そのような、「現実」の変容は、「統合失調的状況」に陥る者にとっても、真に恐ろしいものであり、混乱させるものである。そこでは、まともで冷静な思考は働きにくい。混乱のさ中で、なんとか、「現実」の変容を、それまでの現実の延長上に「理解」できるものに「解釈」しようと、あがいているのである。

そのような状況において、「現実の誰か」とか、「ある組織」によって「迫害」されているという「解釈」が、―それが本人にとっては、最もそれまでの「現実」の延長上に、ピタリと収まってしまうために―、生まれるのである。そして、それに固執されるのである。

そこには、また、「幻覚(幻聴)」ということの、直接の影響もある。その「現実の誰か」だったり、他の者であるにしても、何か、「迫害」を示唆するような内容の「声」を実際に聞くということが、この「解釈」の元として大きく作用するのである。

このような「妄想」は、一面においては、理解しがたい、変容した「現実」について、一応の「理解」を提供するので、その範囲で、不安定になった「現実」や、それを前にして壊れそうな「自己」を落ち着かせる効果がある。「妄想」というのは、「防衛反応」であるというのは、そのような面を捉えてである。

しかし、反面、そのような「妄想」自体が、新たな「混乱」を生み出す元ともなる。それは、「現実」そのものの解釈としてなされている以上、何らかの「行動」として外部に表現されざるを得ない。そして、それには、「迫害」などの、他者のその者に対する具体的な行いが含まれている以上、周りや社会との間に、軋轢を生まないわけにはいかない。

さらに、そのような「妄想」は、本人の内面世界においても、混乱を大きく膨らませる事態となる。そのような、迫害的な「妄想」は、さらにその「妄想」に沿った形の「幻覚」(幻聴)を誘発し、その相乗効果により、恐怖に彩られた内面世界を、限りなく膨張させていくからである。それは、ついには、耐え切れない地点に達し、「錯乱」に至る可能性がある。

そして、それが外部に表現されるときには、見るからに、「狂気」の様相を帯びることになる。周りや社会は、「理解できない」、「手に負えない」との感触を強く抱く。

このように、「妄想に基づく錯乱」こそが、その者の「狂気」(いわゆる「発狂」)と、それに対する社会や精神医学の側の、厄介払い的な「対応」の始まりとなることが多い。「統合失調症」という、時には「不治」と解される「病気」の「烙印」が押されることも、ここに始まる。病院へと収容され、「隔離」や「治療」がなされることも、そこに始まる。このように、「妄想に基づく錯乱」という、(一回的かもしれない)行いによって、その者の一生を左右するような事態ともなるのである。

こういったことは、できる限り防ぎたいし、あるいは、少なくとも、最小限に押し止どめたい。しかし、そのためには、このような、一見手に負えない、「妄想に基づく錯乱」について、本人も、周りや社会も、「理解」し、さらに「対処」の仕方を学ぶ必要がある。

次回は、以上のことを踏まえて、先にまとめた、それぞれの項目について、さらに詳しく考えていきたい。

2013年5月12日 (日)

今日の「ケム」と「レール」

しばらく見なくなったと思ったら、また久しぶりに派手に撒かれる日があった。

今回は、サンドウィッチマン風のギャグにしてみた。相方のツッコミも込みです。

… …    … …              … …    … …

では、視聴者の方から手紙頂いたんで、さっそく読んでみまーす。

タイトルは、『今日の「ケム」と「レール」』。
それ、「ケムトレイル」じゃねえのか?「と」で区切んなくていいんだよ。大体、「ケム」と「レール」ってとり合わせおかしいだろ。)

今日も、朝から<空一つない雲>が一面に広がり、
分かるけど、表現おかしいだろ。「雲一つない空」逆にすればいいってもんじゃねえんだよ。)

飛行機も<月から月へ>と飛んで行きました。
(「次から次へ」だろ。UFOじゃねえんだから、月から月へはいけねえだろ。)

今日も一日いやなことが起こりそうで、<統合失調>な気分になってしまいました。

(「ゆううつ」な気分だよ。「統合失調な気分」ってどんな気分だよ。怒られんぞ。)

私は、<鼻水のにじむ>ような努力をして、
(「血のにじむ」だろ。きたねえだけだよ。それじゃあ。)                   

気分を取り直し、いつものように学校に<向かい合い>ました。               
そこは「向かいました」でいいんだよ。なに改まって、そこで「向かい合っ」てんだよ。)

でも、どうしても、上を見ながら歩いちゃうので、途中の<紙切り>で、レールにつまずいてしまい、
(「踏切」だろ、それ。誰が、学校行く途中、「紙切り」しながら歩いてんだよ。そんなやつはいねえよ。)

ころんで、顔面を打って、<鼻水が>にじみ出てしまいました。
だから、「血」だよ。「鼻水にじみ出て」も痛々しくねえんだよ。ただの風邪だろ、それは。)

ああ、やっぱり、「ケム」と「レール」には、ろくなことがないや。
(……タイトルだけは、合ってんのかよ。)

―おあとがよろしいようで。

2013年5月 2日 (木)

「あいだの病」とその「乗り越え」

木村は、分裂病を、「あいだ」に障害がある、「あいだの病」と捉えていた。それはまさに、「病」であって、「あいだ」がうまく機能している「正常」または「健康」との対比は、はっきりとしたものだった。分裂病質ないし分裂病に対する共感や理解への意欲は、随所にみえるが、分裂病が「否定的」なものであるという基本線は、崩さなかったといえる。この点では、『ひき裂かれた自己』当初のレインと同じである。

木村は、「あいだ」を「重層的」なものとはしていたが、結局、それは、根底の「普遍的生命」との関係ということに帰着する。だから、結局は、「普遍的生命」との関係がうまくていっている「正常者」と、それがうまくいっていない「分裂病質者」または「分裂病者」ということで、割と単純な二元論的発想に陥ってしまっている。要するに、「生命」的で「自然な行い」のできる「正常者」と、「非生命」的で「不自然な行い」になる「分裂病質者」または「分裂病者」ということである。

「あいだ」というものは、単に「重層的」なだけでなく、もっと「多様」である点にも注目する必要があると思う。

木村自身も、『人と人との間』という本で、「あいだ」には「世間」といったものを含み、そこには、「ご先祖様に申し訳ない」というときの、「ご先祖様」なども含まれるとしていた。つまり、この「あいだ」には、かつて日本人が生きるうえで重視した、信仰や信念の名残りが、漠然とながら、「世間」という形で、いわば刻印されているわけである。しかし、「世間」に含まれるのは、何も人間の祖先だけではない。

記事、『「人と人の間」と「霊界の境域」』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post-a866.html )でも示したように、さらに、この「世間」には、「精霊」や「神々」といった人間以外の存在も含まれる。そして、さらにいうと、それらは、文字通り、「実体」的なものとしても、含ませるべきである。「あいだ」というものには、こういった「実体的要素」も含ませるとき、その都度の人間を成り立たせる「場」としての重要性、あるいは、その本当の影響力が、より浮き彫りになるはずだからである。

全体として、「あいだ」ということそのものは、木村も言うように、「こと」的な事柄で、「もの」的なものなのではない。しかし、そこには、また、「もの」的な要素も含まれるということである。ただ、「もの」といっても、これは、まさに、「もののけ」などというときの、「もの」で、「こと」的な広がりと、「漠然」とした捉えにくさを備えている。後にみるように、だからこそ、「あいだ」に「怖れ」をもたらすのである。

また、この「あいだ」には、「捕食者」などの強力な「悪」の存在も含む。というよりも、現代では、シュタイナーもいうように、この「捕食者」こそが、「あいだ」において、最も活発な働きをしている。私も、「捕食者」は、どこか遠くではなく、「人と人の間」でこそ働くということを、強調してきた。分裂病者の聞く「声」などは、まさに「人と人の間」でこそ、生じている現象である。

だから、現代における「人と人のあいだ」は、このような「捕食者」によって創出された「場」であることが多い。多くの者が、そのような「場」としての「あいだ」を「共有」し、分裂気質的な者は、その「場」から弾き出されるということも多く起こる。そのような場合、「あいだ」がうまく機能していることが、「正常」で「望ましい」もので、それがうまくいっていないことが、「病的」で「否定的」なことであるなどとは言えないはずである。

これは、後にレインが、「正常」というのは、「疎外」状態だと言ったことにも、通じてくる。

つまり、「あいだ」の「多様性」に着目すれば、必ずしも「あいだ」との関係がうまくいくことが、「正常」で「健康」ということではないのである

このようなことは、垂直的方向の「あいだ」にも言え、そこには、前回の図で示したように、「虚無」や「闇」をも含め得る。むしろ、これまでにも述べてきたように、この「虚無」や「闇」こそが、木村のいう「普遍的生命」をも取り巻くような「広がり」を有しつつ、より「根底的」な要素といえるのである。だから、その「あいだ」との関係は、必ずしも、「生命的」なものになるとは限らない。そこには、「闇」や「虚無」のもたらす、「破壊的」な要素もある。「あいだ」との関係がうまくつながることが、必ずしも、「生命的」で「健康的」な結果をもたらすとは言えないということである。 

木村は、「あいだ」の根底に、「普遍的生命」を置き、「あいだ」を全体として肯定的な面からみ過ぎたため、そのような「あいだ」との関係がうまくいかないことを、否定的に捉え過ぎたのだと思う。

あるいは、木村は、いわば「色即是空、空即是色」的に、全体を、「アクチュアル」に捉える視点に拘り、「空」(「あいだ」)そのものへの着目を、十分にしなかったのだとも言える。それで、「正常」の者は、「色即是空、空即是色」を「アクチュアル」に生きている者であり、「分裂病の者」は、「色即是空」の「空」で、つまずいて、それができない者という具合に、結局は、抽象的で単純な対比になってしまったのである。

さらに、木村は、「あいだの病」ということが、どうして起こるのかということについては、生命論や進化論と絡ませての考察はあるが、特に明らかにはしていない。ただ、分裂病質者の「先取り的構え」ということが、躁鬱気質や他の気質との対比で言われている。実は、この、「先取り的構え」ということこそが、「あいだ」との関係を途切れさせ、うまくいかなくさせることに、大きく関係しているというべきである。

分裂病質者または分裂病者は、「対人恐怖」などと言われるが、前に述べたように、決して「人間」そのものを恐れているのではなく、「人と人のあいだ」を恐れているのである。「あいだ」こそが、人間に大きな影響を与えていること、また、「自己」をのみこむような脅威を秘めていることを、その「先取り的構え」によって、漠然とながら、感じ取っているからである。

前回みたように、通常は、「あいだ」に「自己」を明け渡すような感覚で、「あいだ」がその都度「生きら」れている。それにより、むしろ「自己」が、その都度「紡ぎ出され」ている。そのとき、「あいだ」は、「アクチュアル」な形で、潜在的には、感じ取られるにしても、「あいだ」を「あいだ」として意識することはない。そのように、「無意識」だからこそ、「あいだ」との関係が滞ることなく、うまく機能しているのである。

ところが、分裂病質者または分裂病者は、この「あいだ」というものを、感受性の過多と、その「先取り的な構え」のため、どうしても意識してしまうのである。それは「あいだ」というものを、明確に捉えているわけではないので、漠然とした曖昧なものだが、しかし、むしろそれが故に、何か「得たいの知れない」、恐ろしいものとして、感じ取ってしまうのである。この「あいだ」には、先に述べたような、「精霊」や「捕食者」、あるいは「虚無」や「闇」のような「実体的要素」も含まれる。それらもまた、「あいだ」に潜む、「もの」的なものとして、あるいは、「もののけ」的な、漠然としてはいるが、確かな「力」をもったものとして、恐れられるのである。

分裂病質者または分裂病者は、このような「あいだ」の、「もの」的に「対象化」できない、「こと」的な要素を恐れるのだとも言える。言語的に捉えようとしても、捉え切れずに残る、「何ものか」が、恐れをもよおすのである。

だから、木村も言うように、分裂病質者または分裂病者は、ときに理屈に拘り、その「あいだ」的な「空間」を、通常は理解できない「理屈」で埋めようとする。が、むしろ、そうすればするほど、それでは埋まらない「あいだ」を意識してしまうのである。からっぼの箱に「もの」を詰め込めば詰め込むほど、むしろ「隙間」が多くできるのを気にするようにである。

このように、「あいだ」は、意識すればするほど、それとの間に隙間(距離)ができ、それを切り離すことになり、「アクチュアル」に「生きる」ということからは、遠ざかることになる。このように、「意識する」ということ、そしてそれに「拘る」ということが、「あいだ」との自然な関係を障害する、一つの大きな理由なのである。

これは、禅などで、たとえ話として出される話のようだが、ムカデは、多くの足を別に絡ませることもなく、自在に動かして、動くことができる。しかし、あるとき、ムカデは、「その多くの足を一体どうやって動かしているの?」と聞かれて、自分でも、意識するようになってしまった。そうすると、足をどう動かしていいか分からなくなり、動けなくなってしまった。

あるいは、足そのものよりも、「あいだ」が問題なので、質問を次のように変えたらいいだろう。「ムカデさん、一体その多くの足と足の間には何があるの?」あるいは、「その多くの足を動かしているとき、その間は一体どうなっているの?」そうすると、ムカデは、足と足の「あいだ」を意識して、動けなくなってしまった。
                                             
分裂病質者または分裂病者は、それと同じような状況にあるということができる。

このようにして、分裂病質者または分裂病者は、一旦、「人と人のあいだ」または、自己の根底の「普遍的生命」との自然な関係から、切り離されてしまうのだと言える。それは、まさに、「分裂」という言葉がふさわしいものである。それは、「非生命的」な、「死」との接近であり、「集合的な意識」からの離脱でもある。それは、文字通り「孤独なさまよい」をもたらし、どこに漂流するか分からないものともなる。

しかし、シュタイナーも、思考・感情・意志の「分裂」は、「宇宙秩序」による自然の「統合」を脱して、より高次の「統合」をもたらすために起こるとしていた。つまり、そのような「宇宙秩序」のもたらす自然の「統合」は、高次の「自己」による、より「主体的」な「統合」のためには、一旦は切れる必要があるのである。このような過程は、レインで言えば、「自我として死んで、新たな自己として生まれ変わる」ことに通じる。

記事『「意識」と「無意識」のギャップ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-d2a3.html) 、『「夢見」の中の「無意識」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f71a.html )でも述べたように、それは、より「意識化」を深める方向にいくことである。「無意識」のまま機能している状態から、「意識する」ということが始まると、それは、それまでの自然な「統合」は失わしめる。「意識」が、そのようなものの、自然な成り立ちを障害するからである。しかし、その「意識化」をより深めることで、「あいだ」も、漠然とした、得たいの知れないものではなく、いわば「知れた」ものとなり、もはや、恐れさせるものではなくなる。

但し、この「知れる」とは、これまでみてきたように、対象的な「もの」についての知的理解というよりも、まさに、「アクチュアル」で、感覚的な捉え方を研ぎ澄ますことである。通常は、無意識的、潜在的にこそ働いていた、このような捉え方を、意識にもたらしつつ、より深めることといえる。それには、知覚または認識方法の、新たな拡大という面が、確かにある。

それは、事実上、「無意識と意識のギャップ」を超えることで、容易なことではないし、必ずしも、全面的になされ得るものでもない。しかし、それがある程度なされて、漠然たるものではなく、「知れた」ものとなれば、もはや、「あいだ」ということには、拘ったり、囚われる必要もなくなる。つまり、「あいだ」との関係を途切れさせる理由はなくなり、結果として、もともと、「無意識」にそれを「生き」ていたあり方に、近づくのである。先の、ムカデの足のたとえで言えば、ただ、もともとそうであったように、「自ずから」動くのに、任せるだけである。

このムカデの足のたとえは、普段無意識にしている自然の行いを、一旦意識させ、止めさせるための「方便」といえる。禅の「公案」なども、このように言語的には解けない問題を与えて、それまでの自然な流れを止めさせ、窮地に追い込んでいくことで、言語的にではなく、「アクチュアル」に、そこにある「本性」を、「観る」ように促すものである。そして、それを「通過」した者は、新たな自覚のもとに、「本性」(「普遍的生命」といってもいい)そのものを「生きる」のである。

だから、分裂病質者または分裂病者が、「普遍的生命」から切り離されることは、必ずしも、「否定的」なものとばかりはいえない。それは、事実上難しいとしても、新たに、意識的な自覚のもとに、「普遍的生命」とつながるための契機ともなるのである。シュタイナー風に言えば、それは、より「高次」の「統合」であり、より「主体的」な「統合」をもたらす契機である。木村には、残念ながら、そのような視点はないようである。

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