「あいだ」の病/『心の病理を考える』
木村敏著『心の病理を考える』(岩波新書)は、レインと重なる部分もあるが、レインとはまた違った意味で、独自に「分裂病的状況」の本質に迫るものがある。この書は、これまでの書の「まとめ」のようなところがあり、説明も言葉としても、より簡明な表現がされている。
木村敏は、難解に思われているようだが、言っていることは、意外と単純で明快である。ただ、日常「誰もが当たり前に行っている」が、「分裂病的状況」では「できなくなる」ことを、あえて言語化して説明することの難しさがあり、それが難解さをもたらしているようである。
分裂病者の最大の特徴は、(誰もが何となく感じるはずの)、独特の「不自然さ」であり、この「不自然さ」の謎こそが、分裂病の謎のすべてであるという。
これは、人間や、その他何かの「対象化」された「もの」に注目しても、見えてこないのであって、木村は、「あいだ」ということに注目して、それを明らかにしようとする。「分裂病」とは、そのような「あいだの病」であり、この「あいだ」との関係がうまく機能していないために、「自己が自己として成り立たない」状態ということなのである。
この「あいだ」ということが、全体を捉える、一つの重要なタームになっている。これが、まさに、言語的、論理的といった、「対象化」された「もの」を捉える視点ではなく、漠然とでも、全体として「感覚的」に捉えることができれば、言いたいことは、かなりみえてくるはずである。まさに、木村のいう「アクチュアル」な捉え方である。
今回は、この「あいだ」ということを、必ずしも木村の説明の解説ということではなく、私なりに分かりやすく説明することで、「あいだの病」としての「分裂病」ということを、浮き彫りにさせてみたい。
木村は、この「あいだ」を説明するのに、次のような興味深い例を述べている。音楽の合奏で楽器を演奏するとき、自分で楽器を演奏していても、全体の合奏の音楽が、それ自体として巨大な意志をもったもののように作用し始め、自分の演奏をのっとったかのように、支配し始める。自分で演奏していながら、演奏させられるという、一種の「二重主体」による感覚を味わうのである。
私も、ギターをやるので、この感覚は分かる。たとえば、カラオケなどに合わせる一人の演奏でも、この感覚はあり、カラオケの音楽と「一つ」になり、自分が演奏しつつ、演奏させられるという感覚を味わうことがある。
また、他人との一般的な会話にもこのようなことがいえる。自分が「話す」というよりは、他人と共有する会話の場全体の状況そのものが意志をもったもののように作用し、それによって、いわば「話させられる」ということが起こるのである。
このように、他者との「あいだ」が、一つの意志をもったもののように作用して、さまさまな人間の行いが成り立っている。これらの「あいだ」は、「場」とか「空気」などともいわれ、あるいは「気」などともいわれる。実際上も、日本人は、これらのことを非常に重視しているので、ちょっと顧みれば、割と理解しやすいのではないかと思う。
しかし、分裂病質者は、そのような「場」や「空気」に、うまく入り込めず、あるいは、あえて入ろうとしないために、「場」や「空気」を共有する者からは、ズレた行動をしたり、違和感をもたれて、「つまはじき」にされたりする。あるいは、分裂病質者本人は、なぜか、そのようことがうまくできずに悩んだりする。
「あいだ」とは、「人そのもの」ではなく、その「人と人のあいだ」ということで、実は、この「あいだ」こそが、人に先立ってあり、その都度人を、「成り立たせ」ているということなのである。「生きた現実」(アクチュアリティ)の状況では、いわば、「あいだ」によってこそ、人はその都度「紡ぎ出され」てくるわけである。ところが、分裂病質者または分裂病者では、そのメカニズムが、うまく成り立っていかないのである。
一般には、「人」というのがあって、その相互の関係としての「人間関係」によって、「病」が生じるとみられがちである。しかし、そうではなく、それ以前の「あいだ」との関わりが、周りの人と異なって、うまく成り立っていないので、それが、人との関係にも反映されて問題が生じるということなのである。「間が悪い」とか、「タイミングがつかめない」などの表現は、そのようなことを表している。
この「あいだ」を図に表すと次のようになる。
図で表すと、「あいだ」とは、「空間」(または「時間」)そのもののようなイメージになるが、それは、実体的な「もの」としての「空間」ではなく、あくまで、「こと」としての「空間」(または「時間」)である。木村は、「アクチュアル」に、または「共通感覚的」に捉えられるものという。要するに、対象的な「もの」として客観域に「観察」できるものではなく、行為することにおいて、参与的に関わることで、全体として、感覚的に、感じとるしかないものである。ただし、その感覚は、ある一つの「感覚」というのではなく、全体としての、「直感」に近い、「共通感覚」ということである。
この「あいだ」は、「重層的」なものであることが述べられている。
「人と人のあいだ」というのは、水平的な方向の「あいだ」といえる。それに対して、「自己自身とのあいだ」というものも想定でき、それは、垂直的な方向での「あいだ」である。木村は、「自己」の根底には、個々の「個別的な生命」ではなく、「普遍的な生命」(「ゾーエー」ともいわれる)というものの働きがあり、それとの関わりによって、自己が個別的な自己として、紡ぎ出されているとする。それを、「個別化の原理」ともいう。そのような、自己の根底との「あいだ」が、垂直的な方向の「あいだ」である。
これは、私がいう意味の、「水平的方向」や「垂直的方向」とは異なるが、重なる面もある。
分裂病質者または分裂病者では、先にみたように、水平的な「人と人のあいだ」に障害があり、うまく機能していないように、垂直的な「自己自身とのあいだ」でも、「個別化の原理」が障害されて、うまく機能していない。つまり、「自己」が生命的な根底とつながりつつつ、個別的な「自己」として、うまく成り立っていかない。「現実との生命的接触が絶たれる」とか、「自然な自明性が失われる」などと表現される事態が、これを表している。
これらは、レインのいう、「世界との間に引き裂か」れ(水平的方向)、「自分自身との間に引き裂かれる」(垂直的方向)というのとも、重なってくる。
図では、「自己」のみに垂直的な「あいだ」を入れたが、この根底は、「普遍的な生命」なので、「人」それぞれも、この「あいだ」でつながるものである。だから、垂直的な方向での「あいだ」との関係は、水平的な「人と人のあいだ」にも影響し、反映される。「普遍的な生命」とうまくつながっていない「自己」は、「人と人のあいだ」にも、障害をもたらすのである。
「あいだ」は、このように、「重層的」な構造になっているということである。
(なお、私は、図の「あいだ」に、水平的方向には、「精霊」や「捕食者」などの存在。垂直的な方向には、「虚無」や「闇」などの根源的なものを含ませておいた。木村はもちろん、このようなものを認めているわけではないが、私は、「あいだ」にも、このような「もの」的要素のあるものを含ませて、始めて本当によく理解できると考えているわけで、その点は次回に述べる。)
このような全体を捉えて、一言で言うと、「分裂病」というのは、「あいだの病」ということが、言えるわけである。何かは、明確には言いにくく、捉えにくいが、他の者とは明らかに違うということを、分裂病者本人も感じている。それを「あいだ」との関わりということで、捉え直してみると、こうして、割合単純で、明快になり、しかも、非常に、説得的なものになるわけである。
ここで、「自己」の根底としての、「普遍的生命」というのが、理解しにくい、または受け入れにくいという場合は、これをユングのいう「普遍的無意識」として受け取っても、そうは違わないと思う。
あるいは、シュタイナーは、「霊界参入」のある段階で、思考・感情・意志が分裂し、それまで「自然な統合」として働いていた「宇宙秩序」が、その者から離れていくということを言っていた。「普遍的生命」は、この「宇宙秩序」として捉えてもいいと思う。
要するに、分裂病質者または分裂病者は、通常の者が、自然に(無意識的に)そこに根拠づけられて、日々生きており、行為をしているところの、この「普遍的生命」または「普遍的無意識」、「宇宙秩序」から、「切り離される」のだと言っていい。だから、それは、「非生命」的で、「死」に接近するかのような様相を帯びる。また、それは、多くの者から「切り離される」ことであり、だから、文字通り、「孤独」な「さまよい」になる。実際に、他の者からは、切り離されているという感覚が、強烈に起こる。それがまた、他の者の集合である全体が、自己を迫害するという感覚にもつながってくる。
通常の者にとっては、「自己」の無意識的な根拠であるものが、切り離されて、「外部的」、「他者的」なものとして意識され、それが「自己」を脅かすのだともいえる。
木村も、「普遍的な生命」を捉えて、「絶対他者」という言い方もしている。それは、通常の者の場合、「自己」の根底的な根拠でありながら、「絶対他者」的なもので、意識にのぼることはなく、意識からは「排除」されている。しかし、逆に、だからこそ、その「他者」の「他者性」を意識しないで済んでいるのである。
木村も、前に述べたように、レインと同じく、全体として、「自己の脆弱性」ということ、「あいだ」に障害があるため、「自己が自己として成り立ちにくい」ということを、分裂病の本質とみている。だから、「圧倒的な他者」による侵害という視点は、特に表には出て来ない。が、この「絶対他者」という捉え方には、その範囲でだか、そのような見方に転じるものは含まれているということがいえる。
また、レインとの対比で言うと、レインは「分裂病質者」の「存在論的不安定」というものが根底にあり、それは、家族や社会的な関係によって「作られる」という面が強いとしていた。木村は、そのような「不安定」は、むしろ、社会的関係というよりも、生命そのものとの関係から、みられるとしているわけである。さらにレインでは、一般の場合との対比は明確でなかったが、木村は「あいだ」の障害として捉えることで、一般の場合との違いもかなり浮き彫りにすることができいているといえる。
それは、確かに、視点としては、より深い視点ということができ、それを、この書では、見事に分かりやすい言葉で説明しているのである。
ただ、全体としてみると、視点は本質的とはいえ、かなり絞られているため、抽象的であることは否めず、多くの必要な視点が抜け落ちているという面も多い。また、「あいだの病」ということは明らかにしつつ、なぜそのような「あいだ」に障害が起こるのかということは、明らかにされていないし、それがどのように解消され得るのかということも、ほとんど触れられていない。
そのような点も含めて、次回は、もう少し、私自身の捉え方とも照らし合わせて、考察してみたい。
※4月29日
「あいだ」の障害または「あいだ」にうまく入っていけないということを、レインの『ひき裂かれた自己』の視点からみてみると、次のようになるだろう。
「あいだ」にうまく入っていくには、少なくとも一旦は、「自己を明け渡す」ということがあって、初めて入っていける。ところが、分裂病質の者は、「世界」に対して、「自己」がのみこまれるような脅威をもって、「身構え」ているため、この「自己を明け渡す」ということができない。あるいは、内面にかろうじて保持された「真の自己」が、自己の最後のよりどころのようなものとして拘られているので、それを「投げ出す」などということができない。
通常の場合は、「あいだ」への「自己の明け渡し」は、無意識的、経験的に、自然な構えとして身についたものである。それは、一旦は、「自己の明け渡し」を意味するとしても、実は、それこそがその都度の「自己」を「紡ぎ出」し、結果的に、「自己」を安定させ、アイデンティティの感覚にもつながっていることを、身をもって知っているのである。
ただ、私は、また違った視点から、次回に、この「あいだ」の障害をもたらす理由をとりあげてみたい。
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