「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』
R.D.レインの『ひき裂かれた自己』(みすず書房)を久しぶりに読み直してみた。
今回は、全体として、「分裂病的状況」(「統合失調的状況」)の説明としては、不十分であることや、違っていると思われるところの方に、多く目がいってしまった。が、しかし、これは、前回述べたように、「分裂病質者」の「自己の脆弱性」、「自己の築きにくさ」というもの、そして、それがゆえの「自己の崩壊」に至る過程を、徹底的に明らかにしたものとして、他にないほど詳細で、鋭い洞察であることに変わりはない。
不十分な点は、レイン自身も後に、大きく見方を修正または補充していったのだが、今回は、この書物だけをとりあげて考察してみたい。
レイン自身、この書では、「分裂病質者」の「分裂病」に至る過程を明らかにするために、「否定的」な面に絞って述べることを断っている。まさに、この書では、「分裂病質者」が、ほとんど必然的に、「分裂病」に至らざるを得ないかのような、絶望的ともいえるほどの、「自己の成り立ちにくさ」を浮き彫りにしている。
レインのいう「分裂病質者」だが、これは、実際に、分裂病を発病するに至った者の、病前の性格という意味で、私がこれまで述べて来た「分裂気質」よりも狭い意味である。「分裂気質」というのは、もっと広く、多くの者にみられる「分裂病的傾向」という意味だからである。さらには、レインは、「分裂病」でも、「破瓜型」とか「緊張型」といわれるような、典型的に「分裂病」らしいものを想定して、「分裂病質者」を捉えている。
要するに、ここで述べられているのは、かなり極端な例ということは、押さえておく必要がある。まさに、見るからに、無口でおとなしく、人との関わりを避け、孤立しているタイプの、典型的な「分裂病質者」ということができる。
レインは、「分裂病質者」には、根底に「存在論的不安定」というものがあり、「自己」というもののの、本質的な「成り立ちにくさ」を抱えているとする。そのため、「自己」という「アイデンティティ」なり、「主体性」なりをもって、「世界」と関わることができない。「世界」は、そのような不安定な、「自己ならざる自己」を、常に圧迫し、脅かすものでしかない。「世界」とは、その者を「のみ込む」ものであり、「内破」するものであり、「石化」させるものである。「分裂病質者」は、いつも、「世界」そのものに対して、「自己」をなんとか保持することにのみ、汲々としている。それこそが、「世界」に対する基本的な「構え」なのである。
通常の場合、「世界」との関係で何らかの問題を生じるとしても、それは、「自己」が築いた、何らかの「アイデンティティ」なり「主体性」との関係で、起こることである。そのような、「アイデンティティ」なり「主体性」が危機を迎えるということは、誰にでもある。ところが、「分裂病質者」の場合は、それ以前の前提である、「世界」に取り巻かれてあるということそのものが、既に「自己」を保持し難い「問題」なのである。
「分裂病質者」の問題は、常に、この根底の「存在論的不安定」を巡って引き起こされる。
「分裂病質者」は、そのように「世界」との関係で「ひき裂かれ」ているのだが、さらに、「自分」自身との関係でも、「ひき裂かれ」る。
「分裂病質者」は、「世界」に対して、何とか「自己」を保持すべく、一つの戦略を立てる。「自己」自身を、「世界」に対するところの、表面上の「にせ自己」と、内部に密かに保持される、「真の自己」に分けるのである。この「にせ自己」は、まとまりをもった単一のものではなく、分断された断片の集まりなので、全体を「にせ自己体系」ともいわれる。それは、「世界」または「他者」に対して、主体性や独立した意志を持たない、隷属した「自己」である。「分裂病質者」の「自己」は、「世界」に対して、そうすることでしか、「崩壊」を防ぐことができないのである。
一方、「真の自己」とは、そのような、「世界」に対して隷属的な、「にせ自己体系」とは別の、「真の自己」として、いわば内部に密かに隠し持たれた「自己」である。「真の自己」とはいっても、それは、客観的な「真の自己」ではなく、あくまで、自分にとって、真実であると仮定される「自己」である。「分裂病質者」は、そのような「真の自己」を内部に隠し持つことによって、かろうじて、「世界」からの圧迫状態の窮状や、「にせ自己体系」の隷属状態を、補っているのである。
もちろん、一般にも、「表面的な自己」(「ペルソナ」または建前)と、「真の自己」(本音)との分断というものはある。しかし、それは、あくまで、何らかの「アイデンティテイ」をもった「自己」の、状況による対応としてある。 しかし、「分裂病質者」は、「世界」そのものと対峙するのに、そうならざるを得ないということであり、また、それこそが、唯一のあり方なのである。
そうして、この「にせ自己体系」と「真の自己」との分裂が進むと、「にせ自己体系」は、ますます虚偽のものとして、「他者」性を帯び、「真の自己」にとっても、憎悪の対象となる。一方、「真の自己」は、自己の真実の部分として、ますます「よりどころ」のようになるが、それは、現実の居場所をもたない、「架空」の「空虚」なものとなり、いわば「気化」し、荒廃していく。
このようにして、「にせ自己体系」は、「世界」に対するところの、「身体化された自己」であるが、「真の自己」は、「身体化されない自己」となる。「真の自己」が、内部に閉じ込められた、架空の、空想的なものになればなるほど、現実の身体には居場所がなくなるのである。あるいは、むしろ、そうすることでこそ、「世界」や「他者」からの、「隷属状態」を免れるのである。
また、そのような「真の自己」は、必然的に「自意識過剰」になる。それは、実質を持たないので、いわば、意識することのみにおいて、何とか「主体」を保つような代物なのである。「世界」や「身体」または「にせ自己」を、過剰に「意識」することで、何とかそれに巻き込まれないでいるのである。
しかし、このような、荒廃し、空虚に追いやられた「真の自己」は、追いつめられると、いずれは、「爆発」せざるを得ない。それこそが、いわゆる「発狂」だという。どこにも居場所のない「真の自己」が、自己を絶望的に主張しようとすることだが、それは、「自己」の全体を撹乱し、さらに事態を悪化させる。それこそが、「分裂病」への発展である。
それは、「にせ自己体系」-「真の自己」として分断された「自己」のあり方を、全体として破綻させ、結局は「崩壊」させる。
ここでは、本当に簡単に要約して述べたが、このような過程を、よく内面にまで踏み込んで、まさに「微に入り細を穿つ」ように詳細に明らかにしているのである。そして、それは、極端な面もあるが、多くの「分裂病的状況」に陥った者にも、かなりの程度当てはまるはずの、説得的なものである。
それは、私自身の場合にも、かなり当てはまるものがある。幼児の頃から、「おとなしく」て、「手のかからない子供」だったようだが、一つの決定的な出来事が、記事『監獄としての幼稚園』でも述べたように、「世界」または「世間」に対して、適応を拒否するように、「閉じた」ことである。後に、「自我」らしいものは当然芽生えるが、それは、あくまで、「閉じる」という基本的な態度の上に築かれたもので、「にせ自己」の基礎になったといえる。一方、内に抱えられた「真の自己」の方も、ことあるごとに表面には浮上し、「世界」に対する反抗的態度も強かった。が、それは、徹底できたわけではなく、成長につれて、引っこんでいき、大局として、「にせ自己」の方に重点がかかっていったようである。
一連の「分裂病的状況」に陥る体験では、確かに、久しぶりに、「真の自己」が頭をもたげて、「爆発」したという面がある。レインのいうように、極端な分断ではないが、そのような分断は確かにあり、また、「アイデンティティ」や「主体性」に欠ける面があったことも確かである。
「身体化されない自己」についても、一連の体験では、身体から離脱した「自己」の一部が、「身体」と「身体化された自己」を見ているという状況が、多くあったことを既に述べた。また、シュタイナーは、精神病の原因として、エーテル体、アストラル体、自我という霊的要素が、(主に前世に基づく理由で)うまく「受肉」できずに、身体を操作することができないということをあげている。が、これも「身体化されない自己」と通じる、興味深い視点である。
レインのこのような詳細な記述は、ちちろん、鋭い観察と洞察によって可能になったことだが、恐らく、レイン自身「分裂気質」であったと思われ、「分裂病質者」に対する深い共感に基づくものがあったはずである。
ただし、「分裂病質者」が「発病」する過程までの、詳細で、具体的な記述に比べると、発病後の過程の説明は、ただその延長上に、「自己が崩壊する」ということを、とってつけたように、抽象的に述べただけになっている。「幻覚」や「妄想」についても、自己から切り離され、「他者化」された「にせ自己体系」が、「真の自己」に対して現れるということで、抽象的にしか説明されていない。(要するに、「解離」の延長上の現象ということになる)
実際には、この「発病」してからの、「分裂病的状況」に陥ることこそが、様々な「他者」とも遭遇する、それまでの過程からは大きく飛躍のある、一種の「一大ドラマ」なのだが、そのような視点はここにはみられない。それは、やはりレインが、この時点では、(「圧倒的な他者」という視点はなく)「自己の脆弱性」という視点からのみ、「分裂病」をみていたことによるだろう。
要するに、「存在論的不安定」を抱えたまま、「自己」が成り立っていないので、「発病」の契機さえあれば、あとは「崩壊」するしかない、ということなのである。
このように、「自己の脆弱性」という視点でのみみられているから、その「崩壊」を説明するのにも、それを、極端に誇張する必要があったということも言えるだろう。
この点では、たとえば、ユングの方が、「圧倒的な他者」(但し、「普遍的無意識」の産物)という視点があり、「自我」が崩壊するかどうかは、それとの相関関係によるという視点をもっていた。つまり、「自我」が弱ければ、「圧倒的な他者」の威力が弱くても、崩壊することがあるし、「自我」が強くても、「圧倒的な他者」が強力であれば、崩壊することがあるということである。
何しろ、レインにとっては、このような「分裂病質者」の「存在論的不安定」こそが、「自己の崩壊」をもたらす、「原因」となるわけである。それでは、この「存在論的不安定」は、何故に生じるかということが気になるところである。しかし、それについては、ここでは、ほとんど述べられていない。一応、幼少期に、家族によって、そのような状態に追いやられる(「自己のない」、「従順」なことが奨励され、または押しつけられるなどのことにより)ということが示唆されるが、それ以上の記述はない。また、他の者の場合は、なぜそれが生じないかということも、ほとんど述べられていない。
これでは、「分裂病質者」ということが、他との比較や、理由が指し示されないままに、ただ、それ自体として、病的で、「否定的」なものであるかのように扱われているごときである。レイン自身、特に、「否定的な面」を浮かび上がらせたと断っているにしてもである。
この点も、後にレインは修正し、「分裂病的状態」では、「自我」が崩壊に導かれるにしても、新たな「自己」が生まれる契機となることも、はっきり打ち出されている。だから、「分裂病質者」の「自己の脆弱性」が、必ずしも「否定的」なものではないし、通常の「適応的」な「自己」が、必ずしも「肯定的」なものではないのである。
この点は、むしろ、前回述べたように、「自己」とは「他者」との関係で生まれるものであることに着目すべきである。「分裂病質者」は、いい意味でも、悪い意味でも、「自己」の根拠となるような、「他者」の影響を受けていない、ということである。「自己」が「強固」に築かれるのは、「他者」に対する恐怖をモチベーションにする場合もある。それは、「権威」に対する「盲従」をもたらし、みかけ上「適応」していても、必ずしもよいものではない。「分裂病質者」は、もともと「自己」は不安定かもしれないが、「安っぽい」自己を作らない分、「分裂病的状況」での、「他者」との出会いを通して、新たな「自己」を生み出す契機には、恵まれているとも言えるわけである。
あるいは、「分裂病質者」には、「自己」を越えたもの、特に、「闇」や「虚無」に対する感受性または親近感があるからこそ、世間的な意味での、「自己」が築きにくいのだという面もある。「分裂病的状況」での、それらとの出会い方によっては、それが、新たな「自己」を生み出す機会ともなり得るのである。
それはともかく、少なくとも、この書だけから判断する限り、「分裂病質者」は、「自己の成り立ちにくい」非常に「脆弱」な者で、「崩壊」を運命づけられた「救い難き」者というイメージになっても仕方ない。あるいは、身近に接する親などでも、「分裂病質者」のそのような内面の「脆弱性」には、全く気づかないなどということが、いくらもあるから、レインは、そのような者に対する、「共感」を促している面もあるだろう。弱者としての、あるいは被害者としての「分裂病質者」を強調したかったのかもしれない。が、しかし、それは、同情を生むとしても、「分裂病質者」を固定的なイメージに押し込め、必ずしも、プラスに働くものではない。
そういう点から、この書物は、後の「反精神医学者」としてのレインのイメージに反して、「分裂病」(統合失調症)という「病気」は、確たるものとして存在するという見方をする者にとっても、「受け入れ」やすいものになっているといえる。実際にも、精神医学内部にとっても、レインはともかく、この書物自体は、評判が悪いものではないようである。
それは、少なくとも、「病気」としての「否定性」は、十分過ぎるほど、手に取るように、「明らか」にされているからであろう。
しかし、次回は、レインの『経験の政治学』をとり上げて、レインの見方がどのように修正されたかを、明らかにしたい。
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