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2013年4月

2013年4月26日 (金)

「あいだ」の病/『心の病理を考える』

木村敏著『心の病理を考える』(岩波新書)は、レインと重なる部分もあるが、レインとはまた違った意味で、独自に「分裂病的状況」の本質に迫るものがある。この書は、これまでの書の「まとめ」のようなところがあり、説明も言葉としても、より簡明な表現がされている。

木村敏は、難解に思われているようだが、言っていることは、意外と単純で明快である。ただ、日常「誰もが当たり前に行っている」が、「分裂病的状況」では「できなくなる」ことを、あえて言語化して説明することの難しさがあり、それが難解さをもたらしているようである。

分裂病者の最大の特徴は、(誰もが何となく感じるはずの)、独特の「不自然さ」であり、この「不自然さ」の謎こそが、分裂病の謎のすべてであるという。

これは、人間や、その他何かの「対象化」された「もの」に注目しても、見えてこないのであって、木村は、「あいだ」ということに注目して、それを明らかにしようとする。「分裂病」とは、そのような「あいだの病」であり、この「あいだ」との関係がうまく機能していないために、「自己が自己として成り立たない」状態ということなのである。

この「あいだ」ということが、全体を捉える、一つの重要なタームになっている。これが、まさに、言語的、論理的といった、「対象化」された「もの」を捉える視点ではなく、漠然とでも、全体として「感覚的」に捉えることができれば、言いたいことは、かなりみえてくるはずである。まさに、木村のいう「アクチュアル」な捉え方である。

今回は、この「あいだ」ということを、必ずしも木村の説明の解説ということではなく、私なりに分かりやすく説明することで、「あいだの病」としての「分裂病」ということを、浮き彫りにさせてみたい。

木村は、この「あいだ」を説明するのに、次のような興味深い例を述べている。音楽の合奏で楽器を演奏するとき、自分で楽器を演奏していても、全体の合奏の音楽が、それ自体として巨大な意志をもったもののように作用し始め、自分の演奏をのっとったかのように、支配し始める。自分で演奏していながら、演奏させられるという、一種の「二重主体」による感覚を味わうのである。

私も、ギターをやるので、この感覚は分かる。たとえば、カラオケなどに合わせる一人の演奏でも、この感覚はあり、カラオケの音楽と「一つ」になり、自分が演奏しつつ、演奏させられるという感覚を味わうことがある。

また、他人との一般的な会話にもこのようなことがいえる。自分が「話す」というよりは、他人と共有する会話の場全体の状況そのものが意志をもったもののように作用し、それによって、いわば「話させられる」ということが起こるのである。

このように、他者との「あいだ」が、一つの意志をもったもののように作用して、さまさまな人間の行いが成り立っている。これらの「あいだ」は、「場」とか「空気」などともいわれ、あるいは「気」などともいわれる。実際上も、日本人は、これらのことを非常に重視しているので、ちょっと顧みれば、割と理解しやすいのではないかと思う。

しかし、分裂病質者は、そのような「場」や「空気」に、うまく入り込めず、あるいは、あえて入ろうとしないために、「場」や「空気」を共有する者からは、ズレた行動をしたり、違和感をもたれて、「つまはじき」にされたりする。あるいは、分裂病質者本人は、なぜか、そのようことがうまくできずに悩んだりする。

「あいだ」とは、「人そのもの」ではなく、その「人と人のあいだ」ということで、実は、この「あいだ」こそが、人に先立ってあり、その都度人を、「成り立たせ」ているということなのである。「生きた現実」(アクチュアリティ)の状況では、いわば、「あいだ」によってこそ、人はその都度「紡ぎ出され」てくるわけである。ところが、分裂病質者または分裂病者では、そのメカニズムが、うまく成り立っていかないのである。

一般には、「人」というのがあって、その相互の関係としての「人間関係」によって、「病」が生じるとみられがちである。しかし、そうではなく、それ以前の「あいだ」との関わりが、周りの人と異なって、うまく成り立っていないので、それが、人との関係にも反映されて問題が生じるということなのである。「間が悪い」とか、「タイミングがつかめない」などの表現は、そのようなことを表している。

この「あいだ」を図に表すと次のようになる。

Photo 図で表すと、「あいだ」とは、「空間」(または「時間」)そのもののようなイメージになるが、それは、実体的な「もの」としての「空間」ではなく、あくまで、「こと」としての「空間」(または「時間」)である。木村は、「アクチュアル」に、または「共通感覚的」に捉えられるものという。要するに、対象的な「もの」として客観域に「観察」できるものではなく、行為することにおいて、参与的に関わることで、全体として、感覚的に、感じとるしかないものである。ただし、その感覚は、ある一つの「感覚」というのではなく、全体としての、「直感」に近い、「共通感覚」ということである。

この「あいだ」は、「重層的」なものであることが述べられている。

「人と人のあいだ」というのは、水平的な方向の「あいだ」といえる。それに対して、「自己自身とのあいだ」というものも想定でき、それは、垂直的な方向での「あいだ」である。木村は、「自己」の根底には、個々の「個別的な生命」ではなく、「普遍的な生命」(「ゾーエー」ともいわれる)というものの働きがあり、それとの関わりによって、自己が個別的な自己として、紡ぎ出されているとする。それを、「個別化の原理」ともいう。そのような、自己の根底との「あいだ」が、垂直的な方向の「あいだ」である。

これは、私がいう意味の、「水平的方向」や「垂直的方向」とは異なるが、重なる面もある。

分裂病質者または分裂病者では、先にみたように、水平的な「人と人のあいだ」に障害があり、うまく機能していないように、垂直的な「自己自身とのあいだ」でも、「個別化の原理」が障害されて、うまく機能していない。つまり、「自己」が生命的な根底とつながりつつつ、個別的な「自己」として、うまく成り立っていかない。「現実との生命的接触が絶たれる」とか、「自然な自明性が失われる」などと表現される事態が、これを表している。

これらは、レインのいう、「世界との間に引き裂か」れ(水平的方向)、「自分自身との間に引き裂かれる」(垂直的方向)というのとも、重なってくる。

図では、「自己」のみに垂直的な「あいだ」を入れたが、この根底は、「普遍的な生命」なので、「人」それぞれも、この「あいだ」でつながるものである。だから、垂直的な方向での「あいだ」との関係は、水平的な「人と人のあいだ」にも影響し、反映される。「普遍的な生命」とうまくつながっていない「自己」は、「人と人のあいだ」にも、障害をもたらすのである。

「あいだ」は、このように、「重層的」な構造になっているということである。

(なお、私は、図の「あいだ」に、水平的方向には、「精霊」や「捕食者」などの存在。垂直的な方向には、「虚無」や「闇」などの根源的なものを含ませておいた。木村はもちろん、このようなものを認めているわけではないが、私は、「あいだ」にも、このような「もの」的要素のあるものを含ませて、始めて本当によく理解できると考えているわけで、その点は次回に述べる。)

このような全体を捉えて、一言で言うと、「分裂病」というのは、「あいだの病」ということが、言えるわけである。何かは、明確には言いにくく、捉えにくいが、他の者とは明らかに違うということを、分裂病者本人も感じている。それを「あいだ」との関わりということで、捉え直してみると、こうして、割合単純で、明快になり、しかも、非常に、説得的なものになるわけである。

ここで、「自己」の根底としての、「普遍的生命」というのが、理解しにくい、または受け入れにくいという場合は、これをユングのいう「普遍的無意識」として受け取っても、そうは違わないと思う。

あるいは、シュタイナーは、「霊界参入」のある段階で、思考・感情・意志が分裂し、それまで「自然な統合」として働いていた「宇宙秩序」が、その者から離れていくということを言っていた。「普遍的生命」は、この「宇宙秩序」として捉えてもいいと思う。

要するに、分裂病質者または分裂病者は、通常の者が、自然に(無意識的に)そこに根拠づけられて、日々生きており、行為をしているところの、この「普遍的生命」または「普遍的無意識」、「宇宙秩序」から、「切り離される」のだと言っていい。だから、それは、「非生命」的で、「死」に接近するかのような様相を帯びる。また、それは、多くの者から「切り離される」ことであり、だから、文字通り、「孤独」な「さまよい」になる。実際に、他の者からは、切り離されているという感覚が、強烈に起こる。それがまた、他の者の集合である全体が、自己を迫害するという感覚にもつながってくる。

通常の者にとっては、「自己」の無意識的な根拠であるものが、切り離されて、「外部的」、「他者的」なものとして意識され、それが「自己」を脅かすのだともいえる。

木村も、「普遍的な生命」を捉えて、「絶対他者」という言い方もしている。それは、通常の者の場合、「自己」の根底的な根拠でありながら、「絶対他者」的なもので、意識にのぼることはなく、意識からは「排除」されている。しかし、逆に、だからこそ、その「他者」の「他者性」を意識しないで済んでいるのである。

木村も、前に述べたように、レインと同じく、全体として、「自己の脆弱性」ということ、「あいだ」に障害があるため、「自己が自己として成り立ちにくい」ということを、分裂病の本質とみている。だから、「圧倒的な他者」による侵害という視点は、特に表には出て来ない。が、この「絶対他者」という捉え方には、その範囲でだか、そのような見方に転じるものは含まれているということがいえる。

また、レインとの対比で言うと、レインは「分裂病質者」の「存在論的不安定」というものが根底にあり、それは、家族や社会的な関係によって「作られる」という面が強いとしていた。木村は、そのような「不安定」は、むしろ、社会的関係というよりも、生命そのものとの関係から、みられるとしているわけである。さらにレインでは、一般の場合との対比は明確でなかったが、木村は「あいだ」の障害として捉えることで、一般の場合との違いもかなり浮き彫りにすることができいているといえる。

それは、確かに、視点としては、より深い視点ということができ、それを、この書では、見事に分かりやすい言葉で説明しているのである。

ただ、全体としてみると、視点は本質的とはいえ、かなり絞られているため、抽象的であることは否めず、多くの必要な視点が抜け落ちているという面も多い。また、「あいだの病」ということは明らかにしつつ、なぜそのような「あいだ」に障害が起こるのかということは、明らかにされていないし、それがどのように解消され得るのかということも、ほとんど触れられていない。

そのような点も含めて、次回は、もう少し、私自身の捉え方とも照らし合わせて、考察してみたい。

4月29日

「あいだ」の障害または「あいだ」にうまく入っていけないということを、レインの『ひき裂かれた自己』の視点からみてみると、次のようになるだろう。

「あいだ」にうまく入っていくには、少なくとも一旦は、「自己を明け渡す」ということがあって、初めて入っていける。ところが、分裂病質の者は、「世界」に対して、「自己」がのみこまれるような脅威をもって、「身構え」ているため、この「自己を明け渡す」ということができない。あるいは、内面にかろうじて保持された「真の自己」が、自己の最後のよりどころのようなものとして拘られているので、それを「投げ出す」などということができない。

通常の場合は、「あいだ」への「自己の明け渡し」は、無意識的、経験的に、自然な構えとして身についたものである。それは、一旦は、「自己の明け渡し」を意味するとしても、実は、それこそがその都度の「自己」を「紡ぎ出」し、結果的に、「自己」を安定させ、アイデンティティの感覚にもつながっていることを、身をもって知っているのである。

ただ、私は、また違った視点から、次回に、この「あいだ」の障害をもたらす理由をとりあげてみたい。

2013年4月18日 (木)

「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』

R.D.レインの『経験の政治学』(みすず書房)は、講演をもとにしたもので、『ひき裂かれた自己』のような、緻密で詳細な記述はない。しかし、前回みたような、『ひき裂かれた自己』の不十分な点は大きく修正されて、新たな視点がはっきりと打ち出されている。これは、大枠としてだが、真に「分裂病的状況」の「概観」を示しているといえ、「分裂病的状況」についての「理解」に、最も近づいた書の一つといえると思う。

私も、その内容には、ほぼ全面的に頷くことができる。特に、5章「分裂病的体験」以降で、「分裂病的状況」が、正面から扱われている。

この書によって、新たに打ち出された点は、大きく次の2つである。

1  「分裂病」なる「病気」が存在するわけではないということ。「分裂病的体験」は、家族や社会によって、「共謀的」に陥れられ、「作られた」状況である。

2  「分裂病的体験」は、通常の者が、そこから「疎外」されている、「内面」の「もうひとつの世界」の「旅」である。それは、「自己」(「自我」)を崩壊に導くことがあるが、それだけでなく、新たな「自己」を生み出す契機ともなる。

レインは、これらの前提として、「正常」と「異常」ということ、あるいは、「健康(適応)」と「狂気(逸脱)」ということについて、はっきりとした視点を示している。それは、現代の社会において、「正常」または「適応状態」とは、望ましい状態などではなく、「経験」から「疎外」された状態というのである。

「経験」というのは、本来、それ自体で、「明証的」なものである。他人の経験は、類推するしかないとしても、それも、そのような自己の「経験の明証性」が元になる。しかし、現代人は、生み落とされた瞬間から、家族や社会によって張りめぐらされた、「暴力的」ともいえる、意図や信念の網の目にからめとられて成長し、直接の「経験」からは「疎外」されていく。だから、そこに築かれる「自己」に、本当には確かな基盤もなく、「自己と他者」の関係にも確かな基盤などはない。ただ、それを覆い隠すべく、不確かなものを積み重ねていくだけである。

『ひき裂かれた自己』では、「分裂病質者」は、根底に「存在論的不安定」を抱えていることをみたが、そこには、一般の多くの者との対比はなかった。しかし、ここでは、一般の多くの者の場合がはっきりと示されており、それは、みかけ上、社会の中で「安定」しているとしても、真に確かなものでも、安定的なものでもないことが、明らかにされているのである。

「正常」というのがこのようなものだとすれば、「狂気」の意味合いも、自ずと変わってくる。「狂気」とは何よりも、そのような意味での、「正常」な状態からの「逸脱」である。つまり、「適応」はしているが、「経験」から「疎外」された状態から、「逸脱」したものである。もちろん、だからと言って、その「逸脱」は、直ちに、「経験」から「疎外」されていないことを意味しはしない。それは、「経験」からの、さらなる「疎外」でもあり得る。しかし、それは、もはや、単純に「否定的」なものとは言えなくなる。そればかりか、それは、少なくとも、「経験」から「疎外」された状態を抜け出させ、または越え出る契機とはなり得るものとなる。

レインは、このように、「正常」ということの意味をはっきりと見定めたことから、それとの関連で、「狂気」の意味合いも修正したのだといえる。

こうしてみると、レインが1にあげたように、「分裂病」なる「病気」が存在しないというのは、もっとものことのはずである。このことは、次のように、端的に述べられている。

「分裂病」という「状態」など存在しはしないのです。分裂病というレッテルが貼られることは一つの社会的事実であり、この社会的事実とは一つの<政治的出来事>なのです。社会における市民的秩序のなかでおこっている、この政治的出来事は、レッテルを貼られた人間の上に定義と結論を押しつけます。分裂病というレッテルを貼られた人間は、彼に対して責任をもつべく法律的に是認され医学的に権能を与えられ道義的に義務づけられている他者の監督下におかれますが、こういった一連の社会的行為を正当化しているのは、社会の指令なのです。レッテルを貼られた人間は、家庭、家庭医、精神衛生関係官、精神科医、看護婦、ソーシャルワーカー、そしてしばしば仲間の患者たちまで加わっての一致した連携(「共謀」)行為によって、患者という役割のみならず、患者としての人生の道程を歩みはじめさせられるのです。                 (p.128)

それは、他のどのような「レッテル」よりも、その者の「経験」を、「破壊」するものということができる。それは、その者の「経験」そのものを、無意味なものとして、取り除くべきものとして、なきものとして、奪い去ろうとするものだからである。

しかし、レインは、単に、「分裂病」という「レッテル」だけをとらえて、それが社会によって、「作り出される」と言っているのではなく、前回みたような、分裂病質者が分裂病に陥る過程全体が、そのように家族や社会によって、共謀的に追いやられて、「作られたもの」と言っているようである。

つまり、分裂病質者が「分裂病」に陥る原因としての「存在論的不安定」は、家族や社会によって、「作り出され」たものということである。それは、家族や社会が、(本当には基盤がないからこそ)、自らが「主体」として立って行くために、その者を「主体なき対象」として、追いやったということで、一種の「スケープゴート」ということでもある。

前回も述べたが、このように、レインは、「分裂病質者」というのが、家族や社会の「犠牲者」であるという見方を崩してはいない。それは、確かに、真実というべきで、「分裂病」の理解から、この面を抜き去ることはできない。しかし、それだけでは、「分裂病質者」の性質が、「否定的」なものに固定されてしまい、結果として、全体としての「理解」を阻むことにもなるはずである。

レイン自身、その面もみているはずだが、「分裂病質者」の性質には、「先天的」な面も多く、否定的な面(または「否定的な反応」を誘発する面)があるのは、確かとしても、前回も述べたように、「肯定的」な面もある。むしろ、「犠牲者」であることを強調することよりも、この「肯定的」な面もしっかりみていくことの方が、否定に偏った見方を緩和し、全体としての「理解」に資するはずである。また、肯定的な面をみないと、次の2のような面とのつながりも、スムーズにいかないはずなのである。

2では、「分裂病的体験」は、通常の者が、そこから「疎外」されている、「内面」の「もうひとつの世界」の「旅」であることが明示されている。このような、「内面の世界」は、通常、社会的には「疎外」され、顧みられてもいない。まさに、「経験」として、「疎外」されているのだといえる。

ところが、「分裂病質者」は、その入り口としての契機は、「否定的」なもので、いわば、「ひき裂かれた亀裂」からだとしても、そのような「世界」へ侵入し、「旅」をする機会を得るのである。「分裂病質者」が、「分裂病的状況」に入っていくこと自体には、「否定的契機」が大きく影響している。それは、概ね、『ひき裂かれた自己』に述べられたとおりとみていいと思う。しかし、この社会に「適応」していたとしたら、ますます「疎外」は深まり、そのような機会はないに等しいのである。

また、先に述べたように、「分裂病質者」は、もともと「内面世界」への親和性があるために、そのような世界へと引き寄せられやすいということもあるのである。

レインは、『ひき裂かれた自己』では、「分裂病的状況」は、「存在論的不安定」を抱えた自己が、ただ崩壊していく過程に過ぎないかのようにみていたのだった。しかし、ここでは、この「状況」そのものが、一つの「旅」として、意味をもつことを認めたのであり、大きく修正したことになる。

その「世界の旅」とは、次のように端的に述べられている。

この旅は次のようなものとして経験されます。つまり「内」へ向かっての絶えざる進行、人間の個人の生活を貫いての遡行、そしてすべての人類の、原初的人間のアダムの経験への、そしてまたおそらく動物植物鉱物であることへの遡行貫通超越として経験されます。
 この旅には、しかし、行くべき道を見失う可能性も多くあります。混乱したり、部分的な失敗をしたり、そして結局最後に難破したりする可能性があります。多くの怖ろしい怪物や霊魂や悪魔に出会わなければなりません。そしてそれらにうちかつこともあるし、うちかてないこともあるのです。        (p.133)

私の場合も、この「旅」では、記事にも書いたように、幼年期にまで遡るいくつかの体験の追体験だったり、蛇や鳥と「一体」となったり、地球や太陽と「一体」となるなどの、まさに「遡行的貫通超越」の体験が多くあった。また、文字通り、「多くの怖ろしい怪物や霊魂や悪魔に出会わなければなら」なかった。要するに、「圧倒的な他者」との遭遇を多くし、それに翻弄されるということである。ただでさえ、不安定な「自己」がである。「混乱したり、部分的な失敗をしたり、そして結局最後に難破したりする可能性がある」のは、当然のことである。

レインが、これらの「内面世界」の「存在」を、文字通り実在的なものとみていたのか、たとえば、ユング風の「元型的なもの」とみていたのかは分からない。しかし、どちらにしても、そこで出会われる「(圧倒的な)他者」というものを認めたことは確かであり、もはや、分裂病的状況は、単純に、虚しく自己が崩壊するだけの過程ではなくなったのである。「妄想」や「幻覚」の意味合いも、大きく変わったはずである。

そして、そのような過程は、記事『分裂病を通しての「超越」体験の例』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-e5ce.html )でも、詳しく解説したように、自我を崩壊させることがあるにしても、新たな、より大きな「自己」を生み出す契機になることもはっきり打ち出される。「死と再生」の「イニシエーション」であり、「全体」として、より「大きな自己」として「生まれ変わる」ということである。

それは、この「世界」ではなく、「もう一つの世界」に入り、自己を超える「圧倒的な他者」と出会ったからこそ、可能になったことなのである。

ただし、レインは、その例を認めるけれども、狂気の多くの場合は、そうはならないことの方を重視していた。全体としての言い方も、
狂気というのは全面的な崩壊である必要はありません。それはまた、ある突破かもしれないのです。狂気は隷属であり実存的死であると同じくらいに、潜在的には解放であり更生でもあるのです。」
と言うに止まっている。

それは、多くの場合、そのような体験の「粗雑な模倣」であり、「グロテスクな戯画」にしかならないという。そして、その大きな理由として、「治療」ということが、そのような過程の発現を妨げることをあげている。

そもそも、「分裂病」という「レッテル」そのものが、そのような自然の発現過程に、大きく影響するはずである。しかし、「治療」とは、もっと具体的レベルで、そのような発現過程に介入し、それを強引に抑え込むものである。それ自体が、「狂気の乗り越え」を難しく、さらには、「グロテスク」なものにしていることは、間違いないはずである。

ただ、レインは、やはり、『ひき裂かれた自己』以来持ち続けていた、「分裂病質者」の「自己の脆弱性」という「否定性」の影響も、決して忘れている訳ではない。その「否定性」は、やはり、容易に、「旅」を肯定的なものとして超え出させることにはつながらないものとみていた。ただ、その「否定性」は、家族や社会の「否定性」の反映でもあるから、今の社会の「疎外」状況では、このようなことは容易には起こらないということでもある。

このあたりの、「冷徹」な見方は、彼の追随者や多くのニューエイジの思想家とは大きく異なるところである。

レインは、他の「反精神医学者」たちとも組んで、キングスレイ・ホールという、精神病患者や他の一般参加者たちも含めての、自由な共同生活という実験もしている。これは、必ずしも、患者の自然な回復のみを目指したものというよりも、対抗文化的な、社会へのアピールという面も強かったと思う。精神医学内部では、この実験を「失敗」と揶揄するようだが、門という精神科医も言っているように( 「キングスレイ・ホール異聞」http://www.eonet.ne.jp/~skado/book1/kingsley.pdf )、そう単純な評価は下せない。

少なくとも、実験的な意義はあったはずだし、今後も、もし似たような試みをするとするならば、第一に参照とされるべきもののはずである。

(ちなみに、精神医学が、「反精神医学」の取り入れるところは取り入れたから、これにはもはや「用無し」などというのも、全くの「大ウソ」である。)

レインは、「分裂気質」であったと思われ、身近に「分裂病」とされる者に寄り添い、共感的に多くのことを観察してきた。そして、これだけ、「分裂病的状況」の何たるかを明らかにすることができた。しかし、ただ、彼自身は「分裂病的体験」をしたわけではなく、「分裂病者」の「世界」について、あと一歩手が届きそうで、それができないという、もどかしさのようなものも感じ続けていたのではないかと思う。

レインが今度この世に生まれるとしたら、「分裂病的体験」をすることを決意して生まれてくるのではないかという気がする。

2013年4月11日 (木)

「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』

R.D.レインの『ひき裂かれた自己』(みすず書房)を久しぶりに読み直してみた。

今回は、全体として、「分裂病的状況」(「統合失調的状況」)の説明としては、不十分であることや、違っていると思われるところの方に、多く目がいってしまった。が、しかし、これは、前回述べたように、「分裂病質者」の「自己の脆弱性」、「自己の築きにくさ」というもの、そして、それがゆえの「自己の崩壊」に至る過程を、徹底的に明らかにしたものとして、他にないほど詳細で、鋭い洞察であることに変わりはない。

不十分な点は、レイン自身も後に、大きく見方を修正または補充していったのだが、今回は、この書物だけをとりあげて考察してみたい。

レイン自身、この書では、「分裂病質者」の「分裂病」に至る過程を明らかにするために、「否定的」な面に絞って述べることを断っている。まさに、この書では、「分裂病質者」が、ほとんど必然的に、「分裂病」に至らざるを得ないかのような、絶望的ともいえるほどの、「自己の成り立ちにくさ」を浮き彫りにしている

レインのいう「分裂病質者」だが、これは、実際に、分裂病を発病するに至った者の、病前の性格という意味で、私がこれまで述べて来た「分裂気質」よりも狭い意味である。「分裂気質」というのは、もっと広く、多くの者にみられる「分裂病的傾向」という意味だからである。さらには、レインは、「分裂病」でも、「破瓜型」とか「緊張型」といわれるような、典型的に「分裂病」らしいものを想定して、「分裂病質者」を捉えている。

要するに、ここで述べられているのは、かなり極端な例ということは、押さえておく必要がある。まさに、見るからに、無口でおとなしく、人との関わりを避け、孤立しているタイプの、典型的な「分裂病質者」ということができる。

レインは、「分裂病質者」には、根底に「存在論的不安定」というものがあり、「自己」というもののの、本質的な「成り立ちにくさ」を抱えているとする。そのため、「自己」という「アイデンティティ」なり、「主体性」なりをもって、「世界」と関わることができない。「世界」は、そのような不安定な、「自己ならざる自己」を、常に圧迫し、脅かすものでしかない。「世界」とは、その者を「のみ込む」ものであり、「内破」するものであり、「石化」させるものである。「分裂病質者」は、いつも、「世界」そのものに対して、「自己」をなんとか保持することにのみ、汲々としている。それこそが、「世界」に対する基本的な「構え」なのである。

通常の場合、「世界」との関係で何らかの問題を生じるとしても、それは、「自己」が築いた、何らかの「アイデンティティ」なり「主体性」との関係で、起こることである。そのような、「アイデンティティ」なり「主体性」が危機を迎えるということは、誰にでもある。ところが、「分裂病質者」の場合は、それ以前の前提である、「世界」に取り巻かれてあるということそのものが、既に「自己」を保持し難い「問題」なのである。

「分裂病質者」の問題は、常に、この根底の「存在論的不安定」を巡って引き起こされる。

「分裂病質者」は、そのように「世界」との関係で「ひき裂かれ」ているのだが、さらに、「自分」自身との関係でも、「ひき裂かれ」る。

「分裂病質者」は、「世界」に対して、何とか「自己」を保持すべく、一つの戦略を立てる。「自己」自身を、「世界」に対するところの、表面上の「にせ自己」と、内部に密かに保持される、「真の自己」に分けるのである。この「にせ自己」は、まとまりをもった単一のものではなく、分断された断片の集まりなので、全体を「にせ自己体系」ともいわれる。それは、「世界」または「他者」に対して、主体性や独立した意志を持たない、隷属した「自己」である。「分裂病質者」の「自己」は、「世界」に対して、そうすることでしか、「崩壊」を防ぐことができないのである。

一方、「真の自己」とは、そのような、「世界」に対して隷属的な、「にせ自己体系」とは別の、「真の自己」として、いわば内部に密かに隠し持たれた「自己」である。「真の自己」とはいっても、それは、客観的な「真の自己」ではなく、あくまで、自分にとって、真実であると仮定される「自己」である。「分裂病質者」は、そのような「真の自己」を内部に隠し持つことによって、かろうじて、「世界」からの圧迫状態の窮状や、「にせ自己体系」の隷属状態を、補っているのである。

もちろん、一般にも、「表面的な自己」(「ペルソナ」または建前)と、「真の自己」(本音)との分断というものはある。しかし、それは、あくまで、何らかの「アイデンティテイ」をもった「自己」の、状況による対応としてある。 しかし、「分裂病質者」は、「世界」そのものと対峙するのに、そうならざるを得ないということであり、また、それこそが、唯一のあり方なのである。

そうして、この「にせ自己体系」と「真の自己」との分裂が進むと、「にせ自己体系」は、ますます虚偽のものとして、「他者」性を帯び、「真の自己」にとっても、憎悪の対象となる。一方、「真の自己」は、自己の真実の部分として、ますます「よりどころ」のようになるが、それは、現実の居場所をもたない、「架空」の「空虚」なものとなり、いわば「気化」し、荒廃していく

このようにして、「にせ自己体系」は、「世界」に対するところの、「身体化された自己」であるが、「真の自己」は、「身体化されない自己」となる。「真の自己」が、内部に閉じ込められた、架空の、空想的なものになればなるほど、現実の身体には居場所がなくなるのである。あるいは、むしろ、そうすることでこそ、「世界」や「他者」からの、「隷属状態」を免れるのである。

また、そのような「真の自己」は、必然的に「自意識過剰」になる。それは、実質を持たないので、いわば、意識することのみにおいて、何とか「主体」を保つような代物なのである。「世界」や「身体」または「にせ自己」を、過剰に「意識」することで、何とかそれに巻き込まれないでいるのである。

しかし、このような、荒廃し、空虚に追いやられた「真の自己」は、追いつめられると、いずれは、「爆発」せざるを得ない。それこそが、いわゆる「発狂」だという。どこにも居場所のない「真の自己」が、自己を絶望的に主張しようとすることだが、それは、「自己」の全体を撹乱し、さらに事態を悪化させる。それこそが、「分裂病」への発展である。

それは、「にせ自己体系」-「真の自己」として分断された「自己」のあり方を、全体として破綻させ、結局は「崩壊」させる

ここでは、本当に簡単に要約して述べたが、このような過程を、よく内面にまで踏み込んで、まさに「微に入り細を穿つ」ように詳細に明らかにしているのである。そして、それは、極端な面もあるが、多くの「分裂病的状況」に陥った者にも、かなりの程度当てはまるはずの、説得的なものである。

それは、私自身の場合にも、かなり当てはまるものがある。幼児の頃から、「おとなしく」て、「手のかからない子供」だったようだが、一つの決定的な出来事が、記事『監獄としての幼稚園』でも述べたように、「世界」または「世間」に対して、適応を拒否するように、「閉じた」ことである。後に、「自我」らしいものは当然芽生えるが、それは、あくまで、「閉じる」という基本的な態度の上に築かれたもので、「にせ自己」の基礎になったといえる。一方、内に抱えられた「真の自己」の方も、ことあるごとに表面には浮上し、「世界」に対する反抗的態度も強かった。が、それは、徹底できたわけではなく、成長につれて、引っこんでいき、大局として、「にせ自己」の方に重点がかかっていったようである。

一連の「分裂病的状況」に陥る体験では、確かに、久しぶりに、「真の自己」が頭をもたげて、「爆発」したという面がある。レインのいうように、極端な分断ではないが、そのような分断は確かにあり、また、「アイデンティティ」や「主体性」に欠ける面があったことも確かである。

「身体化されない自己」についても、一連の体験では、身体から離脱した「自己」の一部が、「身体」と「身体化された自己」を見ているという状況が、多くあったことを既に述べた。また、シュタイナーは、精神病の原因として、エーテル体、アストラル体、自我という霊的要素が、(主に前世に基づく理由で)うまく「受肉」できずに、身体を操作することができないということをあげている。が、これも「身体化されない自己」と通じる、興味深い視点である。

レインのこのような詳細な記述は、ちちろん、鋭い観察と洞察によって可能になったことだが、恐らく、レイン自身「分裂気質」であったと思われ、「分裂病質者」に対する深い共感に基づくものがあったはずである。

ただし、「分裂病質者」が「発病」する過程までの、詳細で、具体的な記述に比べると、発病後の過程の説明は、ただその延長上に、「自己が崩壊する」ということを、とってつけたように、抽象的に述べただけになっている。「幻覚」や「妄想」についても、自己から切り離され、「他者化」された「にせ自己体系」が、「真の自己」に対して現れるということで、抽象的にしか説明されていない。(要するに、「解離」の延長上の現象ということになる)

実際には、この「発病」してからの、「分裂病的状況」に陥ることこそが、様々な「他者」とも遭遇する、それまでの過程からは大きく飛躍のある、一種の「一大ドラマ」なのだが、そのような視点はここにはみられない。それは、やはりレインが、この時点では、(「圧倒的な他者」という視点はなく)「自己の脆弱性」という視点からのみ、「分裂病」をみていたことによるだろう

要するに、「存在論的不安定」を抱えたまま、「自己」が成り立っていないので、「発病」の契機さえあれば、あとは「崩壊」するしかない、ということなのである。

このように、「自己の脆弱性」という視点でのみみられているから、その「崩壊」を説明するのにも、それを、極端に誇張する必要があったということも言えるだろう。

この点では、たとえば、ユングの方が、「圧倒的な他者」(但し、「普遍的無意識」の産物)という視点があり、「自我」が崩壊するかどうかは、それとの相関関係によるという視点をもっていた。つまり、「自我」が弱ければ、「圧倒的な他者」の威力が弱くても、崩壊することがあるし、「自我」が強くても、「圧倒的な他者」が強力であれば、崩壊することがあるということである。

何しろ、レインにとっては、このような「分裂病質者」の「存在論的不安定」こそが、「自己の崩壊」をもたらす、「原因」となるわけである。それでは、この「存在論的不安定」は、何故に生じるかということが気になるところである。しかし、それについては、ここでは、ほとんど述べられていない。一応、幼少期に、家族によって、そのような状態に追いやられる(「自己のない」、「従順」なことが奨励され、または押しつけられるなどのことにより)ということが示唆されるが、それ以上の記述はない。また、他の者の場合は、なぜそれが生じないかということも、ほとんど述べられていない。

これでは、「分裂病質者」ということが、他との比較や、理由が指し示されないままに、ただ、それ自体として、病的で、「否定的」なものであるかのように扱われているごときである。レイン自身、特に、「否定的な面」を浮かび上がらせたと断っているにしてもである。

この点も、後にレインは修正し、「分裂病的状態」では、「自我」が崩壊に導かれるにしても、新たな「自己」が生まれる契機となることも、はっきり打ち出されている。だから、「分裂病質者」の「自己の脆弱性」が、必ずしも「否定的」なものではないし、通常の「適応的」な「自己」が、必ずしも「肯定的」なものではないのである。

この点は、むしろ、前回述べたように、「自己」とは「他者」との関係で生まれるものであることに着目すべきである。「分裂病質者」は、いい意味でも、悪い意味でも、「自己」の根拠となるような、「他者」の影響を受けていない、ということである。「自己」が「強固」に築かれるのは、「他者」に対する恐怖をモチベーションにする場合もある。それは、「権威」に対する「盲従」をもたらし、みかけ上「適応」していても、必ずしもよいものではない。「分裂病質者」は、もともと「自己」は不安定かもしれないが、「安っぽい」自己を作らない分、「分裂病的状況」での、「他者」との出会いを通して、新たな「自己」を生み出す契機には、恵まれているとも言えるわけである。

あるいは、「分裂病質者」には、「自己」を越えたもの、特に、「闇」や「虚無」に対する感受性または親近感があるからこそ、世間的な意味での、「自己」が築きにくいのだという面もある。「分裂病的状況」での、それらとの出会い方によっては、それが、新たな「自己」を生み出す機会ともなり得るのである。

それはともかく、少なくとも、この書だけから判断する限り、「分裂病質者」は、「自己の成り立ちにくい」非常に「脆弱」な者で、「崩壊」を運命づけられた「救い難き」者というイメージになっても仕方ない。あるいは、身近に接する親などでも、「分裂病質者」のそのような内面の「脆弱性」には、全く気づかないなどということが、いくらもあるから、レインは、そのような者に対する、「共感」を促している面もあるだろう。弱者としての、あるいは被害者としての「分裂病質者」を強調したかったのかもしれない。が、しかし、それは、同情を生むとしても、「分裂病質者」を固定的なイメージに押し込め、必ずしも、プラスに働くものではない。

そういう点から、この書物は、後の「反精神医学者」としてのレインのイメージに反して、「分裂病」(統合失調症)という「病気」は、確たるものとして存在するという見方をする者にとっても、「受け入れ」やすいものになっているといえる。実際にも、精神医学内部にとっても、レインはともかく、この書物自体は、評判が悪いものではないようである。

それは、少なくとも、「病気」としての「否定性」は、十分過ぎるほど、手に取るように、「明らか」にされているからであろう。

しかし、次回は、レインの『経験の政治学』をとり上げて、レインの見方がどのように修正されたかを、明らかにしたい。

2013年4月 4日 (木)

「統合失調的状況の本質」について鋭い洞察のある本

前回述べた「統合失調的状況の本質」について、深く鋭い洞察をしている本もある。一つは、R.D.レイン著『ひき裂かれた自己』(みすず書房)。もう一つは、木村敏著『心の病理を考える』(岩波新書)である。

いずれも、一般的な本とは言い難く、そう読みやすい本でもないため、『関連書籍』には入れていない。しかし、たとえばドイツ系の精神病理学者の書いた本などに比べれば、はるかに読みやすく、明解な内容をもっている。分裂気質の者に対する共感と鋭い観察から、もたらされたものであることも分かる。

ただし、「本質的な観点」といっても、その視点はかなり限られている。前回述べたところでいえば、主に、分裂気質の者の「自己の脆弱性」、「自己の築きにくさ」という点にしぼられている。「圧倒的な他者」ということそのものへの着目はないに等しい。

それでは、「理解」として不十分であり、具体性に欠けることにもなるが、そのような視点に関する限り、非常に説得力のある、鋭い洞察であることは疑いない。だから、興味のある人には、ぜひ読んでもらいたい。

私も何度か読んでいるが、既にかなりの年月がたつので、改めて読み直して、私の考えとも照らし合わせながら、少し考察をしてみたいと思っている。

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