「統合失調的状況」の「本質」
※これまで述べて来たことを踏まえて、改めて、「統合失調的状況」の「本質」について端的に述べる重要な記事です。
「統合失調的状況」についての記事も相当多くなったが、改めてその「本質」は何かということを、簡潔に書き留めておきたい。
これは、記事『「統合失調症」の「圧倒的な他者」 』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-0b67.html 、なお、その図を再び掲げる)でも述べたとおり、「圧倒的な他者」により「自己」が「翻弄」され、「崩壊」を導く状況ということに尽きる。
私は、この日記ないしブログの書き始めの頃、「統合失調的状況」の本質は、「見えない領域」での「捕食者」等の存在の「攻撃」により、自己が翻弄されることであるということを強調していた。
それは、もちろん間違いではないが、より「本質」的な観点からすると、不十分な面があった。問題は、「見えない領域」だけのものではないからだ。「自己」を翻弄させ、崩壊をも導く「何者か」を指し示すものとてしては、「圧倒的な他者」という言い方こそが、最も包括的であり、適当なのである。
これは、要するに、「自己」にとっての「他者」が、「圧倒的なもの」として迫り、「自己」とその反映である「世界」を「崩壊」にまで導く状況ということである。この「他者」は、「見えない領域」に限るのではなく、「自己」に対峙するあらゆる「他者」を含む。たとえば、「親」または、その「親」を「投影」された「誰か」などである。「親」は、幼少期または子供期において、「圧倒的な存在」であり得、またその「圧倒的な存在」としての記憶は、いつまでもその者に影響し続け、誰かに「投影」される可能性がある。
ただし、「統合失調的状況」の最も「統合失調らしい」状況は、これだけでは生じないということも、重要な一面である。たとえば、「幻覚」や「妄想」に翻弄され、自己と外界の境界が曖昧になるなどのことである。これらは、通常の「他者」によっては、生じるものではなく、「見えない領域」における「他者」が、真に「圧倒的」なものとして迫って起こるのである。つまり、「自己」にとっては、日常性を越えた、「未知なるもの」であることが、その重要な要素である。
それは、「自己」に対する「他者」の襲撃としては、より深いレベルで起こっていることである。「他者」の襲撃のきっかけは、「目に見える領域」での具体的な「他者」にあったとしても、それがそのような、より深いレベルでの「襲撃」をも、呼び起こしたのである。
言い換えると、ここに言う「他者」とは、初めから、「重層的なもの」なのであり、一義的なレベルだけに存するのではない。「統合失調的状況」では、その「重層性」のより深いレベルのものが、「自己」に対する「圧倒的なもの」として、迫るということである。それは、単に「見えない領域」の、特定の「存在」に尽きるのではなく、より根源的な「闇」や「虚無」にまでいたる。
「自己」とは、「自己ならざる他者」との関係で築かれるのであり、それは様々なレベルにおける「他者」との関係において、築かれている。「他者の重層性」とは、その反映でもある。だから、これらは、結局、「自己」とは何か、どのように築かれるのかという、実存的な問題との絡みで生じていることである。より深いレベルで、「他者」の襲撃が起こるということは、「自己」のより深いレベルで、「崩壊」がもたらされようとしているということである。
ただ、「分裂気質」の者に、それが起こり易いのは、「表層」のレベルの「自己」が脆弱または希薄なためということがいえる。そのレベルにおける、具体的な「他者」の襲撃が、「自己」に亀裂を生じさせ易いので、さらに、より深いレベルへの他者の襲撃をも導くことになり易いのである。
これらのことは、あくまで「本質的」なレベルでの把握であり、「統合失調的状況」に、脳その他の物質レベルの影響がないということではない。しかし、こういった、本質レベルの視点からすれば、それらは、枝葉のこと、あるいは、むしろ、その結果的現れに過ぎない。だから、そもそも薬などが効くわけがなく、どんなに譲歩しても、一時的に、その結果的現れとしての反応を紛らわせることがあるか、ごまかすことがあるというに過ぎない。
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