「精神医学」と「児童相談所」の「介入」
内海医師の『児童相談所の怖い話』(三五館)を読んだが、衝撃は、「精神医学」についてのものより、ずっと強かった。そして、これは、「精神医学」以上に難しい問題と感じた。
もちろん、この問題にも、「精神医学」が絡んではいるのたが、「精神医学」の権力的なありようとか、「怖い」面は、「知る」人はもちろん、誰でもある程度は、予想がつくはずのものである。
しかし、「児童相談所」の一般的イメージから、このような、「精神医学」以上ともいえる、権力的で、理不尽なありようは、なかなか連想しにくい。恐らく、(この本が出て、それが変わる可能性はあるが)今後も、容易には、認識されないことだろう。「精神医学」の場合と同様、「支配層」や「捕食者」の手が回っているのは明らかと思うが、その「盲点」のようなところへの、目のつけどころとしては、「見事」というしかないものがある。
子供が、「虐待」の名の下に、児童相談所によって、親の同意を得ずに、一方的に「拉致」され、「一時保護」を名目に、施設に何年も「監禁」され、親には面接すら許されない。施設では、子供を「おとなしくさせる」ため、児童精神科医とも組んで、子供を精神薬によって、薬漬けにして管理している。こんなことが、一応ともの「法治国家」で、しかも「常態」としてなされているというのである。
実は、私は、本書でも、少し触れられているイギリスの事例だが、デーヴィッド・アイクの『ムーン・マトリックス(ゲームプラン篇3)』で、ソーシャルワーカーが、「虐待」の名目のもと、親から子供を拉致し、「盗んで」いるという話を知ってはいた。アイクは、これは、国家が直接子供を管理するシステムを作ることに乗り出したものとし、子供にマイクロチップを植え込んだり、薬でロボット化して、奴隷のように支配するのだとしていた。後半の目的の「過激さ」(それに近いことは、十分考えられるにしても)もさることながら、やはり、ソーシャルワーカーが子供を一方的に「拉致」するなどということが、信じ難かったし、実際、それをしようとしても、そんなことが自由にできるはずもないという思いがあった。
日本については、まだ、子供の虐待ということが、あまり取り沙汰されなかった当時、児童相談所に関するテレビの報道番組を見たことがあった。そこでは、児童相談所が親の虐待という事実をつかんでいても、家庭に踏み込むことができずに、手をこまねいているという事態がとりあげられていた。「児童相談所」は、単なる「相談所」で、実効性のあることは何もできないというイメージがあり、実際、そんな感じだった。「虐待」のことが大分認識されて来た、割と最近にも、児童相談所が「虐待」の現場に踏み込もうにも、「力」がなく、それができずに、虐待を防ぐことができなかったということを扱ったものがあった。
(これらが、「児童相談所」の権力の拡大を宣伝するために、意図的に構成されていた可能性というのはあるが、少なくとも、かつての「児童相談所」というのは、本当にそのような弱小な組織だったのだと思う。だからこそ、「虐待」の増大に対処するための、急激な「権力」の拡大に、「児童相談所」自体振り回されているのだし、そのギャップ(盲点)こそが、「支配層」や「捕食者」にとっては、格好の目のつけどころだったのだと思う。)
その後、日本の「児童相談所」が、「虐待」を名目に、子供を一方的に「拉致」するという話も、Youtubeの動画などを通して、一応は知った。が、それは、全体としてみれば、やはり特殊な事例だろうという思いがあった。
しかし、今回、『児童相談所の怖い話』を読むと、それが「常態」であること、また、システム的に、このようなことにならざるを得ないことも、十分理解できるものとなった。
まず、いくつかの典型的な事例が、かなり詳細に紹介されている。具体的に、どのようにして、「拉致」や「監禁」などという、理不尽なことが起こるのか、よく分かる。そして、根拠法たる「児童虐待の防止等に関する法律」によっても、「虐待」ということの具体的な内容が規定されておらず、児童相談所の独断によって、子供の「一時保護」の運用をできてしまうこと。唯一の監督機関である、家庭裁判所の「審判」は、形式的なものに過ぎないこと。そもそも「児童相談所」がもともと、家族の「虐待」に対する対応力も専門性も何も備えていないこと。児童相談所としては、予算確保のために、予め決めた「一時保護」の人数を、必ず実行することで、確保する必要があること。ここにも、精神医学の場合と同様、「アンタッチャブル」な要素があることなど、構造的に、こういったことが「常態」にならざるを得ないことが十分納得できるものとなっている。
そして、これは、次代を担う、子供の子育てとか教育(今も「体罰」の問題がクローズアップされているが)の問題も絡む、かなり根源的で難しい問題である。その意味では、ある程度、問題の「見えやすい」、「精神医学」の場合以上の問題とも言えるだろう。しかし、同時に、構造的には、精神医学の問題と共通するところが非常に多い。この問題が、精神医学がもともとはらんでいた問題や、それが権力化する過程を、「リアルタイム」に浮き上がらせるという面もあるのである。
いずれ、もっと個々の問題を具体的にとりあげてみたいが、今、「精神医学」との共通の構造として、特に背後の「支配層」や「捕食者」に注目した視点から、一つだけ述べておきたい。それは、図にすると、次のようになる。
結局、「支配層」や「捕食者」は、これらの「問題」を自ら「作り出し」つつ、(「丸投げ」される形で)自ら権力的に「介入」し、それによって、かえって問題自体を拡大して、混乱を深めているということである。
「精神医学」であれば、問題は、「狂気」であるが、これは、既に何度もみて来たように、「捕食者」の攻撃や仕掛けによって作り出される面が強い。さらに、「支配層」のもたらす「社会構造」は、その「狂気」を大きく膨らませる。つまり、彼ら自ら、「作り出し」ているものである。
「児童相談所」の場合は、それに対応する問題は、「虐待」である。これも、「捕食者」あるいは「捕食者的な精霊」の(憑依的な)影響によって、なされることが多い。また「支配層」の社会構造は、それを誘発するものになっている。だから、同じく、彼ら自ら、「作り出し」ている面が強い。さらに、「支配層」は、「虐待」が、大きな社会問題であり、「介入」を要する問題であることを、メディアなどを通じて、ことさら宣伝しようとする。
これらの問題には、ともに、「アンタッチャブル」な面が濃くある。というより、まさに、そういうものとして、「作り出さ」れているのである。「狂気」には、誰もが、「理解しがたい」「異常」なものとして、関わりたがらないが、「虐待」の場合にも、それは言える。自分の子を「虐待」するというのは、信じがたい「異常」な行いであり、ある種の「狂気」である。また、「家族」というのは、他人の踏み込みがたい「聖域」のようなところがあり、その意味でも、誰もがその問題には、あえて関わろうとはしない。
そういうことで、結局、「狂気」にしても、「虐待」にしても、何者かが、専門職として、そこに「介入」する必要のあるものとされ、しかも、それに、「丸投げ」されることになる。それは、事実として、権力的な「実力行使」を必要とするものであるし、「アンタッチャブル」で、一般の者の触れ難いことが、余計に、権力的なあり方を強めて行く。
そうやって、「問題解決」のために、強い「権力的介入」を生み出していくが、しかし、それは、決して、本当に、問題を解決するようには、働くことがない。それは、もともと、「捕食者」や「支配層」にとって、そう意図されたものなのだし、実際の解決手段も、問題の「ごまかし」か、「すり替え」でしかないからである。それは、結局、「問題」をさらに拡大し、混乱を深めることにしかならない。が、それこそが、初めから、意図されていたことなのである。また、それは、介入する「権力」をますます増大し、その「支配力」を強める、口実ともなる。
精神医学では、もともと、この「権力的要素」は、見えやすかったが、精神薬の開発と、そのイメージ作りにある程度成功したことで、その要素も見えにくくされたことが、需要の拡大と実質的「権力」の拡大に大きく貢献した。しかし、ここに来てそれにも、大きな陰りをみせ始めた。
ところが、「児童相談所」は、その「権力的要素」も見えにくいままいに、いつのまにか勢力を伸ばし、その意図を達しつつある。これは、「捕食者」や「支配層」にとって、対象が、次代を担う「子供」という、最高の狙い目であること。児童精神科医も巻き込みつつ、実質、精神医学と同じ効果ももたらせること。「家族」という、これまで踏み込みにくかった「聖域」へと権力の手を伸ばして、家族をばらばらに崩壊させる道をつけたことなど、「地味」ながら、大きな効果を望めるものになっている。
アイクの言っていたように、これは、国家(支配層)が、直接子供を支配するシステム作りに、実際に乗り出したものとも考えられる。児童相談所による、今のやり方で、それが即実行できるとは思えないが、しかし、その発想自体は、既に十分に、実行に向けて、据えられていると思われるのである。
その発想も図にすると、次のようになる。
これまでは、「捕食者」または「支配層」の支配は、まず「世間」、次に「大人」を通して、「子供」に及んでいた。「子供」に対しても、もちろん、このような「システム」に誘導するための、さまざまな働きかけがなされていた(それを象徴するのが、日本の「なまはげ」の儀式)が、「支配」のあり方としては、間接的なもので、そこに、ある程度の自由はあったといえる。
しかし、最近は、このような「システム」にのっかろうとしない子供が増えていることもあろう。次代を担う「子供」を、子供のときから、直接「支配」の対象とするべく、支配の強化を図ったものと思われる。言わば、「子供」を通して、「親」や「世間」の支配をなすという、これまでとは逆の、発想の転換である。しかし、それには、これまで認められていた、「親」の子供に対する管理権を奪い、「家族」の問題に積極的に「介入」し、家族をばらばらにしなければならない。
まずは、そのようなことに手をつけるべく、「児童相談所」による子供の「拉致」が、実行に移されていると思われるのである。
ただし、このような発想には、「捕食者」または「支配層」の、「支配力」がなし崩しになることへの、強い「恐れ」と「焦り」も感じられる。「子供」が、彼らの意図しない、違う方向に行ってしまうことを、強く恐れていることの現れということである。
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