« 精神科医、カウンセラー主導による「虐待」の訴訟 | トップページ | 「魔女狩り」を終わらせるには »

2013年2月23日 (土)

「発達障害」「児相問題」はより「魔女狩り」的

これまで何度も述べて来たことだが、「統合失調症」を代表とする「狂気」を、精神医学の対象とし、「治療」と称して病院に隔離し、薬漬けにすることは、かつての「魔女狩り」の継続といえる。

しかし、最近の「発達障害」、「児相問題」は、より「魔女狩り」的な色彩が濃いとみることができる。

「魔女狩り」の初期には、特定の者、異質性の強い者が、「魔女」として告発され、「排除」された。いわば、「魔女」として排除される者には、多数の者による、「暗黙の了解」があった。

ところが、ある時期から、「魔女狩り」はそのような「制限」を超えて、大きく膨らみ始める。誰が「魔女」として告発されても、おかしくない状況にまで、発展するのである。

そして、「魔女狩り」の本質という面から言うと、むしろ、この、後期の「誰が魔女として告発されても、おかしくない状況」の方こそが、注目される。

「魔女狩り」は、魔女の存在という「迷信」がもたらしたもので、そのような迷信をなくせばなくなるものだ、などというバカげた考えをしている人が、未だにいるかもしれない。

しかし、事実は、全く逆である。「魔女狩り」の本質は、実際に、<誰もが「魔女」であり得るからこそ、自分ではなく、誰か他人を、「魔女」として告発しなければならない>だからである。

実際には、誰もが、内に「魔女」としての性質を抱えているが、そうであればあるほど、自分ではなく、誰か他人が魔女でなければならないのである。その他人である魔女を、残虐に葬り去ることによって、自分が魔女である可能性をも葬り去らなければならない。

だから、いくら「狩って」も、本来、それは満たされることがなく、狩らなければならない「魔女」は、増えるばかりである。実際に、誰もが、自分が「魔女」として告発される可能性をみるところまで、それは膨らんだのであり、そうして初めて、それは終息に向かったのである。もちろん、それは、その「愚かさ」に気づいたからではなく、本当に、自分が「魔女」として告発される可能性をみたからである。

ある意味、「魔女狩り」の本質が、そこで露になりかけたわけで、それを本当に認識すれば、その「愚かさ」を知ることもできただろう。だが、誰も、そのようなことを認識したがゆえに、「魔女狩り」を止めたわけではない。ただ、自分が「魔女」として告発される予感に恐れおののいて、一時的な「休戦状態」に入っただけである。

その「魔女」とは、「悪魔」という、人間に敵対する存在と手を組んで、人間に害悪をなす者とされた。実際に、「魔女」とは、まず第一に、この意味での、文字通りの「魔女」である。この「悪魔」を「捕食者」におきかえてみれば、これまで述べで来たとおり、誰もが、「魔女」であり得ることは明らかであろう。「捕食者」の影響を受けていない者など、いないからである。あるいは、シュタイナーが言っていたように、「アーリマン存在」を無意識的にも利用して、「他者を害する」生き方をする者は、皆「悪魔」と結託した「魔女」にほかならないのである。

そのように、誰もが、潜在的には「魔女」であるが故に、誰か特定の他者を「魔女」として告発せずにはおれないのである。そして、それは、勢い、特定の者を越えて、誰もが「魔女」となるまでに発展せざるを得ないのである。「魔女」を「迷信」として、葬り去ったのは、それ以上に「魔女狩り」が発展して、「共倒れ」になることを防ぐ、窮余の策に過ぎない。

しかしまた、実質上、この「魔女」には、「害悪」や「嫌悪」に結びつけられる、排除したい「異質な者」を、ほとんどすへで含め得るということがある。「魔女」とは、「見えない」存在とのつながりであり、それは、多くの者にとって、漠然と予感するしかないものだからである。

その中でも、「狂気」の者は、特に「魔女」と呼ばれるにふさわしい者だった。「狂気」という精神の異常な状態そのものが、まさしく、「悪魔」の影響を思わせるものだったからである。しかも、この「狂気」もまた、「魔女」と同様、誰もが内に抱えるものであり、それを特定の誰かに押しつけて、「排除」したくなるものである。

実際、「魔女」として狩られた者に、「狂気」の者は多くいたはずで、それは、初めは、「見るからに」狂気を思わせる、特定の者だったろう。しかし、「狂気」もまた、漠然とした性質のもので、いくらでも拡張し得るものである。後には、「狂気っぽい」振る舞いをする、多くの者が、告発されたことだろう。

そして、そのような「狂気」の者を「狩る」ことは、「精神医学」がその役割を承継しつつ、現代も形を変えて、継続している。

それは、やはり、初めは、いかにも「狂気らしい」特定の者を対象としていた。「統合失調症」がその代表格である。ところが、ここに来て、その対象は大きく拡張され、しかも、子供まで対象にされるようになった。「発達障害」がいい例である。これは、「魔女狩り」で言えば、後期の「誰もが魔女として告発され得る状況」にまで発展して来たことを意味する。つまり、それこそが「魔女狩り」の本質とみるならば、「発達障害」は、(「統合失調症」以上に)より「魔女狩り」的といえるのである。

実際、「狂気」は誰もが内に抱えるもので、それを特定の者に押しつけて「排除」しようとする限り、際限なく拡張し、いずれは誰もが、「狂気」の者として、「狩られる」ことにならざるを得ない。

『ぼくらの中の発達障害』も言っていたように、「発達障害」は、誰の中にもある性質であることが明らかである。つまり、実際上、誰もが「発達障害」であり得ることが明白なものであり、そうであればこそ、多くの者は、誰か他人を「発達障害」として告発することに、勤しむことになる。実際、現在も、学校や職場、さらに家庭でも、「発達障害探し」とその告発が、多く行われているはずである。

さらに言うと、この「発達障害」は、(大人も含むが)子供が対象であることも重要なポイントである。そもそも、子供というのは、「大人」からみれば、「異質」な存在であり、理解の困難なものである。あるいは、「大人」の勝手な基準からみれば、どこか「狂気」じみたものでもある。ある意味で言うと、「子供」そのものが、「魔女」的な要素をもっているのである。

『ねじの回転』という、子供が背後で、「亡霊」と通じていたということを、主題とする小説があった。が、実際、子供は、「精霊」の影響を受けやすく、その意味でも、「魔女的」なところはある。大人にとって、子供を「管理」することは、いつの時代でも大変なことのはずだが、現代は、大人がその能力を大きく失ったが故に、余計に大変なことになった。そうして、その「管理」から逸脱しやすい子供は、「発達障害」として、「狩る」方向へと、大きく流れ始めたのだと言える。

「発達障害」には、誰もが「狂気」を内に抱えるということの、必然的な発展の面があると同時に、「子供」を、特に「魔女」として狩ろうとすることの表れという面もあるということである。それは、もちろん、「精神医学」や「支配層」の戦略的な狙いとして、なされているのでもある。しかし、「魔女狩り」が、教会や異端審問所に実行の手を委ねつつ、多くの市民が主体となって行われたように、この「発達障害狩り」にも、多くの「大人」が「主体」となって行われる面がある、ということである。

この「子供」が「狩られる」ということについては、「児童相談所」の「拉致」問題も同じである。

これは、親の「虐待」を理由とするものであり、「狩られ」ているのは、「虐待親」であるともいえる。確かに、ここで「魔女」と同じ意味合いの、忌まわしく、「排除」すべき存在として、俎上に上っているのは、「虐待親」である。この「虐待」もまた、一見「異常」なものではあるが、「魔女」や「狂気」と同様、本来誰もが、「なし得る」ものである。あるいは、「虐待」という言葉も、「魔女」や「狂気」と同様曖昧であり、とりようによっては、誰もが既に「なしている」ものである。その意味では、「発達障害」と同様、誰もが「虐待親」として告発される可能性のあるものである。また、そうであればあるほど、誰か他者を告発しようとする動機づけをもつものである。

『児童相談所の怖い話』に紹介されている事例では、実際に、「虐待親」の子供は、学校や病院などの「通報」によって、拉致されることが多い。学校や病院は、ある意味「児童相談所」と「つるん」で、目をつけた「虐待親」を「狩っ」ているという面がある。が、そうでなくとも、地域や親戚関係など、何らかの「こじれ」から、気に入らない、または嫌悪される親が、「虐待親」として通報される可能性はいくらもある。実際、「児童相談所」は、「虐待」の疑いのある者を見かけたら、すぐ通報するように、キャンペーンをしている。そして通報された以上、その疑いを晴らして、拉致を防いだり、あるいは、子供を取り戻すのは容易なことではないのである。
                                                               
これは、「魔女狩り」において、市民の「告発」により、魔女裁判が始められ、告発された者は実際上、ほぼ間違いなく「狩られる」のと同じである。(刑を執行する教会や異端審問所の側にも、権威の拡大のほか、財産の没収など、経済的「うまみ」があったのも、同じ構造である。)

しかし、この拉致において、実質「狩られ」ているのは、やはりその拉致された子供自身というべきである。「虐待親」も、子供を取られ、引き裂かれるという苦痛を受けるが、子供は、保護を名目に、施設へと監禁され、精神疾患の者と同様、薬漬けにされる。虐待が名目だけの場合はもちろん、たとえそれに近いことがあったとしても、子供自身は、明らかに、「狩られ」てしまうのである。

「虐待」というものが、実際にあることは言うまでもなく、それ自体が、「子供」という、扱いにくい存在に対する、「魔女狩り」という面がある。そして、その「虐待」を告発し、それから保護しようという「拉致」もまた、実質は、子供に対する「魔女狩り」になっている。

昔にはなかった、現代の「魔女狩り」の特徴をあげるとすれば、やはりこの、「子供狩り」ということなのだといえる。

« 精神科医、カウンセラー主導による「虐待」の訴訟 | トップページ | 「魔女狩り」を終わらせるには »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。
精神医学を否定する立場でブログを書いているこころのホタルと申します。
内海先生の本について記事にされていることでたどりつき、
その考察に大変感銘を受けました。

ぜひいつかブログで紹介させていただきたいと思っておりましたが、
ご了承いただけますでしょうか。

また、ブログにリンクを貼らせていただいてもよろしいでしょうか。
どうかよろしくお願いいたします。


コメントありがとうございます。

私も内海医師のブログのリンクから、ときおりブログを読ませてもらっていました。

ブログでの紹介、リンクともに構いませんよ。

児童相談所の問題は、衝撃ではありましたが、本質はやはり精神医学の問題と同じといえますね。

感激です!ありがとうございます。

つたない文章で申し訳ないですが、先ほど記事をアップしました。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

ブログの更新を日々、楽しみにしております。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/575359/56820341

この記事へのトラックバック一覧です: 「発達障害」「児相問題」はより「魔女狩り」的:

« 精神科医、カウンセラー主導による「虐待」の訴訟 | トップページ | 「魔女狩り」を終わらせるには »

新設ページ

ガジェット時計Part11(光る玉・バージョン) - ガジェットダウンロードするなら、ガジェットギャラリー
2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ