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2013年2月

2013年2月23日 (土)

「発達障害」「児相問題」はより「魔女狩り」的

これまで何度も述べて来たことだが、「統合失調症」を代表とする「狂気」を、精神医学の対象とし、「治療」と称して病院に隔離し、薬漬けにすることは、かつての「魔女狩り」の継続といえる。

しかし、最近の「発達障害」、「児相問題」は、より「魔女狩り」的な色彩が濃いとみることができる。

「魔女狩り」の初期には、特定の者、異質性の強い者が、「魔女」として告発され、「排除」された。いわば、「魔女」として排除される者には、多数の者による、「暗黙の了解」があった。

ところが、ある時期から、「魔女狩り」はそのような「制限」を超えて、大きく膨らみ始める。誰が「魔女」として告発されても、おかしくない状況にまで、発展するのである。

そして、「魔女狩り」の本質という面から言うと、むしろ、この、後期の「誰が魔女として告発されても、おかしくない状況」の方こそが、注目される。

「魔女狩り」は、魔女の存在という「迷信」がもたらしたもので、そのような迷信をなくせばなくなるものだ、などというバカげた考えをしている人が、未だにいるかもしれない。

しかし、事実は、全く逆である。「魔女狩り」の本質は、実際に、<誰もが「魔女」であり得るからこそ、自分ではなく、誰か他人を、「魔女」として告発しなければならない>だからである。

実際には、誰もが、内に「魔女」としての性質を抱えているが、そうであればあるほど、自分ではなく、誰か他人が魔女でなければならないのである。その他人である魔女を、残虐に葬り去ることによって、自分が魔女である可能性をも葬り去らなければならない。

だから、いくら「狩って」も、本来、それは満たされることがなく、狩らなければならない「魔女」は、増えるばかりである。実際に、誰もが、自分が「魔女」として告発される可能性をみるところまで、それは膨らんだのであり、そうして初めて、それは終息に向かったのである。もちろん、それは、その「愚かさ」に気づいたからではなく、本当に、自分が「魔女」として告発される可能性をみたからである。

ある意味、「魔女狩り」の本質が、そこで露になりかけたわけで、それを本当に認識すれば、その「愚かさ」を知ることもできただろう。だが、誰も、そのようなことを認識したがゆえに、「魔女狩り」を止めたわけではない。ただ、自分が「魔女」として告発される予感に恐れおののいて、一時的な「休戦状態」に入っただけである。

その「魔女」とは、「悪魔」という、人間に敵対する存在と手を組んで、人間に害悪をなす者とされた。実際に、「魔女」とは、まず第一に、この意味での、文字通りの「魔女」である。この「悪魔」を「捕食者」におきかえてみれば、これまで述べで来たとおり、誰もが、「魔女」であり得ることは明らかであろう。「捕食者」の影響を受けていない者など、いないからである。あるいは、シュタイナーが言っていたように、「アーリマン存在」を無意識的にも利用して、「他者を害する」生き方をする者は、皆「悪魔」と結託した「魔女」にほかならないのである。

そのように、誰もが、潜在的には「魔女」であるが故に、誰か特定の他者を「魔女」として告発せずにはおれないのである。そして、それは、勢い、特定の者を越えて、誰もが「魔女」となるまでに発展せざるを得ないのである。「魔女」を「迷信」として、葬り去ったのは、それ以上に「魔女狩り」が発展して、「共倒れ」になることを防ぐ、窮余の策に過ぎない。

しかしまた、実質上、この「魔女」には、「害悪」や「嫌悪」に結びつけられる、排除したい「異質な者」を、ほとんどすへで含め得るということがある。「魔女」とは、「見えない」存在とのつながりであり、それは、多くの者にとって、漠然と予感するしかないものだからである。

その中でも、「狂気」の者は、特に「魔女」と呼ばれるにふさわしい者だった。「狂気」という精神の異常な状態そのものが、まさしく、「悪魔」の影響を思わせるものだったからである。しかも、この「狂気」もまた、「魔女」と同様、誰もが内に抱えるものであり、それを特定の誰かに押しつけて、「排除」したくなるものである。

実際、「魔女」として狩られた者に、「狂気」の者は多くいたはずで、それは、初めは、「見るからに」狂気を思わせる、特定の者だったろう。しかし、「狂気」もまた、漠然とした性質のもので、いくらでも拡張し得るものである。後には、「狂気っぽい」振る舞いをする、多くの者が、告発されたことだろう。

そして、そのような「狂気」の者を「狩る」ことは、「精神医学」がその役割を承継しつつ、現代も形を変えて、継続している。

それは、やはり、初めは、いかにも「狂気らしい」特定の者を対象としていた。「統合失調症」がその代表格である。ところが、ここに来て、その対象は大きく拡張され、しかも、子供まで対象にされるようになった。「発達障害」がいい例である。これは、「魔女狩り」で言えば、後期の「誰もが魔女として告発され得る状況」にまで発展して来たことを意味する。つまり、それこそが「魔女狩り」の本質とみるならば、「発達障害」は、(「統合失調症」以上に)より「魔女狩り」的といえるのである。

実際、「狂気」は誰もが内に抱えるもので、それを特定の者に押しつけて「排除」しようとする限り、際限なく拡張し、いずれは誰もが、「狂気」の者として、「狩られる」ことにならざるを得ない。

『ぼくらの中の発達障害』も言っていたように、「発達障害」は、誰の中にもある性質であることが明らかである。つまり、実際上、誰もが「発達障害」であり得ることが明白なものであり、そうであればこそ、多くの者は、誰か他人を「発達障害」として告発することに、勤しむことになる。実際、現在も、学校や職場、さらに家庭でも、「発達障害探し」とその告発が、多く行われているはずである。

さらに言うと、この「発達障害」は、(大人も含むが)子供が対象であることも重要なポイントである。そもそも、子供というのは、「大人」からみれば、「異質」な存在であり、理解の困難なものである。あるいは、「大人」の勝手な基準からみれば、どこか「狂気」じみたものでもある。ある意味で言うと、「子供」そのものが、「魔女」的な要素をもっているのである。

『ねじの回転』という、子供が背後で、「亡霊」と通じていたということを、主題とする小説があった。が、実際、子供は、「精霊」の影響を受けやすく、その意味でも、「魔女的」なところはある。大人にとって、子供を「管理」することは、いつの時代でも大変なことのはずだが、現代は、大人がその能力を大きく失ったが故に、余計に大変なことになった。そうして、その「管理」から逸脱しやすい子供は、「発達障害」として、「狩る」方向へと、大きく流れ始めたのだと言える。

「発達障害」には、誰もが「狂気」を内に抱えるということの、必然的な発展の面があると同時に、「子供」を、特に「魔女」として狩ろうとすることの表れという面もあるということである。それは、もちろん、「精神医学」や「支配層」の戦略的な狙いとして、なされているのでもある。しかし、「魔女狩り」が、教会や異端審問所に実行の手を委ねつつ、多くの市民が主体となって行われたように、この「発達障害狩り」にも、多くの「大人」が「主体」となって行われる面がある、ということである。

この「子供」が「狩られる」ということについては、「児童相談所」の「拉致」問題も同じである。

これは、親の「虐待」を理由とするものであり、「狩られ」ているのは、「虐待親」であるともいえる。確かに、ここで「魔女」と同じ意味合いの、忌まわしく、「排除」すべき存在として、俎上に上っているのは、「虐待親」である。この「虐待」もまた、一見「異常」なものではあるが、「魔女」や「狂気」と同様、本来誰もが、「なし得る」ものである。あるいは、「虐待」という言葉も、「魔女」や「狂気」と同様曖昧であり、とりようによっては、誰もが既に「なしている」ものである。その意味では、「発達障害」と同様、誰もが「虐待親」として告発される可能性のあるものである。また、そうであればあるほど、誰か他者を告発しようとする動機づけをもつものである。

『児童相談所の怖い話』に紹介されている事例では、実際に、「虐待親」の子供は、学校や病院などの「通報」によって、拉致されることが多い。学校や病院は、ある意味「児童相談所」と「つるん」で、目をつけた「虐待親」を「狩っ」ているという面がある。が、そうでなくとも、地域や親戚関係など、何らかの「こじれ」から、気に入らない、または嫌悪される親が、「虐待親」として通報される可能性はいくらもある。実際、「児童相談所」は、「虐待」の疑いのある者を見かけたら、すぐ通報するように、キャンペーンをしている。そして通報された以上、その疑いを晴らして、拉致を防いだり、あるいは、子供を取り戻すのは容易なことではないのである。
                                                               
これは、「魔女狩り」において、市民の「告発」により、魔女裁判が始められ、告発された者は実際上、ほぼ間違いなく「狩られる」のと同じである。(刑を執行する教会や異端審問所の側にも、権威の拡大のほか、財産の没収など、経済的「うまみ」があったのも、同じ構造である。)

しかし、この拉致において、実質「狩られ」ているのは、やはりその拉致された子供自身というべきである。「虐待親」も、子供を取られ、引き裂かれるという苦痛を受けるが、子供は、保護を名目に、施設へと監禁され、精神疾患の者と同様、薬漬けにされる。虐待が名目だけの場合はもちろん、たとえそれに近いことがあったとしても、子供自身は、明らかに、「狩られ」てしまうのである。

「虐待」というものが、実際にあることは言うまでもなく、それ自体が、「子供」という、扱いにくい存在に対する、「魔女狩り」という面がある。そして、その「虐待」を告発し、それから保護しようという「拉致」もまた、実質は、子供に対する「魔女狩り」になっている。

昔にはなかった、現代の「魔女狩り」の特徴をあげるとすれば、やはりこの、「子供狩り」ということなのだといえる。

2013年2月17日 (日)

精神科医、カウンセラー主導による「虐待」の訴訟

前回、「支配層」による「子供」の直接「支配」(実質は「弱体化」なのだが)が、まさに実行に移されているということをみた。

前回は、「児童相談所」による子供の拉致をとりあげたが、このような例は、ほかにも、いくつかあげることができる。「発達障害」その他の、子供の障害を増やして、子供を直接「精神医学」の対象としようとすることも、そのひとつの表れといえる。また「ワクチン」の種類を増やして、義務づけることなども、そのひとつといえる。

さらに、これはアメリカの例であって、日本では考えにくいものだが、「児童相談所」による子供の拉致と同様、「虐待」に絡む、「介入」ないし問題拡大の例として、次のようなものもある。(アメリカで一昔前に、相当広まったことのようであるが、現在どのようになっているかは不明。日本でも似たことがあったのかどうかも不明)

精神科医またはカウンセラーが、子供あるいは既に成人した人の相談を受ける際、催眠療法で幼児の頃の記憶を呼び起こし、親から「虐待」されたことを思い出させ、現在抱えている問題は、その虐待が原因であるとする。そして、何と、その親を訴訟で訴えて、損害賠償を取ることを指導するというものである。それも、主に、父親による娘への「性的虐待」が多く、その「おぞましさ」、「ショッキングさ」が強調されるものになっている。(矢幡洋著『怪しいPTSD 』参照)

カウンセラー社会、訴訟社会たるアメリカならではの出来事だが、これには、いくつかの問題がある。

まず、「催眠療法」だが、「年齢退行催眠」というのは、確かに忘れられていた子供の頃の記憶を呼び起こす作用というのはある。しかし、それは、多分に術者の暗示や誘導による影響を受けるもので、「作られた記憶」になることも多い。だから、「虐待」の記憶が呼び出されたとしても、それが事実かどうかは確かなことではない。しかし、たとえ実際に「虐待」があり、それが現在の問題を生み出しているとしても、その親を訴えることが、問題の解決にならないことは明らかである。

さらに、実際には、「虐待」がなくても、先にみたように、精神科医やカウンセラーが強く誘導すれば、事実上「虐待」はいくらでも作り出される。そのような「作られた記憶」によって、親を訴え、家族を崩壊に導くようなことが、多く行われたようなのである。それは、その誘導のやり方が、ほとんど「マニュアル」的に、普及していたことを意味している。

このようなことは、精神科医やカウンセラーが単独に企んだというよりも、「支配層」の手が回っていたと考えざるを得ない。そこには、訴訟で勝訴した場合の謝礼を目当てとする、ビジネスという面も大きくあるだろう。しかし、「支配層」からみての、真の狙いは、「虐待」ということと、その「おぞましさ」を、実際以上に、世に大きく広めること。そして、その「虐待」につけ込んで、親との関係を引き裂き、家族を崩壊させることの方にあったはずである。

それは、「支配層」が、家族に「介入」を企て、子供を管理しようとすることの、前哨戦だったのだと思われる。

あるいは、「虐待」ということ、というより、実際には「虐待」という「言葉」が、いかに、つけ込む「ネタ」になるかということを、このとき、実地を通して、よく知ったのだと思われる。それは、問題や混乱を拡大したり、権力的な「介入」を理由づける、格好の「ネタ」となるのである。

その背景には、「虐待」ということが、現代における、「悪」の元凶であるかのように、忌まわしき事柄として、多くの人に、認識され始めたことがある。そのこと自体には、実際に、大きな理由があるというべきである。しかし、「虐待」という言葉は、大きく「一人歩き」し、「虐待親」は、かつての「魔女」のように、「狩るべき」ものともなった.。

この「魔女狩り」的な面については、次回に少し詳しく述べてみたい。

2013年2月11日 (月)

「精神医学」と「児童相談所」の「介入」

内海医師の『児童相談所の怖い話』(三五館)を読んだが、衝撃は、「精神医学」についてのものより、ずっと強かった。そして、これは、「精神医学」以上に難しい問題と感じた。

もちろん、この問題にも、「精神医学」が絡んではいるのたが、「精神医学」の権力的なありようとか、「怖い」面は、「知る」人はもちろん、誰でもある程度は、予想がつくはずのものである。

しかし、「児童相談所」の一般的イメージから、このような、「精神医学」以上ともいえる、権力的で、理不尽なありようは、なかなか連想しにくい。恐らく、(この本が出て、それが変わる可能性はあるが)今後も、容易には、認識されないことだろう。「精神医学」の場合と同様、「支配層」や「捕食者」の手が回っているのは明らかと思うが、その「盲点」のようなところへの、目のつけどころとしては、「見事」というしかないものがある。

子供が、「虐待」の名の下に、児童相談所によって、親の同意を得ずに、一方的に「拉致」され、「一時保護」を名目に、施設に何年も「監禁」され、親には面接すら許されない。施設では、子供を「おとなしくさせる」ため、児童精神科医とも組んで、子供を精神薬によって、薬漬けにして管理している。こんなことが、一応ともの「法治国家」で、しかも「常態」としてなされているというのである。

実は、私は、本書でも、少し触れられているイギリスの事例だが、デーヴィッド・アイクの『ムーン・マトリックス(ゲームプラン篇3)』で、ソーシャルワーカーが、「虐待」の名目のもと、親から子供を拉致し、「盗んで」いるという話を知ってはいた。アイクは、これは、国家が直接子供を管理するシステムを作ることに乗り出したものとし、子供にマイクロチップを植え込んだり、薬でロボット化して、奴隷のように支配するのだとしていた。後半の目的の「過激さ」(それに近いことは、十分考えられるにしても)もさることながら、やはり、ソーシャルワーカーが子供を一方的に「拉致」するなどということが、信じ難かったし、実際、それをしようとしても、そんなことが自由にできるはずもないという思いがあった。

日本については、まだ、子供の虐待ということが、あまり取り沙汰されなかった当時、児童相談所に関するテレビの報道番組を見たことがあった。そこでは、児童相談所が親の虐待という事実をつかんでいても、家庭に踏み込むことができずに、手をこまねいているという事態がとりあげられていた。「児童相談所」は、単なる「相談所」で、実効性のあることは何もできないというイメージがあり、実際、そんな感じだった。「虐待」のことが大分認識されて来た、割と最近にも、児童相談所が「虐待」の現場に踏み込もうにも、「力」がなく、それができずに、虐待を防ぐことができなかったということを扱ったものがあった。

(これらが、「児童相談所」の権力の拡大を宣伝するために、意図的に構成されていた可能性というのはあるが、少なくとも、かつての「児童相談所」というのは、本当にそのような弱小な組織だったのだと思う。だからこそ、「虐待」の増大に対処するための、急激な「権力」の拡大に、「児童相談所」自体振り回されているのだし、そのギャップ(盲点)こそが、「支配層」や「捕食者」にとっては、格好の目のつけどころだったのだと思う。)

その後、日本の「児童相談所」が、「虐待」を名目に、子供を一方的に「拉致」するという話も、Youtubeの動画などを通して、一応は知った。が、それは、全体としてみれば、やはり特殊な事例だろうという思いがあった。

しかし、今回、『児童相談所の怖い話』を読むと、それが「常態」であること、また、システム的に、このようなことにならざるを得ないことも、十分理解できるものとなった。

まず、いくつかの典型的な事例が、かなり詳細に紹介されている。具体的に、どのようにして、「拉致」や「監禁」などという、理不尽なことが起こるのか、よく分かる。そして、根拠法たる「児童虐待の防止等に関する法律」によっても、「虐待」ということの具体的な内容が規定されておらず、児童相談所の独断によって、子供の「一時保護」の運用をできてしまうこと。唯一の監督機関である、家庭裁判所の「審判」は、形式的なものに過ぎないこと。そもそも「児童相談所」がもともと、家族の「虐待」に対する対応力も専門性も何も備えていないこと。児童相談所としては、予算確保のために、予め決めた「一時保護」の人数を、必ず実行することで、確保する必要があること。ここにも、精神医学の場合と同様、「アンタッチャブル」な要素があることなど、構造的に、こういったことが「常態」にならざるを得ないことが十分納得できるものとなっている。

そして、これは、次代を担う、子供の子育てとか教育(今も「体罰」の問題がクローズアップされているが)の問題も絡む、かなり根源的で難しい問題である。その意味では、ある程度、問題の「見えやすい」、「精神医学」の場合以上の問題とも言えるだろう。しかし、同時に、構造的には、精神医学の問題と共通するところが非常に多い。この問題が、精神医学がもともとはらんでいた問題や、それが権力化する過程を、「リアルタイム」に浮き上がらせるという面もあるのである。

いずれ、もっと個々の問題を具体的にとりあげてみたいが、今、「精神医学」との共通の構造として、特に背後の「支配層」や「捕食者」に注目した視点から、一つだけ述べておきたい。それは、図にすると、次のようになる。

Photo
結局、「支配層」や「捕食者」は、これらの「問題」を自ら「作り出し」つつ、(「丸投げ」される形で)自ら権力的に「介入」し、それによって、かえって問題自体を拡大して、混乱を深めているということである。

「精神医学」であれば、問題は、「狂気」であるが、これは、既に何度もみて来たように、「捕食者」の攻撃や仕掛けによって作り出される面が強い。さらに、「支配層」のもたらす「社会構造」は、その「狂気」を大きく膨らませる。つまり、彼ら自ら、「作り出し」ているものである。

「児童相談所」の場合は、それに対応する問題は、「虐待」である。これも、「捕食者」あるいは「捕食者的な精霊」の(憑依的な)影響によって、なされることが多い。また「支配層」の社会構造は、それを誘発するものになっている。だから、同じく、彼ら自ら、「作り出し」ている面が強い。さらに、「支配層」は、「虐待」が、大きな社会問題であり、「介入」を要する問題であることを、メディアなどを通じて、ことさら宣伝しようとする。

これらの問題には、ともに、「アンタッチャブル」な面が濃くある。というより、まさに、そういうものとして、「作り出さ」れているのである。「狂気」には、誰もが、「理解しがたい」「異常」なものとして、関わりたがらないが、「虐待」の場合にも、それは言える。自分の子を「虐待」するというのは、信じがたい「異常」な行いであり、ある種の「狂気」である。また、「家族」というのは、他人の踏み込みがたい「聖域」のようなところがあり、その意味でも、誰もがその問題には、あえて関わろうとはしない。

そういうことで、結局、「狂気」にしても、「虐待」にしても、何者かが、専門職として、そこに「介入」する必要のあるものとされ、しかも、それに、「丸投げ」されることになる。それは、事実として、権力的な「実力行使」を必要とするものであるし、「アンタッチャブル」で、一般の者の触れ難いことが、余計に、権力的なあり方を強めて行く。

そうやって、「問題解決」のために、強い「権力的介入」を生み出していくが、しかし、それは、決して、本当に、問題を解決するようには、働くことがない。それは、もともと、「捕食者」や「支配層」にとって、そう意図されたものなのだし、実際の解決手段も、問題の「ごまかし」か、「すり替え」でしかないからである。それは、結局、「問題」をさらに拡大し、混乱を深めることにしかならない。が、それこそが、初めから、意図されていたことなのである。また、それは、介入する「権力」をますます増大し、その「支配力」を強める、口実ともなる。

精神医学では、もともと、この「権力的要素」は、見えやすかったが、精神薬の開発と、そのイメージ作りにある程度成功したことで、その要素も見えにくくされたことが、需要の拡大と実質的「権力」の拡大に大きく貢献した。しかし、ここに来てそれにも、大きな陰りをみせ始めた。

ところが、「児童相談所」は、その「権力的要素」も見えにくいままいに、いつのまにか勢力を伸ばし、その意図を達しつつある。これは、「捕食者」や「支配層」にとって、対象が、次代を担う「子供」という、最高の狙い目であること。児童精神科医も巻き込みつつ、実質、精神医学と同じ効果ももたらせること。「家族」という、これまで踏み込みにくかった「聖域」へと権力の手を伸ばして、家族をばらばらに崩壊させる道をつけたことなど、「地味」ながら、大きな効果を望めるものになっている。

アイクの言っていたように、これは、国家(支配層)が、直接子供を支配するシステム作りに、実際に乗り出したものとも考えられる。児童相談所による、今のやり方で、それが即実行できるとは思えないが、しかし、その発想自体は、既に十分に、実行に向けて、据えられていると思われるのである。

その発想も図にすると、次のようになる。

Photo_2 これまでは、「捕食者」または「支配層」の支配は、まず「世間」、次に「大人」を通して、「子供」に及んでいた。「子供」に対しても、もちろん、このような「システム」に誘導するための、さまざまな働きかけがなされていた(それを象徴するのが、日本の「なまはげ」の儀式)が、「支配」のあり方としては、間接的なもので、そこに、ある程度の自由はあったといえる。

しかし、最近は、このような「システム」にのっかろうとしない子供が増えていることもあろう。次代を担う「子供」を、子供のときから、直接「支配」の対象とするべく、支配の強化を図ったものと思われる。言わば、「子供」を通して、「親」や「世間」の支配をなすという、これまでとは逆の、発想の転換である。しかし、それには、これまで認められていた、「親」の子供に対する管理権を奪い、「家族」の問題に積極的に「介入」し、家族をばらばらにしなければならない。

まずは、そのようなことに手をつけるべく、「児童相談所」による子供の「拉致」が、実行に移されていると思われるのである。

ただし、このような発想には、「捕食者」または「支配層」の、「支配力」がなし崩しになることへの、強い「恐れ」と「焦り」も感じられる。「子供」が、彼らの意図しない、違う方向に行ってしまうことを、強く恐れていることの現れということである。

2013年2月 2日 (土)

「破壊のかまど」

シュタイナーは、『悪について』で、人間の内奥の最も深くに、「破壊のかまど」というものが見出せるという。

物質は、人間の内面においては、完全に無の中に戻されてしまい、物質の本質が完全に破壊されてしまうのです。人間のエーテル体は、記憶が映し出されるところよりも内面のもっと深いところで、物質をカオスに帰し、物質を完全に破壊することができるのです。
 内面の、記憶の鏡の奥のところに、私たちはエーテル体の途方もない破壊力を担っています。もしもこの力を担っていなかったなら、私たちは思考力を発達させることができなかったでしょう。
…何かを思い出そうとするときと同じ態度で、内面に深く沈潜していくと。存在するものを破壊し、消し去ろうとする力の働いている領分に至ります。私たちは、誰でも、まさに思考する自我を発達させるために、物質を破壊し、融解しようとする猛火を記憶の鏡の奥に担っているのです。   (60頁)

これは、物質的なものを無に帰し、破壊する、ある種の「かまど」である。人間の内奥には、外部的なものを映し出し、記憶の働きのもととなる、一種の「鏡」がある。通常、人間は、内面に、この「鏡」が映し出す外部の反映しか見ない。だから、「かまど」は、通常、この鏡のさらに奥に、隠されている。しかし、この鏡が「割れた」ときに、その奥にある「破壊のかまど」が、露になるという。

人間は、内奥に、このような、根源的ともいえる、「破壊衝動」を抱えているということである。そのような「破壊衝動」は、自覚されていないと、外部へと「持ち出さ」れ、外界、または自分自身に対する、ただの「破壊衝動」ともなる。しかし、この「破壊衝動」は、一方で、「思考を発達させる力」でもあるという。

このような、根源的な「破壊衝動」は、フロイトが無意識の最も奥にあるとみた、「死の欲動」(タナトス)、あるいは、ショーペンハウアーが、あらゆる存在の内奥に働くとみた、「盲目の意志」にも通じるものだろう。(「鏡」に映し出されたものが「表象」とすれば、その奥にあるものが「意志」)

それにしても、また、この「破壊のかまど」は、私が一連の体験の最終段階で体験した、「宇宙の死」とか、「闇」や「虚無」、さらに「クリダリニー」的体験と大きく関わるものでもある。というより、この体験を、シュタイナー的にいえば、外界を映し出す「鏡」が割れて、「破壊のかまど」が露となる体験、ということになるのだろう。

「宇宙の死」とは、「自我」が死に瀕する状況での、その外界における反映ということもいえる。が、これは、シュタイナー的にいえば、内奥にある、外界を映し出す「鏡」が割れることによって、外界のあらゆるものが「無」に帰す体験ということになるはずである。これは、実際に、「思い出す」という「記憶」の力をより深く呼び起こした先に、起こったことである。そして、その結果、外界としての、あらゆる物質世界、まさに全宇宙が「無」に帰すのを、リアルに体験するのである。

これは同時に、根源的な「闇」や「虚無」を、内部に引き寄せるものともなる。シュタイナーでは、この点が明言されていないが、後にみるように、ある程度予感されていたものと思われる。

また、この破壊作用の過程では、実際に、一種の「かまど」が露になる。「かまど」というのは、この破壊作用が、「火」の「焼き尽くす」働きであることを示している。最近の記事「アーリマン」と「火地球」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-cb26.html )でも述べたように、実際に、「燃え盛る火」の強烈な「ビジョン」が現れたし、また、夢でも、全く暗黒の背景に「かまど」そのもののような火のビジョンも現れた。

また、記事「火」の両義性と「クンダリニー」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-12ec.html)でも述べたように、この「火」は、同時に、眠っている「霊的エネルギー」の「開花」(急激に起これば、「爆発」)である、「クンダリニーの火」でもある。シュタイナーも、それは、巨大な「エーテル的エネルギー」であると言い、「肉体の物質素材をカオス化し、破壊する」と言っている。それが、尾骨から頭頂に向けて上昇することによって、全身を揺るがし(カオス化し)、その通り道にたまった、思考や感情の「塊」を破壊(浄化)していく。

シュタイナーも、「破壊のかまど」は、「思考の力を発達させる力」でもあると言っていたが、それは、恐らく単なる「思考」ではなく、「純粋思考」というべきものである。この破壊の力により、知覚や感情などに左右されない、思考それ自体の力が純粋に発現するということである。

また、シュタイナーは、「火地球」という、地球における「破壊のかまど」に相当するものについて語り、それは、アーリマン存在の拠点だということを述べていた。そうすると、この「破壊のかまど」も、やはり、アーリマン存在の拠点または、アーリマン存在によって植え付けられたものということに、とりあえずはなるはずである。私も、それは、実際に、感じられたことである。

しかし、シュタイナーは、この「破壊のかまど」について、アーリマン存在との関係には、何も触れていない。それは、恐らく、シュタイナーも、「アーリマン存在」との関係は当然認めつつ、さらに、それを越えたものをそこに予感していたからであろうと思う。

「あるゆる物質を無に帰す」という言い方によっても、それは、もはや「アーリマン存在」の「破壊」の性質を越えており、そこには、すべてを「無」に帰す、「闇」または「虚無」そのものの働きをみざるを得ないからである。

あるいは、「破壊のかまど」は、それを「通路」としての、「虚無へと通じる扉」という言い方もできるだろう。その意味では、この「破壊のかまど」は、人間の最も内奥に抱えられた、「虚無」そのものということもできる。

このように、シュタイナーは、(一般のイメージはそうではないかもしれないが)「闇」や「虚無」に対する視点を、かなりもっていことが分かる。その辺が、そこら辺の「スピリチュアル」とは、一線を画するところである。ただし、それは、明確なものではなく、漠然としたもので、特に、「霊的進化」という「水平的方向」とは別の、「垂直的方向」のものであるという認識は、なかったに等しい。その点が、鋭く本質に迫るものを感じさせつつ、常にどこかに「曖昧さ」もつきまとわせていたことの、大きな理由なのだと思う、

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