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2013年1月

2013年1月28日 (月)

「アーリマン」と「自己主義」/「利己主義」

前回、シュタイナーは、「アーリマン存在」から、もっぱらこの世のために、「自己主義(利己主義)」を受けとることが、「悪」なのだとみてたと述べた。これついて、もう少し説明してみよう。

訳者の髙橋巌は、「アーリマン存在」が人間にもたらすものを、「自己主義」という言葉で通している。しかし、これは、状況により、「自己主義」と「利己主義」で訳し分けると、より理解しやすいものとなる。

「自己主義」というのは、「アーリマン存在」が、人間の魂を鍛え、強固にするという面を捉えて、いわれている。そして、それは、「霊界」において、人間がしっかりと「自己」を保ちつつ、参入するために、必要なこととされているのである。それに対して、「アーリマン存在」から、この「自己主義」的なものを、もっぱらこの世のために受とるときは、普通にいう、「利己主義」と同じものになる。

「自己主義」というのは、「自己」という枠組みを前提に、それを育て、強化して行くことで、「魂の強化」ということにつながる。「アーリマン存在」は、「ルシファー存在」とともに、人間に、このようなものをもたらす存在として、必要なものとされているのである。

但し、これがもっばら「この世」のためになされると、それは、単なる「利己主義」となる。「自己主義」というのは、あくまで、「霊界」において必要となる、「自己」=「魂」の強化なのである。それは、肉体という固体的な枠組みをもち、また、「利己主義」を克服する可能性のある、「この世」でこそ、十分になし得るものである。しかし、もっぱらそれが、「この世」のためだけになされるなら、それはただの「利己主義」になるということである。
                              
だから、「アーリマン存在」がもたらすものは、状況と、我々の受け取り方によって、「両義的」なものとなる。「アーリマン存在」そのものが「悪」でないのはもちろん、「アーリマン存在」がもたらすものが、ただちに「悪」ということなのでもない。

「霊界」においては、「自己」=「魂」の強化が必要ということだが、「霊界」特に「霊界の境域」においては、「自己」=「魂」の強化がなされていないと、大きな混乱に陥り、抜けられなくなることは、これまでにもみて来た。

それは、「霊界」または「霊界の境域」においては、肉体のような固体的な枠組みが希薄なため、「自己」と外界の「境界」が曖昧となり、「自己」が周辺領域へと、「拡散」してしまいやすいからである。その結果、「自己」という「意識」は希薄になり、弱められる。また、本来外界にあるはずのものが、自己の内部に感じられたり、自己の内部にあるはずのものが、外界に感じられたりする。それにより、大きな混乱を来すのである。

「統合失調」的状況で、外界にあるものや他人の声などが、直接自己の内部で感じられたり、自分の内部にある思考などが、周りに漏れ出ていると感じられるのも、まさにそのような状況にあるからである。

このようなことにならないためには、「この世」において、「自己」=「魂」が強化されていなければならない。そして、それは、多分に、「自己」という「境界づけられた」「枠組み」を強化するということでもある。それは、確かに、一歩間違えば、「利己主義」へと容易に移り変わるような、一つの「自己主義」なのである。しかし、そのようなものは必要なのであり、「アーリマン」存在の強力な働きかけと、人間の側の関わり方で、身につくものとされるのである。

ところが、さらにいうと、このような「自己」を分散させる性質は、「霊界」そのものよりも、「霊界の境域」こそが、より激しいものといえるのである。「霊界」も一つの「秩序」であり、その意味では、「この世」ほどでないにしても、「自己」を保たせる性質は多くある。ところが、「霊界の境域」は、より混沌としており、また既にみたように、根底に「闇」または「虚無」が控えているために、より本来的に、「自己」という「枠組み」を圧迫し、分散させる性質があるのである。

シュタイナーでは、この点には触れられていないが、「霊界の境域」こそが、「自己」=「魂」の強化を、最も強く要請するのである。それは、「霊界の境域」に住まう、「アーリマン存在」の攻撃に対処するという、現実的な意味でも、そうである。

しかし、本来、「霊界の境域」に開けた、この「闇」または「虚無」こそが、「自己」という枠組みを分散、さらには、崩壊させる、根源的な「力」なのである。既にみたように、この「崩壊」作用は、「垂直的方向」の、様々なレベルで、「死」をもたらすものである。しかし、それは、それが十全になされるなら、同時に、「再生」への契機ともなる。それは、より深いレベルでは、「悟り」や「解脱」をもたらすものともなり得る。

しかし、「自己」=「魂」の強化ということがなされていなければ、その「死」や「再生」ということ以前に、「垂直的方向」へまともに下降することもできず、「自己」は分散して、混乱したまま、「宙づり状態」となる。多くの、「統合失調」状態が、そうであるようにである。

シュタイナー自身は、この「自己」=「魂」の強化ということは、「霊的な進化」のため必要なものとし、しかし、それは、この物質的な世界でこそ達成できるものとしていた。シュタイナーは、「物質的な世界」を通して、「霊的な世界」を、より「霊化」するのが、人間の使命であり、「進化」であるとしていたのである。

しかし、実際には、「自己」=「魂」の強化ということは、上のように、「闇」や「虚無」(垂直的方向)との関係でこそ、最も必要とされるものというべきなのである。

この点では、前にとりあげた、ブルース・モーエンの、「神」が「虚無」を前にしたときの、原初的な「物語り」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html)の方が、より参考となる。

再び挙げると、

初め、「創造者」である「存在者」は、自分の回りを取り巻く、得たいの知れない「大いなる未知」(虚無)に恐れを抱いた。「存在者」は、その探索をしたいと思い、自らの一部を「分身」としてさまざまに集めたものを創造して、そこに飛び込ませた。ところが、それらは、「大いなる未知」に突入すると、崩壊してしまって、戻ってくることがなかった。

そこで、「存在者」は、さまざまな実験を繰り返すが、結局、それらの分身は、「無条件の愛」をもって、全体を「統一」していない限り、そこで崩壊せずに、帰ってくることができないことが分かったという。

ある意味で、この「神」の「虚無」を前にした、原初の「物語り」は、我々を通して、延々と繰り返され続けているわけである。「虚無」による、「自己」の分散とは、「神」に起源を発する、根源的なモチーフであり、それは単なる「進化」の問題に帰すこともできないというべきである。

ここでいわれる、「無条件の愛」というのは、分裂や葛藤を来さない、最も「統合」された「自己」の状態であり、あらゆるものを受容できる状態ということもできる。それは、「アーリマン存在」の攻撃や仕掛けによっても、分裂や葛藤を来さず、さらに、「アーリマン存在」自体をも、それとして受容できる状態なのである。

その意味では、「アーリマン存在」による「自己」=「魂」の強化ということを、含んでいるものであり、その、一つの完成の状態ということができる。

このようにして、「虚無」のただ中においても、「自己」が分散しない状態となり得るということである。

但し、それは、あくまでも、「アーリマン存在」との格闘を通しての、「自己主義」に始まるのである。

ところで、もう一方の「利己主義」についてだが、これについては、シュタイナーの『悪について』に、さらに興味深い記述がある。

自分の本能、衝動、情熱に客観的に向き合えない人びとが自分の周りにこういう破壊的な本性たちのいることを知ったなら、すぐにこの破壊的な力を利用しようとするでしょう。神がみが誕生と死に際してこれらの本性を働かせるのと違って、物質生活の中でそうしようとしたでしょう。人間があれこれの分野で破壊的に働きかける喜びをもってしまったなら、この本性たちを自分のために役立たせる機会をいくらでもみつけることができるでしょう。実際、私たちは、この本性たちを簡単に自分の使用人にすることができるのです。通常の人生が誕生と死の四大霊(アーリマン存在のこと)の破壊的な衝動から護られているためには、この本性のことが秘せられていなければならなかったのです。(136頁)

つまり、「利己主義」というのは、単に、受動的に、「アーリマン存在」の言いなりになったり、影響を受けている状態を意味するだけではない。むしろ、人間の方が、自らの欲望のために、「アーリマン存在」を、自在に「使う」ことによって、「利己主義」を強化するということである。あるいは、「アーリマン存在」が、あえて、人間の「利己主義」を強化すべく、戦略的に、そのように自ら「従者」となるということである。

これについては、カスタネダのドンファンも、「捕食者」の「支配」の性質として、より率直な説明をしている。

いまこの瞬間にも、無数の外部の力(特に「捕食者」)がお前を支配している。そいつはおまえの支配である、と同時に、そうではない。
…そいつは確実に操ることができる。もちろんどこからどこまでお前の好都合なようにだ。だが、これまた同時に、お前にとって好都合なのではなく、エネルギー体(「捕食者」)にとって好都合なのだ。   『無限の本質』(270頁)

この、「アーリマン存在」または「捕食者」を、自らの意図のもとに、自在に「使う」人間というのは、ある意味で、「呪術者」であり、「式神」を自在に操る「陰陽師」のごときものである。もちろん、それを、自覚的に行えば、本物の「呪術師」であり、「黒魔術師」だが、ここでは、あくまで、無意識的に行われることが想定されている。

つまり、このようにして、人間は、ある意味で、「呪術師」のごとく「強く」なり、他人への支配力を強めていく。デーヴィッド・アイクは、人間の「支配層」は、「捕食者」的な存在との「ハイブリッド種族」というが、そうでなくとも、「支配層」は、このようにして、「呪術的」な力を強めていったものということができる。あるいは、カルトの教祖などにも、このような力を強めた者が多くいる。

シュタイナーは、「アーリマン存在」は、このように「利用」される可能性があるゆえに、これまで秘密にされてきたという。しかし、もはや、現代では、そのような「誘惑」の危険を冒しても、この存在について知る必要があるということになる。

但し、それは、「この世」的には、確かに、「強く」なることかもしれないが、霊界への参入に必要となる、「自己」=「魂」の強化とは異なる。それは、要するに、もっぱら「この世」のための、ただの「利己主義」を押し進めたものであり、「自己主義」の退廃的な現れに過ぎない、ということである。

2013年1月24日 (木)

「霊界のつまみ食い」とアーリマン/「境域」の重要性

「統合失調」的状況に陥る者は、「霊界の境域」に望まずして入り込んで、そこに住まう「精霊」や「捕食者」から、様々な攻撃や仕掛けを受ける。それにより、「霊界の境域」に特有の、通常の「日常性」からは逸脱した「未知」のものを、何ほどか意識するに至る。それが、その者の「恐怖」と「想像力」を大きく膨らませ、「日常性」を逸脱した、「妄想」や「幻覚」を生み出す。そのようにして、「精霊」や「捕食者」の餌食になる、ということを述べてきた。

シュタイナーも、また、『悪について』で、「霊界の境域」で何事かを体験した者が、それを日常世界に無反省に持ち込むことを「霊界のつまみ食い」と呼び、その者は、アーリマンの格好の餌食になるということを述べている。

霊界でつまみ食いをすると、その例はまれではないのですが、霊界で体験したことを感覚世界の中に持ち込んでしまうのです。
…物質的、感覚的世界の中で見たり考えたりするだけでなく、身体の中に戻って来ても、イメージの中では霊界の影響を保ち続けるのです。しかもそのとき保っているイメージは、感覚世界にそっくりなのです。ただ、現実に対応しているのではなく、幻想であり、夢想なのですけども。
 正しく霊視することのできる人は、霊界においても、現実と想像とを取り違えることはありません。しかしただ霊界でつまみ食いしかしなかった人は、妄想と現実を混同することから守られていません。イメージを濃縮して、その単なるイメージを現実だと思ってしまいます。
 このように霊界でつまみ食いをした人は、アーリマンの格好の獲物なのです。アーリマンは通常の人間の思考からは、つまらない影しか手に入れられませんが、霊界のつまみ食いによって生じた、間違った妄想からは、卑俗な言い方をすれば、あぶらののった、おいしい影と図式を手に入れることができるのです。(103頁)

つまり、霊界でつまみ食いをした人は、感覚世界の中に、そのイメージを「投影」して、それを感覚世界で生じている出来事そのものとして受け取ってしまう。それで、「現実」と「想像」(イメージ)を混同してしまう、ということである。

また、通常の「日常性」においては、型にはまった感覚や思考が支配しているので、そこからもたらされる「感情的振幅」も、大したものではない。しかし、「霊界のつまみ食い」をした者は、その体験から、日常性を逸脱する、様々な要素を「感覚世界」に持ち込んで、イメージや妄想を膨らませるので、その「感情的振幅」も大きなものとなる。その結果、アーリマンに、格好の「うまみ」のある、獲物を提供するということである。

これなどは、まさに、「統合失調」的状況に陥る者そのもののことを述べていると言ってもいいほどである。

また、私は、「霊界の境域」は、現代では、見逃すことのできないほど重要なものとなっている、というより、もはや、この「感覚世界」に多分に侵入していて、ある意味、この「感覚世界」そのものが、「霊界の境域」と化しているということを述べた。

シュタイナーもまた、一方では、現代においては、「霊界の境域」に注目することが何よりも重要なこととして、次のように言う。

私たちは今、私たちの物質的=感覚的な世界と霊界との間のいわば<境界領域>にすぐにでも目を向けなければならないのです。私たちは、霊界とのこの境界領域に一歩足を踏み入れると、物質的=感覚的な世界とは様相が一変します。弱いまなざしでは見ることのできない本性たちが現れてきます。
…ではなぜ、後アトランティス期(アトランティス期以後の現代に通じる時代)において、これまで境界領域のことが隠され続けてきたのでしょうか。なぜなら、霊界におけるこの境界領域には、多種多様な境界存在たちがいるのですが、その中にはこれまで一定の条件内でしか人間に知らされていなかった存在たち、特定の使命をもっている存在たち、特に人間自身の進化のための使命をもっている存在たちがいるからなのです。…宇宙との関連の中で人間の誕生と死に関わる使命をもった存在たちです。

…私たちの世界に直接境を接している霊的世界は、日々、時々刻々、私たちの世界に関与しています。なぜなら地上では日々、時々刻々、誕生と死の経過が生じているのですから。
 そして私たちが境域の世界に足を踏み入れる瞬間に、人間の通常の物質世界に破壊的に作用しようとする存在たちの活発ないとなみの中に入っていくのです。(133、135頁)

前回もみたように、「アーリマン存在」の「霊界の境域」での活動は、近代から現代にかけて、非常に活性化しており、人間への影響を強めている。それは、誕生の瞬間から、人間の間近に寄り添うようにして働き、人間の「この世の生と死」に直接関わるものとなっている。そして、人間社会そのものも、「アーリマン化」していると言えるほどになっている。

このような状況においては、「霊界の境域」に目を向けること、さらに、そこから人間に働きかける、「アーリマン存在」のことを知ることは必要である。そして、その影響により、社会あるいは文明が破壊へと向かっていくことを、意識している必要がある。そのようにして、それらが引き起こす様々な事柄を、「眠り込んだ」まま通り過ぎるのではなく、「覚めた目」で、しっかりと見つめながら、通り過ぎることが重要なのだという。

注意すべきは、シュタイナーが言っているのは、何も、これらの存在のことを知ることで、それらの、社会における「破壊的な働きかけ」を阻止できるということではないことである。既にみたように、シュタイナーは、それらの存在が現代社会を徹底的に破壊すること自体は、避けようもないし、また、そうなることは、一種の必然(「鉄の必然」という)とみていた。

シュタイナーは、あくまで、そのような存在の働きについて、人間が「眠った」まま通り過ぎることで、魂まで「巻き込まれ」てしまうことを避けようというのである。シュタイナーは、「物質的なもの」を重視してはいるが、それは、あくまで「霊的なもの」に従属する限りでである。本当に問題となるのは、「物質的なものの破壊」なのではなく、「魂の破壊」なのだということである。

あるいはそれらアーリマン存在の破壊的な働きを認識し、しっかりと受け止めて生きることで、魂を強固にすることこそが重要なのだという。「霊界」に、「つまみ食い」ではなく、本当に、自覚的に参入するには、そのような強固な魂を必要とするからである。

このように、アーリマン存在は、人間の魂を鍛え、強固にする存在として、必要なものとされている。誤解されがちだが、シュタイナーは、「アーリマン」という存在自体が「悪」というのではない。ただ、それから、もっぱらこの世のために、自己主義(利己主義)を受けとることが、「悪」なのだとみていた。

これらのことは、「霊界のつまみ食い」との関係で言うと、「霊界のつま食い」がいけないからと言って、それをシャットアウトするのがよいということではなく、「霊界」を、できる限り「ちゃんと食べる」こと、そして、しっかりと「消化」することが必要ということなのである。

そのようなことは、私も述べてきたように、「霊界の境域」の影響が強まっている現代において、この「感覚的世界」と「霊界」とを区別し、混同しないためにも必要である。また、そこに住まう、アーリマン存在(捕食者)の特性や人間に対する戦略を知ることは、その餌食にならないためにも、必要である。しかし、さらに、現代の社会自体に現れているアーリマンの破壊的影響を知ることは、もっと誰にも「身近」で、「現実的」なレベルで、魂を強固に鍛える機会として必要、あるいはむしろ、「チャンス」ということなのである。

2013年1月21日 (月)

本日の「ケム」散布?状況

最近は、あまり見ないと思っていたら、また本日「ケムトレイル」散布と思われる状況があった。飛行機雲自体は、途中で消えているものが多く、後に残っているものも多くはないが、何しろ、航行する飛行機の数が異常である。午後1時から2時頃の約1時間に、少なくとも10機以上は飛んでいた。同時に、3機くらい見えることもあった。場所は違うが、飛ぶ方向は大体同じで、方向から言うと、青森三沢の基地から飛んでいる米軍機または自衛隊機と思われる。

写真1は、そのうちの一つを写したもの。

         写真1

20130121134759

驚くのは、これらの飛行機が来る前の1時頃には、ほとんど雲一つない快晴だったのが、2時近くには、空全体に様々な、(多分に気味の悪い形状の)雲が漂い出したことである。写真2はそのうちの一つ。

         写真2

20130121134829   

これが、飛行機雲から派生したものかどうかは、ちょっと分からなかった。ただ、この反対側の広く拡散した、薄いうろこ状の雲は、飛行機がかなり何度も通過していった付近にできている。

そして、その1時間後の3時頃には、空一面を、薄灰色っぽい雲がどんよりと覆い、太陽も遮り、曇り空になった。

今までも、飛行機の航行後すぐに、このように雲が広がる状況があったが、これが「ケムトレイル」だったとして、こんなにすぐにも、雲を拡散させ、または出現させることができるのには驚く。「エアロゾル」となる物質を撒くと、今まで雲のなかったところにも、このようにすぐに、雲を出現させることができるものなのか。それも、空全体にわたるほどに。

まさに雲ができようという、気象状況だからこそ、飛行機に、飛行機雲ができるということなのか。しかしこれは、そのタイミングでの、異常な航空機の数からしても、あまりに不自然過ぎる。

いずれにしても、一つ言えるのは、「ケムトレイル」も、「エアロゾル」となる物質を元にしているにしても、基本は通常の飛行機雲と同じだから、気象条件により、そのでき方が左右されるのも同じはずということである。だから、一般には、通常の飛行機雲は、すぐに消え、ケムトレイルは拡散して、長く滞留するということが言えても、気象条件によっては、その状況も変わるはずである。

本日の飛行機の飛行機雲自体は、いかにも「ケムっぽい」というほど、長く残らないものがほとんどだったが、その数や、後の雲の出現の状況からしても、やはり、全体として、「ケム」であった可能性が高いと思う。

このように、気象条件によっては、飛行機雲の形状からだけでは、「ケム」かどうか判別しにくいこともあるようである。

あるいは、今後、「ケム」作成、散布の技術が向上すれば、通常の飛行機雲とケムの違いが、より紛らわしくされるということも考えられる。

しかし、私は、直接の計画者または実行者はともかく、その背後の「捕食者」は、自分らがやっていることを、誇示したがっているというのも感じてしまうのである。「モルゲロン病」について知ったときなどは、もはや、「お前には分かるよな。俺らがやってるの…。」と言いながら、ほくそ笑んでいるのが、肌で感じられたほどである。「ケムトレイル」についても、それに近いこととが言える。

一般には、何も、彼らがやっていることそのものを、誇示しようというのではないが、彼らとしては、そこに何か異常なもの、ホラーめいた、おどろおどろしいものを感じ取ってくれればいいのである。そして、漠然とでも、恐怖と絶望を感じてくれればいいのである。

その意味では、「ケムトレイル」散布も、その意図された目的の他に、飛行機雲の形やその後に出現する雲など、目に見える形での、何かしら異常なもの、気味の悪いものを感じさせるということが、それ自体として、かなり重要な要素なのだと思う。

2013年1月16日 (水)

シュタイナーにみる「陰謀論」的発想

R.シュタイナー著 『悪について』 (春秋社)は、私がこれまで述べて来たことや、「捕食者」や「狂気」に関する面でも、驚くほど共通するところがあり、新たに認識を深めさせられるものが多くあった。

全体として、「悪とは何か」という問題は、多少ややこしくなるので、いずれの機会に譲り、ここでは、個々的な問題をいくつかとり上げてみたい。

まず、シュタイナーにも、既に20世紀初頭の時点で、現代の、少数の「支配層」が「陰謀論」的に社会を支配するという社会構造を、明らかに見通していた記述があることについて。

もともと(これまで出版されていたものでも)、シュタイナーも、近代社会は、「経済人」が牛耳る社会だとか、近代社会は、アーリマンが背後で働きかける形で、「秘密結社」から始まったものだとかのことを言ってはいた。が、今回の記述は、もっと直接に、現代の「陰謀論」的発想に通じるものである。

たとえば、「民主主義」について、次のように語っている。

自分は現実をよくわきまえた唯物主義者である、と思っている人でも、実際は考えうるかぎりでこのうえなく抽象的な理論家なのです。単なる理論で頭を一杯にして、理論の中に眠り込み、そのことに気づいていないのです。

人びとは概念を現実だと思っています。しかし、そう思うことで、実は、幻想と現実を取り違えています。
 …ですから、こういう状態の中で、民主主義のさまざまな制度によって自分の意志が表現されている、と信じ込んでいるのです。そして民主主義の体制においては、常に、少数の何人かがうしろで糸をひいていること、他の大多数の人たちはその意図に踊らされていること、そういう現実にまるで気づいていないのです。(5,6頁)

そして、ドゥレージという人物の「私たちは、金融資本家たちは民主主義の敵だと思い込んでいるが、むしろ金融資本家こそ民主主義の指導者であり、推進者なのである。なぜなら民主主義は屏風なのであり、その屏風の背後に金融資本家たちは自らの搾取の方法をかくしもっているのだから」という言葉をあげ、

…民主主義を弁じ立てることが大事なのではなく、現実を洞察することが大事なのだ…。なぜなら、今こんなにもおそろしい仕方で、人類全体を血みどろの状態に引きこんでいる諸事件が、ごく少数の権力のセンターから誘導されていることに、私たちは今こそ気づかなければいけないのですから。(7-8頁)

と述べている。

「人類全体を血みどろの状態に引きこんでいる諸事件」とは、当時としては、もちろん、第一次世界大戦関連の出来事を指すのだろう。しかし、それは、現代の様々な事件にも、そのままあてはめることのできるものである。このような記述は、現在においては、もはや、当然のごとくで、別に驚くものとも言えないが、当時としては、かなり衝撃度のあるものだろう。

シュタイナーの言うとおり、このような発想が、「唯物論」的な発想にも支えられながら、強められているのは確かなことだろう。「物質的なもの」だけが存在するものであり、価値あるものだとすれば、「経済」を動かし、支配する「金融資本家」こそが、社会を指導するのは、理にかなっているといえる面があるからである。また、そのような「唯物論」的な発想が、社会に強固に行き渡っていて、他に可能性がないもののように思われていれば、そのような現状が分かったとしても、それを仕方のないこととして、受け入れてしまいやすい、ということもある。

だから、「支配層」は、「唯物論」的な発想こそを広めようとし、それを否定したり、変えようとする発想には、強力に排除するように働きかけることになる。

さらに、「優生学」や「精神医学」にも絡むこととして、次のようなことが述べられている。

1912年、ロンドンで、「優生学」の学会が誕生したことに触れ、これは「魂のない」「乾ききった頭脳のざわめき」から出て来たものだと罵ったうえで、(まさに、シュタイナーにとっては、晩年の「リアルタイム」の、憂うべき出来事の一つだったわけで、そのような反応も頷ける)

多分それほど遠くない将来、1912年に行われたときのような(上の「優生学」の学会のこと)ある学術会議の席で、そもそも霊と魂のことを考えるのは、病的なことだ、と決められるような事態がやってくるかもしれません。そうしたら、からだについてしか語らない人たちだけが健全だと看做されるでしょう。
 霊も魂も存在すると考えるのは病気の兆候だ、と看做されるでしょう。…そういうときには、病気の徴候に対する治療薬も見つけ出されます。…中世においては霊が否定されましたが、今や医薬の働きを借りて、魂も否定されるのです。
 人びとは、「健全な立場」に立って、霊も魂も存在するなどと人体が考えなくなるような、しかもできるだけ早い時期から、できたら生まれたときから、そう考えずにいられるような、そういうワクチンを見つけ出すことでしょう。(171頁)

これは、ある意味で、既に実現していることである。へたに「魂や霊(または宇宙人)」のことを語る者は、「統合失調症」などと、病気の烙印が押され、治療薬を施される可能性が実際にあるからである。

しかし、もっと、言葉どおりの意味で、今後、これが実現する可能性も十分ある。

実際、「魂や霊(または宇宙人)」のことを語ることそのものが、病気の「症状」とされ、「幻想依存症」とか、「現実認識障害」などの病名をつけられて、治療の対象とされ、精神薬を施される可能性があるということである。

また、幼児または子供の頃から、そのような「病気」にならないように、開発された予防「ワクチン」を受けることが、義務づけられるというようなことだってあり得る。

なんとも、おぞましいが、シュタイナーは、現代の産業社会、あるいは文明社会そのものが、徹底的な破壊を被るまで突き進むという点では、非常に悲観的というか、容赦のない見方をしていたのである。

私も、現代の「産業社会」は「捕食者的文明」だということを言って来た。そして、常に、「捕食者」や「精霊」的存在が、いわば「人と人の間」から、我々に働きかけていることを述べてきた。シュタイナーも、現代は、「アーリマン存在」が、「霊界の境域」から、この世に生まれた人間に寄り添うようにして、意志や衝動に強力に働きかけているとし、現代の「技術」の急速な発達や、人びとの「営利活動」、さらに「産業社会」は、そのような「アーリマン」の強力な影響のもとに生まれたものと言う。

もちろん現代人は、こうしたすべて、電報、電話、蒸気機関などは、霊的な存在たちの介入なしに現実のものとなった、と信じています。しかしそんなことはありません。人間が理解していなくても、人類文化の進歩は、四大霊たち(ここでは特に「アーリマン存在」のこと)の協力のもとに可能となったのです。近代の唯物主義的な人間が考えているように、人間は思考内容を脳からしぼり出して、電話や電報を発明したり、蒸気機関を駆使して大地を走りまわったり、農耕地を耕したりするのではありません。こういうやり方で人間が行うすべては、四大霊の影響のもとにあるのです。…実験室、工房、特に発明発見する人には、四大の霊たちが霊感を与えているのです。
 この四大霊たちは、十八世紀以来、人間の誕生と死に直接関わるようになっています。

古い時代の誕生と死の四大霊たちは、本質的に、神的、霊的な宇宙指導者たちの従者でしたが、私たちの時代から-といっても、すでにその時代は始まっていますが-誕生と死の四大霊たちは技術と産業の、そして人間の営利活動の従者なのです。(137-8頁)

現代の技術の発明・発見は、アーリマン存在の霊感を受けたものという。が、前にみた「モルゲロン病」をもたらす技術などは、もはや、単なる「霊感」というよりは、直接にアーリマン存在(捕食者)の意志を体現したものというべきものだろう。また「原子力」の技術などは、もはや、アーリマン存在を超えたものを思わせるが、シュタイナーも別のところ(『黙示録的な現代』風濤社)で、「原子力」は「アスラ」という、さらに強力な存在がもたらしたものといっている。

「アーリマン存在」は、もともと「人間の地上の幸せには破壊的な態度をとっている」ので、このような方向に向かって進んでいく文化は、「人間の地上の幸せ」に役立つことはない。結局は、人びとの間には喧騒をもたらし、物質的には、「破壊」をたらすことに帰着する。シュタイナーは、それはいきつくところまでいきつくとみており、しかもそれは、新たなものが生まれるために、必要なこととみているのである。

何しろ、このように、現代の「陰謀論」的な社会というものは、単に人間の少数の「支配層」に指導されているというだけでなく、背後には、「アーリマン存在」(捕食者)の働きが、厳としてあるということである。そして、現代においては、それに気づくことが必要になった(かつては一部の霊界参入者の「秘密」にされた)ということである。

2013年1月 9日 (水)

「精神医学」と「もともとの問題」

精神医学は、「もともとの問題」を、何ら解決したのではなく、ただそれをすり替え、誤魔化し、みかけ上、葬り去ったに過ぎない。むしろ、実質的には、それを拡大し、新たに生み出し、広めたのである。だから、精神医学という発想そのものを問い直し、その問題を本当に認識したら、それを(少なくとも一旦は)、「なきもの」にすることは、必要ということになるはずである。

しかし、たとえ、それにより精神医学がなくなったとしても、それによって、もともとの問題がなくなるわけではない。ただ、もともとの問題が、改めて浮上するだけであり、誤魔化しがなくなった分、それと正面から向き合うことができるようになるというだけである。

かつての「反精神医学」または「反精神医学運動」には、「精神病」は社会または精神医学が作り出したものだから、それをなくすことができれば、その問題そのものが解消するというような発想に立つものもあった。しかし、そんな単純なことではないのは明らかというべきである。

そのような、「もともとの問題」の重要な一つとして、これまでも何度かみてきたように、「魔女狩り」問題がある。これは、「異質なもの」の「排除」の問題と言ってもいいし、その背後にあるものに着目すれば、「オカルト的なもの」の「排除」の問題とも言える。

「精神医学」は、これらの問題を解決するどころか、むしろ覆い隠し、あいいは、形を変えて承継し、拡大したのである。「魔女」を「狂気」さらには「精神病」に置き換え、「オカルト的なもの」を「反理性」と置き換えて、より「合理的」に「排除」したに過ぎないからである。(記事「精神科に「やりたい放題」にさせたシステム」  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html  、「精神医学」と「オカルト」的なもの http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html 参照)

その意味では、単に「もともとの問題」が改めて浮上するというよりは、より複雑な形となって、立ち現れるのである。また、それは、いわば、「精神医学問題」と「込み」で現れるということにもなる。

それにしても、そうすると、一体、これまで、「精神医学」などという、何と無意味で、迂遠な道をたどったのかということにもなってしまう。

しかし、それは、ある意味で、「必然」だったともいえるだろう。「魔女狩り」の沸騰した当時、その問題に、正面から向き合うことなど、とてもかなわなかったはずだからである。そして、それは、未だに、十分可能なほどに、熟しているとは思われない。ただ、そのような「排除」の情熱が、あらゆる人間を「排除」するまでに、突き進みかねない事態となったので、それをくい止めるだけの、「合理的なシステム」が必要とされたということなのである。

言い換えれば、それだけ、当時の、「異質なもの」、特に「オカルト的なもの」の「排除」へ向けられた情熱は、半端なものではなかったということである。そして、それは今も、それほどあからさまな形ではないにしても、引き継がれているのである。

記事、『日本人が「霊的なもの」を認めない理由』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-f6e0.html)では、日本人が、明治維新以来、そのような「オカルト的なもの」を徹底して否定して来たことを述べたが、それはもともと、西洋にあっても同じであり、むしろ、そこにこそ発しているのである。だから、それが、覆されるのは、容易なことではない。

ただ、今後、「精神医学」が、問題として俎上に登ることが多くなるのは、間違いないことである。その場合、初めは、精神薬の害悪という「目に見える」ものが問われることになるだろう。しかし、さらにそれが進んで、「精神医学」という発想そのものが問われるようになったとき、それに伴って、もともとの問題である、「異質なもの」の「排除」、あるいは「オカルト的なもの」の「排除」という問題も、何らかの形で、浮上せざるを得ないはずである。「精神医学」という発想こそが、それらの問題を覆い隠し、継承したのだから、それを問うことは、必ず、そのもともとの問題を、裏から照らし出すことになるからである。

そのようにして、精神医学というベールと誤魔化しを、取り外すことができるようになったとき、初めて、もともとの問題を正面から見据える可能性も出てくることになる。すると、こうなるには、「精神医学」という迂遠な道をたどる必要があった、ということにもなるのだろう。

精神医学がなきものとなることによって、直接に浮上する「もともとの問題」は、もちろん、精神医学が病気という名をつけて治療の対象としようとした「狂気」に、社会として、個人として、どのように対処すかるかという問題である。「精神医学」というシステムに委ねることなく、これにどのように対処できるかということである。そこで、「精神医学」に対して、根本的な見直しがなされていないと、結局は、これに対処できずに、また精神医学と同じようなものを作り出してしまうことにもなるだろう。

個人として、どのように対処するかについては、既に多くのことを述べて来た。社会として、どのように対処するかというのは、ここで述べた、「異質なもの」の「排除」、あるいは「オカルト的なもの」の「排除」という問題とも密接にからむ問題である。

ただ、この点について、一つ言えるのは、「病院」に変わる、「療養施設」のようなものは、必要になるだろうということである。もちろん、それは、「治療施設」ではなく、本人が「療養」しながら、「狂気」と向き合うための、環境を提供する、施設である。そのような試みを補助する者として、「霊能者」や「カウンセラー」、「体験者」などが関わってもよい。もし、本当に、精神医学の根本的な反省が経られているなら、最小限、医師を関わらせてもよい。ただし、それらの者は、積極的な働きかけをするのではなく、あくまでも、必要とされた場合に、補助をするだけである。主体となるのは、あくまで、狂気に陥った本人ということである。

それは、もちろん、精神医学という方法を放棄して始める以上、様々なリスクを負ったものとなる。

今のところ、このようなものは、ほとんど、「夢物語」にしか聞こえないものだろう。しかし、もし、「精神医学」に対して、根本的な見直しがなされ、もともとの問題まで十分認識されるなら、そうするしかないはずのものだし、決して、不可能なことでもないはずである。

2013年1月 5日 (土)

シュタイナーの「魂」概念についての質問への回答

『用語集』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/cat22977689/index.html)のコメント欄に、シュタイナーの「魂」概念についての質問がありましたので、コメント欄にて、私なりの回答をしておきました。興味がある方は、ご覧ください。

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