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2012年12月29日 (土)

「集団行動」と「発達障害」

私は、「発達障害」とは、結局は、子供あるいは大人でも、「(強制的)集団行動」への「不適応」ということに尽きると思う。

子供の場合は、幼稚園や学校など、性格や環境などさまざまな相違のある多くの子供を、無理やりに一カ所に集めて、大人の意志で、「教育」の名の下に、さまさまな行動を押し付けるわけで、「強制」という面がはっきりしている。大人の場合は、仕事でも他の集団生活でも、自分の意志で選ぶという要素はあるものの、やはり、「そうせざるを得ない」という意味で、「半強制的」というべき面は多い。

本来、これらに対して、「不適応」を起こす人物というのは、必ず、一定の割合で生じない方がおかしいのである。だから、本当は、「発達障害」とは、このように、多くの人物を強制的、半強制的に集めて、集団的に何かを施すということ自体が、無理を来していることの現れなのである。本当の問題は、子供であれば、幼稚園や学校という制度自体にあるということである。

しかし、そのような「不適応」が、さまざまな問題を起こしつつも、ある時期までは、何とかやり過ごして来た、というのも事実である。親や先生も、そのような「問題児」が生じるのは、「集団生活」である以上、初めから見込まれることで、そこは、なんとか受け止め、処理して来た、あるいは少なくとも、ごまかすことができていたということである。

しかし、日本で言えば、恐らく、「学級崩壊」が叫ばれた後ぐらいのことだろう。もはや、この「不適応」が巻き起こす問題を、親も先生も、学校内部の問題として、処理することができなくなった。これには、いろんな原因が作用しただろう。先生の側としては、力量不足、権威の喪失、また親のわがままな押し付けや規制、さらに子供の側にも、「不適応」への耐性が弱くなり、混乱や攻撃性の拡大があったと思う。

これには、様々な化学物質の浸透による脳への影響(神経の脆弱化)もあっただろうし、霊能者の江原啓之も言っていたが、(低級)自然霊の影響、感応も相当あったと思う。このような存在は、「不適応」状態の鬱屈した心理にこそ、すくうものだからである。

何しろ、そのような「不適応」を、学校内部で処理できなくなったことに呼応して、それらを、「発達障害」という「病気」として扱うという流れに、乗っかる動きが生じたのだと思う。つまり、それらを、「治療すべき病気」として、学校内部の問題から解放して、「医療」の対象とし、「精神科」に委ねる道をつけたのである。要するに、手に負えなくなったので、「精神医療」に「丸投げ」したということである。その結果、「薬漬け」にするなどして、おとなしくさせることができるようになった。

これは、要するに、「厄介者の厄介払い」であり、もともと、精神医学が、そうする役目を負って誕生したのと、全く同じことである。ある意味、もともと、なぜ「精神医学」が必要とされたのかを、如実に伺い知ることのできる事態である。

もちろん、これは、製薬会社や精神医学の側からすれば、「需要拡大」のまたとない機会であり、社会への勢力拡大、発言力拡大の大きな機会でもあった。

さらに言えば、これは、人間の弱体化や人口の削減を図る「支配層」にとっては、その最大の狙いとなる子供を「餌食」にできるという、願ってもない機会となった。

つまりは、様々な領域での、必要とか、思惑が重なって、「発達障害」というものが出て来ている。こうしてみると、このような流れに対抗するのには、「発達障害」は「病気でない」というだけでは、不十分だと思う。

前回みたように、たとえ、「発達障害」が「病気でない」という見方に一定の説得力があったとしても、そうする必要が強くある以上、容易には認められ難いということてある。

また、これも前回みたように、「発達障害」には「統合失調症」の「予備軍」のような、類似する面もあるから、その「統合失調症」が「病気」とされている限り、「発達障害」も「病気」としようとする見方を、覆すことは難かしい。                              

しかし、逆の見方をすれば、これは、「発達障害」というものを通して、「精神医学」とは何であったのか、本当は「精神医学」そのものが問題なのではないか、という問題意識を喚起するチャンスということもできる。

現代は、「精神医学」というものが、「病気」という名の下に、「子供」を「食い物」にする状況を、まさにリアルタイムで目にすることができる状況である。この状況に対して、これを、当然のように「是」としない限り、少し掘り下げれば、多くの者にとっても、やはり問題なのだという意識を喚起せざるを得ないことと思う。

それは、まだ成長過程にあって、本来は保護されるべき、「子供」であるからこそ、そのような意識を喚起するのでもある。

しかし、これをもう少し深く掘り下げれば、そのようなことは、決して、「子供」の場合だけに言えることではなく、大人の「統合失調症」その他の「疾患」の場合も、結局は、同じことになるのではないかという問題意識を、喚起することにもつながり得ると思う。

「統合失調症」と「発達障害」では、異なる面も多く、「発達障害」は「病気でない」としても、「統合失調症」を「病気でない」とみることは、難しいことは確かであろう。

しかし、「統合失調症」はもともと「狂気」の代表格であり、社会の「厄介者」として、最も精神医療の対象とすることの「必要」とされた者である。その意味では、現代の「発達障害」の場合と非常に似ているのであり、その共通の構造は、見えやすいはずなのである。

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