『ぼくらの中の発達障害』と「統合失調症」
「発達障害」については、多くの本が出ているが、この機会に一冊読んでみようと思って、よさそうな、青木省三著『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書)を読んだ。実際、なかなか面白く読め、内容もよかった。
「発達障害」について、一般に言われてることを一通り紹介しつつ、自分の考えを分かりやすく述べている。その考察は、鋭くて、説得的である。
「発達障害」については、私も、前の『日記』でだったようだが、記事で、幼稚園の頃から、十分気があるというか、あったことを述べた。(※)後にも述べるが、「統合失調症」や他の疾患ともいろいろ関わるところがあるので、これについては、いずれまたとりあげることにしたい。
今回は、『ぼくらの中の発達障害』の著者の考えについて、興味深い点を述べてみる。
著者の考えは、「発達障害」は「病気ではない」というものであり、一つの「個性」あるいは、生き方の「文化」というものである。 つまり、「発達過程における障害」などとは言えないというものであり、ただ、その「個性」が、社会的、対人的に、いろいろと不利益や、好ましくない反応を引き起こしやすいというだけである。それどころか、むしろ、長所が多く、「発達障害」といわれる者が、多くの者に欠けている発想などを喚起することが多くあるという。
著者は、他の疾患についてもそうだが、「発達障害」については、我々の中にも共通してある面(=「 連続性 」)に注目することが重要という。それこそが、「ぼくらの中の発達障害」ということであり、それによって、「発達障害」といわれている者に対し、共感や理解の基礎ができる。しかし、それを、一つの個性として尊重し、敬意を払うためにも、我々と異なる面(=「 異質性 」)にも目を向ける必要があるという。「連続性」への着目だけだと、その「個性」をないがしろにし、認めないことに通じるというのである。これらは、全く正しい指摘というべきである。
だたし、注意すべきは、「異質性」への着目といっても、これは、「連続性」への理解が十分あったうえでのものでなければ、単に、「異質性」のみに目がいってしまい、「排除」の方向に働くことになってしまうということだ。
著者自身も、「発達障害」については、かなりその気があるようで、この「連続性」と「異質性」への目がよく行き届いていると感じる。それで、「発達障害」といわれる者の、我々と異ならない面と、社会的、対人的には、苦労したり、好ましくない面、さらに、むしろ、長所である面にも、よく着目されている。それで、本人には社会や他人との「折り合い」のつけ方、周りの人には支援のし方など、そのアドバイスも、よく行き届いている。
「発達障害」に関する限り、ほとんど説得力をもって受け入れられることである。
ところが、著者は、「発達障害」は、二次的に、「統合失調症」やその他の疾患をもたらす元になりやすいという。そして、そのような「統合失調症」や他の疾患そのものは、「精神的な障害」であり「病気」と考えている。 そうであるなら、「発達障害」は「病気でない」と言っても、結局は、そのような「病気の元」または「予備軍」のようなものとなり、一貫しないことになってしまう。
「発達障害」が、二次的に、「統合失調症」やその他の疾患をもたらす元になりやすいということ自体は、確かにそうだろう。「発達障害」的な状況は、社会や対人間関係において、さまざまなストレスや問題を抱えやすいだろうし、それらは、「統合失調症」その他の疾患に陥る「契機」にはなり易いだろう。また、私は、「発達障害」というのは、いわゆる「分裂気質」という気質ないし性格とも重なるとみている。これは、事実上、社会や集団の中の多数派からは外れるので、いろいろと不利益や不適応を起こし易く、それが度重なれば、「統合失調症」へ陥ることにもなり易いのである。
しかし、だからと言って、「統合失調症」やその他の疾患を「病気」とするのでは、「発達障害」を「病気でない」と言っても、ほとんど意味がなくなる。これでは、「統合失調症」との類縁性から、「発達障害」を「病気」と捉える見方に抗することは難しいだろう。
さらに言えば、誰にでも、心のうちに「狂気の芽」はあるのだから、「統合失調症」やその他の疾患を「病気」という限り、どんな「狂気の芽」も、なし崩し的に、「病気」として扱おうとの誘惑には、抗し難いものが出て来てしまう。
要するに、何らかの精神的状態を、「病気でない」と言っても、「統合失調症」やその他の疾患も、「病気でない」としないことには、結局は、一貫できないのである。
著者は、「発達障害」については、自分の中にあるものとの「連続性」に目を向け、十分共感し、理解することができた。だから、それは「病気ではない」と思うことができた。しかし、「統合失調症」その他の疾患については、この「連続性」を十分には認識できなかった。それで、「異質性」の方が勝ってしまい、その「異質」なものは、やはり「治療すべき病気」であるという考えになってしまった。あるいは、現に、医学的にそのように解されているので、それを覆すまでには至らなかった、ということなのだと思う。
逆に言えば、 「精神的な病気」とは、結局、どう言おうと、「異質なもの」、「理解できないもの」に対する、「排除」以外ではあり得ないのである。そして、その「治療」とは、より受け入れやすいものへの「改変」なのである。
これと同じことは、『マイナスエネルギーを浄化する方法』の著者、小栗康平にもいえる。
著者は、霊能者片岡との出会いを通じて、「解離」や「(境界性)人格障害」とされるものの中に、霊の「憑依」というものが、実際に存在することを知った。それで、それについては理解し、一般の「病気」という捉え方を変えることができた。しかし、「統合失調症」については、そのような理解は得られず、一般に医学でいわれている、脳の機能障害としての「病気」という考えを踏襲するしかなかった。
「統合失調症」は、確かに、「発達障害」やその他の疾患と比べても、我々との「連続性」を認めにくく、理解の難しいものであろう。
しかし、 もし、『ぼくらの中の発達障害』の著者が、『ぼくらの中の統合失調症』を書けたとしたら、彼は間違いなく、「統合失調症」は「病気でない」と言ったはずなのである。
※記事 『「地獄」「監獄」としての「幼稚園」 』 ( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-b91f.html)を追加しておいた。私個人としても、一般的に「分裂病的状況」に陥る者の子供の頃の徴候としても、参考になるものがあろうと思う。
記事では、「不適応感」と言ったが、今思い出しても、もっと強烈で絶望的な「違和感」で、むしろ「適応拒否」あるいは、「適応不能」と言った方が適当かもしれない。「なんてところに生まれてしまったのか」という後悔のような感覚すらあったと思う。ただ、実際には、本当に「魂が抜け出て」いて、その場に「いない」も同然だったので、その苦痛をずっと感じ続けていたわけではない。
客観的な状態としては、ほとんど「自閉症」状態、(言語に遅れはなかったので、「アスベルガー症候群」ということになろうが、しかし、このへんの概念の広げ方は、本当に適当)で、現在であれば、実際にそう疑われ、医者に連れていかれて、そう診断されていた可能性も高いだろう。
私の場合のように、「自閉症」に限らず、「発達障害」といわれるものには、「不適応」状態にあるが故の、「防衛反応」のようなところもあると思う。このような「防衛反応」すら許されなくなっているとしたら、今の状況は、私の当時以上に、本当に過酷な状況にあると思う。
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