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2012年12月

2012年12月29日 (土)

「集団行動」と「発達障害」

私は、「発達障害」とは、結局は、子供あるいは大人でも、「(強制的)集団行動」への「不適応」ということに尽きると思う。

子供の場合は、幼稚園や学校など、性格や環境などさまざまな相違のある多くの子供を、無理やりに一カ所に集めて、大人の意志で、「教育」の名の下に、さまさまな行動を押し付けるわけで、「強制」という面がはっきりしている。大人の場合は、仕事でも他の集団生活でも、自分の意志で選ぶという要素はあるものの、やはり、「そうせざるを得ない」という意味で、「半強制的」というべき面は多い。

本来、これらに対して、「不適応」を起こす人物というのは、必ず、一定の割合で生じない方がおかしいのである。だから、本当は、「発達障害」とは、このように、多くの人物を強制的、半強制的に集めて、集団的に何かを施すということ自体が、無理を来していることの現れなのである。本当の問題は、子供であれば、幼稚園や学校という制度自体にあるということである。

しかし、そのような「不適応」が、さまざまな問題を起こしつつも、ある時期までは、何とかやり過ごして来た、というのも事実である。親や先生も、そのような「問題児」が生じるのは、「集団生活」である以上、初めから見込まれることで、そこは、なんとか受け止め、処理して来た、あるいは少なくとも、ごまかすことができていたということである。

しかし、日本で言えば、恐らく、「学級崩壊」が叫ばれた後ぐらいのことだろう。もはや、この「不適応」が巻き起こす問題を、親も先生も、学校内部の問題として、処理することができなくなった。これには、いろんな原因が作用しただろう。先生の側としては、力量不足、権威の喪失、また親のわがままな押し付けや規制、さらに子供の側にも、「不適応」への耐性が弱くなり、混乱や攻撃性の拡大があったと思う。

これには、様々な化学物質の浸透による脳への影響(神経の脆弱化)もあっただろうし、霊能者の江原啓之も言っていたが、(低級)自然霊の影響、感応も相当あったと思う。このような存在は、「不適応」状態の鬱屈した心理にこそ、すくうものだからである。

何しろ、そのような「不適応」を、学校内部で処理できなくなったことに呼応して、それらを、「発達障害」という「病気」として扱うという流れに、乗っかる動きが生じたのだと思う。つまり、それらを、「治療すべき病気」として、学校内部の問題から解放して、「医療」の対象とし、「精神科」に委ねる道をつけたのである。要するに、手に負えなくなったので、「精神医療」に「丸投げ」したということである。その結果、「薬漬け」にするなどして、おとなしくさせることができるようになった。

これは、要するに、「厄介者の厄介払い」であり、もともと、精神医学が、そうする役目を負って誕生したのと、全く同じことである。ある意味、もともと、なぜ「精神医学」が必要とされたのかを、如実に伺い知ることのできる事態である。

もちろん、これは、製薬会社や精神医学の側からすれば、「需要拡大」のまたとない機会であり、社会への勢力拡大、発言力拡大の大きな機会でもあった。

さらに言えば、これは、人間の弱体化や人口の削減を図る「支配層」にとっては、その最大の狙いとなる子供を「餌食」にできるという、願ってもない機会となった。

つまりは、様々な領域での、必要とか、思惑が重なって、「発達障害」というものが出て来ている。こうしてみると、このような流れに対抗するのには、「発達障害」は「病気でない」というだけでは、不十分だと思う。

前回みたように、たとえ、「発達障害」が「病気でない」という見方に一定の説得力があったとしても、そうする必要が強くある以上、容易には認められ難いということてある。

また、これも前回みたように、「発達障害」には「統合失調症」の「予備軍」のような、類似する面もあるから、その「統合失調症」が「病気」とされている限り、「発達障害」も「病気」としようとする見方を、覆すことは難かしい。                              

しかし、逆の見方をすれば、これは、「発達障害」というものを通して、「精神医学」とは何であったのか、本当は「精神医学」そのものが問題なのではないか、という問題意識を喚起するチャンスということもできる。

現代は、「精神医学」というものが、「病気」という名の下に、「子供」を「食い物」にする状況を、まさにリアルタイムで目にすることができる状況である。この状況に対して、これを、当然のように「是」としない限り、少し掘り下げれば、多くの者にとっても、やはり問題なのだという意識を喚起せざるを得ないことと思う。

それは、まだ成長過程にあって、本来は保護されるべき、「子供」であるからこそ、そのような意識を喚起するのでもある。

しかし、これをもう少し深く掘り下げれば、そのようなことは、決して、「子供」の場合だけに言えることではなく、大人の「統合失調症」その他の「疾患」の場合も、結局は、同じことになるのではないかという問題意識を、喚起することにもつながり得ると思う。

「統合失調症」と「発達障害」では、異なる面も多く、「発達障害」は「病気でない」としても、「統合失調症」を「病気でない」とみることは、難しいことは確かであろう。

しかし、「統合失調症」はもともと「狂気」の代表格であり、社会の「厄介者」として、最も精神医療の対象とすることの「必要」とされた者である。その意味では、現代の「発達障害」の場合と非常に似ているのであり、その共通の構造は、見えやすいはずなのである。

2012年12月20日 (木)

『ぼくらの中の発達障害』と「統合失調症」

「発達障害」については、多くの本が出ているが、この機会に一冊読んでみようと思って、よさそうな、青木省三著『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書)を読んだ。実際、なかなか面白く読め、内容もよかった。

「発達障害」について、一般に言われてることを一通り紹介しつつ、自分の考えを分かりやすく述べている。その考察は、鋭くて、説得的である。

「発達障害」については、私も、前の『日記』でだったようだが、記事で、幼稚園の頃から、十分気があるというか、あったことを述べた。()後にも述べるが、「統合失調症」や他の疾患ともいろいろ関わるところがあるので、これについては、いずれまたとりあげることにしたい。

今回は、『ぼくらの中の発達障害』の著者の考えについて、興味深い点を述べてみる。

著者の考えは、「発達障害」は「病気ではない」というものであり、一つの「個性」あるいは、生き方の「文化」というものである。 つまり、「発達過程における障害」などとは言えないというものであり、ただ、その「個性」が、社会的、対人的に、いろいろと不利益や、好ましくない反応を引き起こしやすいというだけである。それどころか、むしろ、長所が多く、「発達障害」といわれる者が、多くの者に欠けている発想などを喚起することが多くあるという。

著者は、他の疾患についてもそうだが、「発達障害」については、我々の中にも共通してある面(=「 連続性 」)に注目することが重要という。それこそが、「ぼくらの中の発達障害」ということであり、それによって、「発達障害」といわれている者に対し、共感や理解の基礎ができる。しかし、それを、一つの個性として尊重し、敬意を払うためにも、我々と異なる面(=「 異質性 」)にも目を向ける必要があるという。「連続性」への着目だけだと、その「個性」をないがしろにし、認めないことに通じるというのである。これらは、全く正しい指摘というべきである。

だたし、注意すべきは、「異質性」への着目といっても、これは、「連続性」への理解が十分あったうえでのものでなければ、単に、「異質性」のみに目がいってしまい、「排除」の方向に働くことになってしまうということだ。

著者自身も、「発達障害」については、かなりその気があるようで、この「連続性」と「異質性」への目がよく行き届いていると感じる。それで、「発達障害」といわれる者の、我々と異ならない面と、社会的、対人的には、苦労したり、好ましくない面、さらに、むしろ、長所である面にも、よく着目されている。それで、本人には社会や他人との「折り合い」のつけ方、周りの人には支援のし方など、そのアドバイスも、よく行き届いている。

「発達障害」に関する限り、ほとんど説得力をもって受け入れられることである。

ところが、著者は、「発達障害」は、二次的に、「統合失調症」やその他の疾患をもたらす元になりやすいという。そして、そのような「統合失調症」や他の疾患そのものは、「精神的な障害」であり「病気」と考えている。 そうであるなら、「発達障害」は「病気でない」と言っても、結局は、そのような「病気の元」または「予備軍」のようなものとなり、一貫しないことになってしまう。

「発達障害」が、二次的に、「統合失調症」やその他の疾患をもたらす元になりやすいということ自体は、確かにそうだろう。「発達障害」的な状況は、社会や対人間関係において、さまざまなストレスや問題を抱えやすいだろうし、それらは、「統合失調症」その他の疾患に陥る「契機」にはなり易いだろう。また、私は、「発達障害」というのは、いわゆる「分裂気質」という気質ないし性格とも重なるとみている。これは、事実上、社会や集団の中の多数派からは外れるので、いろいろと不利益や不適応を起こし易く、それが度重なれば、「統合失調症」へ陥ることにもなり易いのである。

しかし、だからと言って、「統合失調症」やその他の疾患を「病気」とするのでは、「発達障害」を「病気でない」と言っても、ほとんど意味がなくなる。これでは、「統合失調症」との類縁性から、「発達障害」を「病気」と捉える見方に抗することは難しいだろう。

さらに言えば、誰にでも、心のうちに「狂気の芽」はあるのだから、「統合失調症」やその他の疾患を「病気」という限り、どんな「狂気の芽」も、なし崩し的に、「病気」として扱おうとの誘惑には、抗し難いものが出て来てしまう。

要するに、何らかの精神的状態を、「病気でない」と言っても、「統合失調症」やその他の疾患も、「病気でない」としないことには、結局は、一貫できないのである。

著者は、「発達障害」については、自分の中にあるものとの「連続性」に目を向け、十分共感し、理解することができた。だから、それは「病気ではない」と思うことができた。しかし、「統合失調症」その他の疾患については、この「連続性」を十分には認識できなかった。それで、「異質性」の方が勝ってしまい、その「異質」なものは、やはり「治療すべき病気」であるという考えになってしまった。あるいは、現に、医学的にそのように解されているので、それを覆すまでには至らなかった、ということなのだと思う。

逆に言えば、 「精神的な病気」とは、結局、どう言おうと、「異質なもの」、「理解できないもの」に対する、「排除」以外ではあり得ないのである。そして、その「治療」とは、より受け入れやすいものへの「改変」なのである。

これと同じことは、『マイナスエネルギーを浄化する方法』の著者、小栗康平にもいえる。

著者は、霊能者片岡との出会いを通じて、「解離」や「(境界性)人格障害」とされるものの中に、霊の「憑依」というものが、実際に存在することを知った。それで、それについては理解し、一般の「病気」という捉え方を変えることができた。しかし、「統合失調症」については、そのような理解は得られず、一般に医学でいわれている、脳の機能障害としての「病気」という考えを踏襲するしかなかった。

「統合失調症」は、確かに、「発達障害」やその他の疾患と比べても、我々との「連続性」を認めにくく、理解の難しいものであろう。

しかし、 もし、『ぼくらの中の発達障害』の著者が、『ぼくらの中の統合失調症』を書けたとしたら、彼は間違いなく、「統合失調症」は「病気でない」と言ったはずなのである。

記事 『「地獄」「監獄」としての「幼稚園」 』 ( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-b91f.html)を追加しておいた。私個人としても、一般的に「分裂病的状況」に陥る者の子供の頃の徴候としても、参考になるものがあろうと思う。

記事では、「不適応感」と言ったが、今思い出しても、もっと強烈で絶望的な「違和感」で、むしろ「適応拒否」あるいは、「適応不能」と言った方が適当かもしれない。「なんてところに生まれてしまったのか」という後悔のような感覚すらあったと思う。ただ、実際には、本当に「魂が抜け出て」いて、その場に「いない」も同然だったので、その苦痛をずっと感じ続けていたわけではない。

客観的な状態としては、ほとんど「自閉症」状態、(言語に遅れはなかったので、「アスベルガー症候群」ということになろうが、しかし、このへんの概念の広げ方は、本当に適当)で、現在であれば、実際にそう疑われ、医者に連れていかれて、そう診断されていた可能性も高いだろう。

私の場合のように、「自閉症」に限らず、「発達障害」といわれるものには、「不適応」状態にあるが故の、「防衛反応」のようなところもあると思う。このような「防衛反応」すら許されなくなっているとしたら、今の状況は、私の当時以上に、本当に過酷な状況にあると思う。

2012年12月 9日 (日)

『大笑い!精神医学』対『もう少し知りたい統失の薬と脳』

多少長いですが、「正統派精神医学」と精神医学を根本的に否定する立場とを突き合わせて、両者の論点の違いと、「正統派精神医学」に潜む問題点を明かにしたものなので、ぜひお読み下さい。

前回述べたように、私は、『大笑い!精神医学』の前に、福田正人著『もう少し知りたい統合失調症の薬と脳』(日本評論社)を読んでいた。[『大笑い!精神医学』→以下『大笑い』と略、『もう少し知りたい統合失調症の薬と脳』→以下『もう少し』と略]

この本は、正統派の精神科医が、統合失調症の薬や脳について解説したもので、精神医学の標準的な書物として、よくあげられてもいる。なぜ「抗精神病薬」が統合失調症に効くのか、その脳のメカニズムはどういうものかということが、率直に分かりやすく述べられている。文章は穏当で、読みやすく、部分的には納得できるところもある。恐らくだが、本当に「善意」で、信じるとおりのことが述べられているのだろうと思わせる。そうでなかったら、最後まで読めなかっただろうが、だからこそ、より「恐ろしい」のでもある。

多くの精神科医や医療関係者、そして一般の人も、恐らく、このとおりに信じてしまい、そうなると、容易には覆せなくなるだろうことが、如実に示されている。まさに、『大笑い』と「真逆」に位置する本といってよい。

しかし、このような本だからこそ、『大笑い』と対比させると、論点の違いも鮮明になり、私としても、問題点が明確になり、有意義でもあった。

何しろ、『もう少し』では、

1 「統合失調症」という、「治療すべき」「病気」が、厳として存在するということ
2 「幻覚」「妄想」「自我障害」などは、「病気」がもたらす「症状」であり、取り除くべきものであるということ
3 「薬」は、これらの「症状」に、「効くものである」ということ

が、疑わざる「大前提」とされ、その上に全ての論理や研究が築きかれている。脳などの研究による知見そのものは確かに進んでいて、より洗練され、複雑になっている。その点に惑わされると、確かに、「もっともらしく」受けとられることになるだろう。しかし、それらは、そのような「大前提」のもとに解釈され、あるいは、「大前提」を塗り固めるために、利用されているごときである。

たとえば、「薬が効く」ということは、疑われざる大前提なので、統合失調症の者が示す様々な「マイナス」の反応は、病気の結果とされ、「プラス」の反応は、「薬」の効果ということが、初めから、当然のように前提にされている。そして、そのように、「薬が効く」ということからスタートして、その理由(メカニズム)を探ることが、「統合失調症」の(特に脳の)解明そのものとなるということが、研究の指標そのものとされている。これは、ほとんど、あからさまな、「トートロジー的発想」である。

治療の対象は病気である。患者ではない」という言葉が出てくるが、これは、いかに、「病気」ということが、「実体」として捉えられているかということを、如実に示している。また、いかに、「薬」による治療を正当化するものかを示すものである(それは、患者を痛めつけるのではなく、病気を痛めつけるもの)。しかし、実際には、「病的状態」に陥っている「患者」しか存在しないのであり、薬による効果を受けるのも、患者でしかあり得ないのは、明らかである。

これを、一言で言うと、「薬のための、薬による精神医学」ということになるだろう。

一方、『大笑い』が問題にしているのは、そのような「大前提そのものが違う」ということなのである。つまり、「統合失調症」、または他のもっともらしく名付けられた病名にしても、そのような「治療すべき」「病気」が、実際に存在するわけではないということである。また、「薬は効く」などとは言えない、ということである。まず、この「大前提」そのものに、論点の違いがあることに気づかないと、真っ当な議論にすらなりようがない。

たとえ、現代の精神医学を批判するにしても、この「大前提」そのものは、疑うことなく受け入れてしまうならば、それは、「精神医学」そのものの枠組みはそのままにして、「薬」以外の治療法を探ったり、あるいは、本来「薬が効く」こと自体は受け入れて、単に「多剤投与」や「大量投与」を問題とするのみということになる。そのような「運用」さえ、改められれば、「精神医学」そのものは、問題とされなくなる。それは、結局、「精神医学」の枠組みに、からめとられていることにほかならない。

この「精神医学」という、枠組みそのものを否定する立場は、既に強固にできあがっていて、運営されているシステムを、根本から覆そうとするという意味で、「極端」な説であることには違いない。しかし、その言うところが本当なら、結局はそうする(根本的に否定する)しかないのだし、それを「大前提」そのものは受け入れて、「精神医学」として存続させる立場と、置き換えることはできないはずである。

ただし、たとえば、「統合失調症」という「病気がある」ということも、「ない」ということも、科学的に証明できるような事柄ではない。実際上、未だ十分の根拠もなく、精神科医が経験上「統合失調症」と診断したもの(但し、その判断のもとには、周りの者や「世間」の見方が大きく反映しているはずである)が、「統合失調症」とされていて、それが、「統合失調症」という「病気」の「枠組み」を決定している。「統合失調症の者にかくかくの実験をする」という場合にも、そのように、事実上「統合失調症」と診断されされている者が、実験台となっているという、その大元からして、あやふやで、確かな根拠のないものである。

これは、薬が「効く」か「効かない」か、ということについても同様で、その判断もまた、精神科医による事実上のもの(そこにも、周りの者や「世間」の見方が大きく反映する)とならざるを得ない。

この点からすると、「精神医学」とそれに対立する見方とは、本来、容易に「結着」のつくような代物でないのが明らかであり、実際に、そうなっている。要は、これらの「大前提」についての見方は、個々の者の、「信念」とか、社会的な「常識」とか、経験的な「感覚」とか、「直感」とかによるしかないのである。

但し、通常の「精神医学」が、この「大前提」に対しては、何らの考察もなしに、ただ、当然の前提とするのに対し、『大笑い』では、この大前提またはその背景の問題に、歴史や哲学なども駆使しながら、総合的に切り込んでいるのである。

以上のことを、もう少し具体的にみてみよう。

『もう少し』では、「薬が効く」ということには、「統合失調症者」に抗精神病薬を施した場合と、プラシーボ(偽薬)を施した場合とで、かなり極端に「改善」の効果や「再発率」に違いがみられるというデータが、一つあげられている。

これは、恐らく、精神医学界で権威あるデータなのだろうが、製薬会社の大きな影響力を考えれば、その関連がどうなのか、疑われるところである。また、そもそも「統合失調症」という前提の枠組みが、前記のように「作られた」枠組みであるうえに、「改善」とか「再発」という結果も、精神科医または周りの者による、事実上の「判断」によってなされるものである。だから、このようなデータは、決して、それだけで説得力を持つものではない。

また、『大笑い』にも出てくるが、このようなデータには、逆の立場からのものもいくらもある。向精神薬を施した場合とプラシーボを施した場合で、「改善」や「再発率」には差がない、あるいは、むしろ、「向精神薬」を施した場合の方が「悪い」というデータもあるのである。残念ながら、この場合も、そもそもの「病者」という枠組みが事実上のものでしかなく、「改善」も「再発」も解釈でしかないという同じ問題がある。

しかし、「統合失調症者」に抗精神病薬を施した場合に、「改善」の効果が明らかにみられ、「再発率」が少ないなどとは言えないことを示す、一つのデータにはなっている。

症状の「改善」ということの判断には、もともとの状態が、いかに「害悪」とみなされているかが、大きく反映する。その「害悪」が取り除かれる限り、たとえ、他に何らかのマイナスが生じていたとしても、それは、全体として、「改善」とみなされることにもなる。

たとえば、薬により、脳の働きが全体として抑えられて、興奮や激しい混乱など、「好ましくない」反応がみられなくなれば、「改善」ということになるのであれば、それは「改善」と判断されることになるだろう。しかし、この「改善」には、脳の働きが全体として抑えられたことによって、思考や感情、行動に、大きな犠牲もつきまとうことになるはずである。ところが、『もう少し』では、「病気が存在する」ということと、「薬は効く」ということが大前提とされているため、そのようなことが「薬」の効果としては、一切考慮されていない。むしろ、そのような思考や感情、行動の鈍りや滞りは、「陰性症状」として、統合失調症という病気そのもの結果として、全て解釈されているのである。

このようことは、あるゆる場面に当てはまり、まるで、一切の「よからぬ」効果は、「統合失調症」という「病気」が引き起こすもので、一切の、「よき」効果は、「薬」がもたらすものだと、決まっているかのようである。

たとえば、統合失調症の者に見られるという「脳の委縮」のような現象も、はじめから、統合失調症という病気の結果とされ、抗精神病薬による作用である可能性は一切顧みられていない。実際には、これは、薬の作用の結果である可能性が、大いにある(そのような研究報告もある)にもかかわらずである。

「再発」についても、「薬」を一時使用して止めた場合と、継続使用した場合とで、「再発率」か明らかに違うというデータがあげられている。

しかし、薬で強引に抑えられていた状態が、薬を止めることで、元に戻るのは当然というべきで、これは、単に、薬で抑えるという効果が途切れたのに過ぎない。薬を継続使用すれば、その薬で抑えるという状態が続いている限り、再発していないという見方ができるのも当然のことだろう。だが、この場合の、「薬で抑える」というのも、感情や思考などの精神活動、行動を全体として抑え込んでいるとみれるので、見方によっては、より「悪く」なっているのかもしれず、単に、興奮や激しい混乱という、「望ましくない」状態が現れていないということに過ぎない。

さらに言えば、一旦飲んだ「薬を止める」ということには、単に、元に戻るという以上の、マイナス効果が現れる可能性がある。いわゆる「禁断症状」や「離脱症状」だが、薬によって生じるそれらの異常な状態も、病気の結果とみなされるなら、「再発」と判断されることにもなる。とすれば、「薬を止める」ことによって生じるとされる「再発率」が、大きく高まるのも、当然のことと言える。

薬が「思考や感情、行動を全体として抑え込む」という点については、疑問があるかもしれない。

しかし、『もう少し』で、薬の効く「メカニズム」としてあげられているいくつかの説によっても、「薬が効く」とした場合に、ただ、統合失調症の症状とされる妄想や幻覚に、ピンポイントで効くなどいうことは、考えられないのである

薬の効く「メカニズム」として、「ドーパミン仮説」というのがある。薬は、トーパミンという神経伝達物質の受容体を抑えることで、幻覚や妄想などの、ドーバミンの過剰活性により生じる状態を抑えることにより、症状に効くことになるというものである。最近は、その働きの元に、「グルタミン酸」があるとか、他の神経伝達物質との関連も言われるが、とりあえず、この「ドーパミン仮説」が基本的なものとしてあげられる。しかし、ドーパミンは、意欲とか動機のもとをなす感情という、生命にとって、かなり根源的な働きをしているとされるから、これを抑えることは、そのような根源的な部分に、大きな減退をもたらすことが考えられる。しかし、この本では、そのような可能性も考慮されず、薬は、その過剰からくる、「害悪」だけを取り除くようにしか、働かないもののようにみなされている。そのような効果が生じたとすれば、それは、病気からくる「陰性症状」とされるのである。

さらに、最近は、ドーパミンは、単に、感情、情動面に働くというよりも、神経ネットワーク全体の関連を調整しているとされ、刺激の意味や報酬との関連をつかさどるとされる。だとすれば、ドーパミンを抑えることは、感情、情動面だけでなく、そのような、認知、思考の重要な機能に、大きな障害をもたらす可能性もあるはずである。しかし、ここでも、薬は、そのようなネットワークの調整が乱れているときの、「修復」をもたらすという、「よい」効果しか生まないもののように解されている。

また、このようなドーバミン系は、過大なストレスにより生じた精神的不安定を修復するシステムではないかという、新しい考え方も紹介されている。これは、妄想や幻覚などの症状は、神経伝達物質の変調を「原因」とするのではなく、むしろ、多大なストレスを受けた「結果」として、修復システムが過剰に働いて、乱れを生じていることからくるものであることを示唆するものである。私も、この考え方自体には、十分説得的なものを感じる(「ストレス」の捉え方にもよるが)。

しかし、そうであれば、薬が、このシステムに働きかけて無理に抑えることは、全体として、精神的不安定を修復するシステムを「台なし」にする可能性があるはずである。しかし、ここでも、薬は、この「修復システムが乱れたときに、欠けているものを補う働きをする」という、もはや,アクロバット的に、「よい」ようにしか働かないもののように解されているのである。

「薬は効く」ということが前提にされると、ここまで、一方的な解釈で、突き進んでしまうものかと思う。

「抗精神病薬」については、この本でも、「健康」な人にも、手術で使用する「麻酔」として利用されることを述べている。そして、その効果として、「外界の刺激に対して無関心で、反応を起こさなくなる」ということが指摘されている。だから、これが統合失調症の患者の場合には、「幻覚や妄想」に対して、無関心で、反応しなくなるので、効くのだという。が、それが、幻覚や妄想だけに働くなどという保証は、全くないはずである。全体として、「外界の刺激に対して無関心で、反応を起こさなくなる」ということが、薬を飲み続けるほどに、押し進められるのは、明らかというべきである

ほかにも、あげればいろいろとあるが、とりあえず、こういったところで、両者の論点の違いや問題点の多くは、大分明らかになったことと思う。

この『大笑い』と『もう少し』の論点ないし結論の違いを、大きく象徴する文章があるので、それをあげてみたい。

大笑い

それはあくまでも症状であり、生理的な反応であり、だれにでも存在する苦しみであり、そうであるがゆえにそれは疾患でも障害でもなく、医学によっては解決できないという理解が必要なのです。これは人格の善し悪しレベルの問題ではなく、科学によって定義や証明できないものが治療に結びつくわけはないのてす。だから精神科にかかるということは、悪くなって当たり前でしかないわけです。 (87頁)

もう少し』                                        

専門技術の進歩と社会的な制度の充実が手を携えることで、こころを病んでも安心して暮らせる社会が実現できる。それこそが最先端の医療である。(236頁)

一見、『もう少し』に述べられたことは、患者にとって、望ましいことのように聞こえるかもしれない。「こころを病んでも安心して暮らせる社会」とは、差別や不利益がないということではなく、精神病やその傾向を早期に発見する検査や、薬を中心とする治療体制が整った社会という意味である。それは、精神医学が、より積極的に、社会に関与し、行き渡ることを意味している。

私は、この文章には、そら恐ろしくなったし、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』という逆ユートピア小説が描く世界を思い出させた。

読んだのはかなり昔のことなので、その概要は、ウィキペディアから引用させてもらう。

人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。ビンから出た(生まれた)後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。不快な気分になったときは「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は激情に駆られることなく常に安定した精神状態であるため、社会は完全に安定している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定されてフリーセックスが推奨され、つねに人々は一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、だれもが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」である。

※ソーマ  副作用のない麻薬。ムスタファ・モンド曰く「涙を交えぬキリスト教」。

この「ソーマ」というのが、精神薬に相当する。これがあれば、心を病んでも、悩んだり、苦痛を味わう必要はない。まさに、「心を病んでも安心して暮らせる社会」そのものなのである。『もう少し』の著者はともかく、実際に、かなりの精神科医や患者にとっては、そのような世界こそが、本気で望まれているのかもしれないとも思われる。「物質信仰」のもと、「楽」な方向、「手のかからない」方向に突き進んで行けば、結局は、そういう風になることを望むしかないのかもしれない。

これに対して、『大笑い』の文章は、全く「真逆」で、ある意味「救い」のないものだが、真っ当過ぎるぐらい、真っ当な結論になっている。精神医学の介入こそが、問題を広げ、拡大させたのだから、精神的な問題を、そこから引き離して、元の位置に戻すしかないというものである。

ただ、既に薬に依存し、結果として、精神科医に依存せざるを得ない人は多くいる。またそうでなくとも、周りの者または自分自身がそうなったときには、やはり、そうせざるを得ないと考える者も多い。上のようなことが「真っ当」であることには、恐らく、多くの者が内心気づきつつも、容易にはそうできないのが、精神医学の「闇」である以上に、我々自身の「闇」なのでもあろう

2012年12月 3日 (月)

『大笑い!精神医学』

内海聡医師の『精神科は今日も、やりたい放題』に続く、第2段の著書『大笑い!精神医学』(三五館)が出ているので、読んだ。 

これは、一般向けに、「精神医学」の問題点、否定されるべき理由を明解に説いたものとして、前作以上に、よいできになっている。

初めに、マンガで、各テーマの論点やポイントを視覚的、印象的にさっと示して、その後にその説明を施すスタイルをとっているので、興味を持って読みやすく、理解も進む。文章も、前作では、あえて「過激な表現」をとることで、問題提起をしかけるような意図がみられたが、説明としては、はしょったものが多くて、必ずしも、理解されるとは思えなかった。が、今回は、一般にも、このような試みが大分浸透して、その必要がなくなったせいか、表現も率直で穏当なものが多く、説明も、より丁寧になされている。

扱う内容としては、前作と変わるものではないが、マンガとも相俟って、何が問題なのかの論点が明確になっているのがいい。

ここまで、正面から、分かりやすく、この問題を、明解に説き明かしたものは、他にないはずである。このブログに関して、数冊に絞って挙げている、「関連書籍」にも加えたいと思う。

私としても、前作では、多少の誤解があったようだが、今回は、その一致するところの多さにも驚いた。たとえば、「飲むも地獄、飲まないも地獄」という言葉が出てくるが、前作では、あるゆる苦痛は、「精神薬により作り出される」ものと言っているように読める点もあった。が、今回、「飲まない地獄」というのも認められたうえで、それはあくまで、「精神」の問題として、社会的にまたは個人的に解決していくしかないことがはっきり述べられている。

「薬」が問題なのではなく、「精神医学」そのものが問題なのであり、「精神的に不都合のある状態」を「病気」として、「医学」の対象とすることが問題なのである。それは、我々自身が、恐怖のため、また、本当に向き合いたくないため、そう「望んだ」からこそ起こっていることであるが、そこにつけ込んで、いかに「精神医学」が我々を貪り尽くしてきたかが、いやというほど明らかにされている。

「反精神医学」という立場は、昔からあったが、それらには、かなり曖昧で明確さに欠けていたり、反動として、夢想的なものがあったりもした。しかし、これだけ、「現実的」な視点から、明解に説かれた「反精神医学」というものも珍しい。実際、こういうものでない限り、多くの人に理解されて、本当に影響を与えていくこともないだろうと思う。もちろん、逆に、反発も買いやすいわけだが、むしろ、対立点が明確になるのであれは、望ましいことである。

実は、私は、この本の前に、全く「眞逆」に位置する、『もう少し知りたい統合失調症の薬と脳』という本も読んでいた。これらは、対比すると、より論点の違いがはっきり見えてくるので、次回は少し詳しく、それらの対比をしてみたい。

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