※多少長いですが、「正統派精神医学」と精神医学を根本的に否定する立場とを突き合わせて、両者の論点の違いと、「正統派精神医学」に潜む問題点を明かにしたものなので、ぜひお読み下さい。
前回述べたように、私は、『大笑い!精神医学』の前に、福田正人著『もう少し知りたい統合失調症の薬と脳』(日本評論社)を読んでいた。[『大笑い!精神医学』→以下『大笑い』と略、『もう少し知りたい統合失調症の薬と脳』→以下『もう少し』と略]
この本は、正統派の精神科医が、統合失調症の薬や脳について解説したもので、精神医学の標準的な書物として、よくあげられてもいる。なぜ「抗精神病薬」が統合失調症に効くのか、その脳のメカニズムはどういうものかということが、率直に分かりやすく述べられている。文章は穏当で、読みやすく、部分的には納得できるところもある。恐らくだが、本当に「善意」で、信じるとおりのことが述べられているのだろうと思わせる。そうでなかったら、最後まで読めなかっただろうが、だからこそ、より「恐ろしい」のでもある。
多くの精神科医や医療関係者、そして一般の人も、恐らく、このとおりに信じてしまい、そうなると、容易には覆せなくなるだろうことが、如実に示されている。まさに、『大笑い』と「真逆」に位置する本といってよい。
しかし、このような本だからこそ、『大笑い』と対比させると、論点の違いも鮮明になり、私としても、問題点が明確になり、有意義でもあった。
何しろ、『もう少し』では、
1 「統合失調症」という、「治療すべき」「病気」が、厳として存在するということ
2 「幻覚」「妄想」「自我障害」などは、「病気」がもたらす「症状」であり、取り除くべきものであるということ
3 「薬」は、これらの「症状」に、「効くものである」ということ
が、疑わざる「大前提」とされ、その上に全ての論理や研究が築きかれている。脳などの研究による知見そのものは確かに進んでいて、より洗練され、複雑になっている。その点に惑わされると、確かに、「もっともらしく」受けとられることになるだろう。しかし、それらは、そのような「大前提」のもとに解釈され、あるいは、「大前提」を塗り固めるために、利用されているごときである。
たとえば、「薬が効く」ということは、疑われざる大前提なので、統合失調症の者が示す様々な「マイナス」の反応は、病気の結果とされ、「プラス」の反応は、「薬」の効果ということが、初めから、当然のように前提にされている。そして、そのように、「薬が効く」ということからスタートして、その理由(メカニズム)を探ることが、「統合失調症」の(特に脳の)解明そのものとなるということが、研究の指標そのものとされている。これは、ほとんど、あからさまな、「トートロジー的発想」である。
「治療の対象は病気である。患者ではない」という言葉が出てくるが、これは、いかに、「病気」ということが、「実体」として捉えられているかということを、如実に示している。また、いかに、「薬」による治療を正当化するものかを示すものである(それは、患者を痛めつけるのではなく、病気を痛めつけるもの)。しかし、実際には、「病的状態」に陥っている「患者」しか存在しないのであり、薬による効果を受けるのも、患者でしかあり得ないのは、明らかである。
これを、一言で言うと、「薬のための、薬による精神医学」ということになるだろう。
一方、『大笑い』が問題にしているのは、そのような「大前提そのものが違う」ということなのである。つまり、「統合失調症」、または他のもっともらしく名付けられた病名にしても、そのような「治療すべき」「病気」が、実際に存在するわけではないということである。また、「薬は効く」などとは言えない、ということである。まず、この「大前提」そのものに、論点の違いがあることに気づかないと、真っ当な議論にすらなりようがない。
たとえ、現代の精神医学を批判するにしても、この「大前提」そのものは、疑うことなく受け入れてしまうならば、それは、「精神医学」そのものの枠組みはそのままにして、「薬」以外の治療法を探ったり、あるいは、本来「薬が効く」こと自体は受け入れて、単に「多剤投与」や「大量投与」を問題とするのみということになる。そのような「運用」さえ、改められれば、「精神医学」そのものは、問題とされなくなる。それは、結局、「精神医学」の枠組みに、からめとられていることにほかならない。
この「精神医学」という、枠組みそのものを否定する立場は、既に強固にできあがっていて、運営されているシステムを、根本から覆そうとするという意味で、「極端」な説であることには違いない。しかし、その言うところが本当なら、結局はそうする(根本的に否定する)しかないのだし、それを「大前提」そのものは受け入れて、「精神医学」として存続させる立場と、置き換えることはできないはずである。
ただし、たとえば、「統合失調症」という「病気がある」ということも、「ない」ということも、科学的に証明できるような事柄ではない。実際上、未だ十分の根拠もなく、精神科医が経験上「統合失調症」と診断したもの(但し、その判断のもとには、周りの者や「世間」の見方が大きく反映しているはずである)が、「統合失調症」とされていて、それが、「統合失調症」という「病気」の「枠組み」を決定している。「統合失調症の者にかくかくの実験をする」という場合にも、そのように、事実上「統合失調症」と診断されされている者が、実験台となっているという、その大元からして、あやふやで、確かな根拠のないものである。
これは、薬が「効く」か「効かない」か、ということについても同様で、その判断もまた、精神科医による事実上のもの(そこにも、周りの者や「世間」の見方が大きく反映する)とならざるを得ない。
この点からすると、「精神医学」とそれに対立する見方とは、本来、容易に「結着」のつくような代物でないのが明らかであり、実際に、そうなっている。要は、これらの「大前提」についての見方は、個々の者の、「信念」とか、社会的な「常識」とか、経験的な「感覚」とか、「直感」とかによるしかないのである。
但し、通常の「精神医学」が、この「大前提」に対しては、何らの考察もなしに、ただ、当然の前提とするのに対し、『大笑い』では、この大前提またはその背景の問題に、歴史や哲学なども駆使しながら、総合的に切り込んでいるのである。
以上のことを、もう少し具体的にみてみよう。
『もう少し』では、「薬が効く」ということには、「統合失調症者」に抗精神病薬を施した場合と、プラシーボ(偽薬)を施した場合とで、かなり極端に「改善」の効果や「再発率」に違いがみられるというデータが、一つあげられている。
これは、恐らく、精神医学界で権威あるデータなのだろうが、製薬会社の大きな影響力を考えれば、その関連がどうなのか、疑われるところである。また、そもそも「統合失調症」という前提の枠組みが、前記のように「作られた」枠組みであるうえに、「改善」とか「再発」という結果も、精神科医または周りの者による、事実上の「判断」によってなされるものである。だから、このようなデータは、決して、それだけで説得力を持つものではない。
また、『大笑い』にも出てくるが、このようなデータには、逆の立場からのものもいくらもある。向精神薬を施した場合とプラシーボを施した場合で、「改善」や「再発率」には差がない、あるいは、むしろ、「向精神薬」を施した場合の方が「悪い」というデータもあるのである。残念ながら、この場合も、そもそもの「病者」という枠組みが事実上のものでしかなく、「改善」も「再発」も解釈でしかないという同じ問題がある。
しかし、「統合失調症者」に抗精神病薬を施した場合に、「改善」の効果が明らかにみられ、「再発率」が少ないなどとは言えないことを示す、一つのデータにはなっている。
症状の「改善」ということの判断には、もともとの状態が、いかに「害悪」とみなされているかが、大きく反映する。その「害悪」が取り除かれる限り、たとえ、他に何らかのマイナスが生じていたとしても、それは、全体として、「改善」とみなされることにもなる。
たとえば、薬により、脳の働きが全体として抑えられて、興奮や激しい混乱など、「好ましくない」反応がみられなくなれば、「改善」ということになるのであれば、それは「改善」と判断されることになるだろう。しかし、この「改善」には、脳の働きが全体として抑えられたことによって、思考や感情、行動に、大きな犠牲もつきまとうことになるはずである。ところが、『もう少し』では、「病気が存在する」ということと、「薬は効く」ということが大前提とされているため、そのようなことが「薬」の効果としては、一切考慮されていない。むしろ、そのような思考や感情、行動の鈍りや滞りは、「陰性症状」として、統合失調症という病気そのもの結果として、全て解釈されているのである。
このようことは、あるゆる場面に当てはまり、まるで、一切の「よからぬ」効果は、「統合失調症」という「病気」が引き起こすもので、一切の、「よき」効果は、「薬」がもたらすものだと、決まっているかのようである。
たとえば、統合失調症の者に見られるという「脳の委縮」のような現象も、はじめから、統合失調症という病気の結果とされ、抗精神病薬による作用である可能性は一切顧みられていない。実際には、これは、薬の作用の結果である可能性が、大いにある(そのような研究報告もある)にもかかわらずである。
「再発」についても、「薬」を一時使用して止めた場合と、継続使用した場合とで、「再発率」か明らかに違うというデータがあげられている。
しかし、薬で強引に抑えられていた状態が、薬を止めることで、元に戻るのは当然というべきで、これは、単に、薬で抑えるという効果が途切れたのに過ぎない。薬を継続使用すれば、その薬で抑えるという状態が続いている限り、再発していないという見方ができるのも当然のことだろう。だが、この場合の、「薬で抑える」というのも、感情や思考などの精神活動、行動を全体として抑え込んでいるとみれるので、見方によっては、より「悪く」なっているのかもしれず、単に、興奮や激しい混乱という、「望ましくない」状態が現れていないということに過ぎない。
さらに言えば、一旦飲んだ「薬を止める」ということには、単に、元に戻るという以上の、マイナス効果が現れる可能性がある。いわゆる「禁断症状」や「離脱症状」だが、薬によって生じるそれらの異常な状態も、病気の結果とみなされるなら、「再発」と判断されることにもなる。とすれば、「薬を止める」ことによって生じるとされる「再発率」が、大きく高まるのも、当然のことと言える。
薬が「思考や感情、行動を全体として抑え込む」という点については、疑問があるかもしれない。
しかし、『もう少し』で、薬の効く「メカニズム」としてあげられているいくつかの説によっても、「薬が効く」とした場合に、ただ、統合失調症の症状とされる妄想や幻覚に、ピンポイントで効くなどいうことは、考えられないのである。
薬の効く「メカニズム」として、「ドーパミン仮説」というのがある。薬は、トーパミンという神経伝達物質の受容体を抑えることで、幻覚や妄想などの、ドーバミンの過剰活性により生じる状態を抑えることにより、症状に効くことになるというものである。最近は、その働きの元に、「グルタミン酸」があるとか、他の神経伝達物質との関連も言われるが、とりあえず、この「ドーパミン仮説」が基本的なものとしてあげられる。しかし、ドーパミンは、意欲とか動機のもとをなす感情という、生命にとって、かなり根源的な働きをしているとされるから、これを抑えることは、そのような根源的な部分に、大きな減退をもたらすことが考えられる。しかし、この本では、そのような可能性も考慮されず、薬は、その過剰からくる、「害悪」だけを取り除くようにしか、働かないもののようにみなされている。そのような効果が生じたとすれば、それは、病気からくる「陰性症状」とされるのである。
さらに、最近は、ドーパミンは、単に、感情、情動面に働くというよりも、神経ネットワーク全体の関連を調整しているとされ、刺激の意味や報酬との関連をつかさどるとされる。だとすれば、ドーパミンを抑えることは、感情、情動面だけでなく、そのような、認知、思考の重要な機能に、大きな障害をもたらす可能性もあるはずである。しかし、ここでも、薬は、そのようなネットワークの調整が乱れているときの、「修復」をもたらすという、「よい」効果しか生まないもののように解されている。
また、このようなドーバミン系は、過大なストレスにより生じた精神的不安定を修復するシステムではないかという、新しい考え方も紹介されている。これは、妄想や幻覚などの症状は、神経伝達物質の変調を「原因」とするのではなく、むしろ、多大なストレスを受けた「結果」として、修復システムが過剰に働いて、乱れを生じていることからくるものであることを示唆するものである。私も、この考え方自体には、十分説得的なものを感じる(「ストレス」の捉え方にもよるが)。
しかし、そうであれば、薬が、このシステムに働きかけて無理に抑えることは、全体として、精神的不安定を修復するシステムを「台なし」にする可能性があるはずである。しかし、ここでも、薬は、この「修復システムが乱れたときに、欠けているものを補う働きをする」という、もはや,アクロバット的に、「よい」ようにしか働かないもののように解されているのである。
「薬は効く」ということが前提にされると、ここまで、一方的な解釈で、突き進んでしまうものかと思う。
「抗精神病薬」については、この本でも、「健康」な人にも、手術で使用する「麻酔」として利用されることを述べている。そして、その効果として、「外界の刺激に対して無関心で、反応を起こさなくなる」ということが指摘されている。だから、これが統合失調症の患者の場合には、「幻覚や妄想」に対して、無関心で、反応しなくなるので、効くのだという。が、それが、幻覚や妄想だけに働くなどという保証は、全くないはずである。全体として、「外界の刺激に対して無関心で、反応を起こさなくなる」ということが、薬を飲み続けるほどに、押し進められるのは、明らかというべきである。
ほかにも、あげればいろいろとあるが、とりあえず、こういったところで、両者の論点の違いや問題点の多くは、大分明らかになったことと思う。
この『大笑い』と『もう少し』の論点ないし結論の違いを、大きく象徴する文章があるので、それをあげてみたい。
『大笑い』
それはあくまでも症状であり、生理的な反応であり、だれにでも存在する苦しみであり、そうであるがゆえにそれは疾患でも障害でもなく、医学によっては解決できないという理解が必要なのです。これは人格の善し悪しレベルの問題ではなく、科学によって定義や証明できないものが治療に結びつくわけはないのてす。だから精神科にかかるということは、悪くなって当たり前でしかないわけです。 (87頁)
『もう少し』
専門技術の進歩と社会的な制度の充実が手を携えることで、こころを病んでも安心して暮らせる社会が実現できる。それこそが最先端の医療である。(236頁)
一見、『もう少し』に述べられたことは、患者にとって、望ましいことのように聞こえるかもしれない。「こころを病んでも安心して暮らせる社会」とは、差別や不利益がないということではなく、精神病やその傾向を早期に発見する検査や、薬を中心とする治療体制が整った社会という意味である。それは、精神医学が、より積極的に、社会に関与し、行き渡ることを意味している。
私は、この文章には、そら恐ろしくなったし、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』という逆ユートピア小説が描く世界を思い出させた。
読んだのはかなり昔のことなので、その概要は、ウィキペディアから引用させてもらう。
人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。ビンから出た(生まれた)後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。不快な気分になったときは「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は激情に駆られることなく常に安定した精神状態であるため、社会は完全に安定している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定されてフリーセックスが推奨され、つねに人々は一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、だれもが他のみんなのために働いている。一見したところではまさに楽園であり、「すばらしい世界」である。
※ソーマ 副作用のない麻薬。ムスタファ・モンド曰く「涙を交えぬキリスト教」。
この「ソーマ」というのが、精神薬に相当する。これがあれば、心を病んでも、悩んだり、苦痛を味わう必要はない。まさに、「心を病んでも安心して暮らせる社会」そのものなのである。『もう少し』の著者はともかく、実際に、かなりの精神科医や患者にとっては、そのような世界こそが、本気で望まれているのかもしれないとも思われる。「物質信仰」のもと、「楽」な方向、「手のかからない」方向に突き進んで行けば、結局は、そういう風になることを望むしかないのかもしれない。
これに対して、『大笑い』の文章は、全く「真逆」で、ある意味「救い」のないものだが、真っ当過ぎるぐらい、真っ当な結論になっている。精神医学の介入こそが、問題を広げ、拡大させたのだから、精神的な問題を、そこから引き離して、元の位置に戻すしかないというものである。
ただ、既に薬に依存し、結果として、精神科医に依存せざるを得ない人は多くいる。またそうでなくとも、周りの者または自分自身がそうなったときには、やはり、そうせざるを得ないと考える者も多い。上のようなことが「真っ当」であることには、恐らく、多くの者が内心気づきつつも、容易にはそうできないのが、精神医学の「闇」である以上に、我々自身の「闇」なのでもあろう。
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