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2012年11月19日 (月)

「霊界の境域」と「雲」

最近の「雲」についての関心は、前に書いたように、子供の頃から、不思議に雲にひかれるということがあって、それが今につながっているという面がある。

しかし、もう一つは、一連の体験時にも、「雲」というのが、そのときの「霊界の境域」での様々な体験と関連して、特別のものとして浮上して来たということが、あるのである。

「雲」というのは、地球と天体の中間にあって、様々に形を変えながら、生じたり、消えたり、浮遊したり、ときには全天を覆ったりと、微妙で、変化の多い、不思議なあり方をしている。それ自体、「存在物」としては、曖昧で、確たるものではないが、それは、さまさまな表情をもち、人間の心情にも影響を与え、「存在感」のあるものである。

「地球」とは、我々の足場としての「この世(世界)」であり、「天体」とは、「地球」から見上げられる、一つの「別世界」であり、「あの世(世界)」ともいえる。「雲」とは、その「この世」と「あの世」の「間」または「境界」にあって、それを遮ったり、通じさせたり、様々な表象を与えたり、さらにそれ自体が、独特の中間領域の「世界」を構成しているものである。

たとえば、全天を暗雲が立ち込める状況は、それ自体が、「この世」と「あの世」の中間領域を覆い尽くし、一つの独特の「世界」を形成する。「この世」と「あの世」は、この中間領域において、隔絶される。地球は、ある「世界」に閉じ込められる。飛行機などで、地上(この世)から、晴れ渡った天空(あの世)へと抜け出ようとするなら、その中間領域である、この「暗雲」の世界を通り抜けて行かなければならない。

このような「雲の世界」とは、「この世」と「あの世」の中間領域である「霊界の境域」そのものであり、あるいは、少なくとも、それを「象徴」するものにほかならないと思うのである。
                                                                           

一連の体験時にも、そのような「雲」というものが、非常に「リアル」に意識され、まさに、自分がその中を模索しているかのような感覚を味わった。単に、「比喩的」にというのではなく、まさに、「雲」に取り巻かれ、その「雲」の質感まで肌で感じられ、それは、単なる「物質」ではなく、「生きたモノ」であると感じられたのである。

そして、昔見た映画に、『トワイライトゾーン』というSFまたはホラーのオムニバスものがあったが、その中の一つの映画が、思い起こされて来た。それは、非常な悪天候の中、飛行機が雲の中を飛行して行くのだが、一人の非常に脅えた客が、その雲の中に、悪魔のような存在を見、それと格闘し、最後は、着陸間際に飛行機の窓を突き破って外に出てしまい、救急車に運ばれるというものである。

この客は、見るからに脅えた状態でいて(何か理由があったか、あるいは飛行機を恐れていたのだったか)、飛行機が、悪天候の中、雲の中に入り、通過しようとするときには、その恐れもピークに達する。そのとき、ふと窓の外を見ると、大雨の降りしきる暗雲の中、飛行機の羽根のところに、何か人のようなものがいるのを見てしまう。そして、大声を出して、「外に人がいる」と言うが、皆に笑われてしまう。スチュワーデスは、窓のカーテンを閉めて、大丈夫、落ち着いて、と必死に諭そうとする。その者は、しばらくは落ち着いているが、怖いもの見たさというか、また窓を開けて見ずにはいられない状態になり、窓を開けると、今度は、それが人間ではなく、怪物か悪魔のような存在であることが分かる。

しかも、それは、エンジン部分を叩きこわそうしているようだ。この客は、また大声を出して、それを言うが、もはや頭のおかしい奴と見られていて、誰にも相手にされない。スチューワーデスにも、哀れに思われ、何を言っても、優しく介抱されるだけとなる。

最後には、また外を見ると、エンジンがまさに壊されようとしているので、この者は意を決して、窓を壊して外に出て、その存在に突き向かって、追い出すことになる。飛行機は騒動の中、無事に着陸し、この者は異常な行動を起こしてケガをした者として、救急車で運ばれるが、実際には、皆を救ったことになる。映画のラストシーンでも、エンジンが異常な故障をしていたことが示され、その者の見たのが、単なる「幻覚」ではなかったことが示される。

この映画は、恐怖に脅えた者の、心理状態が非常に迫真的に描かれ、そのような状態では、「幻覚」を見やすいということ、また周りの者の冷酷な態度など、「精神病理的な状況」がよく描き出されている。しかも、このような状況で、非常な恐怖に陥って見る「幻覚」とは、ただの「幻覚」ではないということも、示されている(そもそも、「ただの幻覚」なるものは存在しないのだが)。

この者の恐怖は、すさまじく、もはや、この「世界」を構成するものを突き破って、「霊界の境域」にまで達していたと言えるのである。だから、この者を取り巻く「世界」は、もはや「変容」し、「霊界の境域」における特有の「幻覚」を見ることになった。

それは、そのような心理状態が生み出し、その世界に「投影」したものでもあったが、同時に、その世界に住まう存在が、実際に「見せた」ものでもあった。

そういうわけで、この者の乗った飛行機が、「暗雲」の中を通過するというのは、もはや、単なる「外界」の出来事ではなく、彼の内面に起こっていること、そのものの「象徴」なのである。

彼は、「霊界の境域」に立ち込めた「暗雲」の中を通過しているのであり、まさに、そこに住まう「捕食者」を見る。「捕食者」は、「霊界の境域」に、クモの巣のように張り巡らされた「暗雲」の中に住まい、そこを通過しようとする者を「捕捉」する。「この世」から、「あの世」へと飛翔しようとする「翼」をもぎ取り、そのエンジン(原動力)を壊す。そうして、彼自身の領域である、「中間領域」の「霊界の境域」にからめとろうとするのである。

この映画は、意図してかどうか、そのような、「霊界の境域」の真実をも、うまく表現している。

まさに、私も、この主人公と同じような状況を、味わうことになったわけだ。

ところで、最近注目している、「ケムトレイル」の計画とは、このような見方によれば、まさに、地球と天体の「中間領域」を、「雲」でどんよりと覆い、「地球」が「天界」と通じることを、遮ろうとするものである。あるいは、地球を、そのような「中間領域」に閉じ込めようとするものである。

もちろん、その表面的な意図は、人間的なもので、地球工学的な発想に基づくものなのではあろう。

しかし、それが「象徴」的に表しているのは、まさしく、「捕食者」そのものの行い、ということができるのである。

※  11月16日(金)お昼の時間、まさに大量の飛行機雲を噴射しながら航行する飛行機の写真を撮ったので、掲載しておく(写真1)。そのしばらく後に、雲の軌跡も撮っておいた(写真2)。

この日は、朝から、飛行機雲が何本かあって、また「撒かれる」のかと予測し、ずっと観察していた。かなり多くの飛行機が飛行機雲を噴射しながら航行して行ったが、しかし、それはそれほど濃いものではなく、すぐさま消えて行くものだった。ところが、なぜか、この飛行機だけが、 見るからに「ケム」っぽい、太く濃い飛行機雲を残して行った。高度の違いはあろうが(しかし、見る限り、この飛行機が特に高い高度を飛んでいるようには見えない)、同じ条件の中で、このような違いは、逆に、「ケム」散布の可能性を思わせる。

                      写真1

20121116124001

                     写真2

20121116124204                      

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