「精神病」の「放置療法」と抵抗
近藤誠医師によれば、「がん」には、「放置療法」が一番よいそうだ。が、精神病ないし精神疾患にも、「放置療法」が一番よいことには、違いがないのである。私の場合は、もちろん、100パーセント「放置療法」である。
しかし、精神病ないし精神疾患の者を、「放置」するという場合、がんの患者とは違った意味で、多くの「抵抗」を感じるはずである。
が、実は、この「抵抗」こそが、精神病ないし精神疾患の「治療」ということの実質的意味を、逆に浮き彫りにする。精神病ないし精神疾患の「治療」とは、実際には、「治療」に重点があるのではなく、そのような者を「放置できない」ということの表現そのものだからである。
精神病ないし精神疾患の者を、「放置」することの「抵抗」とは、具体的には、大体次の3つになると思う。
1 精神病ないし精神疾患の者は、「社会的に危険」であるため、放置できない。
2 精神病ないし精神疾患の者は、非常に苦しんでいるので、放置できない。(何らかの犠牲があるとしても、楽にさせてあげたい)
3 自分が精神病ないし精神疾患になったとしても、やはり、苦しんで醜態をさらすのは嫌なので、放置されたくない。(たとえ訳が分からなくされても、楽になった方がいい)
1の精神病ないし精神疾患の者は、「社会的に危険」というのは、実際には、作られたイメージに過ぎない。犯罪率なども、精神疾患の者が特に高い訳ではないことが分かっている。ただ、現実に、精神病ないし精神疾患の者が、「被害妄想」などのために、犯罪行為を犯すことはある。そして、その場合には、社会に、特に不安や衝撃を与えることは確かと思われる。
「世間」は、「理由の分かる」犯罪については、さほど恐れないが、理由の分からない、理不尽な犯罪には、恐れを抱くのである。
むしろ、本当の「恐れ」は、犯罪そのものよりも、この「理由の分からない」行動に対してなのであって、もっと言えば、精神病ないし精神疾患そのものに対してなのである。
要するに、精神病ないし精神疾患の者は、「社会の健全な常識」を脅かす、「厄介者」なのである。「社会的に危険」とは、単に、「治安」という観点からではなく、「社会の常識」の維持に対して危険ということである。
そういう者を、放置することはできないという「抵抗」が強くあるが故に、そういう者は、精神病院という、社会から隔離された施設へと委ねられる。そして、それこそが、「治療」ということの、第一の実質的意味である。
このような「抵抗」が強くある限り、「放置療法」などは、とても望むべくもないことになる。
2の精神病ないし精神疾患の者は、苦しんでいるので、放置できない。というのも、特に身近な者にとっては、多くある「抵抗」と思う。確かに、身近で、そのような者の「異常な振る舞い」や「言動」を見ていれば、その「苦痛」を取り除いてあげたいと思うのは、自然なことといえる。
しかし、このような「抵抗」の実質は、どんなに「善意」に解したとしても、1の精神病ないし精神疾患そのものに対する「恐れ」と、紙一重である。それが、はたからは、何か「分からない」もので、見るに堪えない、または、受け止めるに堪えないものであるからこそ、取り除きたいのである。それが、その者の「苦痛」に見えるのは、確かだとしても、例えば、そのために、精神病院に隔離したり、精神薬による治療をしたりすることが、その者にとって、「苦痛」でないという保証は少しもない。むしろ、自分自身が、そのような「訳の分からない」「言動」をみる「苦痛」から、開放されたいのである。
実際、精神病院への隔離や精神薬に、何らの犠牲も伴わないと信じることは難しいので、これは、たとえ、一定の犠牲が伴うとしても、精神病ないし精神疾患の苦痛を取り払いたいということである。つまり、精神病ないし精神疾患が、それだけ酷い「害悪」とみなされているわけで、実質は、1と同じ、「厄介者」扱いと同じである。
そこで、このような「抵抗」も、容易に覆えせるものではない。
3の自分が精神病ないし精神疾患になったとしても、苦しんで醜態をさらすのは嫌なので、放置されたくない。という意識がはっきりとあるのならば、2の他人の「苦痛」を取り除きたい、という発想にも、一定の説得力がある。
しかし、自分が精神病ないし精神疾患になったとしても、放置されたくない。というのも、やはり、精神病ないし精神疾患という状態そのものへの「恐れ」の表現であり、その「苦痛」そのものが問題なのではない可能性の方が高い。
だとすれば、この「抵抗」も1のものに近いのである。
ただ、自分自身の問題とした場合、精神病ないし精神疾患の状態で、「放置」されることそのものにも、相当強い「恐れ」が伴うことは確かと言える。訳の分からない「苦痛」に一人で、長い間さらされることは、とても耐え難いということである。たとえ、社会的に隔離されたり、精神薬で脳の作用や意識が麻痺または減退されても、楽になれるならば、その方がいいという考えは、現実にいくらでもあり得るだろう。
あるいは、現に精神病ないし精神疾患の状態にある場合を想定しても、その現実の「苦痛」にとても耐えられないので、そのようなことを望むことは、いくらもあり得る。(自殺を敢行する場合もあるのだから、それは当然のこといえる。)
私もそうだったが、それが、耐え難い「苦痛」であるのは、本当のことである。その点は、その「苦痛」のイメージばかりが、大きく広がってしまったが、実際には、そうでない場合も多い、がんの場合とは異なるかもしれない。
また、「放置」ということでいうと、がんの場合は、「治療」というよりも、放置することで、より苦痛の少ない、「自然な死に方」をしていくということの意味の方が大きい。「治療」というのは、実際には、手術や抗ガン剤など、「医療を施すことにによって生じた新たな苦痛や反応を取り除く」という意味なのである。
ところが、「精神病」ないし精神疾患の場合は、医療を施すことにによって生じる新たな苦痛や反応があることは同じだが、がんの場合のように、放置すれば、「正常な意識」を保ったうえで、「自然な死に方」ができるというものではない。現在の状態がより悪くなり、意識がより混濁し、廃人のようになることはあっても、自然に死が迎えに来るという保証は何もない。
そこで、実質的にも、「放置」に対する抵抗がより強いのは、頷ける面がある。
しかし、逆に、医療が施す処置は、がんの場合以上に、「治療」という意味は薄く、むしろ、「自然の死」が来ない分、その間の「苦痛」を、何とか取り除こうとする(ごまかす)という意味合いの強いものである。
ところが、逆に、それをしない「放置」ということには、がんの場合以上に、実質的な「治療」的な効果が「あり得る」のである。その意味では、「放置療法」ということは、文字通りの意味では、精神病ないし精神疾患の場合にこそ、ふさわしいものである。
ただし、この場合の「放置」とは、ただ放っておけばいいというものではなく、自分自身での、何らかの積極的な取り組みは要求される。
それは、要するに、医療が施す処置の逆で、できる限り、「苦痛」を取り除かないこと、正面から、その「苦痛」に向き合うことである。
具体的には、これまでに十分みて来たはずだが、簡単に言うと、統合失調症の場合には、ますは、全体として、それが、起こってくる「プロセス」なら、それを無理に「せき止め」ないで、むしろ、徹底的に、起こすにまかせる(覚悟をする)ことである。それを、「せき止め」ようとする反応こそが、「妄想」を生み、固定させるので、それを突き崩して行かない限り、さらに、そのよってくるところと「向き合う」ということもできない。
そのうえで、「幻覚」や「妄想」のよってくるところを、「見極」め、それに対して、「受け止め」るなり、必要とあれば、何らかの「対処」をしていくということである。
「うつ」の場合であっても、そのよってくるところを、「見極」め、それに対して、「受け止め」るなり、必要とあれば、何らかの「対処」をしていくということしかないのは、同じはずである。
これは、実際には、もちろん簡単なことではないし、「苦痛」に負けて、耐えられなくなる可能性も高いはずである。
しかし、精神病ないし精神疾患に対して、現在の医療のシステムが前記のようになっており、近代以前の「集団的療法」というのも、現在ではあり得ない以上、「治療」というのは、本人自身による、こういうことしかもはやあり得ないはずである。あり得るとすれば、そのような本人による試みに対して、周りが、何らかの「補助」をすることぐらいである。
何しろ、精神病ないし精神疾患に対しては、周りの者が変に手をかけないという、「放置」ということこそが、むしろ、「治療」(自己治癒)の前提というべきものになっている。もちろん、「放置」したからといって、「治療」が敵うという保証はなく、むしろ、より悪い事態に陥る可能性も高い。が、「放置」ということなしに、根本的な治療ということもまた、あり得ないのである。
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