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2012年11月

2012年11月26日 (月)

「精神病」の「放置療法」と抵抗

近藤誠医師によれば、「がん」には、「放置療法」が一番よいそうだ。が、精神病ないし精神疾患にも、「放置療法」が一番よいことには、違いがないのである。私の場合は、もちろん、100パーセント「放置療法」である。

しかし、精神病ないし精神疾患の者を、「放置」するという場合、がんの患者とは違った意味で、多くの「抵抗」を感じるはずである。

が、実は、この「抵抗」こそが、精神病ないし精神疾患の「治療」ということの実質的意味を、逆に浮き彫りにする。精神病ないし精神疾患の「治療」とは、実際には、「治療」に重点があるのではなく、そのような者を「放置できない」ということの表現そのものだからである。

精神病ないし精神疾患の者を、「放置」することの「抵抗」とは、具体的には、大体次の3つになると思う。
         
1  精神病ないし精神疾患の者は、「社会的に危険」であるため、放置できない。

2  精神病ないし精神疾患の者は、非常に苦しんでいるので、放置できない。(何らかの犠牲があるとしても、楽にさせてあげたい)

3  自分が精神病ないし精神疾患になったとしても、やはり、苦しんで醜態をさらすのは嫌なので、放置されたくない。(たとえ訳が分からなくされても、楽になった方がいい)

1の精神病ないし精神疾患の者は、「社会的に危険」というのは、実際には、作られたイメージに過ぎない。犯罪率なども、精神疾患の者が特に高い訳ではないことが分かっている。ただ、現実に、精神病ないし精神疾患の者が、「被害妄想」などのために、犯罪行為を犯すことはある。そして、その場合には、社会に、特に不安や衝撃を与えることは確かと思われる。

「世間」は、「理由の分かる」犯罪については、さほど恐れないが、理由の分からない、理不尽な犯罪には、恐れを抱くのである。

むしろ、本当の「恐れ」は、犯罪そのものよりも、この「理由の分からない」行動に対してなのであって、もっと言えば、精神病ないし精神疾患そのものに対してなのである。

要するに、精神病ないし精神疾患の者は、「社会の健全な常識」を脅かす、「厄介者」なのである。「社会的に危険」とは、単に、「治安」という観点からではなく、「社会の常識」の維持に対して危険ということである。

そういう者を、放置することはできないという「抵抗」が強くあるが故に、そういう者は、精神病院という、社会から隔離された施設へと委ねられる。そして、それこそが、「治療」ということの、第一の実質的意味である。

このような「抵抗」が強くある限り、「放置療法」などは、とても望むべくもないことになる。

2の精神病ないし精神疾患の者は、苦しんでいるので、放置できない。というのも、特に身近な者にとっては、多くある「抵抗」と思う。確かに、身近で、そのような者の「異常な振る舞い」や「言動」を見ていれば、その「苦痛」を取り除いてあげたいと思うのは、自然なことといえる。

しかし、このような「抵抗」の実質は、どんなに「善意」に解したとしても、1の精神病ないし精神疾患そのものに対する「恐れ」と、紙一重である。それが、はたからは、何か「分からない」もので、見るに堪えない、または、受け止めるに堪えないものであるからこそ、取り除きたいのである。それが、その者の「苦痛」に見えるのは、確かだとしても、例えば、そのために、精神病院に隔離したり、精神薬による治療をしたりすることが、その者にとって、「苦痛」でないという保証は少しもない。むしろ、自分自身が、そのような「訳の分からない」「言動」をみる「苦痛」から、開放されたいのである。

実際、精神病院への隔離や精神薬に、何らの犠牲も伴わないと信じることは難しいので、これは、たとえ、一定の犠牲が伴うとしても、精神病ないし精神疾患の苦痛を取り払いたいということである。つまり、精神病ないし精神疾患が、それだけ酷い「害悪」とみなされているわけで、実質は、1と同じ、「厄介者」扱いと同じである。

そこで、このような「抵抗」も、容易に覆えせるものではない。

3の自分が精神病ないし精神疾患になったとしても、苦しんで醜態をさらすのは嫌なので、放置されたくない。という意識がはっきりとあるのならば、2の他人の「苦痛」を取り除きたい、という発想にも、一定の説得力がある。

しかし、自分が精神病ないし精神疾患になったとしても、放置されたくない。というのも、やはり、精神病ないし精神疾患という状態そのものへの「恐れ」の表現であり、その「苦痛」そのものが問題なのではない可能性の方が高い。

だとすれば、この「抵抗」も1のものに近いのである。

ただ、自分自身の問題とした場合、精神病ないし精神疾患の状態で、「放置」されることそのものにも、相当強い「恐れ」が伴うことは確かと言える。訳の分からない「苦痛」に一人で、長い間さらされることは、とても耐え難いということである。たとえ、社会的に隔離されたり、精神薬で脳の作用や意識が麻痺または減退されても、楽になれるならば、その方がいいという考えは、現実にいくらでもあり得るだろう。

あるいは、現に精神病ないし精神疾患の状態にある場合を想定しても、その現実の「苦痛」にとても耐えられないので、そのようなことを望むことは、いくらもあり得る。(自殺を敢行する場合もあるのだから、それは当然のこといえる。)

私もそうだったが、それが、耐え難い「苦痛」であるのは、本当のことである。その点は、その「苦痛」のイメージばかりが、大きく広がってしまったが、実際には、そうでない場合も多い、がんの場合とは異なるかもしれない。       

また、「放置」ということでいうと、がんの場合は、「治療」というよりも、放置することで、より苦痛の少ない、「自然な死に方」をしていくということの意味の方が大きい。「治療」というのは、実際には、手術や抗ガン剤など、「医療を施すことにによって生じた新たな苦痛や反応を取り除く」という意味なのである。

ところが、「精神病」ないし精神疾患の場合は、医療を施すことにによって生じる新たな苦痛や反応があることは同じだが、がんの場合のように、放置すれば、「正常な意識」を保ったうえで、「自然な死に方」ができるというものではない。現在の状態がより悪くなり、意識がより混濁し、廃人のようになることはあっても、自然に死が迎えに来るという保証は何もない。

そこで、実質的にも、「放置」に対する抵抗がより強いのは、頷ける面がある。

しかし、逆に、医療が施す処置は、がんの場合以上に、「治療」という意味は薄く、むしろ、「自然の死」が来ない分、その間の「苦痛」を、何とか取り除こうとする(ごまかす)という意味合いの強いものである。

ところが、逆に、それをしない「放置」ということには、がんの場合以上に、実質的な「治療」的な効果が「あり得る」のである。その意味では、「放置療法」ということは、文字通りの意味では、精神病ないし精神疾患の場合にこそ、ふさわしいものである。

ただし、この場合の「放置」とは、ただ放っておけばいいというものではなく、自分自身での、何らかの積極的な取り組みは要求される。

それは、要するに、医療が施す処置の逆で、できる限り、「苦痛」を取り除かないこと、正面から、その「苦痛」に向き合うことである。

具体的には、これまでに十分みて来たはずだが、簡単に言うと、統合失調症の場合には、ますは、全体として、それが、起こってくる「プロセス」なら、それを無理に「せき止め」ないで、むしろ、徹底的に、起こすにまかせる(覚悟をする)ことである。それを、「せき止め」ようとする反応こそが、「妄想」を生み、固定させるので、それを突き崩して行かない限り、さらに、そのよってくるところと「向き合う」ということもできない。

そのうえで、「幻覚」や「妄想」のよってくるところを、「見極」め、それに対して、「受け止め」るなり、必要とあれば、何らかの「対処」をしていくということである。

「うつ」の場合であっても、そのよってくるところを、「見極」め、それに対して、「受け止め」るなり、必要とあれば、何らかの「対処」をしていくということしかないのは、同じはずである。

これは、実際には、もちろん簡単なことではないし、「苦痛」に負けて、耐えられなくなる可能性も高いはずである。

しかし、精神病ないし精神疾患に対して、現在の医療のシステムが前記のようになっており、近代以前の「集団的療法」というのも、現在ではあり得ない以上、「治療」というのは、本人自身による、こういうことしかもはやあり得ないはずである。あり得るとすれば、そのような本人による試みに対して、周りが、何らかの「補助」をすることぐらいである。

何しろ、精神病ないし精神疾患に対しては、周りの者が変に手をかけないという、「放置」ということこそが、むしろ、「治療」(自己治癒)の前提というべきものになっている。もちろん、「放置」したからといって、「治療」が敵うという保証はなく、むしろ、より悪い事態に陥る可能性も高い。が、「放置」ということなしに、根本的な治療ということもまた、あり得ないのである。

2012年11月25日 (日)

デザイン変更

背景のデザインを変更しました。

前のデザインも結構気に入ってはいましたが、中華風の雰囲気がテーマにそぐわないかなというのと、多少本文が見にくいかなというのがありました。

今回のデザインは、よりシンプルで本文も見やすいものになっていると思います

※12月23日 

少し苦労したが、タイトル文字の色などをカスタムCSSの編集で変更することができた。

2012年11月19日 (月)

「霊界の境域」と「雲」

最近の「雲」についての関心は、前に書いたように、子供の頃から、不思議に雲にひかれるということがあって、それが今につながっているという面がある。

しかし、もう一つは、一連の体験時にも、「雲」というのが、そのときの「霊界の境域」での様々な体験と関連して、特別のものとして浮上して来たということが、あるのである。

「雲」というのは、地球と天体の中間にあって、様々に形を変えながら、生じたり、消えたり、浮遊したり、ときには全天を覆ったりと、微妙で、変化の多い、不思議なあり方をしている。それ自体、「存在物」としては、曖昧で、確たるものではないが、それは、さまさまな表情をもち、人間の心情にも影響を与え、「存在感」のあるものである。

「地球」とは、我々の足場としての「この世(世界)」であり、「天体」とは、「地球」から見上げられる、一つの「別世界」であり、「あの世(世界)」ともいえる。「雲」とは、その「この世」と「あの世」の「間」または「境界」にあって、それを遮ったり、通じさせたり、様々な表象を与えたり、さらにそれ自体が、独特の中間領域の「世界」を構成しているものである。

たとえば、全天を暗雲が立ち込める状況は、それ自体が、「この世」と「あの世」の中間領域を覆い尽くし、一つの独特の「世界」を形成する。「この世」と「あの世」は、この中間領域において、隔絶される。地球は、ある「世界」に閉じ込められる。飛行機などで、地上(この世)から、晴れ渡った天空(あの世)へと抜け出ようとするなら、その中間領域である、この「暗雲」の世界を通り抜けて行かなければならない。

このような「雲の世界」とは、「この世」と「あの世」の中間領域である「霊界の境域」そのものであり、あるいは、少なくとも、それを「象徴」するものにほかならないと思うのである。
                                                                           

一連の体験時にも、そのような「雲」というものが、非常に「リアル」に意識され、まさに、自分がその中を模索しているかのような感覚を味わった。単に、「比喩的」にというのではなく、まさに、「雲」に取り巻かれ、その「雲」の質感まで肌で感じられ、それは、単なる「物質」ではなく、「生きたモノ」であると感じられたのである。

そして、昔見た映画に、『トワイライトゾーン』というSFまたはホラーのオムニバスものがあったが、その中の一つの映画が、思い起こされて来た。それは、非常な悪天候の中、飛行機が雲の中を飛行して行くのだが、一人の非常に脅えた客が、その雲の中に、悪魔のような存在を見、それと格闘し、最後は、着陸間際に飛行機の窓を突き破って外に出てしまい、救急車に運ばれるというものである。

この客は、見るからに脅えた状態でいて(何か理由があったか、あるいは飛行機を恐れていたのだったか)、飛行機が、悪天候の中、雲の中に入り、通過しようとするときには、その恐れもピークに達する。そのとき、ふと窓の外を見ると、大雨の降りしきる暗雲の中、飛行機の羽根のところに、何か人のようなものがいるのを見てしまう。そして、大声を出して、「外に人がいる」と言うが、皆に笑われてしまう。スチュワーデスは、窓のカーテンを閉めて、大丈夫、落ち着いて、と必死に諭そうとする。その者は、しばらくは落ち着いているが、怖いもの見たさというか、また窓を開けて見ずにはいられない状態になり、窓を開けると、今度は、それが人間ではなく、怪物か悪魔のような存在であることが分かる。

しかも、それは、エンジン部分を叩きこわそうしているようだ。この客は、また大声を出して、それを言うが、もはや頭のおかしい奴と見られていて、誰にも相手にされない。スチューワーデスにも、哀れに思われ、何を言っても、優しく介抱されるだけとなる。

最後には、また外を見ると、エンジンがまさに壊されようとしているので、この者は意を決して、窓を壊して外に出て、その存在に突き向かって、追い出すことになる。飛行機は騒動の中、無事に着陸し、この者は異常な行動を起こしてケガをした者として、救急車で運ばれるが、実際には、皆を救ったことになる。映画のラストシーンでも、エンジンが異常な故障をしていたことが示され、その者の見たのが、単なる「幻覚」ではなかったことが示される。

この映画は、恐怖に脅えた者の、心理状態が非常に迫真的に描かれ、そのような状態では、「幻覚」を見やすいということ、また周りの者の冷酷な態度など、「精神病理的な状況」がよく描き出されている。しかも、このような状況で、非常な恐怖に陥って見る「幻覚」とは、ただの「幻覚」ではないということも、示されている(そもそも、「ただの幻覚」なるものは存在しないのだが)。

この者の恐怖は、すさまじく、もはや、この「世界」を構成するものを突き破って、「霊界の境域」にまで達していたと言えるのである。だから、この者を取り巻く「世界」は、もはや「変容」し、「霊界の境域」における特有の「幻覚」を見ることになった。

それは、そのような心理状態が生み出し、その世界に「投影」したものでもあったが、同時に、その世界に住まう存在が、実際に「見せた」ものでもあった。

そういうわけで、この者の乗った飛行機が、「暗雲」の中を通過するというのは、もはや、単なる「外界」の出来事ではなく、彼の内面に起こっていること、そのものの「象徴」なのである。

彼は、「霊界の境域」に立ち込めた「暗雲」の中を通過しているのであり、まさに、そこに住まう「捕食者」を見る。「捕食者」は、「霊界の境域」に、クモの巣のように張り巡らされた「暗雲」の中に住まい、そこを通過しようとする者を「捕捉」する。「この世」から、「あの世」へと飛翔しようとする「翼」をもぎ取り、そのエンジン(原動力)を壊す。そうして、彼自身の領域である、「中間領域」の「霊界の境域」にからめとろうとするのである。

この映画は、意図してかどうか、そのような、「霊界の境域」の真実をも、うまく表現している。

まさに、私も、この主人公と同じような状況を、味わうことになったわけだ。

ところで、最近注目している、「ケムトレイル」の計画とは、このような見方によれば、まさに、地球と天体の「中間領域」を、「雲」でどんよりと覆い、「地球」が「天界」と通じることを、遮ろうとするものである。あるいは、地球を、そのような「中間領域」に閉じ込めようとするものである。

もちろん、その表面的な意図は、人間的なもので、地球工学的な発想に基づくものなのではあろう。

しかし、それが「象徴」的に表しているのは、まさしく、「捕食者」そのものの行い、ということができるのである。

※  11月16日(金)お昼の時間、まさに大量の飛行機雲を噴射しながら航行する飛行機の写真を撮ったので、掲載しておく(写真1)。そのしばらく後に、雲の軌跡も撮っておいた(写真2)。

この日は、朝から、飛行機雲が何本かあって、また「撒かれる」のかと予測し、ずっと観察していた。かなり多くの飛行機が飛行機雲を噴射しながら航行して行ったが、しかし、それはそれほど濃いものではなく、すぐさま消えて行くものだった。ところが、なぜか、この飛行機だけが、 見るからに「ケム」っぽい、太く濃い飛行機雲を残して行った。高度の違いはあろうが(しかし、見る限り、この飛行機が特に高い高度を飛んでいるようには見えない)、同じ条件の中で、このような違いは、逆に、「ケム」散布の可能性を思わせる。

                      写真1

20121116124001

                     写真2

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2012年11月13日 (火)

「霊的なものの影響を受けて混乱する」ということ

「統合失調」や「解離」は、簡単に言うと、「霊的なものの影響を受けて混乱」している状態ということができる。

但し、「霊的なものの影響を受ける」とは、非常に広い範囲のことを意味している。「憑依」のように、主体そのものを「乗っ取られる」ようなものも含めば、思考や感情、意志において、影響を受けるという程度のものも含む。

「霊的なものの影響を受ける」ということ自体、(そんなものはないと思っている人はおいても)、そのようなことは特殊なことだと思っている人は多いはずである。

しかし、まずはっきりさせるべきは、「霊的なものの影響を受ける」ことのない人はいないということである。さらに、私に言わせれば、現代では、「捕食者」の影響を受けていない者などはいない。

つまり、「霊的なものの影響を受ける」ということは、誰にも、しかも、しょっちゅう起こっていることであり、そのこと自体が、特に問題となるわけではない。「憑依」のような、主体を「乗っ取られる」ということも、決して、珍しいことではない。飲酒時や、怒りの状態のとき、あるいは、集団的に興奮したとき、恋愛状態など、さまざまにこのような「憑依」の状態は起こる。

このような「憑依」は、ある程度の時間継続することを想定しているが、一時的な「憑依」となると、もっとしょっちゅう起こっている。

一般に、「憑依」というのは、「憑依」する側が、「訳が分からなく」なって、迷い、混乱しているからこそ、人の身体に長く止まることで、安心を得ようとすることから起こるものである。しかし、そのような「迷い」からではなくとも、一瞬の波長の「共鳴」や、戦略的意図から、一時的な「憑依」が起こることは、しょっちゅうある。

ましてや、思考や感情、意志において、影響を受けるということは、誰にも、一瞬、一瞬起こっていることである。ただ、普通は、それが、自分自身のものでなかったと感じることが、少ないだけである。(むしろ、そのようなことが日常化していれば、それが自分自身のものであったと、当たり前のように思うことになる。)

だから、「霊的なものの影響を受けて混乱」している状態というのは、「混乱」ということの方に重点がある。この「混乱」ということがなければ、「霊的なものの影響」を受けていても、特に「問題」とはならない。「病的な状態」とされるのは、このような「混乱」があるからである。

「混乱」というのは、そのような「霊的なものの影響」が、違和感として自覚されて、自分の中で、苦痛や苦悩になっているということである。あるいは、そのような「影響」が、社会との関係で、何らかの「齟齬」を来して、どう振る舞っていいか分からなくなっているということである

つまり、これには、大きく二つの面がある。一つは、その者が、「霊的なものの影響」を受け易いということ、そして、そのような「影響」を、敏感に感じ易いということである。それがために、それを違和感として自覚し、苦痛や苦悩に陥り易い。「霊的なものの影響」を受けていても、その度合いが強くなかったり、それを違和感として自覚する敏感さがなければ、特に、「混乱」に陥ることはない。ただ、周りの者が、あまりに迷惑に思えば、次のように、社会との「齟齬」を来すことがあるというだけである。

もう一つは、そのような「影響」が、社会と「齟齬」を来すということである。「霊的な影響」を受けていても、それが「社会」全体の方向に沿うものなら、周りの者と同じ状態になるのだから、「混乱」に陥る必要がない。たとえば、現代では、「捕食者」の影響を受けて、攻撃的になったり、陰湿な「いじめ」をする方が多数派である。逆に、その被害者の方が、社会的には、「齟齬」を来すということになり易いだろう。

あるいは、そのような「影響」が、社会的に許容されているものであれば、特に「齟齬」は生じない。先にみた、飲酒時や、怒りの状態のとき、あるいは、集団的に興奮したとき、恋愛状態などの「異常な行動」は、そういうものに入るだろう。但し、それも、度を超せば、「齟齬」を来すことはある。

結局、「病的な状態」とは、そのような、「混乱」であり、「社会的な不都合」なのである。あくまで、そのような「混乱」や「不都合」は、社会との関係で生じるものに過ぎない。社会全体が、どのようにあり、どのようなことを「正常」としているかとの関係で、「不都合」ということも生じるのである。

「霊的なものの影響を受けて混乱」するのが、「統合失調」や「解離」であると言った。が、「霊的なもの影響」が、「特殊」なことなのではない こと。「混乱」というのも、結局は、その者のあり方や、「社会」との関係で起こることであるのを、確認してみた。

2012年11月 3日 (土)

「ケムトレイル」成分のポリマー糸とモルゲロン病

前回、ケムトレイル散布の計画に携わったという技術者のインタビューの概要を載せた。

そこで、初めに、ケムトレイルの成分として「バイオ物質の埋め込まれたポリマー糸」も含まれることを述べた。だたし、大きく要約して、
雲のシールドには、浮力を得るため、バイオ物質を埋め込んだポリマー糸が使われていた。」
とだけ述べておいた。

この「ポリマー糸」は、モルゲロン病において、皮膚から出て来るという「繊維」との関連が推測されるので、もう少し詳しく述べておきたい。

「ポリマー」というのは、混合液の一部で、糸や糸の束を形成するという。ケムトレイルの散布成分は空気より重く、比重が重いので、そのままだとすぐ落下してしまう。そこで、これは、「クモの糸」に着想を得たものだが、それらをこの「ポリマー糸」と混ぜることで、粒子が大気上空に滞留する時間が延ばせるという。

ただし、滞留粒子が大気の最下層に落ちると、それは、空気との摩擦で静電気を帯び、地上の生物、特に風に運ばれる「カビ」の胞子を吸い取ることになる。そこで、腐敗防止のため、カビの成長を抑える抑制剤が必要となる。それには、いろいろ試されたが、一部では、「バイオ物質」が使われてるということである。

この「バイオ物質」というのは、市販されている、「バイオカビ防止剤」のようなものと思えばいいのだろうか。

何しろ、この「ポリマー糸」にしろ、カビを抑制するという「バイオ物質」にしろ、人が吸い込んだり、皮膚に触れれば、有害でないはずはないものである。

しかし、かと言って、この「バイオ物質の埋め込まれたポリマー糸」が、そのまま、モルゲロン病の皮膚の下から出て来る「繊維」と同じものと解することはできない。全体として、形態が似ているとしても、このようなバイオ物質が、皮膚の下を自由に動き回る性質を帯びるとは、とても解せないのである。

ただし、たとえば、悪意のある者が、「カビの抑制剤」の「バイオ物質」なのだという名目で、このようなポリマー糸に、モルゲロン病をもたらす原因物質を、混入するようなことは、不可能ではないだろう。実際に、一種の実験として、そのようなことが試されたという可能性はあるはずである。

いずれにしても、現在のところ、「ケムトレイル」と「モルゲロン病」は、十分関連が予測されるにしても、必然的に結び付くものではないことは、確認しておいた方がいいだろう。

「ケムトレイル」かあるところに、必ずしも、「モルゲロン病」がもたらされるわけではない。しかし、逆に、「モルゲロン病」は、「ケムトレイル」という方法からもたらされるとも、限らないのである。

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