「ダーウィン医学」と「薬による治療」
「ダーウィン医学」というのは、進化の視点から病気の意味を探ろうという新しい試みのこと。(栃内新著『進化からみた病気―「ダーウィン医学」のすすめ』講談社ブルーバックス参照。病気のことだけでなく、細菌、ウイルスや免疫系などの進化についても、興味深い事実が知られ、面白く読める。)
「ダーウィニズム」という特定の進化論という限定のイメージを与えので、「ダーウィン医学」という言い方は、本当は好ましくない。が、進化論のさまざまな説の相違を差し引いても、「進化」という大枠的な見方から、ある程度共通の「病気」についての意味を探ることができるという意味で、あえてダーウィンに代表させて名を冠することも、悪くはないだろう。
逆に言えば、現代の一般の医学の視点が、いかに短絡的なものかが、この「ダーウィン医学」によっても、よく浮き彫りになるのである。
たとえば、病気に対する身体の防御手段は、進化の過程で獲得されたもので、「かぜ」に対する発熱や倦怠感もその例である。本来、病気(病原)と闘うためにこそ、生じている反応ということである。しかし、現代の医学は、それらも症状の一つとして扱い、「薬による治療」で抑え込もうとする。
また、ウイルスや細菌に感染することは、人間からみれば病気になることでも、ウイルスや細菌にとっては、生き残りをかけた生命活動そのものである。また、特にウイルスにとっては、宿主を殺してしまうことは、自らの生命活動の場を失ってしまうことで、致命的なことである。だから、ウイルスや細菌にとっても、感染しても死なない個体、「共存」できる個体の方が望ましいわけで、実際、そういう個体が、進化の過程を通して「選択」されてきたといえる。(「ウイルス進化論」的にいえば、まさにそのようなウイルスの「取り込み」こそが「進化」ということになる)
医学も薬もない時代から、そうやって、人間はそれらの細菌やウイルスと格闘しながら、ともに進化して来たのであり、人間は、本来、これらの病原に対する免疫や、対抗力を身に備えているのである。
だから、本来、自然状態では、「病気」とは、それほど恐れるに足りないものである。しかし、最近のエイズにしても、様々に変異したインフルエンザにしても、文明の中での人為的な働きかけによって生じたもので、「文明病」というべきものである。
要するに、現代の病気と治療は、「文明病」対「文明薬」の闘いになっているわけで、どちらが勝っても、体にとっては、不自然な結果になる。あるいは、結局、「文明病」と「文明薬」は、一見闘っているようで、実は手を組んでいるのであり、ともに体の「自然」に敵対して、蝕んでいく。
これまでみてきたように、「精神医学」の場合、「病気」とは、現代では、「薬による治療」というシステムにのせるために、貼られた「レッテル」に過ぎないものになっている。
しかし、現在では、「精神医学」に限らず、もはや「病気」とは何かという問題は、まともに追求されることはなくなっている。一般に、「病気」という枠にはめさえすれば、「薬による治療」というシステムにのせられるものとして、運用されている。
「病気」そのものよりも、「治療」が、特に「薬による治療」が重要なのである。あるいは、初めに、「薬による治療ありき」になっているのである。
「薬による治療」が目指すものは、よく言われるように、「対症療法」であり、「病気」によって生ずる「症状」を取り除くことだというのは、一応そのとおりだろう。しかし、「かぜ」の例でみたように、この言い方も適当でないことが多く、そもそも「症状」という言い方も、曖昧で、抽象的なものである。そうではなく、端的に身体的不快感や痛みを取り除くのだというのは、確かだろうが、単にそれだけが目指されているとも思えない。
結局、「薬による治療」が取り除こうとするものは、「症状」そのものというよりも、現代の「産業社会」において、「病気」にかかったことによって生じる、「不都合」なのだと思う。「薬」そのものも、「産業社会」の産物だが、結局これは、「産業社会」を回して行くうえでの、「不都合」を「取り除こう」としているのである。身体的不快感や、痛みを取り除くというのは、むしろ、その副次的な効果といえる。
たとえば、かぜやインフルエンザというのは、何もしないでも、2,3日、遅くとも1週間ほど寝ていれば、治ってしまうものである。しかし、普通は、社会的に、このような悠長なことは許されないし、本人も、そんなことを望まない。学校でも職場でも、休みをとれば、なんとなく後ろめたい気にさせられるし、何か遅れをとったような気にもされられる。医師にかかり、薬を飲めば、もっと短い期間で治ると、一般には思われているからである。
要するに、「薬による治療」が目指すのは、「病気」そのものを「治す」ことではなく、ただ、それによって生じた、「不都合」の期間を、強引に縮めることによって、一刻も早く、産業社会の「歯車」として、復帰させることである。つまり、ゆっくりと、「病気」そのものと向き合ったり、本当に療養することを許さず、ただ産業社会の「歯車」の一つとして、それまで通り、動き続けさせるための、応急処置である。
この目的からすると、「病気」そのものを、「掘り下げ」たり、向き合ったりすることは、望ましいことではない。ただ、「産業社会」を「回して行く」「日常」の流れが止まらないことが、重要なのである。
しかし、このような応急的な処置が、いつまでも、本当に「不都合」を来さずに続くわけがないのも明らかである。これは、要するに、「産業社会」を回している個々の「歯車」が故障しても、本当に原因を調べもせずに、ただ、応急の処置だけして、回し続けているようなものである。だから、必ず、どこかにガタが来るに決まっている。つまり、いずれは、産業社会自体を、回し続けられないような事態に至るのが目に見えている。
さらに、「薬」は、その蓄積により、さまざまな点で、「弱体化」を促進するものである。だから、そのような応急措置の積み重ねは、「歯車」の弱体化を促進しているようなものである。
これは、決して、不要な、役立たずの「歯車」だけを抜き去ることではない。全体しての、「歯車」を弱体化しているのである。
前々回みたように、人間の「支配層」は、意図して、これらの「歯車」を、「弱体化」しようと図っているかのごとくである。しかし、人間の「支配層」とは、この「産業社会」から、莫大な利益を吸い上げている者たちである。だから、このような「弱体化」を図ることは、「自暴自棄」以外の何ものでもないと言うのである。
あるいは、「支配層」も、もはや「産業社会」が、これ以上立ちいって行かない限界に達していることは、十分認識しているのかもしれず、「製薬会社」と「医療」を中心に据えた吸い上げは、いわば、最後の「搾り取り」の意味なのかもしれない。ダメになることを承知のうえ、搾り取れるだけ絞り取ろうという魂胆である。
ただ、「支配層」は、現代のこのようなシステムが、今後別の方向に変わり得ることを、 どうやら、我々以上に、(彼ら独自の情報に基づいて)認識し、恐れているようにも思われる。そこで、そのような変化を恐れるがゆえに、「自暴自棄」的な暴挙に出ているとも思われるのである。この点は、いずれもう少し詳しく述べよう。
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鋭い考察ですね。
久しぶりにピンときました。
自分は治療家(鍼師)ですが、本質的に治るためにはこの社会による価値観からの脱洗脳が必要だと感じています。
というより、鍼治療そのものが脱洗脳を含んでいます。
かぜ、インフルエンザ、下痢、などは自然の経過に任せて少しずつ楽になっていけば身体は柔軟に強くなっていきます。
薬で無理やり止めると欲求不満が溜まって、身体が固く弱くなっていきます。
そして身体は心に影響しています。
今、支配層の狙い目は「ワクチン」でしょうね。
毎年、確実に儲かる方法であり、国(税金)から補助金を出させることでいくらでも高く設定できる。
目覚めていく人が一人でも増えていくように。
投稿: きゅうり | 2012年9月 7日 (金) 11時35分