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2012年7月 6日 (金)

「精神医学」と「オカルト」的なもの

「オカルト」とは、本来、「隠されたもの」という意味で、普段、表に表れない、より「深い」いレベルの「真実」を意味する。しかし、この言葉は、普通は、「おどろおどろしい」ものとか、「あやふや」で「根拠のはっきりしないもの」などの意味で、否定的に捉えられることが多い。あるいは、「非理性的なもの」ということもできる。

記事『精神科をやりたい放題にさせたシステム』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html)では、我々が、「精神科」または「精神医学」へと、「狂気」を「厄介払い」させたことを述べた。

そこでは、「魔女狩り」に絡ませたりはしたが、「狂気」は、抽象的に「狂気」という言い方をして、特に「オカルト」的なものを浮かび上がらせはしなかった。しかし、「狂気」とは「オカルト」的なものと無縁ではなく、そうである以上、「狂気」の「厄介払い」とは、また、「オカルト」的なものの「厄介払い」でもあったのである。

実際、近代以前には、「狂気」は、「オカルト」的なものと結びつけられて理解され、その影響で、常軌を逸した行動をとる者を意味した。「魔女」もまた同様で、特に「悪魔」と手を結んで、その影響を受けて、人に危害を与える者を意味した。だから、それは、「狂気」とも、絡むものだった。

「魔女狩り」では、「正統的」な「キリスト教」の立場から、「神」に反する「悪魔」と結託する者を、大々的に、「厄介払い」した。しかし、「近代」になると、そのようなあり方は、「理性」に反することと、一定の反省がなされた。近代社会では、「理性」こそが、「神」の意志に沿うこととみなされた。たとえば、デカルトも、「理性」を信奉するが、その最終的根拠は、「神」でしかあり得ないとしている。そのような発想は、直接「神」を信じるというよりは、「理性」を通して、間接的に「神」を信じるというものになる。「理神論」という言い方もされる。
                                                      
このような発想では、「魔女」は、文字通りの「魔女」ではなくなった。さすがに、文字通りの「魔女」を、「厄介払い」しようとすることはなくなったのである。しかし、「理性」が「神」ならば、それに反する「反理性」は、やはり「悪魔」といえる。「理性」に「神」という根拠がある限り、その反対である「反理性」にも、「悪魔」という根拠がつきまとわざるを得ない。つまり、「理性」に反する、異常な行動をとる「魔女」は、直接「悪魔」に仕えるのではないにしても、「反理性」としての「悪魔」に仕えるものである。それは、相変わらず、「厄介払い」されるべき対象に変わらない。

そして、そのような「反理性」とは、「狂気」のことであり、また、「オカルト」的なもののことでもある。こうして、「魔女」の「厄介払い」は、「狂気」または「オカルト」的なものの「厄介払い」へと姿を変えた。しかも、それは、「理性」の承認のもと、「合法的」に、行われることになったのである

「精神病」とは、そのような、「狂気」の、「理性」の承認のもとの「厄介払い」にほかならないことを、前の記事では述べた。しかし、この「狂気」の「厄介払い」とは、実質的には、その背後にある「オカルト」的なものの「厄介払い」という面が、強かったのではないかと、私は思う。

「魔女狩り」は、中世の頃から起こっているが、それが大規模に沸騰したのは、近代直前の16-7世紀のことである。そして、それが終息するとともに近代が始まり、「精神医学」ないし「精神病院」も誕生している。この、「魔女狩り」から「狂気」の「厄介払い」の一連の流れの中で、真に、「排除」したかったのは、「オカルト」的なものではなかったかと思うのである。「魔女」は、「悪魔」とつながる者として、ほとんど「直接的」に、「オカルト」的なものと関わっている。「狂気」も、実質的には、背後に、「オカルト」的なものを忍ばせている。「理性」の容認できない、そのようなものこそが、真に人を恐れさせ、「排除」へと向かわせたということである。

「オカルト」的なものを「排除」するのに、取られた手段は、初めは、そのようなものに影響を受けた者を、直接「なきもの」にしてしまうことだった。しかし、それでは、いくらそうしても、「オカルト」的なものそのものは、少しも、なくならないばかりか、その影響を受けた(とみなされる)者も、ほとんど無限に「拡大」されてくる。

そこで、「理性」は、(本来は、一時的な妥協策でしかないが)ある意味で、もっと実効性のある、「排除」の仕方を思いついた。それは、「オカルト」的なものそのものを、「存在しない」ことにしてしまうことである。いわば、「オカルト」的なものそのものを、「理性」の砦から、全体として、「締め出し」てしまう方法である。そして、そのようなものを信じ、あるいは、それに影響を受けている、「反理性」の者は、それを、「改宗」しない限り、「隔離」して、社会から「排除」してしまうシステムを作ることである。

「狂気」の者を、「理性」に基づいて「精神病」と規定し、「オカルト」的なものと、少なくとも「表面上」切り離すこと。そして、それが「治療」されない限り、精神病院に「隔離」、「収容」することで、社会から「排除」してしまうこと、がそれである。

そこでは、「治療」とは、まず何よりも、その者に、それが「正しくない」状態としての、「病気」と認めさせることであり、(オカルト的なものの影響などではなく)だたの「幻覚」ないし「妄想」に過ぎないと認めさせることである。そして、実際に、そのようなものに、影響を受ける行動をしなくなることである。その者が、真に、そうなったと認められるときに、晴れて、「治療」が成功し、社会へと復帰される。こうして、「オカルト」的なものの「排除」が、かつてのような、残虐な「殺害」行為なくして、完成するわけである。

但し、実際上は、ことはそううまく運ぶはずもない。「狂気」は、相変わらず、手に負えないものであり続けたし、「オカルト」的なものを、少なくとも「予感」させ続けもした。前に見たように、実際には、「魔女狩り」の延長そのものといえるような、残虐な「行為」が、行われていたのも、やはり、そこに、直接「排除」したくなるような、「オカルト」的なものを垣間見ていたからということがいえる。

「狂気」の者は、その直前の「魔女」の時代には、「悪魔」と結託した者とされていたのであり、それが、そう早く、「オカルト」的なものとの縁を「解消」するはずもない。「理性」の方にも、そのよりどころは、最終的に「神」という超越的な存在に依存しなければならないという弱みもある。その「正当性」の根拠に、超越的な存在が見込まれてる以上、「オカルト」的なものは存在しないという見方は、徹底しないのである。

しかし、徹底はしなかったにしても、徐々に、「オカルト」的なものを、「存在しない」ことにしてしまうという「理性」の戦略は、功を奏するようになる。そのような発想が、社会全体に行き渡れば、それはより、強力に効力を発揮するようになる。そして、そこからはみ出す者は、「精神病」ということで、その考えや行動を矯正しない限り、この社会から、「排除」されるというあり方も、当然のものとして、受け入れられるようになる。
精神医学ないし精神病院は、いわば、「理性」の砦を護る、最後の「番人」となる。

あるいは、むしろ、精神医学ないし精神病院が、裏から、「理性」を支えることこそが、社会の主流となる。なぜなら、「オカルト」的なものを「存在しない」ことに、徹底しようとするなら、「理性」そのものの根拠たる「神」も、また、存在しないものとならざるを得ないからである。ニーチェが、「神は死んだ。我々が殺したのだ」と言った事態である。

こうして、「理性」の根拠も、なし崩し的に弱まり、ただ「理性」というだけでは、根拠を発揮できなくなる。そうなれば、精神医学ないし精神病院のように、それに反する者を「懲らし」め、「改宗」させるという形で、「恐怖」と、実効性のある強制力により、裏から支えるしかなくなるのである。

しかし、その後、もはや、精神医学や精神病院の、そのような役割すら必要とせずに、直接、「オカルト」的なものの「締め出し」を可能にするものが登場した。「精神薬」の開発である

「精神病」が、実際には、「治療」困難な、「手に負えない」要素を帯びている限り、それは、「理性」がどう言おうと、常にどこか、相変わらず「オカルト」的な要素を漂わせてもいた。

しかし、「精神薬」が開発され、「精神病」が「薬」により「治療」可能とのイメージができると、それは、「オカルト」的なものとの縁を、大きく切り離すようにみえた。「精神病」なるものは、ただの「病気」であって、それ以外の何ものでもない。既に、根拠の薄弱化していた「理性」を持ち出して、「反理性」などという必要もない。それは、ただ「薬」という物質の力で、強引に、「治療」させてしまえばいいだけのものである。

ただし、その「薬」とは、それまで手に負えなかったはずの「狂気」を、強引に、「なきもの」にしてしまおうというものである。だから、それは、脳に強力に作用して、その働きを変えてしまう(あるいは、なくしてしまう)、「劇薬」でしかあり得ない。

それが、大きな「危険」を伴うものであることは、ほとんど誰の目にも、明らかであったといえる。ただ、それが、「狂気」さらには、「オカルト」的なものの「厄介払い」をもたらすという、「代償」には、代え難いものがあったということである。

しかし、一方で、もはや、それを正当化するものは、「理性」とか「科学的根拠」などというものよりも、もっとあからさまな感情的要素、たとえば、ただの「物質信仰」であり、「効率」であり、(システムへの)「隷属的感情」になったということができる。

だから、その「薬」の効果が疑われ、また「精神医療」、「精神医学」の根拠を、本当に「問う」者が増えてくれば、それは当然、瓦解する運命にあったということができる。ただ、実際上、それを正面から問うことは、「タブー」意識に抵触する、難しいものだったというだけである。

しかし、それにより、もとの場所に戻された「狂気」から、顔を覗かせるのは、再び「オカルト」的なものになるのかというと、そうはならないだろう。「精神医療」や「精神医学」の問題を論う者や、正面から反対する者も、だからと言って、「狂気」に「オカルト」的なものの影響の可能性をみるということは、今のところ、全くないようにみえるからだ。

多くの者は、「精神医学」による「狂気」の排除が、実質上「オカルト」的なものの「排除」だったなどは、「思ってもいない」ようにみえる。あるいは、「オカルト」的なもの自体は、依然、「排除」されて然るべきものと、思っているようにみえる。

確かに、現在、一般には、「霊的なもの」とか、「目に見えない」ものへの関心や許容度は、大きく増したということが言える。しかし、「オカルト」的なものとなると、話は別である。

若者を中心に、一般に、受け入れられやすい「スピリチュアリズム」も、おどろおどろしい「オカルト」的なものとなると、決して、正面から受け入れているわけではない。それは、大したものではないか、(「除霊」などとして)簡単に排除できるもののように、いわば、「薄め」られた範囲で、取り入れられている。そもそも、「スピリチュアリズム」は、欧米において、「理性」の時代に興ったものであり、「理性」が受け入れやすいように、構成されている。もちろん、「狂気」にとって本質的なものである、「垂直的方向」については、全くノータッチである。

だから、「スピリチュアリズム」によって、「狂気」が理解できるなどということにはならない。そればかりか、むしろ、それは、「オカルト的」なものの「厄介払い」という、これまでの方向性の延長上に、利用される可能性すらあると思う。

そういうわけで、たとえ「精神医学」や「精神医療」が、今後瓦解したとしても、今のところ、「狂気」を通して、排除された「オカルト」的なものが、すぐさま顔をもたげるなどということにはならないだろう。

しかし、今後、個々の者が、「狂気」を「厄介払い」するのではなく、「引き受ける」とした場合には、いやでも、「オカルト」的なものの刻印を帯びたものを、身近に「引き寄せる」ことになる。特に、薄皮一枚隔てて、「オカルト」的なものが、間近に迫る、「統合失調症」においては、そのようなものに目を向けることなくして、「引き受ける」などということは、あり得ないと思う。

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