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2012年7月

2012年7月29日 (日)

「伝染病」と「狂気」

少し、ワクチンのことも調べたり、読んだりしたが、これを広く浸透させようとすることは、精神薬を広めようとすることと、構造的に非常に似ている。

どちらも、一般の、「伝染病」や「狂気」に対する、抑制しがたい「恐れ」が背景としてあり、それを防いだり、治してくれると期待できるものは、たとえ、危険性のあるものでも、大した根拠もなく、迎え入れようとするということがある。

その「恐れ」というのは、一つには、それらの「伝染病」や「狂気」そのものに対するものである。これらは、少なくとも、潜在的には、一言で「病気」と語られるには、あり余るものがあり、何か得体の知れない「力」を感じさせるものである。前回述べた言い方で言えば、何かしら「オカルト」的なものを予感させ、不合理な感情を喚起するのである。

さらに、その「恐れ」は、「病気」そのものに対してのほかに、その爆発的な伝染力、「うつる」ことに対してのものでもある。単に病気になることのほかに、誰かに、「うつされる」こと、誰かに「うつし」てしまう「恐怖」というのが加わる。あるいは、このような「伝染力」にこそ、得体の知れない「力」が予感されるともいえる。

このことは、「狂気」についても、大かた当てはまるものというべきでるある。もちろん、「狂気」は「伝染病」のように、物質的媒介をもったものではないが、しかし、ある種の触発作用により、伝染病と似たような「伝染性」の力を感じ取らせるものである。実際、本来、誰もが、内に「狂気」を抱えているのである以上、他者の「狂気」は、内部的な「狂気」を刺激し、触発させ、拡張していくとみることもできるのである。

実際に、「伝染病」も「狂気」も、人々から忌避され、社会から「隔離」、「収容」される。人目のつかないところへと、封じ込められるのである。そこには、やはり、「伝染する」「威力」に対する「恐れ」があるというべきである。

「伝染病」の場合、「細菌」や「ウィルス」といった、物質的媒介があって、伝染力が生じていることが分かっている。ワクチンも、それらの感染に対処すべくなされる予防措置で、この「予防」ということの意義の大きさのために、歓迎されるのだといえる。(ちなみに、「狂気」についても、今後、予防すると称するワクチンが開発される事態は十分予想され、そうなれば、根拠などほとんど問題とされずに、爆発的に広まることだろう。)

しかし、この「細菌」や「ウィルス」にしても、本質的な意味で、「何もの」であるかについては、未だ分からないことが大というべきであり、人間にはコントロール不可能と思われる面も多くある。また、そこには、謎めいた、生命の本質または人間の本質と深く関わるものが予想されもする。そういった、「未知の要素」または「神秘の要素」が、これらのものにも、孕まれている。

だから、物質的なメカニズムが一応分かっている「伝染病」にしても、先にみたとおり、潜在的には、何か得体の知れない「恐れ」を喚起し続ける。そして、それは、物質的メカニズムの分からない「狂気」と、何か、本質的な「類似性」を感じさせもするのである。

その「本質的な類似性」を、一言で言い表すならば、「自己」という枠組み(「免疫系」もその一つである)に対して、破壊的な作用をなし、一時的または恒久的な「死」をもたらす、という風にいえると思う。それは、「自己」というそれなりに安定したシステムに対して、「外」からやってきて、完全な破壊をもたらすか、さもなければ、大きな改変を迫るのである。

その「改変」の点をとらえれば、決して「悪」などではないが、現在の「自己」を守ろうとする立場からは、「悪」以外のなにものでもない、「恐るべき」ものである。

「狂気」の場合には、このことは、主に「精神的」レベルでなされ、「伝染病」の場合には、主に「身体的」レベルでなされる。しかし、これらは、互いに絡み合ってもいる。

たとえば、伝染病をもたらす「ウィルス」というのは、それ自体では生命活動を営めないが、細胞に「寄生」することによって、自己増殖を可能にするものである。これには、まさに「狂気」のあり様を象徴するものがある。「狂気の元」となる、「捕食者」に与えられた「心」(エゴ)も、それ自体では増殖し得ないが、人間の本来の心に「寄生」してこそ、増殖し、繁栄していくものだからである。

また「伝染病」をもたらす「細菌」や「ウィルス」の背後には、実際に、「捕食者」のような存在が関わるということも考えられるし、逆に、「狂気」にも、身体的レベルで、「細菌」や「ウィルス」の作用が影響しているということも考えられる。

このように、「伝染病」と「狂気」には、単に「みかけ」上の類似だけでなく、思いのほか、本質的な類似性があるといえるのである

2012年7月13日 (金)

「精神医学」と「精神薬」の一般への浸透/「捕食者」の「黄昏」

前回、「精神医学」と「オカルト」的なもので述べた、「排除」すべき「狂気」というのは、「統合失調症」を中心にしたもので、一般には、特殊とみられるものでもあった。しかし、前回は、はしょって飛ばしたが、「精神薬」の開発は、そのような流れも変えた。その後、ほどなくして、「精神医学」は、「精神医学」と「精神薬」の一般への浸透ということを図るようになる。つまり、特殊の者だけでなく、一般の者の懐にも深く入り込み、多くの者に「精神的な病い」を広め、「精神薬」を処方することを図るのである。

これは、「精神医学」にとっても、大きな方向転換で、単にこれまでの、特殊な「はみ出し者」を「管理」ないし「厄介払い」するという役割を、大きく越え出るものである。それは、もちろん、産業社会の発展と、大量生産可能な「精神薬」の製造ということが可能にしたもので、そこには、単純な資本の論理、「利潤の追求」ということがある。

ただ、記事『精神科をやりたい放題にさせたシステム』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html)でも述べたように、そこには、「魔女狩り」の対象が、初め特殊の者に始まりながら、やがて多くの者に拡大されたのと同じ構造が働いていたともいえる。「精神医学」だけでなく、多くの者もまた、「厄介払い」すべき「狂気」を、これまで以上に多くの者に、拡大する衝動を抱いていたということである。(単に、「他人」に「狂気」をみるというだけでなく、自分自身の「狂気」も、精神薬により、簡単に「厄介払い」できるとの発想も含む)

それはそうなのだが、「精神薬」は本来、「依存性」の強い「麻薬」または「覚醒剤」紛いの「劇薬」である。また、当然ながら、ここに来て、その大きな薬害も明らかになってきている。それを考えると、そこには、単なる「金儲け」や、「狂気」を「厄介払い」するということ以上に、「悪意」ある「意図」が働いていたとみなければならないとも思うのである。

私は、精神薬の薬害については、記事『「脳内現象」や「薬」との関係 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-14b1.html)を書いた時点では、認識が甘かったと認めざるを得ない。もちろん、精神薬により「精神的な病い」の治療が可能などと思ったことはないが、症状を緩和すること自体はあるはずだし、現状としては、それが使用されるのも仕方のないことと思っていた。また、最近の薬は、少なくともかつてのものよりは、副作用が少なくなっているはずと、漠然と思っていた。

しかし、いろいろ調べたり読んだりしていると、決してそうではないことが分かってきた。「精神薬」の依存性や害悪がこれだけ大きいもので、しかも、日本のように、「薬信仰」が行き渡っているところでは、たとえ、一時的な症状の緩和策としても、薬は使うべきではないと、今は考えるようになった。

さらに、このような「精神薬」の、脳や精神に及ぼす作用は、単にはっきりと目に見える「害悪」だけではないと思われる。目に見えない形で、徐々に蝕まれていくということである。これが、さまざまな、勝手な「病名」が作られるともに、子供まで含めて、当たり前のように、広く処方されることには、「陰謀論」めくけども、やはり、単に巨大製薬会社(ビッグ・ファーマ)や精神科の「金儲け」や「影響力の拡大」というだけのことではない、「意図」をみないわけにはいかないのである。

前にも採り上げた、デーヴィッド・アイクは、ちょうど、『ムーンマトリックス』の[ゲームプラン篇1]で、この問題を扱っている。

つまり、爬虫類人や人間の支配層は、医療や医薬品、ワクチンなどを通して、人類の弱体化と人口削減を図っているというのである。爬虫類人と人間の支配層は、あえて意図して、害悪と死の危険あるこれらの薬剤を、一般に浸透させているということである。かなり「グロテスク」な内容だが、その記述には、これまでのものと比べても、かなり説得的なものがある。一定の「真実」は、含まれているとみざるを得ないのである。

そのような意図は、本当に、あらかじめ、薬の作用を十分認識し得るような(たとえば、秘密裏の人体実験などを通して)、特殊な立場にある少数の者に始まるものだろう。恐らくは、精神医学やビッグ・ファーマの上層部をも巻き込んでいるだろうが、一般の精神科医や製薬会社の社員などは、まさに、そのようにしてでき上がったシステムを動かす歯車の一つに過ぎない。

そもそも、「精神医学」には、捕食者や人間の支配層が、「巣くい」やすい構造があるのは、これまでみて来たところからも、明らかのはずである

「精神医学」は、もともと、「はみ出し者」の「管理」、「矯正」のために作られているのだから、 これは、「捕食者」の管理上意図するところと、全くと言っていいほど重なる。言わば、捕食者の「出先機関」のようなものである。あるいは、前に言ったように、「なまはげ」と同様、恐怖をもって、子供に親や世間の言うことを聞かせる役割としても重なる。

また、「精神医学」には、人間の狂気や病気に対する不安・恐怖のため、タブー意識のからむ「アンタッチャブル」な面がつきまとう。つまり、心理的に逆らいがたい影響力を発揮する面があり、「捕食者」や人間の支配層にとって、またとない、つけ込みどころなのである。

だから、それが利用され、それを通して、広く一般への浸透と影響力の拡大を図るのは、よく分かる。

ただ、人間の支配層が、支配や管理の合理化のため、人口の削減や弱体化を図るというのはまだ分かるが、このようなことは、決して、「捕食者」の本来の意図ではないはずなのである。「捕食者」は、人間の管理・支配も意図してはいるが、それは、本来、人間から発散される「エネルギー」を食糧源とするためである。人口の削減や弱体化は、管理のためには適当と言えても、決して、良質の「感情的エネルギー」採取のためには適当とは言えない。

また、人間の支配層にとっても、人口の削減や弱体化を図るなら、手は他にもあり得るはずだし、食品添加物やうわさされる「ケムトレイル」(化学物質の空中散布)なども含めて、自分たちにも、被害が及び得るような手をとるだろうかと思う。これらの支配層は、こういったものの影響を受けない環境を確立しているのかもしれないが、この地球に生きている以上、全く無害でいることはあり得ないはずだからである。(あるいは火星等への移住を計画?)

いずれにしても、全くそのままでは、受け入れ難いものだが、しかし、『ムーンマトリックス』の[ゲームプラン篇3]を読むと、その疑問も大分解消する。

アイクは、支配層による現在のこのような惨状も、今後は、意識に目覚める者、またはそのような支配体制の存在に気づく者が増えることによって、大きく変容するものとみている。支配層の連中もそのことには気づいていて、窮地に追い込まれている。だから、このような人類の人口の削減や弱体化、あるいは、今後の人類を担う子供を狙った弱体化や取り込みは、彼らの支配体制を強めるためというよりも、これまでの支配体制を何とか維持しようとする、窮余の策というのである。
         
実際、それなら、自分らへの危害の可能性も顧みずに、自暴自棄的にそのようなことを行うことも理解できなくはない。

また、私も、「捕食者」についてだが、既に一連の体験時に、彼らが、彼らの支配と捕食のあり様に、非常な「限界」を感じて、行き詰まっているらしいことを感じ取っている。(記事『「捕食者」(アーリマン存在)の限界性』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post-d262.html)にも述べている)「恐怖」のエネルギーを吸い取ったときには、ガソリンを補給された車のように、活気づくが、そうでないときは、哀れなぐらいに、疲弊し切っている感じなのである。

そして、むしろ、そのような「捕食者」が、自暴自棄になったら、何をしでかすか分からないという意味で、「怖い」という思いを抱いていた。が、実際に、そのような状況になって来たということが言えそうである。彼らも、良質の「エネルギー」の「獲得」という本来の目的を犠牲にして(諦めて)、ほとんど無益な、自暴自棄的な「破壊」の途にあえて出ているらしく思われる。その、陰湿なやり口も、いかにも彼ららしいし、さらに彼らは、どこかで、自分らがやっていることを気づいて欲しいとも思っているはずである。それが、彼らの、せめてもの「存在主張」なのである。

この「自暴自棄さ」は、恐ろしいことでもあるが、しかし、それだけ彼らが、行き詰まっていて、どうしようもなくなっていることの証しでもある。つまり、今後は、アイクもいうように、流れが、大きく変わって行く可能性はあるということである。

何しろ、この点については、今後も追求を続けていきたいと思う。

2012年7月 6日 (金)

「精神医学」と「オカルト」的なもの

「オカルト」とは、本来、「隠されたもの」という意味で、普段、表に表れない、より「深い」いレベルの「真実」を意味する。しかし、この言葉は、普通は、「おどろおどろしい」ものとか、「あやふや」で「根拠のはっきりしないもの」などの意味で、否定的に捉えられることが多い。あるいは、「非理性的なもの」ということもできる。

記事『精神科をやりたい放題にさせたシステム』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-107d.html)では、我々が、「精神科」または「精神医学」へと、「狂気」を「厄介払い」させたことを述べた。

そこでは、「魔女狩り」に絡ませたりはしたが、「狂気」は、抽象的に「狂気」という言い方をして、特に「オカルト」的なものを浮かび上がらせはしなかった。しかし、「狂気」とは「オカルト」的なものと無縁ではなく、そうである以上、「狂気」の「厄介払い」とは、また、「オカルト」的なものの「厄介払い」でもあったのである。

実際、近代以前には、「狂気」は、「オカルト」的なものと結びつけられて理解され、その影響で、常軌を逸した行動をとる者を意味した。「魔女」もまた同様で、特に「悪魔」と手を結んで、その影響を受けて、人に危害を与える者を意味した。だから、それは、「狂気」とも、絡むものだった。

「魔女狩り」では、「正統的」な「キリスト教」の立場から、「神」に反する「悪魔」と結託する者を、大々的に、「厄介払い」した。しかし、「近代」になると、そのようなあり方は、「理性」に反することと、一定の反省がなされた。近代社会では、「理性」こそが、「神」の意志に沿うこととみなされた。たとえば、デカルトも、「理性」を信奉するが、その最終的根拠は、「神」でしかあり得ないとしている。そのような発想は、直接「神」を信じるというよりは、「理性」を通して、間接的に「神」を信じるというものになる。「理神論」という言い方もされる。
                                                      
このような発想では、「魔女」は、文字通りの「魔女」ではなくなった。さすがに、文字通りの「魔女」を、「厄介払い」しようとすることはなくなったのである。しかし、「理性」が「神」ならば、それに反する「反理性」は、やはり「悪魔」といえる。「理性」に「神」という根拠がある限り、その反対である「反理性」にも、「悪魔」という根拠がつきまとわざるを得ない。つまり、「理性」に反する、異常な行動をとる「魔女」は、直接「悪魔」に仕えるのではないにしても、「反理性」としての「悪魔」に仕えるものである。それは、相変わらず、「厄介払い」されるべき対象に変わらない。

そして、そのような「反理性」とは、「狂気」のことであり、また、「オカルト」的なもののことでもある。こうして、「魔女」の「厄介払い」は、「狂気」または「オカルト」的なものの「厄介払い」へと姿を変えた。しかも、それは、「理性」の承認のもと、「合法的」に、行われることになったのである

「精神病」とは、そのような、「狂気」の、「理性」の承認のもとの「厄介払い」にほかならないことを、前の記事では述べた。しかし、この「狂気」の「厄介払い」とは、実質的には、その背後にある「オカルト」的なものの「厄介払い」という面が、強かったのではないかと、私は思う。

「魔女狩り」は、中世の頃から起こっているが、それが大規模に沸騰したのは、近代直前の16-7世紀のことである。そして、それが終息するとともに近代が始まり、「精神医学」ないし「精神病院」も誕生している。この、「魔女狩り」から「狂気」の「厄介払い」の一連の流れの中で、真に、「排除」したかったのは、「オカルト」的なものではなかったかと思うのである。「魔女」は、「悪魔」とつながる者として、ほとんど「直接的」に、「オカルト」的なものと関わっている。「狂気」も、実質的には、背後に、「オカルト」的なものを忍ばせている。「理性」の容認できない、そのようなものこそが、真に人を恐れさせ、「排除」へと向かわせたということである。

「オカルト」的なものを「排除」するのに、取られた手段は、初めは、そのようなものに影響を受けた者を、直接「なきもの」にしてしまうことだった。しかし、それでは、いくらそうしても、「オカルト」的なものそのものは、少しも、なくならないばかりか、その影響を受けた(とみなされる)者も、ほとんど無限に「拡大」されてくる。

そこで、「理性」は、(本来は、一時的な妥協策でしかないが)ある意味で、もっと実効性のある、「排除」の仕方を思いついた。それは、「オカルト」的なものそのものを、「存在しない」ことにしてしまうことである。いわば、「オカルト」的なものそのものを、「理性」の砦から、全体として、「締め出し」てしまう方法である。そして、そのようなものを信じ、あるいは、それに影響を受けている、「反理性」の者は、それを、「改宗」しない限り、「隔離」して、社会から「排除」してしまうシステムを作ることである。

「狂気」の者を、「理性」に基づいて「精神病」と規定し、「オカルト」的なものと、少なくとも「表面上」切り離すこと。そして、それが「治療」されない限り、精神病院に「隔離」、「収容」することで、社会から「排除」してしまうこと、がそれである。

そこでは、「治療」とは、まず何よりも、その者に、それが「正しくない」状態としての、「病気」と認めさせることであり、(オカルト的なものの影響などではなく)だたの「幻覚」ないし「妄想」に過ぎないと認めさせることである。そして、実際に、そのようなものに、影響を受ける行動をしなくなることである。その者が、真に、そうなったと認められるときに、晴れて、「治療」が成功し、社会へと復帰される。こうして、「オカルト」的なものの「排除」が、かつてのような、残虐な「殺害」行為なくして、完成するわけである。

但し、実際上は、ことはそううまく運ぶはずもない。「狂気」は、相変わらず、手に負えないものであり続けたし、「オカルト」的なものを、少なくとも「予感」させ続けもした。前に見たように、実際には、「魔女狩り」の延長そのものといえるような、残虐な「行為」が、行われていたのも、やはり、そこに、直接「排除」したくなるような、「オカルト」的なものを垣間見ていたからということがいえる。

「狂気」の者は、その直前の「魔女」の時代には、「悪魔」と結託した者とされていたのであり、それが、そう早く、「オカルト」的なものとの縁を「解消」するはずもない。「理性」の方にも、そのよりどころは、最終的に「神」という超越的な存在に依存しなければならないという弱みもある。その「正当性」の根拠に、超越的な存在が見込まれてる以上、「オカルト」的なものは存在しないという見方は、徹底しないのである。

しかし、徹底はしなかったにしても、徐々に、「オカルト」的なものを、「存在しない」ことにしてしまうという「理性」の戦略は、功を奏するようになる。そのような発想が、社会全体に行き渡れば、それはより、強力に効力を発揮するようになる。そして、そこからはみ出す者は、「精神病」ということで、その考えや行動を矯正しない限り、この社会から、「排除」されるというあり方も、当然のものとして、受け入れられるようになる。
精神医学ないし精神病院は、いわば、「理性」の砦を護る、最後の「番人」となる。

あるいは、むしろ、精神医学ないし精神病院が、裏から、「理性」を支えることこそが、社会の主流となる。なぜなら、「オカルト」的なものを「存在しない」ことに、徹底しようとするなら、「理性」そのものの根拠たる「神」も、また、存在しないものとならざるを得ないからである。ニーチェが、「神は死んだ。我々が殺したのだ」と言った事態である。

こうして、「理性」の根拠も、なし崩し的に弱まり、ただ「理性」というだけでは、根拠を発揮できなくなる。そうなれば、精神医学ないし精神病院のように、それに反する者を「懲らし」め、「改宗」させるという形で、「恐怖」と、実効性のある強制力により、裏から支えるしかなくなるのである。

しかし、その後、もはや、精神医学や精神病院の、そのような役割すら必要とせずに、直接、「オカルト」的なものの「締め出し」を可能にするものが登場した。「精神薬」の開発である

「精神病」が、実際には、「治療」困難な、「手に負えない」要素を帯びている限り、それは、「理性」がどう言おうと、常にどこか、相変わらず「オカルト」的な要素を漂わせてもいた。

しかし、「精神薬」が開発され、「精神病」が「薬」により「治療」可能とのイメージができると、それは、「オカルト」的なものとの縁を、大きく切り離すようにみえた。「精神病」なるものは、ただの「病気」であって、それ以外の何ものでもない。既に、根拠の薄弱化していた「理性」を持ち出して、「反理性」などという必要もない。それは、ただ「薬」という物質の力で、強引に、「治療」させてしまえばいいだけのものである。

ただし、その「薬」とは、それまで手に負えなかったはずの「狂気」を、強引に、「なきもの」にしてしまおうというものである。だから、それは、脳に強力に作用して、その働きを変えてしまう(あるいは、なくしてしまう)、「劇薬」でしかあり得ない。

それが、大きな「危険」を伴うものであることは、ほとんど誰の目にも、明らかであったといえる。ただ、それが、「狂気」さらには、「オカルト」的なものの「厄介払い」をもたらすという、「代償」には、代え難いものがあったということである。

しかし、一方で、もはや、それを正当化するものは、「理性」とか「科学的根拠」などというものよりも、もっとあからさまな感情的要素、たとえば、ただの「物質信仰」であり、「効率」であり、(システムへの)「隷属的感情」になったということができる。

だから、その「薬」の効果が疑われ、また「精神医療」、「精神医学」の根拠を、本当に「問う」者が増えてくれば、それは当然、瓦解する運命にあったということができる。ただ、実際上、それを正面から問うことは、「タブー」意識に抵触する、難しいものだったというだけである。

しかし、それにより、もとの場所に戻された「狂気」から、顔を覗かせるのは、再び「オカルト」的なものになるのかというと、そうはならないだろう。「精神医療」や「精神医学」の問題を論う者や、正面から反対する者も、だからと言って、「狂気」に「オカルト」的なものの影響の可能性をみるということは、今のところ、全くないようにみえるからだ。

多くの者は、「精神医学」による「狂気」の排除が、実質上「オカルト」的なものの「排除」だったなどは、「思ってもいない」ようにみえる。あるいは、「オカルト」的なもの自体は、依然、「排除」されて然るべきものと、思っているようにみえる。

確かに、現在、一般には、「霊的なもの」とか、「目に見えない」ものへの関心や許容度は、大きく増したということが言える。しかし、「オカルト」的なものとなると、話は別である。

若者を中心に、一般に、受け入れられやすい「スピリチュアリズム」も、おどろおどろしい「オカルト」的なものとなると、決して、正面から受け入れているわけではない。それは、大したものではないか、(「除霊」などとして)簡単に排除できるもののように、いわば、「薄め」られた範囲で、取り入れられている。そもそも、「スピリチュアリズム」は、欧米において、「理性」の時代に興ったものであり、「理性」が受け入れやすいように、構成されている。もちろん、「狂気」にとって本質的なものである、「垂直的方向」については、全くノータッチである。

だから、「スピリチュアリズム」によって、「狂気」が理解できるなどということにはならない。そればかりか、むしろ、それは、「オカルト的」なものの「厄介払い」という、これまでの方向性の延長上に、利用される可能性すらあると思う。

そういうわけで、たとえ「精神医学」や「精神医療」が、今後瓦解したとしても、今のところ、「狂気」を通して、排除された「オカルト」的なものが、すぐさま顔をもたげるなどということにはならないだろう。

しかし、今後、個々の者が、「狂気」を「厄介払い」するのではなく、「引き受ける」とした場合には、いやでも、「オカルト」的なものの刻印を帯びたものを、身近に「引き寄せる」ことになる。特に、薄皮一枚隔てて、「オカルト」的なものが、間近に迫る、「統合失調症」においては、そのようなものに目を向けることなくして、「引き受ける」などということは、あり得ないと思う。

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