「うつ」の原因
「うつ」については、一般には、統合失調症よりは、分かりやすく、共感しやすいというイメージがあるだろう。誰でも、それに近い状態には、陥ったことがあるということもある。しかし、私自身は、自分が明確に体験した、「統合失調症」より、分かりにくいという思いがあり、今までも、あまり「うつ」についいては、述べて来なかった。
ただ、私も、もちろん、それに近い状態に陥ったことがあるし、「捕食者」との絡みで、強烈な「罪悪感」をもたされたことから、身体症状的にも、一時的に、「うつ」そのものといえる状態に陥ったこともある。また、「うつ」に陥った人や、躁鬱気質の人と接した経験から、それらの状態を推測することはできる。
そこで、統合失調症の場合ほどの確信はないが、「うつ」の原因についても、ここで考えを述べてみたい。
まず、概要を図示すると、次のようになる。統合失調症の場合(記事『狂気の原因』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html) と比較してみてほしい。
「うつ」の場合も、「主体的、内的原因」と「外的原因」に、大きく分けられるのは同じである。外的原因にも、「水平的方向」のものと「垂直的方向」のものがあるのも同じである。つまり、統合失調症も「うつ」も、基本的には、「見えない」領域から、「外的原因」の影響を受けることによって生じていることは同じである。ただ、その現れ方が、「主体的、内的原因」の違いに応じて、異なるということである。
また、大きな違いに、統合失調症の場合は、何らかの出来事がきっかけになるにしても、それまでの「日常的的現実」に亀裂が入り、「現実」そのものに一種の「断絶」が起こるということがある。それまでの「日常的現実」は、多かれ少なかれ崩れ去り、「霊界の境域」という、新たな「領域」に入り込むのである。
そこでは、水平的方向のものも、垂直的方向のものも、「外的原因」の影響力は「直接的」である。水平的方向の「エレメンタル」や「捕食者」などの存在や、垂直的方向の「虚無」や「闇」も、言わば、薄皮一枚隔てた、すぐ間近に「ある」(迫る)という感じになる。
あるいは、そこでは、もはや、「内部的」なものと「外部的」なものの区別も曖昧になり、それらは、内部に「侵入する」という感じになる。これは、「霊界の境域」で、「自我」が希薄になるということとも関係している。
ところが、「うつ」の場合は、「喪失的」な出来事などのために、それまでの「連続性」が断たれるような感覚はあるだろうが、「霊界の境域」へと入り込むといった、はっきりとした「現実」の断絶はないはずである。「喪失的」な出来事とは、特定の者や物、地位などを失うという、分かりやすいものばかりではなく、むしろ前回も触れたように、日本人の場合は、「世間との関係」での微妙なあり様が、影響する場合が多いだろう。
しかし、「うつ」の場合も、それらはあくまで、「きっかけ」であり、直接の「原因」は、「見えない」領域からの影響にあると言うべきである。ただ、そこでは、水平的方向のものも、垂直的方向のものも、「外的原因」の影響力は「間接的」である。水平的方向の「エレメンタル」や「捕食者」などの存在の影響も、統合失調症のように、「声」として意識されるようなものにはならず、無意識的なもので、一種の「強迫観念」として作用するものとなる。
また、垂直的方向の「虚無」や「闇」の影響も、直接それそのものが、間近に迫るというよりは、間接的に、感覚や観念を通して作用するものになる。例えば、「虚無感」や「ニヒリズム」として、作用するのである。
しかし、それらの影響は、間接的だから、「弱い」ということには必ずしもならない。
「うつ」の場合のポイントの一つは、「抑圧」ということにある。躁鬱気質の人は、普段は、これらの外的影響力を受けないというよりは、「抑圧」の力が強いために、これらの影響をあまり表面にもたらさないのである。
「抑圧」というのは、「自我」の力が強いからこそ、できることともいえる。というよりも、躁鬱気質の人は、むしろ、これらの外的影響力を「抑圧」するためにこそ、「自我」の力を重視し、保持しよとするように思える。また、「自我」といっても、それは、「他人との関係」や「社会での位置や役割」に関わる面が強く、「アイデンティティ」や「ペルソナ(仮面)」という言い方が、適当かもしれない。何しろ、そのような、「自我」や「アイデンティティ」、「ペルソナ」への固執が強く、それらが、うまく機能しているときは、「抑圧」もうまくいき、「うつ」的な状況は、現れない。
しかし、それらの「自我」や「アイデンイティティ」、「ペルソナ」が、何らかの「喪失的な出来事」をきっかけにして、大きく揺らぐときに、その「抑圧」の力が、一気に外される。そこで、せき止められた水のように、「外的影響力」が一気に押し寄せるのである。具体的には、水平的方向による「強迫観念」(主に「罪悪感」)や垂直的方向による「虚無感」、「ニヒリズム」などである。
それらは、普段は「抑圧」されて、表に表れないまでも、内部では、強力に醸成されていた。それで、そのようなものに、一気に飲み込まれると、その力に対抗できず、抑鬱感が強烈なものとして襲う。そして、それは、脳や身体にまで、影響を与えるものにもなり得る。
私は、躁鬱気質の人と接すると、表面上は、人当たりが良く、活動的で、「ニヒリズム」とは無縁のように思えるが、ときおり、内部に、強く「ニヒリズム」を抱えていると感じることがある。本人も、意識レベルでは、そのような「ニヒリズム」を、よくないこととし、締め出しているようだが、何かのおりに、ふと出てしまうのである。
この当たりは、分裂気質とは逆で、分裂気質の場合、こういうものの「抑圧」はあまり強くなく、割と普段から、「虚無感」や「ニヒリズム」が押し寄せることは多い。(だから、ある意味、普段から、「うつ」っぽく見えることだろうが)、その分、そのようなものには、割と抵抗が強く、それによって、特に「うつ」に陥るということがない。ただし、「統合失調症的状況」に陥って、それらが、「実体」として間近に迫るようになれば、話は別になる。
また、これは、躁鬱気質、分裂気質に関わりないだろうが、普段から、「虚無感」や「ニヒリズム」を前面に押し出して、生きているような人もいる。いわゆる、「斜に構えた」ような人で、哲学者タイプに多く、ちょっと変わり者とみなされたりするが、こういう人も、普段から、そういうものに、なじみがある分、特に「うつ」に陥ったりすることは、少ないだろう。
躁鬱気質の人の場合、普段は、「抑圧」しているからこそ、それらが、いざ強力に押し寄せた場合には、抵抗力が弱いのだと思われる。
また、躁鬱気質の人には、「唯物論的発想」をする人が多いように思う。これは、一つには、少なくとも最近までは、世間一般がそのような考え方だったため、「世間」を重視する躁鬱気質の人は、自然そのような考え方になっていたという面もあるだろう。しかし、この「唯物論的発想」も、「霊的」、「非物質的」な領域からの、影響力の「抑圧」ということと、深く関わっている。そもそも、そういった領域そのものを、普段の意識から「排除」することによって、そういった領域からの「影響力」の「抑圧」を、強化しているわけである。
何しろ、一般には、「うつ」の場合も、それに陥る「きっかけ」のみが、取り沙汰されるが、むしろ、その結果としての、「見えない」領域からの、影響力が、いかに強力なものであるかに、注目されてしかるべきである。例えば、「強迫観念」と一口に言っても、「捕食者」などは、容易に、その者の弱点につけ込んだ、「罪悪感」などの強迫観念を、強烈に生み出すことができ、また、徹底的に、それに捕えさせることもできる。「虚無感」や「ニヒリズム」も、根底的な「虚無」や「闇」の、思考や感覚に捉えられた「反映」であり、「抑圧」などによって、解除できる代物ではない。
意外かもしれないが、このような、外的影響力の強烈さは、統合失調症の場合と決して変わらない。ただ、「間接的」である分、そのようなものが、統合失調症の場合以上に、「みえにくい」だけである。
いずれにしても、統合失調症の場合同様、これらの「うつ」の「原因」に、薬で対抗しようとすることは、何ら、本質的な「解決」にはならないことが明らかである。(脳や身体に生じた症状が緩和されること自体は、あり得るとしても。)むしろ、そのような「原因」には目を向けず、「抑圧」を続けていたいからこそ、「薬によって治る」という「薬信仰」が、特に躁鬱気質の人に強いのではないかと思える。
また、どのように「うつ」に対処するかということも、結局は、これらの外的「原因」に対して、どのように「取り組む」かという問題となる。それらは、「抑圧」しても解決できる代物ではない以上、「統合失調症」と同様、いかに、「引き受け」、抵抗力をつけ、自分なりに対処していくかという問題である。
この点では、むしろ、普段から、「抑圧」が強いことが問題なのであり、徐々にでも、普段から、「抑圧」を解除していくことを、心掛けるのがよいと思う。
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