『なぜうつ病の人が増えたのか』
冨高辰一郎著『なぜうつ病の人が増えたのか』(幻冬舎、幻冬舎ルネサンス新書)を読んだ。これは、最近急増した「うつ病」に焦点を絞ったものだが、精神科と製薬会社の「やりたい放題」とも関連する本である。著者は、精神科医で、別に内部告発とか、反精神医学的な内容なのではなく、あくまで、データに基づいて、中立的立場で、慎重に論を進めるという感じである。
まず、最近なぜ「うつ病」が増えたのかについて、諸外国のデータとも照らしながら、非常な説得力で、抗うつ剤「SSRI」(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)が導入されて以降に顕著に増えていること、それは、製薬会社がそれに伴って、一般に対して大規模に行った、啓発活動の結果であることを明らかにしている。啓発活動とは、要するに、「うつ」は薬で治るから、早期に発見して、早期に医師の診断を受けるように、というプロモーション活動である。
一般には、「うつ」が増えたのは、そうなる社会的状況があって、増えたのだと思われがちである。しかし、実際には、啓発活動の結果、医師の「診断率」が上がったのであり、さらに、単に、診断率が上がっただけではなく、それまで「病気」と考えられなかったものまで、「うつ病」と考えられるようになったということである。その意味では、「うつ病」というのは、「作られた病い」ということである。
そもそも、一定の「うつ」は、そのまま3カ月ほどすれば、治ってしまうことも、データ的に、明らかにされている。が、この「うつ病」の増加という現象は、「うつ」が薬で治るならば、自分の陥っている状態を「うつ病」と捉えて、積極的に医師にかかる人が増えたということ、また、実際に、そのとおりに診断されて、薬をもらう人が増えたということを意味している。製薬会社の啓発活動が、功を奏したということになる。
しかし、このような啓発活動が容易に信じられたのは、やはり、一般の、「物質」信仰や「技術」信仰を背景とした、「薬信仰」があったから、でもあるはずである。「うつ」も「薬」で治る、技術的に、副作用も軽減できる、ということが、一般にも、違和感なく、受け入れられていたということである。一時、「うつは心のかぜ」なる標語が流行ったが、「うつ」も「かぜ」と同じように、気軽に薬で治せるものとのイメージが、それなりに行き渡ったのである。
しかし、実際には、「SSRI」の効果も、かつての薬と変わりないもので、副作用も、決して少なくないことが、最近ますます明らかにされて来ている。
早く言えば、製薬会社の啓発活動に、躍らされていたということである。
欧米では、「SSRI」は、日本より十年早く導入されたこともあって、最近は、その効果も根拠に乏しく、製薬会社の啓発活動の結果に過ぎないことや、その薬害も、多く認識されて来ている。そこで、英国などは、軽度の「うつ」に「SSRI」を使用しないことを、国家が政策的に推し進めている。
しかし日本では、相変わらず、「薬」の投与こそが、治療の主流というよりは、ほとんど全てという状況である。
欧米も、初めは、製薬会社の啓発活動に、躍らされていたといえるのだが、いざ、そのことに合理的根拠がないと分かると、変わり身も早い。
しかし、日本では、「SSRI」が十年遅れて導入されたことも影響してだろうが、このような状況が変わる見込みは、ほとんどない。データに基づいて、説得的に説かれた、このような著書も、日本では、異端的なものと受け取られる可能性が高いだろう。
私は、これには、日本独自の事情も、大きく影響していると思う。
そもそも「うつ」ということ、それが、社会問題として、採り上げられやすいことは、ひどく日本的なことといえる。「世間」というものが重視される、日本の対人関係の中で、日本人は、「うつ」に陥りやすいとともに、その「うつ」にどう対処するかということも、一つの大きな社会的関心なのである。少なくとも、まともな関心すら向けられにくい、「統合失調症」に比べれば、その傾向ははっきりしている。
そこで、日本人にとっては、まさに、「かぜ」のように、「薬」でこの問題が解決してくれることが、大きな「希望」となったということがいえる。製薬会社の啓発活動は、日本に特に、「ハマッ」たのである。「うつ」そのものは、職場でも、学校、家庭その他の「世間」でも、実際には、不合理で、感情的な、「人間関係」的なものが絡みついた、厄介な問題である。誰かが、「うつ」になることは、周りも、感情的に、引きずるものが残る。また、「うつ」に陥った本人も、周りに迷惑を掛けることを、必要以上に気にすることから、余計、「うつ」を悪化させることがある。
このような事態において、「うつ」が、深刻に受け止めずとも、「かぜ」のように「薬」で解決できる問題なのだ、と信じられることは、「恩恵」のように作用した。「うつ」そのものが「厄介払い」されたというよりは、「うつ」にまつわる「世間的な問題」が、「厄介払い」されたともいえる。それは、単に、製薬会社の啓発活動に躍らされたというよりは、世間または社会が、そう欲するからこそ、積極的に、そのような発想を支援し、後押ししたということでもある。
それは、「うつ」を放置してはならず、薬による治療で、「撲滅」させようという、一種の「圧力」にもなった。本人も、「うつ」の状態でいることは、許されないことで、医者にかかって、早期に治療しなければならないものと思い、周りも、そのような状態にある者に、医師にかかることを勧めやすくなった。また、「圧力」を受けるのは、医師も同じで、本人や周りが、薬による治療を希望するのに、それに沿わないことはできにくくなった。それで、薬は、よくも悪くも、はっきりした効果が出るまでに、多量に投与されることが、当たり前になった。
言わば、日本の「世間」全体が、「うつ」を取り巻く「薬信仰」に、どっぷりと「ハマ」り、それを「回転」させたという感じである。
だから、日本では、いまさら、この「薬信仰」を、放棄することは、難しい。当分の間、このような事態が、変わることは見込めないはずである。
しかし、今後も、この本のような指摘は、増えてくるだろうし、世界全体の動向に反してまで、そのことに目をつぶっていることもできなくなるはずである。いずれ、遅かれ早かれ、「うつ」の「薬信仰」は崩れ去ることだろう。が、そうなってからが、本当の意味で、「うつ」との「闘い」(「引き受け」に向けての)の始まりなのである。
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