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2012年6月

2012年6月27日 (水)

「うつ」と「プラシーボ」

                     
「プラシーボ」とは、「偽薬」のことである。薬の臨床試験などでは、砂糖、生理食塩水などを用いた、「プラシーボ」との効果の違いがはっきりと証明されなければならないとされる。しかし、逆に、このような「プラシーボ」も、ある病気に効く薬として与えると、一定の治療効果が現れることがある。それを、「プラシーボ効果」という。

要するに、治療効果を期待してプラシーボを服用すると、その主観的な影響により、薬と同様の効果が一定の割合で認められるのである。治療というものが、いかに主観的な「思い」に左右されるかということを示している。

また、特に薬のような物質を媒介せずとも、言葉や暗示だけでも、一定の効果を及ぼすことがある。それも広い意味の「プラシーボ効果」といえる。

催眠状態で、鉛筆などを、焼けた火鉢だと暗示を与えて皮膚に触れると、実際に水ぶくれを生じることがあるのはその一例である。あるいは、最も強烈な例としては、「ブードゥー死」というのがある。未開社会などで、自分が呪術師に「呪われ」ていることを知ると、そう知っただけで、本当に衰弱死してしまう現象である。

このように、治療というのは、本来、主観的な「思い」に左右されるわけだが、それは、もともと、「自然治癒力」というものが、いかに大きく影響するかということの表れとも言える。主観的な思いが、「自然治癒力」を引き出しているとみなせるからである

最近、記事でも採り上げている抗うつ剤、「SSRI」についてだが、最近の研究では、プラシーボとの効果の相違は、2割ほどしかないという。(冨高辰一郎著『なぜうつ病の人が増えたのか』p.174以下参照)つまり、プラシーボではないという形で、薬の効果がはっきりと認められる場合は、2割ほどしかないということである。

この数字は、少ないと驚く人が多いかと思うが、逆に、2割ほどでも、実際に薬が効くという効果があるということになるなら、そのことの方に、驚きが伴うとの見方もできるだろう。

何しろ、実際に、「抗うつ剤」が効いて、うつ病が治ったという人は、かなりの程度いることは確かであろう。もっとも、民間療法や心霊治療、カルト的な治療法でも、治ったという人は、常に一定の程度いるのである。そして、恐らく、これらには、どちらにも、前述の「プラシーボ効果」が相当影響していると考えられる

「うつ」という状態自体が、主観的、感情的な思いの影響を強く受けやすいはずで、この薬は効くというプラスの思いは、その解消に、相当影響するはずである。また、前回みたように、躁鬱気質の人は、医者の権威や世間一般の見方を素直に受け入れやすい面が強いから、「抗うつ剤」の効果を医者や世間一般の見方が補強すれば、余計に「プラシーボ効果」は高まると思われる。

この点は、「統合失調症」の場合とは多いに異なる。「統合失調症」では、あまり主観的、感情的な思いに左右されるとは考えにくいし、また、「病識がない」などと言われるが、そもそも、自分の状態を単純に「病気に過ぎない」と認識することはほとんどないので、その状態が、薬で治るなどと信じることは、あまり考えられない。だから、「統合失調症」の場合、薬の「プラシーボ効果」などは、あまりないと思われる。

ところが、「うつ」の場合は、「プラシーボ効果」の影響が相当見込まれるのである。

「SSRI」などは、製薬会社の啓発活動に基づくものとは言え、当初は、世間もその効果を後押ししていたから、相当「プラシーボ効果」の影響もあったと思われる。しかし、ここに来て、前々回もみたように、本当は、「大して効かない」こと。また、副作用も「少なくない」こと。自殺や他者に対する攻撃性などの衝動性も高まること。薬を止めたときの離脱症状(一種の中断症状)も激しいことなどが、一般に知られるようになって来た。そうすると、今後は、そのような「プラシーボ効果」の影響も大きく減退するであろう。あるいは、ろしろ、マイナスの「プラシーボ効果」が高まることも考えられる。つまり、実際にも、「抗うつ剤」は効かなくなる可能性が高いということである。

しかし、だからと言って、そのような否定的な「事実」は、隠した方がいいということにはならないはずである。薬に「プラシーボ効果」が見込まれるのであれば、実際に生じる「害悪」を無視してよいことにはならないからである。そうであれば、民間療法や心霊治療、カルト的な治療法と何ら変わらないことになる。

「プラシーボ」効果そのものは、「暗示」の力であり、その「暗示」の力が、生理的、身体的に、いかにバカにできないものかを示すものである。そして、そのこと自体は、今後の治療でも、多いに意識され、利用されてよい。しかし、本来、「プラシーボ効果」は、その効果そのものよりも、そのもとにある、「自然治癒力」が重要なのであり、もっとそちらの方に、注目されてしかるべきである。

2012年6月17日 (日)

「うつ」の原因

「うつ」については、一般には、統合失調症よりは、分かりやすく、共感しやすいというイメージがあるだろう。誰でも、それに近い状態には、陥ったことがあるということもある。しかし、私自身は、自分が明確に体験した、「統合失調症」より、分かりにくいという思いがあり、今までも、あまり「うつ」についいては、述べて来なかった。

ただ、私も、もちろん、それに近い状態に陥ったことがあるし、「捕食者」との絡みで、強烈な「罪悪感」をもたされたことから、身体症状的にも、一時的に、「うつ」そのものといえる状態に陥ったこともある。また、「うつ」に陥った人や、躁鬱気質の人と接した経験から、それらの状態を推測することはできる。

そこで、統合失調症の場合ほどの確信はないが、「うつ」の原因についても、ここで考えを述べてみたい。

まず、概要を図示すると、次のようになる。統合失調症の場合(記事『狂気の原因』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html) と比較してみてほしい。

Photo
「うつ」の場合も、「主体的、内的原因」と「外的原因」に、大きく分けられるのは同じである。外的原因にも、「水平的方向」のものと「垂直的方向」のものがあるのも同じである。つまり、統合失調症も「うつ」も、基本的には、「見えない」領域から、「外的原因」の影響を受けることによって生じていることは同じである。ただ、その現れ方が、「主体的、内的原因」の違いに応じて、異なるということである

また、大きな違いに、統合失調症の場合は、何らかの出来事がきっかけになるにしても、それまでの「日常的的現実」に亀裂が入り、「現実」そのものに一種の「断絶」が起こるということがある。それまでの「日常的現実」は、多かれ少なかれ崩れ去り、「霊界の境域」という、新たな「領域」に入り込むのである。

そこでは、水平的方向のものも、垂直的方向のものも、「外的原因」の影響力は「直接的」である。水平的方向の「エレメンタル」や「捕食者」などの存在や、垂直的方向の「虚無」や「闇」も、言わば、薄皮一枚隔てた、すぐ間近に「ある」(迫る)という感じになる。

あるいは、そこでは、もはや、「内部的」なものと「外部的」なものの区別も曖昧になり、それらは、内部に「侵入する」という感じになる。これは、「霊界の境域」で、「自我」が希薄になるということとも関係している。

ところが、「うつ」の場合は、「喪失的」な出来事などのために、それまでの「連続性」が断たれるような感覚はあるだろうが、「霊界の境域」へと入り込むといった、はっきりとした「現実」の断絶はないはずである。「喪失的」な出来事とは、特定の者や物、地位などを失うという、分かりやすいものばかりではなく、むしろ前回も触れたように、日本人の場合は、「世間との関係」での微妙なあり様が、影響する場合が多いだろう。

しかし、「うつ」の場合も、それらはあくまで、「きっかけ」であり、直接の「原因」は、「見えない」領域からの影響にあると言うべきである。ただ、そこでは、水平的方向のものも、垂直的方向のものも、「外的原因」の影響力は「間接的」である。水平的方向の「エレメンタル」や「捕食者」などの存在の影響も、統合失調症のように、「声」として意識されるようなものにはならず、無意識的なもので、一種の「強迫観念」として作用するものとなる。

また、垂直的方向の「虚無」や「闇」の影響も、直接それそのものが、間近に迫るというよりは、間接的に、感覚や観念を通して作用するものになる。例えば、「虚無感」や「ニヒリズム」として、作用するのである

しかし、それらの影響は、間接的だから、「弱い」ということには必ずしもならない。

「うつ」の場合のポイントの一つは、「抑圧」ということにある。躁鬱気質の人は、普段は、これらの外的影響力を受けないというよりは、「抑圧」の力が強いために、これらの影響をあまり表面にもたらさないのである。

「抑圧」というのは、「自我」の力が強いからこそ、できることともいえる。というよりも、躁鬱気質の人は、むしろ、これらの外的影響力を「抑圧」するためにこそ、「自我」の力を重視し、保持しよとするように思える。また、「自我」といっても、それは、「他人との関係」や「社会での位置や役割」に関わる面が強く、「アイデンティティ」や「ペルソナ(仮面)」という言い方が、適当かもしれない。何しろ、そのような、「自我」や「アイデンティティ」、「ペルソナ」への固執が強く、それらが、うまく機能しているときは、「抑圧」もうまくいき、「うつ」的な状況は、現れない。

しかし、それらの「自我」や「アイデンイティティ」、「ペルソナ」が、何らかの「喪失的な出来事」をきっかけにして、大きく揺らぐときに、その「抑圧」の力が、一気に外される。そこで、せき止められた水のように、「外的影響力」が一気に押し寄せるのである。具体的には、水平的方向による「強迫観念」(主に「罪悪感」)や垂直的方向による「虚無感」、「ニヒリズム」などである。

それらは、普段は「抑圧」されて、表に表れないまでも、内部では、強力に醸成されていた。それで、そのようなものに、一気に飲み込まれると、その力に対抗できず、抑鬱感が強烈なものとして襲う。そして、それは、脳や身体にまで、影響を与えるものにもなり得る。

私は、躁鬱気質の人と接すると、表面上は、人当たりが良く、活動的で、「ニヒリズム」とは無縁のように思えるが、ときおり、内部に、強く「ニヒリズム」を抱えていると感じることがある。本人も、意識レベルでは、そのような「ニヒリズム」を、よくないこととし、締め出しているようだが、何かのおりに、ふと出てしまうのである。

この当たりは、分裂気質とは逆で、分裂気質の場合、こういうものの「抑圧」はあまり強くなく、割と普段から、「虚無感」や「ニヒリズム」が押し寄せることは多い。(だから、ある意味、普段から、「うつ」っぽく見えることだろうが)、その分、そのようなものには、割と抵抗が強く、それによって、特に「うつ」に陥るということがない。ただし、「統合失調症的状況」に陥って、それらが、「実体」として間近に迫るようになれば、話は別になる。

また、これは、躁鬱気質、分裂気質に関わりないだろうが、普段から、「虚無感」や「ニヒリズム」を前面に押し出して、生きているような人もいる。いわゆる、「斜に構えた」ような人で、哲学者タイプに多く、ちょっと変わり者とみなされたりするが、こういう人も、普段から、そういうものに、なじみがある分、特に「うつ」に陥ったりすることは、少ないだろう。

躁鬱気質の人の場合、普段は、「抑圧」しているからこそ、それらが、いざ強力に押し寄せた場合には、抵抗力が弱いのだと思われる。

また、躁鬱気質の人には、「唯物論的発想」をする人が多いように思う。これは、一つには、少なくとも最近までは、世間一般がそのような考え方だったため、「世間」を重視する躁鬱気質の人は、自然そのような考え方になっていたという面もあるだろう。しかし、この「唯物論的発想」も、「霊的」、「非物質的」な領域からの、影響力の「抑圧」ということと、深く関わっている。そもそも、そういった領域そのものを、普段の意識から「排除」することによって、そういった領域からの「影響力」の「抑圧」を、強化しているわけである

何しろ、一般には、「うつ」の場合も、それに陥る「きっかけ」のみが、取り沙汰されるが、むしろ、その結果としての、「見えない」領域からの、影響力が、いかに強力なものであるかに、注目されてしかるべきである。例えば、「強迫観念」と一口に言っても、「捕食者」などは、容易に、その者の弱点につけ込んだ、「罪悪感」などの強迫観念を、強烈に生み出すことができ、また、徹底的に、それに捕えさせることもできる。「虚無感」や「ニヒリズム」も、根底的な「虚無」や「闇」の、思考や感覚に捉えられた「反映」であり、「抑圧」などによって、解除できる代物ではない。

意外かもしれないが、このような、外的影響力の強烈さは、統合失調症の場合と決して変わらない。ただ、「間接的」である分、そのようなものが、統合失調症の場合以上に、「みえにくい」だけである。

いずれにしても、統合失調症の場合同様、これらの「うつ」の「原因」に、薬で対抗しようとすることは、何ら、本質的な「解決」にはならないことが明らかである。(脳や身体に生じた症状が緩和されること自体は、あり得るとしても。)むしろ、そのような「原因」には目を向けず、「抑圧」を続けていたいからこそ、「薬によって治る」という「薬信仰」が、特に躁鬱気質の人に強いのではないかと思える

また、どのように「うつ」に対処するかということも、結局は、これらの外的「原因」に対して、どのように「取り組む」かという問題となる。それらは、「抑圧」しても解決できる代物ではない以上、「統合失調症」と同様、いかに、「引き受け」、抵抗力をつけ、自分なりに対処していくかという問題である。

この点では、むしろ、普段から、「抑圧」が強いことが問題なのであり、徐々にでも、普段から、「抑圧」を解除していくことを、心掛けるのがよいと思う

2012年6月11日 (月)

『なぜうつ病の人が増えたのか』

冨高辰一郎著『なぜうつ病の人が増えたのか』(幻冬舎、幻冬舎ルネサンス新書)を読んだ。これは、最近急増した「うつ病」に焦点を絞ったものだが、精神科と製薬会社の「やりたい放題」とも関連する本である。著者は、精神科医で、別に内部告発とか、反精神医学的な内容なのではなく、あくまで、データに基づいて、中立的立場で、慎重に論を進めるという感じである。

まず、最近なぜ「うつ病」が増えたのかについて、諸外国のデータとも照らしながら、非常な説得力で、抗うつ剤「SSRI」(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)が導入されて以降に顕著に増えていることそれは、製薬会社がそれに伴って、一般に対して大規模に行った、啓発活動の結果であることを明らかにしている。啓発活動とは、要するに、「うつ」は薬で治るから、早期に発見して、早期に医師の診断を受けるように、というプロモーション活動である。

一般には、「うつ」が増えたのは、そうなる社会的状況があって、増えたのだと思われがちである。しかし、実際には、啓発活動の結果、医師の「診断率」が上がったのであり、さらに、単に、診断率が上がっただけではなく、それまで「病気」と考えられなかったものまで、「うつ病」と考えられるようになったということである。その意味では、「うつ病」というのは、「作られた病い」ということである。

そもそも、一定の「うつ」は、そのまま3カ月ほどすれば、治ってしまうことも、データ的に、明らかにされている。が、この「うつ病」の増加という現象は、「うつ」が薬で治るならば、自分の陥っている状態を「うつ病」と捉えて、積極的に医師にかかる人が増えたということ、また、実際に、そのとおりに診断されて、薬をもらう人が増えたということを意味している。製薬会社の啓発活動が、功を奏したということになる。

しかし、このような啓発活動が容易に信じられたのは、やはり、一般の、「物質」信仰や「技術」信仰を背景とした、「薬信仰」があったから、でもあるはずである。「うつ」も「薬」で治る、技術的に、副作用も軽減できる、ということが、一般にも、違和感なく、受け入れられていたということである。一時、「うつは心のかぜ」なる標語が流行ったが、「うつ」も「かぜ」と同じように、気軽に薬で治せるものとのイメージが、それなりに行き渡ったのである。

しかし、実際には、「SSRI」の効果も、かつての薬と変わりないもので、副作用も、決して少なくないことが、最近ますます明らかにされて来ている。

早く言えば、製薬会社の啓発活動に、躍らされていたということである。

欧米では、「SSRI」は、日本より十年早く導入されたこともあって、最近は、その効果も根拠に乏しく、製薬会社の啓発活動の結果に過ぎないことや、その薬害も、多く認識されて来ている。そこで、英国などは、軽度の「うつ」に「SSRI」を使用しないことを、国家が政策的に推し進めている。

しかし日本では、相変わらず、「薬」の投与こそが、治療の主流というよりは、ほとんど全てという状況である。

欧米も、初めは、製薬会社の啓発活動に、躍らされていたといえるのだが、いざ、そのことに合理的根拠がないと分かると、変わり身も早い。

しかし、日本では、「SSRI」が十年遅れて導入されたことも影響してだろうが、このような状況が変わる見込みは、ほとんどない。データに基づいて、説得的に説かれた、このような著書も、日本では、異端的なものと受け取られる可能性が高いだろう。

私は、これには、日本独自の事情も、大きく影響していると思う

そもそも「うつ」ということ、それが、社会問題として、採り上げられやすいことは、ひどく日本的なことといえる。「世間」というものが重視される、日本の対人関係の中で、日本人は、「うつ」に陥りやすいとともに、その「うつ」にどう対処するかということも、一つの大きな社会的関心なのである。少なくとも、まともな関心すら向けられにくい、「統合失調症」に比べれば、その傾向ははっきりしている。
                                                    
そこで、日本人にとっては、まさに、「かぜ」のように、「薬」でこの問題が解決してくれることが、大きな「希望」となったということがいえる。製薬会社の啓発活動は、日本に特に、「ハマッ」たのである。「うつ」そのものは、職場でも、学校、家庭その他の「世間」でも、実際には、不合理で、感情的な、「人間関係」的なものが絡みついた、厄介な問題である。誰かが、「うつ」になることは、周りも、感情的に、引きずるものが残る。また、「うつ」に陥った本人も、周りに迷惑を掛けることを、必要以上に気にすることから、余計、「うつ」を悪化させることがある。

このような事態において、「うつ」が、深刻に受け止めずとも、「かぜ」のように「薬」で解決できる問題なのだ、と信じられることは、「恩恵」のように作用した。「うつ」そのものが「厄介払い」されたというよりは、「うつ」にまつわる「世間的な問題」が、「厄介払い」されたともいえる。それは、単に、製薬会社の啓発活動に躍らされたというよりは、世間または社会が、そう欲するからこそ、積極的に、そのような発想を支援し、後押ししたということでもある。

それは、「うつ」を放置してはならず、薬による治療で、「撲滅」させようという、一種の「圧力」にもなった。本人も、「うつ」の状態でいることは、許されないことで、医者にかかって、早期に治療しなければならないものと思い、周りも、そのような状態にある者に、医師にかかることを勧めやすくなった。また、「圧力」を受けるのは、医師も同じで、本人や周りが、薬による治療を希望するのに、それに沿わないことはできにくくなった。それで、薬は、よくも悪くも、はっきりした効果が出るまでに、多量に投与されることが、当たり前になった。

言わば、日本の「世間」全体が、「うつ」を取り巻く「薬信仰」に、どっぷりと「ハマ」り、それを「回転」させたという感じである

だから、日本では、いまさら、この「薬信仰」を、放棄することは、難しい。当分の間、このような事態が、変わることは見込めないはずである。

しかし、今後も、この本のような指摘は、増えてくるだろうし、世界全体の動向に反してまで、そのことに目をつぶっていることもできなくなるはずである。いずれ、遅かれ早かれ、「うつ」の「薬信仰」は崩れ去ることだろう。が、そうなってからが、本当の意味で、「うつ」との「闘い」(「引き受け」に向けての)の始まりなのである

2012年6月 6日 (水)

「ボタン一つで…」

前の日記でも述べたと思うが、一連の体験時に、「アニマ」と名付けた「精霊」に言われた言葉で、強く印象に残っているものがある。それは、『そのうち、ボタン一つで朝になるのよ』というのものである。

これは、私が、「霊界の境域」に陥って、ほとんど「現実」から遊離した状態で、現代の文明やその将来の発展について思いを馳せているときに、聞いた言葉である。この、淡々とした、しかし魅惑的な言い方で、鋭く心につくように言われた言葉には、ぎくりとさせられた。

私は、当時、こういった「精霊」たちの言葉を、ほとんどそのまま、「真に受ける」傾向があった。たがら、この言葉も、将来、何か、「人工太陽」のようなものかできて、ボタン一つで、文字通り「朝」になるようになる、ということを言っているのかと思った。「アニマ」が、地球の将来のことを分かっているかのように、受け取ったのだ。

恐らく、多くの人は、私に限らず、統合失調症の人が、こういう「声」を、どうして「真に受けて」しまうのか、そんなに「力」のあるものとして受け取ってしまうのか、理解できないことだろう。実際、これが、「理解」できるか否かが、統合失調症「理解」の鍵と言ってもいいほどである。しかし、やはり、これには、実際に「聞かない」ことには、分かりようがないところがある。

実際に、そういう「声」には、人間のものを超えた、「力」があると受け取れる要素があるのである。それまでに聞いたことのない、逆らい難く、「真に受ける」しかないと思わせるだけのものがある、ということである。それを、具体的に、どのように説明するかは難しいが、要するに、「人間的な感情」を超えた感じ、「確信的」な感じ、「圧倒」させる要素、強い「リアリティ」(現実感)などとでも、表現するしかないだろう。

もっとも、実際に、このような「声」を聞く多くの人も、それらを、すぐに、「人間を超えた」ものと受け取るわけではない。むしろ、「未知のもの」に対する恐れから、それまでの「現実」にできるだけ引き寄せて、身の周りの人間のものとして、受け取ろうとする。

しかし、その場合でも、それらが、なぜそんなに、「影響力」をもった言葉として受け取られるのかというと、その言葉に潜む、先にみたような要素、つまり、人間的なものとはとても思えない、「確信的」な感じ、「圧倒」させる要素、強い「リアリティ」(現実感)などによるのである。

ヤスパースが、「実体的意識性」という言い方で、これらのことを言い表そうとしているとすれば、やはり、それこそが、「統合失調症」をもたらす、最も強い影響力なのである。

いずれにせよ、私も、当時、特に初期の頃は、こういう言葉に強い影響を受け、翻弄されていたから、多少、「非現実的」な内容であっても、それをそのように「真に受け」て、受け取ることが多かったのである。

人間は、いざ、 「未知のもの」に接すると、どうしようもないほど、弱気になり、依存的になるということでもある。

しかし、後に分かったことだが、この『そのうち、ボタン一つで朝になる』という言葉は、全く、ある意味で、「見事」な「皮肉」なのである。

我々の現代文明の発展とは、要するに、何でも、ボタン一つで解決しようという、「便宜性」の追求だったと言える。不都合なこと、いやなことも、いずれ、全て、ボタン一つで、解決できるかのような、「幻想」ももった。「アニマ」は、その我々のあり方を皮肉って、『そのうち、ボタン一つで朝になる』と、言ったのである。そう、実際には、ボタン一つで、朝になるわけはないのだ。

「アニマ」に限らず、「精霊」は、よくこういった、鋭い「皮肉」を言う。「アニマ」のような、基本的には、好意的な存在でも、そこには、「反人間的」といえる要素が、感じられる。また、人間的な意味での、「モラル」や「拘り」はないから、ある意味、平気で「うそ」を言う。人間が、それに影響を受けるようだと、ますます図に乗って、その傾向を増す。

だから、こういった「声」の内容を「真に受ける」ことなどは、ばかばかしいと、今では思う。しかし、初めから、このように思える人などは、まずいないはずである。

しかし、それにしても、この「皮肉」は、あまりにも、「真をついている」、鋭いものなので、今も、強く印象に残っているのである。

思えば、前々回みたような、薬で、「精神的な病い」を治そうとする発想なども、実は、何でもボタン一つで解決しようとする発想と、同じことと言える。「ボタン」が「薬」に変わっただけである。これは、実際には、「ボタン一つで朝にしようとする」ことと同じくらい、ばかげたことかもしれない

もし、このことを、「アニマ」の皮肉に引き寄せて言うなら、次のようになるだろう。「そのうち、薬一つで、どんな病気も気分も治るのよ」。(※)

※ これでは、いかにもインパクトが弱く、「そのうち、ボタン一つで朝になる」という元の言葉にも近寄れていないので、「病気も気分も治る」といった意味合いを含めつつ、次のように言いたい。

そのうち、薬一つで、晴れになるのよ」

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