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2012年5月27日 (日)

精神科に「やりたい放題」にさせた「システム」

前回述べたように、精神科が「やりたい放題」であるのは確かとしても、それには、そうさせた「システム」というものがあり、それは、我々自身が作り出した「システム」というべきである。

その「システム」とは、実際には、近代社会または産業社会を生み出した、より大きな「システム」のことである。が、ここでは、その中でも、大きな要素を占める、「狂気」と「精神科」の問題にしぼってみてみたい。

このことは、「葬式」について、僧侶と葬儀社を「やりたい放題」にさせたことと対比させて考えてみると、分かりやすい。

我々は、特に近代以降、「死」をタブー化し、死に関わることを極力避け、「葬式」を僧侶と葬儀社に丸ごと委ねた。また「葬式」は、一応とも、伝統儀式という面を持ち、「世間」との関わりも深く、「世間」との関係でも、「厄介」な面をもつ。我々は、本来、関わりたくない、厄介な仕事を、ほぼ全面的に、丸投げしたのである。しかし、その分、それについては、余計な口出しをしたり、干渉することも、ほとんどしなくなった。多少の不満や横暴には、目をつぶるというということも多くなった。

そのようにして、「死」と葬式については、ますますタブー意識が高まり、世間体の面からも、干渉を避けるのが当前のようになった。そうなれば、僧侶や葬儀社は、現代の産業社会のシステムに乗って、「やりたい放題」の方向に走ることは目に見えている。

それと同様に、我々は、「死」に劣らず、我々を脅かし、厄介なものである、「狂気」をタブー化し、関わることを極力避けようとした。そして、「葬式」同様、その「管理」ないし「処理」を、「精神科」または「精神病院」に、丸ごと委ねた。「死」と「狂気」は、我々にとって、目を背けさせる、2大事象ともいうべきものである。その「死」については、僧侶と葬儀社に、「狂気」については、精神科と製薬会社に、「厄介払い」したのである。

(近代以前には、もちろん、「魔女狩り」のような大々的な「厄介払い」もあったが、全体として、社会が、「狂気」をある種の知恵を持って、抱え込んでいたことは、既にこれまでにも何度かみてきたとおり。)

そのようにして、それまで、神秘的なものとされた「狂気」は、科学的な「装い」のもとに、新たに捉え直された。それは、「精神医学」という「学問」により、「精神病」として規定され、「精神科」または「精神病院」は、学術的な方法によって、「治療」をなすものとされた。しかし、だからと言って、「狂気」が「狂気」であることの実質は変わりようがない。そこで、「治療」とは、とりもなおさず、「狂気」が、社会にとって、「厄介なもの」ではなくなることを意味した。

つまり、「狂気」が「厄介なもの」である限り、「狂人」は、「治療」の名のもとに、「精神科」または「精神病院」へと「隔離」され、「管理」される対象である。実際上、その「治療」などは困難であったから、事実上、「狂気」は、「精神科」または「精神病院」へと「厄介払い」されたわけである。

また、「狂気」の「管理」とは、要するに、「厄介」な、「ならず者」、「危険人物」の「管理」にほかならないから、刑務所の看守同様、そこには、「強制力」の行使、「権力」の要素が、初めから、含み込まれていた。

そのように、初めから、「精神医学」または「精神医療」には、我々の「狂気」に対するタブー意識、さらに、管理者としての、権力的な要素が、纏わりついていた。我々は、「厄介払い」をした側としての、ある種の「後ろめたさ」もあり、それに口出しすることは極力避け、多少の矛盾や横暴には目をつぶった。つまり、「やりたい放題」に走る要素は、初めから、備わっていたのである。

しかし、向精神薬が開発されて後は、大分、事情が変わって来る。それは、困難と思われた「治療」を、可能とするかのように期待された。それには、世間一般に広く浸透した、「物質」信仰と「技術」信仰も影響した。物質と技術の力は、「狂気」をも治し得ると、それなりの現実味をもって信じられたのだ。

しかし、そこでも、「治療」が意味すること自体は、決して、かつてと変わったわけではない。それは、「狂人」を「厄介ではなくする」こと、つまり「大人しくさせる」ことであり、社会の側の都合に沿うようにすることである。ただ、それが、薬という「人出のかからない」、合理的かつ効率的な方法でなせるものと、期待されたのである。それは、精神科ないし精神病院の「管理」の負担が、軽減されることをも意味した。ここにおいて、「狂気」は、「精神科」だけでなく、「製薬会社」にも大きく委ねられたといえる。それは、産業社会の発展の方向にも沿うものだった。「葬式」が、「「葬儀社」に委ねられて、より合理化(マニュアル化)されたのと同じである。

それは確かに、一定の程度、「成功」したと言えるのかもしれない。社会の「期待」に、一定の程度答えるものが、確かにあったということである。しかし、それは、そうであればこそ、精神科または精神医学が初めから持っていた、「暴走」の要素を膨らませことにもなった。

その後も、「狂気」には、相変わらずタブー意識がつきまとい、精神科のすることに、注目したり、口出ししたりすることは少ない。また、もともと困難な、狂気の「治療」にとって、薬が一定程度、(少なくともみかけ上)期待に答えてくれるとなれば、ある程度の失敗やマイナス面にも目をつぶることになる。「物質」信仰、「技術」信仰、産業社会の機能性の拡大に、拍車がかかるのに併行して、ますますその傾向は高まる。

こうして、「産業社会」の論理に則り、精神科と製薬会社が、「やりたい放題」の方向に走ることは、目に見えていたというべきである。

しかし、ここに来て、事態は、もはや我々多くの者の想定を、大きく超えるものとなった。初め、少なくとも「狂気」とは、「特定の者」を意味した。特定の、社会が抱えるのに「厄介な者」が、「狂人」として、精神科ないし精神病院に委ねられたのである。特定の者が、「厄介払い」されたのであり、そこに、他の多くの者は、狂気に「触れず」にすむ基盤もあった。

しかし、いまや、子供も含めて、誰もが、「狂人」あるいは少なくとも、その「予備軍」とみなされ、精神科で治療を受け、薬を投与される時代となった。薬という合理的かつ効率的な方法ではあるが、もはや、誰もが、簡単に「厄介払い」される可能性が出て来た。もちろん、そこには、精神科と製薬会社の拡大戦略、薬そのものが、その作用により、「狂気」の拡大をもたらすということ、あるいは、ストレス過大な「産業社会」そのものが、実際に「「狂気」を多く現出させるという面もあるだろう。しかし、それは、後にみるように、「厄介払い」というあり方そのものが行きつく、必然の成り行きでもあるのである。

いずれにしても、事態が、こうなると、多くの者も、もはや「他人事」として、目をつぶっていることはできなくなるはずである。我々が作り出したシステムによって、我々の誰もが、「厄介払い」される可能性が出て来たのだから。

しかし、このような「特定の者」からの、「厄介払い」の止めのない拡大は、まさに「魔女狩り」のときと、同じである。「魔女狩り」のときも、初めは、特定の「異端者」、「はみ出し者」、「狂気の者」が、狩られる対象となった。多くの人々は、「善良な市民」としての側に立つことができ、それらの者を「狩る」べく、告発することに熱狂した。しかし、その熱狂は、止まるところを知らず、ついに、誰が狩られてもおかしくないほどまでに拡大した。そこに至って、人々は、自分自身が「狩られる」側に立つ可能性をみないわけにはいかなくなった。そして、そうなると、「魔女狩り」の熱狂は、急速に止むことになるのである。

「魔女狩り」そのものは、終息に向かった。しかし、それは、「狂気の者」など、特定の「はみ出し者」を「厄介払い」すること自体が、終わったことを意味しない。それは、自分たちに「被害」が回ってくることを避ける、一時的な「休戦」状態に過ぎなかった。

もちろん、一定の反省はなされ、直接かつ公然と、残忍な仕方で、人を「狩る」などということはしなくなった。そのようなことは、「非理性」的なことであり、避けられるべきこととはされた。しかし、それが、「理性」の承認のもとに、別の形で、継続されることは、必然だったといえる。精神科と精神医学の誕生は、その「理性」という方法に則ったうえでの、「狂気」の「厄介払い」の継続だったといえる。つまり、「魔女狩り」の延長という面をもっていたということである。(※1)

そして、先にみた、現代の、誰もが「精神疾患」として「厄介払い」されるという事態は、「魔女狩り」が最高度に沸騰し、誰もが「魔女」として告発されたときと同じ状況である。それは、「魔女狩り」のときと同様、こういった暴走が、終息に向かう兆しでもあるだろう。しかし、結局、我々は、同じことを繰り返していたということである。そして、それがたとえ「終息」に向かったとしても、やはり、我々に「被害」が及ぶことを避ける、一時的な「休戦」に過ぎないならば、いずれまた、同じことを繰り返すだろう。

ここで我々が気づくべきことは、「狂気」の「厄介払い」を本気でなそうとするなら、決して、特定の者を「厄介払い」することで終わることはない、ということである。それは、誰をも「厄介払い」するまでに、拡大せざるを得ないのである。「死」と同じように、「狂気」とは、本来、誰もが内に抱えるものだからである。つまり、誰もが、狩られるべき「魔女」なのである。

その内にある「狂気」から目を背け、それを誰かに「投影」するとき、「狂気」が特定の者に、押しつけられる。それは、自分とは無縁であるかのように、「厄介払い」されるのである。しかし、本当に、自分と無縁であるものなら、誰も本気になって、「厄介払い」などする必要もない。「狂気」は、自分の中にある「何ものか」を予感させるからこそ、恐れられ、目を背けさせるのである。

だから、それは、いくら「厄介払い」されても、すべての者を「狩り倒さ」ない限り、され尽くすことがない。そのことは、「魔女狩り」という直接かつ残忍な方法であろうと、「薬」という合理化された、見えにくい方法であろうと、変わることはない。

だから、今のように、誰もが「精神疾患」として、「厄介払い」される時代となったことは、必然の成り行きと言わなければならない。

こういったことの、問題の多くが、精神科や製薬会社にあるのは確かとしても、それは、我々がそれらに、丸ごと「狂気」を委ねたことに発している。だとしたら、真の問題は、一言で言えば、我々は、我々の「狂気」を、精神科から、自分自身に「取り戻す」ことができるかということにある。「狂気」を他に「厄介払い」することを止めて、自ら「引き受ける」ということである。

そして、それには、具体的には、2つの面がある。一つは、社会全体として、「狂気」をどのように「抱え込む」かということ、もう一つは、現に「狂気」を露わにした個々の人間が、どのように、それと取り組んでいくかということである。(※2)

これは、もろちん、現実には、容易なことではない。現代の効率的、機能的な産業社会のシステムの中では、とても、適わないことのようにもみえる。実際、最初に述べたように、近代社会または産業社会のシステム自体が、「狂気」の「厄介払い」と、大きく結びついている。と言うよりも、近代社会自体、「死」や「狂気」を「排除」するという、我々の意向によってこそ始まったとも言えるのである。

だから、「死」や「狂気」の「厄介払い」を止めて、それを「引き受ける」とは、結局、そのような「大きなシステム」自体をも変えることを意味するほかない。

もし、現代の「精神科」または「精神医学」そのものを、根本的に「否定」する発想に立つならば、可能性としては、そのようなことしかあり得ないはずである。

※1  精神病院の初期の頃、患者を、金を取って「見世物」にしたり、「治療」と称して、水に浸すなどの拷問的処置がされたり、動物実験まがいのことがされたり、前頭葉摘出手術(ロボトミー)が当然のようにされたりしたことを鑑みれば、「魔女狩り」の延長だったことは、明らかといえる。

※2 「統合失調症」の場合には、具体的にどのような見通しが立てられるかについては、既にある程度述べた。最近では、たとえば、『狂気(統合失調症)の原因』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html )。「統合失調症」は、最も、「抱え込む」ことが困難なもののように思われているが、実際には、「幻覚」や「妄想」を「物質的な現実」そのものと混同することから来る、混乱の拡大が大きく影響している。だから、今後、「物質的現実」のみが「現実」ではないことが、広く認められるようになるとともに、本人の「幻覚」や「妄想」の受け止め方次第では、周りとの大きな混乱を避けつつ、自ら「引き受ける」ことが、それほど難しくなくなる可能性があると思う。ある意味、他の「病気」より、見通しは立ちやすいとすら思える。

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