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2012年5月

2012年5月27日 (日)

精神科に「やりたい放題」にさせた「システム」

前回述べたように、精神科が「やりたい放題」であるのは確かとしても、それには、そうさせた「システム」というものがあり、それは、我々自身が作り出した「システム」というべきである。

その「システム」とは、実際には、近代社会または産業社会を生み出した、より大きな「システム」のことである。が、ここでは、その中でも、大きな要素を占める、「狂気」と「精神科」の問題にしぼってみてみたい。

このことは、「葬式」について、僧侶と葬儀社を「やりたい放題」にさせたことと対比させて考えてみると、分かりやすい。

我々は、特に近代以降、「死」をタブー化し、死に関わることを極力避け、「葬式」を僧侶と葬儀社に丸ごと委ねた。また「葬式」は、一応とも、伝統儀式という面を持ち、「世間」との関わりも深く、「世間」との関係でも、「厄介」な面をもつ。我々は、本来、関わりたくない、厄介な仕事を、ほぼ全面的に、丸投げしたのである。しかし、その分、それについては、余計な口出しをしたり、干渉することも、ほとんどしなくなった。多少の不満や横暴には、目をつぶるというということも多くなった。

そのようにして、「死」と葬式については、ますますタブー意識が高まり、世間体の面からも、干渉を避けるのが当前のようになった。そうなれば、僧侶や葬儀社は、現代の産業社会のシステムに乗って、「やりたい放題」の方向に走ることは目に見えている。

それと同様に、我々は、「死」に劣らず、我々を脅かし、厄介なものである、「狂気」をタブー化し、関わることを極力避けようとした。そして、「葬式」同様、その「管理」ないし「処理」を、「精神科」または「精神病院」に、丸ごと委ねた。「死」と「狂気」は、我々にとって、目を背けさせる、2大事象ともいうべきものである。その「死」については、僧侶と葬儀社に、「狂気」については、精神科と製薬会社に、「厄介払い」したのである。

(近代以前には、もちろん、「魔女狩り」のような大々的な「厄介払い」もあったが、全体として、社会が、「狂気」をある種の知恵を持って、抱え込んでいたことは、既にこれまでにも何度かみてきたとおり。)

そのようにして、それまで、神秘的なものとされた「狂気」は、科学的な「装い」のもとに、新たに捉え直された。それは、「精神医学」という「学問」により、「精神病」として規定され、「精神科」または「精神病院」は、学術的な方法によって、「治療」をなすものとされた。しかし、だからと言って、「狂気」が「狂気」であることの実質は変わりようがない。そこで、「治療」とは、とりもなおさず、「狂気」が、社会にとって、「厄介なもの」ではなくなることを意味した。

つまり、「狂気」が「厄介なもの」である限り、「狂人」は、「治療」の名のもとに、「精神科」または「精神病院」へと「隔離」され、「管理」される対象である。実際上、その「治療」などは困難であったから、事実上、「狂気」は、「精神科」または「精神病院」へと「厄介払い」されたわけである。

また、「狂気」の「管理」とは、要するに、「厄介」な、「ならず者」、「危険人物」の「管理」にほかならないから、刑務所の看守同様、そこには、「強制力」の行使、「権力」の要素が、初めから、含み込まれていた。

そのように、初めから、「精神医学」または「精神医療」には、我々の「狂気」に対するタブー意識、さらに、管理者としての、権力的な要素が、纏わりついていた。我々は、「厄介払い」をした側としての、ある種の「後ろめたさ」もあり、それに口出しすることは極力避け、多少の矛盾や横暴には目をつぶった。つまり、「やりたい放題」に走る要素は、初めから、備わっていたのである。

しかし、向精神薬が開発されて後は、大分、事情が変わって来る。それは、困難と思われた「治療」を、可能とするかのように期待された。それには、世間一般に広く浸透した、「物質」信仰と「技術」信仰も影響した。物質と技術の力は、「狂気」をも治し得ると、それなりの現実味をもって信じられたのだ。

しかし、そこでも、「治療」が意味すること自体は、決して、かつてと変わったわけではない。それは、「狂人」を「厄介ではなくする」こと、つまり「大人しくさせる」ことであり、社会の側の都合に沿うようにすることである。ただ、それが、薬という「人出のかからない」、合理的かつ効率的な方法でなせるものと、期待されたのである。それは、精神科ないし精神病院の「管理」の負担が、軽減されることをも意味した。ここにおいて、「狂気」は、「精神科」だけでなく、「製薬会社」にも大きく委ねられたといえる。それは、産業社会の発展の方向にも沿うものだった。「葬式」が、「「葬儀社」に委ねられて、より合理化(マニュアル化)されたのと同じである。

それは確かに、一定の程度、「成功」したと言えるのかもしれない。社会の「期待」に、一定の程度答えるものが、確かにあったということである。しかし、それは、そうであればこそ、精神科または精神医学が初めから持っていた、「暴走」の要素を膨らませことにもなった。

その後も、「狂気」には、相変わらずタブー意識がつきまとい、精神科のすることに、注目したり、口出ししたりすることは少ない。また、もともと困難な、狂気の「治療」にとって、薬が一定程度、(少なくともみかけ上)期待に答えてくれるとなれば、ある程度の失敗やマイナス面にも目をつぶることになる。「物質」信仰、「技術」信仰、産業社会の機能性の拡大に、拍車がかかるのに併行して、ますますその傾向は高まる。

こうして、「産業社会」の論理に則り、精神科と製薬会社が、「やりたい放題」の方向に走ることは、目に見えていたというべきである。

しかし、ここに来て、事態は、もはや我々多くの者の想定を、大きく超えるものとなった。初め、少なくとも「狂気」とは、「特定の者」を意味した。特定の、社会が抱えるのに「厄介な者」が、「狂人」として、精神科ないし精神病院に委ねられたのである。特定の者が、「厄介払い」されたのであり、そこに、他の多くの者は、狂気に「触れず」にすむ基盤もあった。

しかし、いまや、子供も含めて、誰もが、「狂人」あるいは少なくとも、その「予備軍」とみなされ、精神科で治療を受け、薬を投与される時代となった。薬という合理的かつ効率的な方法ではあるが、もはや、誰もが、簡単に「厄介払い」される可能性が出て来た。もちろん、そこには、精神科と製薬会社の拡大戦略、薬そのものが、その作用により、「狂気」の拡大をもたらすということ、あるいは、ストレス過大な「産業社会」そのものが、実際に「「狂気」を多く現出させるという面もあるだろう。しかし、それは、後にみるように、「厄介払い」というあり方そのものが行きつく、必然の成り行きでもあるのである。

いずれにしても、事態が、こうなると、多くの者も、もはや「他人事」として、目をつぶっていることはできなくなるはずである。我々が作り出したシステムによって、我々の誰もが、「厄介払い」される可能性が出て来たのだから。

しかし、このような「特定の者」からの、「厄介払い」の止めのない拡大は、まさに「魔女狩り」のときと、同じである。「魔女狩り」のときも、初めは、特定の「異端者」、「はみ出し者」、「狂気の者」が、狩られる対象となった。多くの人々は、「善良な市民」としての側に立つことができ、それらの者を「狩る」べく、告発することに熱狂した。しかし、その熱狂は、止まるところを知らず、ついに、誰が狩られてもおかしくないほどまでに拡大した。そこに至って、人々は、自分自身が「狩られる」側に立つ可能性をみないわけにはいかなくなった。そして、そうなると、「魔女狩り」の熱狂は、急速に止むことになるのである。

「魔女狩り」そのものは、終息に向かった。しかし、それは、「狂気の者」など、特定の「はみ出し者」を「厄介払い」すること自体が、終わったことを意味しない。それは、自分たちに「被害」が回ってくることを避ける、一時的な「休戦」状態に過ぎなかった。

もちろん、一定の反省はなされ、直接かつ公然と、残忍な仕方で、人を「狩る」などということはしなくなった。そのようなことは、「非理性」的なことであり、避けられるべきこととはされた。しかし、それが、「理性」の承認のもとに、別の形で、継続されることは、必然だったといえる。精神科と精神医学の誕生は、その「理性」という方法に則ったうえでの、「狂気」の「厄介払い」の継続だったといえる。つまり、「魔女狩り」の延長という面をもっていたということである。(※1)

そして、先にみた、現代の、誰もが「精神疾患」として「厄介払い」されるという事態は、「魔女狩り」が最高度に沸騰し、誰もが「魔女」として告発されたときと同じ状況である。それは、「魔女狩り」のときと同様、こういった暴走が、終息に向かう兆しでもあるだろう。しかし、結局、我々は、同じことを繰り返していたということである。そして、それがたとえ「終息」に向かったとしても、やはり、我々に「被害」が及ぶことを避ける、一時的な「休戦」に過ぎないならば、いずれまた、同じことを繰り返すだろう。

ここで我々が気づくべきことは、「狂気」の「厄介払い」を本気でなそうとするなら、決して、特定の者を「厄介払い」することで終わることはない、ということである。それは、誰をも「厄介払い」するまでに、拡大せざるを得ないのである。「死」と同じように、「狂気」とは、本来、誰もが内に抱えるものだからである。つまり、誰もが、狩られるべき「魔女」なのである。

その内にある「狂気」から目を背け、それを誰かに「投影」するとき、「狂気」が特定の者に、押しつけられる。それは、自分とは無縁であるかのように、「厄介払い」されるのである。しかし、本当に、自分と無縁であるものなら、誰も本気になって、「厄介払い」などする必要もない。「狂気」は、自分の中にある「何ものか」を予感させるからこそ、恐れられ、目を背けさせるのである。

だから、それは、いくら「厄介払い」されても、すべての者を「狩り倒さ」ない限り、され尽くすことがない。そのことは、「魔女狩り」という直接かつ残忍な方法であろうと、「薬」という合理化された、見えにくい方法であろうと、変わることはない。

だから、今のように、誰もが「精神疾患」として、「厄介払い」される時代となったことは、必然の成り行きと言わなければならない。

こういったことの、問題の多くが、精神科や製薬会社にあるのは確かとしても、それは、我々がそれらに、丸ごと「狂気」を委ねたことに発している。だとしたら、真の問題は、一言で言えば、我々は、我々の「狂気」を、精神科から、自分自身に「取り戻す」ことができるかということにある。「狂気」を他に「厄介払い」することを止めて、自ら「引き受ける」ということである。

そして、それには、具体的には、2つの面がある。一つは、社会全体として、「狂気」をどのように「抱え込む」かということ、もう一つは、現に「狂気」を露わにした個々の人間が、どのように、それと取り組んでいくかということである。(※2)

これは、もろちん、現実には、容易なことではない。現代の効率的、機能的な産業社会のシステムの中では、とても、適わないことのようにもみえる。実際、最初に述べたように、近代社会または産業社会のシステム自体が、「狂気」の「厄介払い」と、大きく結びついている。と言うよりも、近代社会自体、「死」や「狂気」を「排除」するという、我々の意向によってこそ始まったとも言えるのである。

だから、「死」や「狂気」の「厄介払い」を止めて、それを「引き受ける」とは、結局、そのような「大きなシステム」自体をも変えることを意味するほかない。

もし、現代の「精神科」または「精神医学」そのものを、根本的に「否定」する発想に立つならば、可能性としては、そのようなことしかあり得ないはずである。

※1  精神病院の初期の頃、患者を、金を取って「見世物」にしたり、「治療」と称して、水に浸すなどの拷問的処置がされたり、動物実験まがいのことがされたり、前頭葉摘出手術(ロボトミー)が当然のようにされたりしたことを鑑みれば、「魔女狩り」の延長だったことは、明らかといえる。

※2 「統合失調症」の場合には、具体的にどのような見通しが立てられるかについては、既にある程度述べた。最近では、たとえば、『狂気(統合失調症)の原因』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html )。「統合失調症」は、最も、「抱え込む」ことが困難なもののように思われているが、実際には、「幻覚」や「妄想」を「物質的な現実」そのものと混同することから来る、混乱の拡大が大きく影響している。だから、今後、「物質的現実」のみが「現実」ではないことが、広く認められるようになるとともに、本人の「幻覚」や「妄想」の受け止め方次第では、周りとの大きな混乱を避けつつ、自ら「引き受ける」ことが、それほど難しくなくなる可能性があると思う。ある意味、他の「病気」より、見通しは立ちやすいとすら思える。

2012年5月20日 (日)

『精神科は今日も、やりたい放題』

内海聡著『精神科は今日も、やりたい放題』(三五館)を読んだ。

著者は、内科医で、精神科のセカンド・オピニオン活動などをしていたが、今は、精神科での多量の投薬からくる被害を緩和させる、減薬のプロセスを手伝けしているようである。その内容も、主に、このような活動から得られた、実際の事例がもとになっている。

副題には、「やくざ医師」の「過激な話」とあったので、かなり感情的に、好き勝手に書きなぐったようなものかと思ったら、思った以上に、真っ当で、穏当な内容だった。

それは、恐らく、多くの人が、少なくとも、内心では感じたり、恐れたりしていることのはずだが、精神科の、薬の大量投薬による「治療」こそ、精神病をより悪化させたり、治療を困難にし、あるいは、薬それ自体による副作用、または症状によって、「精神病」の症状を作り出している元凶だとするものである。

それは、単なる、「精神科医」批判というよりも、初めから、「精神医学」のいう精神病や治療というのは、明確な「科学的根拠」がないにも拘わらず、薬で「治療」できるかのように作出されたもので、製薬会社と「つるん」で儲けるための、「詐欺」的商法だったとするのである。このように、精神医学そのものの否定に及んでいる点は、確かに「過激」と言えば、「過激」でもあろう。

しかし、昔から、精神医学そのものを否定する、「反精神医学」という運動はあったのであり、内容としては、特に、それと変わるようなことが主張されているわけではない。ただ、一般にも分かりやすい、率直な言葉で書かれていること、向精神薬というものが一般に浸透して後、改めて、その薬による治療体系自体を中心にすえて、精神医学の全体を否定している点は、新しいことかもしれない。

また、それは特に、最近の、「(軽度)うつ」や、「ADHD」、「発達障害」、「不安障害」など「精神疾患名」がやたらと増やされ、また、子供まで巻き込んで、何でも薬で治療しようとする傾向を踏まえたもので、この点に関する限り、その主張は、明白に正しいというべきである。

これらの「病い」の症状は、もはや、誰にでも当てはまり得るもので、誰でも、「精神疾患」に仕立て上げることが可能であるばかりか、薬に対する抵抗力も弱い、子供までも巻き込もうとする。それらに与えられる、「抗うつ剤」などの薬は、発売当初は副作用がないなどとうたわれたものだが、近年、様々な「副作用」ばかりか、むしろ、結果的に、「うつ」などの精神病の症状をもたらすものであることが明らかになって来ている。さらに、これらの薬のために、自殺する者も増えている。これらは、脳に強力に働きかける、「麻薬」と同様の薬なのだから、それも当然といえる。

これらの、最近作り出された「病い」というより、実際には、単なる「感情の不安定」は、著者も言うように、本来、子供にとっては、当たり前のことで、大人にとっても、本人または周りが、それらとの関係の中で、対処または改善すべき「問題」である。つまり、そもそも、薬の治療などが効くはずもない、というより、薬の「出る幕でない」のが、明白な場合である。それらに対しても、そのような薬による治療こそが本筋であるかのように、広く浸透させようとする最近の精神医学の傾向は、確かに、著者の言うように、「詐欺的商法」と言われても仕方がない。

さらに、子供に様々な「疾患名」をつけて、子供をも、そのような「薬物治療」の対象として抱え込もうとすることについては、面白い指摘もある。それは、親と精神科医との、一種の「共犯関係」によるのであり、親の言うことを聞かない子供、親の意思に沿わない子供を、「精神疾患」とすることで、薬により強制的に、「改善」または「大人しく」させようとしているというのである。この点も、指摘のとおりで、これは、まさに、かつて、「なまはげ」が担っていた役割を、精神科に負わせているようなものである。

つまり、かつては、「なまはげ」が、言うことを聞かない子は、「食ってしまうぞー」などと脅すことによって、最終的に、子供のしつけを担っていたが、もはや、「なまはげ」にそのようなことを期待できない今は、精神科医が、言うことを聞かない子は、「病気」にして、「薬づけにしてしまうぞー」と脅すことによって、なすようになったということである。

「なまはげ」にも、確かに、「トラウマ」的な影響はあるだろが、子供に、「精神疾患」のレッテルを張ることは、それ以上の、ただならぬ「トラウマ」を植え付けることになるばずで、むしろ、そのことから来る精神的「症状」の方が、心配されるぐらいである。

しかし、著者も、本来の「精神病」というべき、「統合失調症」については、いくらか違う考えを持っているようである。もちろん、統合失調症にも、基本的には、上のようなことが当てはまり、例えば、「統合失調症」の発症率は、全体の1パーセント弱とされることなどは、「統合失調症」がありふれた病気であることを宣伝しようとする根拠のない数字だとする。つまり、ありふれた病気なのだから、誰がかかっても仕方のない病気、誰がこのような診断を受けても、仕方のない病気ということで、この病気とそれに対する薬による治療を、広く浸透させようとするものということである。

ただ、著者も、治療を必要とする「統合失調症」というものがないわけではないとし、しかしそれは、5000人に1人程度ではないかとしている。つまり、一般に言われる、1パーセント弱の50分の1である。

その点は、著者のいうような、「厳密に治療を必要とする」という視点からみた場合、確かに、そう言える気がする。ただし、私は、もともと、薬は、(「症状」の緩和に使える場合があるかもしれないが)「治療」そのものと結び付けることはできないと思っているので、著者とは観点が違っている。

私が、このブログで「統合失調症的状況」というのは、医学的には、「統合失調症」と診断されることのある、幻覚や妄想といった現象を伴う、激しい「混乱」状態を意味している。それは「医学的」観点以前の、あるがままの状況である。「統合失調症」というのは、そのような状態に、「医学的」観点からつけられた、一つの「病名」であって、実際には、「統合失調症」なる「病気」が、実体として、存在するわけではない。

『万が一ではなく』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-83ac.html  )という記事でも述べたように、そのような「現象」自体は、現に1パーセント弱ほどあってもおかしくないし、今後も、多く増えて行くだろうということである。それらが、治療を必要とするということではない。

何しろ、全体としてみると、このような著者の見方には、反発する人も多いだろうが、私は、恐らく、「精神科」というのが、ある意味「やりたい放題」の「恐ろしい」ところで、できる限り、関わりたくないところだというのは、かなりの人が、(少なくとも内心では)思っているはずのことと思う。だから、この本の内容には、それほど多くの人が驚くわけでもないと思う。ただ、後にも述べる理由で、それをどうすることもできないと感じている人は、相変わらず多いのでもあろう。

私も、昔、一連の体験をしていた頃、精神科または精神病院というのは、『ルポ精神病院』などにも書かれていたとおり、患者が人間扱いされず、虐待が日常化している「監獄」または「地獄」のようなところだと思っていた。それは、多かれ少なかれ、一般の人のイメージでもあったはすである。

その後、この一般的イメージは、かなり改善されることになったが、それは、人権意識の高まりとともに、確かに、向精神薬などの薬の開発によって、精神病が、「治り」得るものかのようなイメージに変わって来たことが影響している。

しかし、これは、 実際には、そのように、大した根拠もなく、「期待」されたということであり、実際には、本当に、そのように広く信じられたわけではない。ただ、かつてのように、「人手のかかる」方法で「虐待」的な扱いを受けるよりは、「まし」なものとみなされたということである。しかし、それは、実際には、より合理化され、洗練化された形の、患者の「虐待」の一方法に過ぎなかったともいえ、その意味では、かつての延長上にあったものといえるのである。実際にも、そのことが、この本のように、明るみに出されつつあるということである。

本当は、「精神病」ないし「精神疾患」というものが、相変わらず、社会にとって厄介で、容易に対処し得る代物でないことは、依然として、多くの者が十分に認識しているはずである。ただ、みかけ上、その処理の仕方が、かつてより、合理化され、洗練化された分、そのことには目をつぶる人が多かった、というだけである。

精神医学については、他にも、例えば、「市民の人権擁護の会」作成の『向精神薬、抗うつ剤、製薬医療、医学の犯罪』というビデオ( http://www.youtube.com/watch?v=vOM_EiIo6GY )もある。これも、衝撃的な内容で、これでもかこれでもかと、精神医学の人類に対する「犯罪」的なあり様を暴いている。

「市民の人権擁護の会」というのは、「サイエントロジー」というアメリカの宗教団体が創立した団体で、確かに、「一面的」なところはあるが、基本的には、頷ける内容である。

ただ、何かと、「精神科医は…した」、「精神医学は…した」と、精神科医または精神医学が、全ての行為の「主体」として槍玉に上げられ、「悪」の元凶のように扱われている点は、私も、納得するわけではない。

確かに、「精神科医」または「精神医学」自体が、あえてそうしている場合も多いだろうが、実際には、「精神科医」または「精神医学」も、それを含み込んだ「大きなシステム」に巻き込まれ、そうせざるを得なくて、そうしている面も大きいのである。

そして、そのような「大きなシステム」とは、我々自身が作り出したシステムである。
しかし、この点については、次回に述べたい。

2012年5月 9日 (水)

狂気(統合失調症)の「原因」

                     
「統合失調症」は原因の不明な病気という言い方がされる。確かに、「これが統合失調症の原因である」ということで、明確な何ものかが示されたことはない。しかし、本来、統合失調症は様々な面を含む、複雑な(複合的な)現象なので、その原因にも様々な要素が絡むし、様々な側面からみられ得るものである。だから、本当は、「特定の原因に絞ることができない」というのが、正しいと思われる。

ただし、「統合失調症」には、それを他の精神的な病から区別する、「統合失調症」らしい特徴というものがある。それは、はた目にも、強烈な印象をもたらすもので、不可解で、謎めいたものと思わせるものである。たとえば、激しい混乱、強力な幻覚、奇妙な妄想の確信、何か「見えざる圧倒的な他者」に支配される様子、などである。

だから、こういった「統合失調症らしい」特徴に着目し、それをもたらすものは何か、あるいは、それなしでは、このような「激しい」現象は起こらないという意味で、最も影響のある「原因」は何かということを、考えることはできる。

そうした場合、それは、「目に見えない」「不可視の領域からの影響」ということになる。あるいは、少なくとも、それ抜きには、決して、こういった強烈な現象を、本当には理解することはできないということを、これまで述べて来たのである。具体的には、「エレメンタル」や「捕食者」の影響(水平的方向)または「虚無」(垂直的方向)の影響などである。

しかし、あえて、全体として、「統合失調症」をもたらす、様々な「原因」を取り出してみること、また、それらの関係をみてみることにも意義があるだろう。そうすると、それは、次の図のようになる。

Photo
先にあげた、強烈な現象をもたらす、最も強い影響力は、「外的原因」といえる。この「外的原因」には、これまでみて来たように、「水平的方向」からのものと「垂直的方向」からのものがある。代表的なものは、「水平的方向」では「エレメンタル」(他者の生霊)や「捕食者」であり、「垂直的方向」では、「闇」や「虚無」である。

しかし、この「外的原因」は、それだけで現象を生じるというものではないのも確かである。つまり、主体の側の、何らかの「原因」との絡み合いで生じるものである。主体の側にも、そのような「外的原因」の、呼び込みやすさや、影響の受けやすさ、あるいは、つけ込まれやすさなどの「要因」があるからである。そこで、それらは、「主体的」または「内的原因」と呼ぶことができる。

このような、「主体的」または「内的原因」も、様々な面からみることができる。たとえば、物質的な面(脳や遺伝子など)や、精神的な面(心の性質やトラウマなど)、さらに両方を含めた一種の体質(分裂気質、霊媒体質など)などである。

簡単に図式化すれば、これらの「主体的」または「内的原因」によって、「霊界の境域」への陥りやすさが生じる。それには、周りの環境との不適応感の高まりや、ある(本人にとっては決定的な)外的出来事が起こることなどを、具体的なきっかけとすることも多い。それも、ある種の「外的原因」と言えるが、現象を生じる、直接的なものではなく、あくまで、「霊界の境域」へ陥る「きっかけ」としてのものである。そして、その「霊界の境域」で、水平的方向及び垂直的方向から、これまでに経験のない、「外的原因」の影響を受けることになる。それによって、具体的な、「統合失調症らしい」現象が生じるのである。

ある場合には、「主体的」または「内的原因」こそが、強い誘引力となって、そういった現象を呼び込むという意味で、より本質的な「原因」とみられる場合もあるかもしれない。そのような意味で、「主体的」または「内的原因」を重視する視点は、確かにあり得ると思う。

一般にも、このような「主体的」または「内的原因」こそが重視されている。実際には、先のような「外的原因」は、「見えない」ものであるために、全く無視され、考慮すらされていないので、それも当然といえる。そして、そのどの側面に着目するかで、さまざまな立場が生じている。一般の(生物学的)精神医学は、物質面(脳や遺伝子)に着目して、それが原因であるかのようにみなすし、精神分析などの心理学は、精神面に着目して、そこに「原因」を見出そうとする。

しかし、先にみたように、それらによっては、本当に、統合失調症らしい現象を、具体的レベルで、理解することはできないと言うべきである。要は、それの「異常」さを、「抽象的」、「観念的」に、「分かったような気になる」だけである。

先にみたような、「外的原因」がなければ、そのような「統合失調症らしい」現象は生じないという意味で、「外的原因」を抜きにして、統合失調症の原因は語れないというべきなのである。

また、そのような「外的原因」こそが、本人にとっても、とりあえず、対処すべき(必ずしも、「取り除く」という意味ではなく、現実として、「受け入れる」ことを含む)、最も身近な「とっかかり」であるという意味でも、そのような「外的原因」を抜かすことはできない。そのような「外的原因がない」ということは、その者は、「存在しない」ものと、空しく格闘を演じているということになり、何らの「とっかかり」すらなく、ただ、そのことを認めることだけが問題ということになる。しかし、ことが、そんな単純なことではないのは明らかであり、本人も、そんなことを認めるはずがない。それらを「ないもの」として扱うということは、周りが、本人から、そのような対処の「とっかかり」すらをも、奪うということを意味している。

但し、本人の側も、認めなければならないことがある。それは、その「外的原因」が、いわゆる「物理的」「客観的現実」についてのものではないということである。これを混同して、「物理的」「客観的現実」レベルで反応している限り、周りとの齟齬や混乱が拡大するのも、やむを得ないというべきである。そうしたうえで、その「見えない」「原因」に対して、何らかの対処をしていくしか、少なくとも、初めの「とっかかり」としてはないのである。

とはいえ、確かに、根本的には、そのような「外的原因」を誘発する「内的傾向」こそが問題として、それに何らかの処置が必要という見方もあり得るであろう。しかし、それは、そのような「外的原因」の影響をとりあえずは、廃し、または緩和できたうえでの話である。そのようなものを廃すために、直接また強引に、「主体の側」に働きかけるというのは、本来、筋が違っている。

それに、実際には、そのような「内的傾向」は、本来「問題」などとはいえず、また、単にその者の性質として、変えられるものでもないことが多いはずである。その点は、「外的原因」を認めず、主体の側だけを問題視するから起こるので、「外的原因」に対する自分なりの対処法を身につけることによって、大きな混乱に陥らなくなるのであれば、それで十分というべきことが多いはずである。
                                                    
さらに、この点は、このような「外的原因」を認めるにしても、それを「悪魔」などとして、「悪」の観念と結び付けたり、「低次元」の存在として、「高低」の観念と結び付けることによって、そのような存在を誘引した本人の「内的傾向」自体を、「悪」や「低次元」のものとして、矯正しなければならないもののようにみなす見方も生じる。

しかし、このような「外的原因」を「捕食者」として、「善悪」の観念や「高低」の観念から離れて、実質的に捉えられれば、こういった問題も、とりあえずは、避けることができるのである。そのような視点は、本人自身の対処の点からいっても、重要なことである。

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