このブログの意図と今後の方向性
「狂気」に関するこのブログの意図するところは、端的に言えば、次の2つである。
1、私自身の体験の消化のため。
2、狂気ないし統合失調症についての本質的な理解に資するため。
もっとも、これらは、互いに関連し合っている。また、あえて、関連させて来た。それで、主観的な関心やモチベーションを保ちつつ、客観的な視点にも気を配って、綴っていけたのだと思う。
1の私自身の「体験の消化」でいうと、体験当時には、記事でも、「何もかも分からなくなった」と言ったように、ほぼ「ゼロ」の状態から、始められた。とは言え、振り返っみると、既に、その当時、「漠然」と、また「直感的」に分かっていたことも、多かったように思う。特に、「水平的方向」に関わること、つまり、精霊や捕食者などの霊的存在や、霊的領域に関わることは、一連の体験を通して、いわば、十分身に染み込んでいた。ただ、それが、明確な「言語化」という形では、とても表現できるようなものには、なっていなかったのは確かである。
この点は、後に、シュタイナーやカスタネダの書などの助けもあり、より鮮明に、捉えられるようになっていった。
一方、「垂直的方向」に関するもの、たとえば、最終段階で現れた「闇」についてのことなどは、当時としては、「分かり」得る基盤すらなかった。それまでに、それに類するものについては、全く聞いたこともなかった。ただ、それについても、既に当時、それが「分かり得る」ような代物ではないということは、肌で「分かった」という、一種逆説的な「理解」はあったといえる。それは、人間的な「理解」を超えたもので、「分かり」得るものではなく、また、それを期待できるものでもないことは、肌で感じていたのである。それで、それについては、「分かろう」という「意志」さえ、特に生じなかったほどである。
当時は、ここで述べているような、「水平的方向」と「垂直的方向」という方向性の違いについても、全くと言っていいほど、意識はしていなかった。ただ、実際上、「水平的方向」に関するものは、今後、十分煮詰めていけば、「言語化」できるようなものとして、「消化」できることは、感じていたわけである。それで、当初は、そのような「水平的方向」の視点しか持たず(意識できず)、すべての事柄を、その方向に位置づけようとする傾向があった。
しかし、こうしてみると、「闇」などに対しては、漠然とながら、「水平的方向」とは別のものとしての予感は、既に持っていたものといえる。ただ、それらを、明確に分ける視点は、ないに等しかったのである。
「垂直的方向」については、はっきりと意識し始めたのは、割と最近になる。それには、前にも少し触れたが、無明庵のEOの著作との出会いが大きい。「垂直的方向」については、私は、記事では、B.ロバーツの『自己喪失』を、よく引き合いに出している。それは、ロバーツでは、「水平的方向」の行き着く先(「自己」の完成)から、「垂直的方向」への降下(「虚無」への溶解)が起こったという意味で、「水平的方向」と「垂直的方向」の対比が明確なものとして浮かび上がりやすいからである。
それに対して、EOの場合は、いわば、「水平的方向」を飛び抜けて、一気に突き抜けるように、「垂直的方向」への降下が起こっている。そこで、ロバーツに比べても、「垂直的方向」という視点そのものは、明確で、しかも徹底している。それは、「垂直的方向」というものが、どういうものなのかという意味では、これ以上ないくらい、明確で、交じり気のない視点を提供しているのである。ただ、それが徹底している分、この「方向」特有の「破壊性」も強烈で、多くの者には、ついていけないものになっている。また、「水平的方向」なるものは、その徹底した視点から、ほとんど、無意味なものとして、「幻想」視される。それは、確かに、「垂直的方向」を徹底すれば、そうなるのである。
しかし、現実の「狂気」というのは、いわば、「水平的方向」と「垂直的方向」に「引き裂かれ」ている状態である。だから、その把握には、両方向を対比的に、浮かび上がらせるのが好ましい。その意味で、私は、「狂気」に関しては、ロバーツの『自己喪失』の方を、よく引き合いに出すのである。
しかし、いずれにしても、私の体験の消化ということについては、このように、「水平的方向」と「垂直的方向」という別方向による「座標軸」が明確になったことが、非常に大きいのである。それにより、それまでは、その可能性すら見えなかった、「垂直的方向」に関することも、「消化」の俎上に上ったし、何より、「水平的方向」と「垂直的方向」という方向の違いが、明確になったことが、体験全体の把握にとって、大きかったのである。
そして、この「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」は、2の狂気または統合失調症の本質的理解にとっても、非常に重要なのである。それは、最近の記事「 「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-55f9.html)及び「座標軸」と「狂気をくぐり抜ける」ことの意味(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-39f4.html)でも明らかにしたように、その両方向に「引き裂かれる」からこその、混沌とした、狂気の本質を理解するうえでは、欠かせない視点である。
このようにして、このブログの意図は、1の私の体験の消化の点についても、2の狂気の本質的理解の点でも、一応達することができたと思っている。
そうしてみると、改めて、1の「体験の消化」ということは、必要なことであったと思う。「体験」というのは、ただ「体験」されっぱなし(自覚や吸収のされないままの状態)では、やはり、本当の「体験」にはなり難いと思う。
あるいは、「体験の消化」などというと、それへの拘りまたは囚われが深くなり、むしろ逆効果とも思われよう。しかし、実際には、「消化」されたものの方が、「忘れる」ことも容易になるのである。消化されずに、放置された「体験」の方が、表面上は、忘れられているようで、内心には、「拘り」を残すはずである。
2の「狂気の本質的な理解」については、本来、ほとんど読まれていないこのブログ(かつての『日記』に比べると、大幅に増えさせてもらっているが)で、なし得ることでないことは分かっている。しかし、たとえ、多くの人に読まれたところで、現在のところ、「理解」される余地など、ほとんどないことも、また分かっている。私としては、たとえ1人でも、本当に「理解」できる人、または、何かの役に立つほどに、「参照」することのできる人がいたならば、それで、十分なことだと思っている。
そういう訳で、一通り、このブログの意図は達したということにしたい。そこで、今後の方向性としては、「狂気」に限らない、より広い範囲での話題や探求が増えていくと思う。もちろん、「狂気」に関しても、より理解の容易になる、または、深まる視点というのは、今後も出て来ると思うので、そういうものも、引き続き、とりあげてはいく。
ただ、そのため、視点がばらけないためにも、改めて、「狂気」に関するこのブログの最大の意義が、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」にあることを、確認してみたのである。
ただ、このような「座標軸」という視点は、これまでの記事でも、今後も、必ずしも明示はされないので、そこで述べられた事柄については、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」を意識してもらい、どちらの方向について述べたものかを意識して読んでもらうと、理解が容易になると思う。
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