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2012年4月

2012年4月24日 (火)

3つの選出記事

これまでの記事で、私自身一番好きというか、気に入っているのは

「注文の多い料理店」の犬の怪http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d417.html )である。

この宮沢賢治の小説に出て来る犬は、主人公らが山で道に迷ったとき、一旦死んだことになっている。だが、最後にまた出て来て、「料理店」の「幻影性」を見破り、店に襲いかかることにって、店を消滅させ、主人公たちを助けている。このような「怪」について述べたもの。

一見、ブログの主題である「狂気」または「統合失調症」と関係ないようだが、実は、大いに関わっている。語り口なども、「狂気」そのものを語るときより、軽快で、このようなよく知られた小説を通して、「狂気」または「統合失調症」の本質に関わる、「霊界の境域」の様相や「捕食者」のあり様を浮き彫りにしている。もちろん、それは、宮沢賢治のこの小説の「凄さ」、「リアリティ」があればこそのものである。

「霊界の境域」の「様相」と言ったが、特に、この小説では、「注文の多い料理店」そのものがそうである「中間的現象」を明らかにしている。「物理的現実」そのもののみかけを有するが、実際は、「物理的現実」そのものでない、「霊的現象」との曖昧な「境界」的現象である。

この「犬が死ぬ」という「現象」も、そのような「中間的現象」と解されるのである。このような「中間的現象」では、物理的次元における、客観的な「現実」ないし「事実」とは異なる、「現象」が演出されることが多い。つまり、客観的には、犬は死んでいなかったのだが、この主人公2人にとっては、「犬が死ぬ」という「現象」が確かに目前に生起したのである。それは、もちろん、単なる「幻覚」などではない。物語の作者も「死んでしまいました」と断定口調で述べていることで、単なる「主観的現象」というものではなく、一つの「現実」そのものなのである。

あるいは、これは、一種の「パラレルワールド」に入り込んだものとも言える。

一個の素粒子が、どちらのスリットを通り抜けたかで、猫の生死が決まる、「シュレディンガーの猫」という思考実験がある。そこでは、「観測」以前には、猫は「生きてもい、死んでもいる」というパラドックスが起こってといるとされる。あるいは、観測によって、猫が生きている世界と、死んでいる世界という、「パラレルワールド」が生じるという解釈もある。

それになぞらえて言うと、この生死の曖昧な犬は、さしずめ、「賢治の犬」または「山猫軒の犬」ということになろうか。

実は、統合失調症で、一般に「幻覚」(幻聴)と言われるものも、このような「中間的現象」である可能性が大いにあるのである。

つまり、物理的次元における、客観的な「現実」ないし「事実」とは異なる、「現象」が、実際に「演出」されている、ということである。それは、「物理的現実」そのもののような「みかけ」を有するから、『注文の多い料理店』の主人公同様、容易には、見破れないのである。従って、「物理的現実」そのものと混同し、混乱する可能性も高いのである。何しろ、単なる「幻覚」という理解では、とても、狂気にみる、ただならぬ「混乱」を理解することなど無理というものである。

あるいは、その間、その者は、やはり、一種の「パラレルワールド」に入り込んでしまったとも言える。

小説を通してではあるが、よく、そういったものを浮き彫りにできたと思っている。

次に、特に、読んでほしいものを挙げると、

2  「捕食者」という理由http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html

3  「なまはげ」の「鬼http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-a9e6.html  )
である。

2  『「捕食者」という理由』は、「霊界の境域」または「統合失調症的状況」で、強い影響を与える「霊的存在」を、「捕食者」と呼ぶ理由について述べたもの。

このような存在を、「天使」とか「悪魔」など、「善悪」の観念で色づけした発想で呼ぶことは、無意味であるばかりか、混乱を深めるばかりである。むしろ、混乱を脱するには、そのような「善悪」の観念から離れて、その存在の実質に迫れかどうかこそが、大きなポイントとなる。そうしてこそ、ある意味でその存在を「受け入れ」られるし、対処の仕方もみえてくる。

「捕食者」というのは、生命全体または宇宙全体における、人間の位置を踏まえた捉え方で、おのずと、それは「人間」そのものの本質をも、浮き彫りにする。「狂気」の本質は、そういったレベルからでしか、明らかにはならない。

この記事では、そのように、「捕食者」という呼び方をしている理由を、簡潔、明解に述べているので、ぜひ読んでほしい。

3『「なまはげ」の「鬼」』は、私が好んでとりあげる項目である。日本文化は、「なまはげ」という形で、いかに「捕食者」の本質を理解し、それを保存しようとしているか、驚くべきものがある。かつて、日本人は、「捕食者」を、身近なものとして「意識」しつつ、ある種の知恵をもって関わって来た証拠である。

「なまはげ」の姿、形や、あり様そのものの、「リアル」な表現もさることながら、むしろ、それを「大人」が「子供」の「教育」または「しつけ」に、いかに利用して来たかがはっきり示されていることが、凄いのである。

ラカンの「狂気論」との対比(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-33bc.html)でも、「父」=「神」を「権威」とする西洋文化に対して、「なまはげ」=「捕食者」を「権威」とする、日本文化のあり方につい述べた。そして、それが、「統合失調症」の発症にも関わっていることを述べた。

こんな貴重なものを、ただの伝統儀式に押し込めておくのはもったいないので、「なまはげ」が、いかに「捕食者」の本質を捉えているか、おりに触れて述べて来た。この記事は、それをまとめたようなものである。ぜひ「なまはげ」に、改めて「触れ」直してもらいたい。

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2012年4月12日 (木)

このブログの意図と今後の方向性

「狂気」に関するこのブログの意図するところは、端的に言えば、次の2つである。

1、私自身の体験の消化のため。
2、狂気ないし統合失調症についての本質的な理解に資するため。

もっとも、これらは、互いに関連し合っている。また、あえて、関連させて来た。それで、主観的な関心やモチベーションを保ちつつ、客観的な視点にも気を配って、綴っていけたのだと思う。

1の私自身の「体験の消化」でいうと、体験当時には、記事でも、「何もかも分からなくなった」と言ったように、ほぼ「ゼロ」の状態から、始められた。とは言え、振り返っみると、既に、その当時、「漠然」と、また「直感的」に分かっていたことも、多かったように思う。特に、「水平的方向」に関わること、つまり、精霊や捕食者などの霊的存在や、霊的領域に関わることは、一連の体験を通して、いわば、十分身に染み込んでいた。ただ、それが、明確な「言語化」という形では、とても表現できるようなものには、なっていなかったのは確かである。

この点は、後に、シュタイナーやカスタネダの書などの助けもあり、より鮮明に、捉えられるようになっていった。

一方、「垂直的方向」に関するもの、たとえば、最終段階で現れた「闇」についてのことなどは、当時としては、「分かり」得る基盤すらなかった。それまでに、それに類するものについては、全く聞いたこともなかった。ただ、それについても、既に当時、それが「分かり得る」ような代物ではないということは、肌で「分かった」という、一種逆説的な「理解」はあったといえる。それは、人間的な「理解」を超えたもので、「分かり」得るものではなく、また、それを期待できるものでもないことは、肌で感じていたのである。それで、それについては、「分かろう」という「意志」さえ、特に生じなかったほどである。

当時は、ここで述べているような、「水平的方向」と「垂直的方向」という方向性の違いについても、全くと言っていいほど、意識はしていなかった。ただ、実際上、「水平的方向」に関するものは、今後、十分煮詰めていけば、「言語化」できるようなものとして、「消化」できることは、感じていたわけである。それで、当初は、そのような「水平的方向」の視点しか持たず(意識できず)、すべての事柄を、その方向に位置づけようとする傾向があった。

しかし、こうしてみると、「闇」などに対しては、漠然とながら、「水平的方向」とは別のものとしての予感は、既に持っていたものといえる。ただ、それらを、明確に分ける視点は、ないに等しかったのである。

「垂直的方向」については、はっきりと意識し始めたのは、割と最近になる。それには、前にも少し触れたが、無明庵のEOの著作との出会いが大きい。「垂直的方向」については、私は、記事では、B.ロバーツの『自己喪失』を、よく引き合いに出している。それは、ロバーツでは、「水平的方向」の行き着く先(「自己」の完成)から、「垂直的方向」への降下(「虚無」への溶解)が起こったという意味で、「水平的方向」と「垂直的方向」の対比が明確なものとして浮かび上がりやすいからである。

それに対して、EOの場合は、いわば、「水平的方向」を飛び抜けて、一気に突き抜けるように、「垂直的方向」への降下が起こっている。そこで、ロバーツに比べても、「垂直的方向」という視点そのものは、明確で、しかも徹底している。それは、「垂直的方向」というものが、どういうものなのかという意味では、これ以上ないくらい、明確で、交じり気のない視点を提供しているのである。ただ、それが徹底している分、この「方向」特有の「破壊性」も強烈で、多くの者には、ついていけないものになっている。また、「水平的方向」なるものは、その徹底した視点から、ほとんど、無意味なものとして、「幻想」視される。それは、確かに、「垂直的方向」を徹底すれば、そうなるのである。

しかし、現実の「狂気」というのは、いわば、「水平的方向」と「垂直的方向」に「引き裂かれ」ている状態である。だから、その把握には、両方向を対比的に、浮かび上がらせるのが好ましい。その意味で、私は、「狂気」に関しては、ロバーツの『自己喪失』の方を、よく引き合いに出すのである。

しかし、いずれにしても、私の体験の消化ということについては、このように、「水平的方向」と「垂直的方向」という別方向による「座標軸」が明確になったことが、非常に大きいのである。それにより、それまでは、その可能性すら見えなかった、「垂直的方向」に関することも、「消化」の俎上に上ったし、何より、「水平的方向」と「垂直的方向」という方向の違いが、明確になったことが、体験全体の把握にとって、大きかったのである。

そして、この「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」は、2の狂気または統合失調症の本質的理解にとっても、非常に重要なのである。それは、最近の記事「 「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-55f9.html)及び「座標軸」と「狂気をくぐり抜ける」ことの意味(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-39f4.html)でも明らかにしたように、その両方向に「引き裂かれる」からこその、混沌とした、狂気の本質を理解するうえでは、欠かせない視点である。

このようにして、このブログの意図は、1の私の体験の消化の点についても、2の狂気の本質的理解の点でも、一応達することができたと思っている。

そうしてみると、改めて、1の「体験の消化」ということは、必要なことであったと思う。「体験」というのは、ただ「体験」されっぱなし(自覚や吸収のされないままの状態)では、やはり、本当の「体験」にはなり難いと思う。

あるいは、「体験の消化」などというと、それへの拘りまたは囚われが深くなり、むしろ逆効果とも思われよう。しかし、実際には、「消化」されたものの方が、「忘れる」ことも容易になるのである。消化されずに、放置された「体験」の方が、表面上は、忘れられているようで、内心には、「拘り」を残すはずである。

2の「狂気の本質的な理解」については、本来、ほとんど読まれていないこのブログ(かつての『日記』に比べると、大幅に増えさせてもらっているが)で、なし得ることでないことは分かっている。しかし、たとえ、多くの人に読まれたところで、現在のところ、「理解」される余地など、ほとんどないことも、また分かっている。私としては、たとえ1人でも、本当に「理解」できる人、または、何かの役に立つほどに、「参照」することのできる人がいたならば、それで、十分なことだと思っている。

そういう訳で、一通り、このブログの意図は達したということにしたい。そこで、今後の方向性としては、「狂気」に限らない、より広い範囲での話題や探求が増えていくと思う。もちろん、「狂気」に関しても、より理解の容易になる、または、深まる視点というのは、今後も出て来ると思うので、そういうものも、引き続き、とりあげてはいく。

ただ、そのため、視点がばらけないためにも、改めて、「狂気」に関するこのブログの最大の意義が、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」にあることを、確認してみたのである。

ただ、このような「座標軸」という視点は、これまでの記事でも、今後も、必ずしも明示はされないので、そこで述べられた事柄については、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」を意識してもらい、どちらの方向について述べたものかを意識して読んでもらうと、理解が容易になると思う。

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