3つの選出記事
これまでの記事で、私自身一番好きというか、気に入っているのは
1 「注文の多い料理店」の犬の怪 ( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d417.html )である。
この宮沢賢治の小説に出て来る犬は、主人公らが山で道に迷ったとき、一旦死んだことになっている。だが、最後にまた出て来て、「料理店」の「幻影性」を見破り、店に襲いかかることにって、店を消滅させ、主人公たちを助けている。このような「怪」について述べたもの。
一見、ブログの主題である「狂気」または「統合失調症」と関係ないようだが、実は、大いに関わっている。語り口なども、「狂気」そのものを語るときより、軽快で、このようなよく知られた小説を通して、「狂気」または「統合失調症」の本質に関わる、「霊界の境域」の様相や「捕食者」のあり様を浮き彫りにしている。もちろん、それは、宮沢賢治のこの小説の「凄さ」、「リアリティ」があればこそのものである。
「霊界の境域」の「様相」と言ったが、特に、この小説では、「注文の多い料理店」そのものがそうである「中間的現象」を明らかにしている。「物理的現実」そのもののみかけを有するが、実際は、「物理的現実」そのものでない、「霊的現象」との曖昧な「境界」的現象である。
この「犬が死ぬ」という「現象」も、そのような「中間的現象」と解されるのである。このような「中間的現象」では、物理的次元における、客観的な「現実」ないし「事実」とは異なる、「現象」が演出されることが多い。つまり、客観的には、犬は死んでいなかったのだが、この主人公2人にとっては、「犬が死ぬ」という「現象」が確かに目前に生起したのである。それは、もちろん、単なる「幻覚」などではない。物語の作者も「死んでしまいました」と断定口調で述べていることで、単なる「主観的現象」というものではなく、一つの「現実」そのものなのである。
あるいは、これは、一種の「パラレルワールド」に入り込んだものとも言える。
一個の素粒子が、どちらのスリットを通り抜けたかで、猫の生死が決まる、「シュレディンガーの猫」という思考実験がある。そこでは、「観測」以前には、猫は「生きてもい、死んでもいる」というパラドックスが起こってといるとされる。あるいは、観測によって、猫が生きている世界と、死んでいる世界という、「パラレルワールド」が生じるという解釈もある。
それになぞらえて言うと、この生死の曖昧な犬は、さしずめ、「賢治の犬」または「山猫軒の犬」ということになろうか。
実は、統合失調症で、一般に「幻覚」(幻聴)と言われるものも、このような「中間的現象」である可能性が大いにあるのである。
つまり、物理的次元における、客観的な「現実」ないし「事実」とは異なる、「現象」が、実際に「演出」されている、ということである。それは、「物理的現実」そのもののような「みかけ」を有するから、『注文の多い料理店』の主人公同様、容易には、見破れないのである。従って、「物理的現実」そのものと混同し、混乱する可能性も高いのである。何しろ、単なる「幻覚」という理解では、とても、狂気にみる、ただならぬ「混乱」を理解することなど無理というものである。
あるいは、その間、その者は、やはり、一種の「パラレルワールド」に入り込んでしまったとも言える。
小説を通してではあるが、よく、そういったものを浮き彫りにできたと思っている。
次に、特に、読んでほしいものを挙げると、
2 「捕食者」という理由(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html )
3 「なまはげ」の「鬼」( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-a9e6.html )
である。
2 『「捕食者」という理由』は、「霊界の境域」または「統合失調症的状況」で、強い影響を与える「霊的存在」を、「捕食者」と呼ぶ理由について述べたもの。
このような存在を、「天使」とか「悪魔」など、「善悪」の観念で色づけした発想で呼ぶことは、無意味であるばかりか、混乱を深めるばかりである。むしろ、混乱を脱するには、そのような「善悪」の観念から離れて、その存在の実質に迫れかどうかこそが、大きなポイントとなる。そうしてこそ、ある意味でその存在を「受け入れ」られるし、対処の仕方もみえてくる。
「捕食者」というのは、生命全体または宇宙全体における、人間の位置を踏まえた捉え方で、おのずと、それは「人間」そのものの本質をも、浮き彫りにする。「狂気」の本質は、そういったレベルからでしか、明らかにはならない。
この記事では、そのように、「捕食者」という呼び方をしている理由を、簡潔、明解に述べているので、ぜひ読んでほしい。
3『「なまはげ」の「鬼」』は、私が好んでとりあげる項目である。日本文化は、「なまはげ」という形で、いかに「捕食者」の本質を理解し、それを保存しようとしているか、驚くべきものがある。かつて、日本人は、「捕食者」を、身近なものとして「意識」しつつ、ある種の知恵をもって関わって来た証拠である。
「なまはげ」の姿、形や、あり様そのものの、「リアル」な表現もさることながら、むしろ、それを「大人」が「子供」の「教育」または「しつけ」に、いかに利用して来たかがはっきり示されていることが、凄いのである。
ラカンの「狂気論」との対比(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-33bc.html)でも、「父」=「神」を「権威」とする西洋文化に対して、「なまはげ」=「捕食者」を「権威」とする、日本文化のあり方につい述べた。そして、それが、「統合失調症」の発症にも関わっていることを述べた。
こんな貴重なものを、ただの伝統儀式に押し込めておくのはもったいないので、「なまはげ」が、いかに「捕食者」の本質を捉えているか、おりに触れて述べて来た。この記事は、それをまとめたようなものである。ぜひ「なまはげ」に、改めて「触れ」直してもらいたい。
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