アイクの「陰謀論」など
デーヴィド・アイクの分冊になっている著書『ムーンマトリックス』(覚醒篇)の1巻と5巻を読んでみた。
1巻は自伝的な内容で、自分が「根源意識」へと「覚醒」する過程を述べたもので、なかなか面白かった。
アイクの「陰謀論」は、霊的または異次元的な領域をみすえたものであるのみならず、意識の「覚醒」をみすえて、それを阻むシステムとして、「陰謀」を捉えていることが分かる。だから、この世的な視点のみから、「被害妄想」的に捉えられた、よくある「陰謀論」とは、一線を画するものといえる。
その「陰謀論」の根幹をなす、「レプティリアン」(爬虫類人)説にも、それを「爬虫類人」と呼ぶかどうかは別にして、他の存在が、霊的または異次元的な領域から、人類を管理、支配すべく操作して来たということ、人間の感情、特に恐怖の感情を食糧とすることなど、私がこのブログで述べて来た「捕食者」とも、通じる面がある。
しかし、具体的レベルでの説明は、やはり根拠薄で、説得力に欠ける一面的なものが多い。爬虫類人と人類との「ハイブリッド人種」による政治的支配など、まともには受け取り難く、それらの者が、爬虫類人に「変身」するなど、ことさら「恐怖」を煽るような性質のものもある。やはり、この当たりは、巷の「陰謀論」に毛の生えたようなものと言わざるを得ないものがある。
こういった「陰謀論」には、共通して、ある特有の思考の「型」があり、アイクもやはりそれに捕らえられていると感じざるを得ない。そのような思考の「型」は、これまでみてきたとおり、統合失調症における「妄想」にもあるものだが、実際、それと同類のものである。要するに、それは、私に言わせると、「捕食者」そのものから来るものである。
それは、その思考に捕らえられている限り、一定の「もっともらしさ」を伴うもので、実際に、それが、「確からしい」と思わせるだけのものを、創出し得るのである。たとえば、偶然では起こり得ないような、数字や象徴の一致など、ユングのいう「共時性」を伴うなどである。そこには、確かに、ある現実的な「力」が働いているということである。そして、それは、結果として、「恐怖」を煽るようなものを前面に押し出し、さらにそれを拡大させることになる。
その意味では、統合失調症的状況における「迫害妄想」と、とても近いのである。
だから、こういった「陰謀論的発想」も、決して、ばかげたものと、侮ることはできない。統合失調症の「幻覚」や「妄想」と同様、それに対処する一定の態度というものが必要となる。その「もっともらしさ」、「恐ろしさ」を認めたうえで、「ユーモア」といわずとも、一定の距離をもって接する態度である。たとえば、違う視点から、みられるかどうかを常に意識するなどである。
しかし、逆に、こういったものを、初めから、「あり得ない」ものとして、笑い飛ばしてしまうのは、逆の意味で、囚われているだけだし、いかにも芸がない。(実際に、全くの「ウソ」のみでは、こういったものを生み出すこともできない。)
私は、こういったものは、せっかく、統合失調症的状況における「妄想」と類似のものを、「捕食者」が提供してくれているのだから、是非「免疫」を作るのに、利用してほしいと思う。実際に、統合失調症的状況に陥る機会というのは、普通はなかなかないだろうから、疑似的にでも、類似の体験をして、そのような「捕食者」的な「恐怖」にも抵抗力をつけてほしいのである。そうすれば、万が一、実際にそのような状況に陥ったとしても、必要以上には、混乱しないですむはずである。(全く混乱しないというのは、無理な話である。)
それには、頭から否定してしまうのではなく、こういったことも、「あり得る」かもしれない。あるいは、もし現実にあったとしても、それほど驚かない、というぐらいの受容的態度も必要である。そして、やはり、ある程度は、「陰謀論的発想」に潜む、思考がたもらす「リアリティ」(現実的な「力」)というもの、あるいは、その「恐怖」というものを、実際に味わってもらわなくてはならない。そのうえで、それに巻き込まれないような、抵抗力をつければいいのである。最終的に、「笑い飛ばす」としても、それは何ら構わない。
このようなことは、「陰謀論」のみならず、最近の「ホラー映画」あるいは「エイリアン」のようなSF映画についても言える。一部の陰謀論者によると、こういった映画も、「宇宙人」という存在を、人類に対して敵対的なものと思わせるため、あるいは、恐怖や絶望感を煽るための「陰謀」として作られたものとされる。
しかし、昔ながらの「怪談」と同じで、このような映画にも、一定の真実は、やはり含まれている。だからこそ、多くの人が見に行くのである。表面意識上は、ただのフィクションと分かったうえでの 「娯楽」に過ぎないとしても、集合意識的には、どこかで「真実」の部分を感じ取っている。それで、こういうものも、「捕食者」的な「恐怖」に対する、「免疫」となる面が多分にあると思う。記事でも述べたが、「ホラー映画」の作りなどは、統合失調症的状況における「恐怖」の「演出」と、かなり似たところがあるのである。
ところで、私自身のこのブログについても、あるいは、「ホラー」まがいに、恐怖を煽るかのように感じる人もいるかもしれない。実際、私自身、ある程度は、「恐怖」を喚起することを意識して述べている。
それは、一つには、意識に訴えかけ、注意を喚起するには、一定の「恐怖」というものは必要だからである。「恐怖」というものは、ある意味で、「目覚め」への刺激剤となるのである。(アイクにも、その意識はあると思うが)
しかし、もう一つには、やはり、多くの人は、実際には、統合失調症的体験をするまでは、それと類似の体験をする機会などはないのが普通である。それで、たとえ疑似的、一時的にでも、類似の体験を味わってもらいたいというのがある。そうして、実際に、そのような状況に陥ったときのための、「準備」ないし「免疫」として利用してほしいということである。
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