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2012年3月

2012年3月28日 (水)

「捕食者」にとっての「陰謀論」

「陰謀論」のようなものが蔓延ることは、「捕食者」にとってはどうなのか、について少し述べる。

まず、巷にあふれる、「この世」的な「陰謀論」、つまり、政府や秘密政府、イルミナティなどの秘密結社が世界を政治的、経済的に支配しているという「陰謀論」について。

これは,「捕食者」にとっては、痛くも痒くもない。それどころか、「捕食者」にとっても、大いに好都合である。実際、前々回みたとおり、このような「陰謀論的発想」には、「捕食者」自身の力づけがあると思われる。

彼らにとっては、人間自身が、支配層の政府などに対して、疑心暗鬼になり、被害妄想的になってくれた方が、その感情の「吸い上げ」の点からも、管理、支配の点からも、好都合なのである。これら「陰謀論」を信じる者、あるいは、影響を受けた者は、政府等に、実際以上のパワーを想定して、恐れたり、そのような体制をどうすることもできないと、絶望的な気分になってくれる。あるいは、世の中に、種々の喧噪を巻き起こしてくれる。

しかし、「捕食者」は、このような「陰謀論」をまともに受け取る者が、少数派に過ぎないこともよく分かっている。そして、どのように説得的に説かれた「陰謀論」も、それを「証明」することなどは無理であることが、よく分かっている。つまり、それらは、一定程度の「もっともらしさ」を有するにも関わらず、実際には、真実は「薮の中」で、完全に露呈することはあり得ないものである。

そのように、「あやふや」であり、想像力により、いくらでも増幅するものであるからこそ、利用価値が高いのである。まさに、統合失調症の「幻覚」や「妄想」と同じである。

このようなものは、ごく一般的には、せいぜい、潜在的な「疑い」や「恐怖」を引き起こす程度の力しかないだろう。しかし、それはそれで、十分なのである。むしろ、あまり、多くの人が、そのようなことに関心を持ち過ぎるのは、逆効果である。ただ、一定程度の、強い影響を受ける人がいること、と同時に、いつでも、そんなものは、ただの「頭のおかしい者の戯言だ」として、切り捨てることができることが重要なのである。

このようなことは、「陰謀論」で陰謀の主体とされた、人間の支配層の者にとっても、ほぼ当てはまるだろう。つまり、彼らとしても、別に痛手などではなく、ただ無視を決め込んでいればいいのである。ただし、その中のある者が、何かの理由で、陰謀論者に対して、具体的な処置に出るということは、あり得ることだろうが。

次に、アイクのような、彼ら「捕食者」の存在そのものをついた「陰謀論」について。

これらは、先の「陰謀論」と違って、「捕食者」について何事かの真実を含んでいる。しかし、これについても、結局、「捕食者」にとっては、先の「陰謀論」とほとんど変わりない。つまり、歓迎こそすれ、決して痛手などではないはずである。

記事(「無意識的影響」と「意識的影響」  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-a64c.html )で述べたように、多くの者に対する、一般的な管理、支配という点からは、彼らは、その存在を隠し、「ないもの」とされていた方が、好都合なのは確かである。しかし、記事でも述べたように、個々、具体的なレベルで、強い支配を及ぼそうとすれば、それでは不十分ともなる。彼らの存在について、何ほどか「意識」させることが必要となるのである。「意識」することでこそ、「本物」となる、恐怖というものがある。

「統合失調症的状況」でも、それは同じである。私の場合、彼らの休まることのない、執拗な攻撃は、「いい加減オレらの存在に気づけ、このボケ!」と言われているようなところがあった。それは、恐らく、統合失調症者の多くの場合にも、言えるはずである。「無意識」と「意識」のギャップを超えて、あえて意識させることでこそ、「統合失調症的」な恐怖と反応を引き起こせるのである。

また、彼らの、「支配」というのも、それを押し進めると、無意識的な「服従」ではなく、彼らの存在を認めたうえでの、意識的な「服従」こそが、完全な「屈服」であり、「支配」ということになるはずである。

だから、彼らとて、全く「隠れ」ていることだけで、目的を達するわけではないのである。

さらに言うと、彼らの感情というか、主観的な理由からも、人間が彼らの存在に全く気づかないことは、彼らにとって、必ずしも愉快なことではないようである。彼らも、どこかで、自分らの存在を、アピールしたがるところがあるのである。

そういうことからして、彼らの「存在」についての真実をつく、アイクのような「陰謀論も、決して、彼らにとって、不都合ではないのである。

そもそも、このようなものは、先の「この世」的な陰謀論以上に、少数の者にしか、まともには受け取られない。つまり、いつでも、「頭のおかしい者の戯言」として切り捨てることができる。

ところが、一定の人には、より強い影響を及ぼす。「この世」的な陰謀論以上の「恐怖」や「絶望感」、さらには、「この世」的な陰謀論にはない、ホラーまがいの「オカルト」的な「恐怖」をもたらすことができる。アイクの陰謀論でも、非常に単純化された形で、彼らの存在の仕方や、支配のやり口が、おどろおどろしい面を、ことさら強調されて、表現されている。そこには、やはり、「捕食者」の「色」で染められた面が大きくある、と言うべきである。

アイク自身は、これらを、人々が、それらの「支配」を脱して、「覚醒」へと至る契機として捉え、訴えかけているようである。しかし、多くの者は、そのようには受け取らない。そのような面より、明らかに、それらの存在の異様なあり様や、その影響を受けた人間による「支配」という、現実的な面を衝撃として受け取る。そして、実際以上に、そのような存在の力と、おどろおどろしい面を意識し、その「支配」が行き渡っているものと受け取る。

結局、「捕食者」にとって、不都合どころか、望ましいものとなっているということである。

しかし、また、これらの「陰謀論」が、良くも悪くも、本当に「力」を持つのは、そこに5割以上の「真実」が含まれるからこそだ(※)、ということがいえる。アイクの「陰謀論」が、そのような意味で、本当に「力」のある「陰謀論」かどうかは微妙だが、それに近いものではあると思う。だから、「捕食者的なもの」を身に受け止めてみるには、格好の材料といえるのである。

※ 「統合失調症」の場合の「幻覚」(幻聴)の場合も、同じことがいえる。つまり、全くの「虚偽」では、その者を「統合失調症」に陥らせるだけの力を持ち得えない。但し、その場合の「真実」とは、その者にとっての「主観的」な真実で、その者の「内心」にあるものを見事に捕らえているということである。

2012年3月20日 (火)

「万が一」ではなく

前回、「陰謀論」などを通して、「捕食者」的な恐怖に「免疫」をつけることによって、<万が一>、実際にそのような状況に陥ったとしても、必要以上には、混乱しないですむようにしてほしい、ということを述べた。

万が一」と言ったが、実際には…、

現在、「統合失調症」に陥る人の割合は、全体の1%弱とされている。予想される割合より、かなり多いはずである。しかし、これは、実際に医療に関わり、「統合失調症」と診断される者の割合と解される。実際には、「統合失調症的状況」に陥っても、医療と関わることなく過ごす者、「統合失調症」と診断されることのなかった者もいるから、「統合失調症的状況」に陥る体験をする者の割合としては、さらに増え、1%を超えると思われる。

だから、このことだけでも、「万が一」などではなく、「万が百」である。

しかし、これまでにもみて来たように、今後は、我々が「現実」として規定して来た「世界」は、大きく揺らぎ、その境界は、曖昧になる。私が、「霊界の境域」の図(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-642c.html)で示したような、「物質的(感覚的)領域」とか「霊的領域」という枠組みも、大きく揺らぎ、「霊界の境域」は、そこかしこに、侵入するものとなるはずである。あるいは、あらゆる領域が、「霊界の境域」そのものと化すともいえる。

「日月神示」などがいう「半霊半物質」の世界とは、そのような状況の行き着く先に、至るかもしれない状態を意味しているのだろう。が、そこに至るには、霊的なものと物質的なものの境界が曖昧になり、両者が混交するような、「混沌」たる状況を通り越して行かねばならないはずである。つまり、全体として、「霊界の境域」を通り越して行かねばならない、ということである。

だから、今後は、人が「統合失調症的状況」に陥る可能性は、飛躍的に増えるはずである。必ずしも、「統合失調症」になるということではないし、それらは一般化すれば、むしろ全体としては、「重い」状態に至らないだろう。が、人が「統合失調症的状況」に陥る体験をし、混乱を来すということ自体は、間違いなく、飛躍的に増えると思われるのである。まあ、軽く見積もっても、現在の10倍ほどにはなるだろう。

だから、それを踏まえると、「万が一」どころか、「万が千」になる。

そして、そのように、実際に、そういう状況に陥った場合の、混乱の度合いも、ある程度の「準備」や「免疫」があるかどうかによって、大幅に違うはずなのである。

2012年3月14日 (水)

アイクの「陰謀論」など

デーヴィド・アイクの分冊になっている著書『ムーンマトリックス』(覚醒篇)の1巻と5巻を読んでみた。

1巻は自伝的な内容で、自分が「根源意識」へと「覚醒」する過程を述べたもので、なかなか面白かった。

アイクの「陰謀論」は、霊的または異次元的な領域をみすえたものであるのみならず、意識の「覚醒」をみすえて、それを阻むシステムとして、「陰謀」を捉えていることが分かる。だから、この世的な視点のみから、「被害妄想」的に捉えられた、よくある「陰謀論」とは、一線を画するものといえる。

その「陰謀論」の根幹をなす、「レプティリアン」(爬虫類人)説にも、それを「爬虫類人」と呼ぶかどうかは別にして、他の存在が、霊的または異次元的な領域から、人類を管理、支配すべく操作して来たということ、人間の感情、特に恐怖の感情を食糧とすることなど、私がこのブログで述べて来た「捕食者」とも、通じる面がある。

しかし、具体的レベルでの説明は、やはり根拠薄で、説得力に欠ける一面的なものが多い。爬虫類人と人類との「ハイブリッド人種」による政治的支配など、まともには受け取り難く、それらの者が、爬虫類人に「変身」するなど、ことさら「恐怖」を煽るような性質のものもある。やはり、この当たりは、巷の「陰謀論」に毛の生えたようなものと言わざるを得ないものがある。

こういった「陰謀論」には、共通して、ある特有の思考の「型」があり、アイクもやはりそれに捕らえられていると感じざるを得ない。そのような思考の「型」は、これまでみてきたとおり、統合失調症における「妄想」にもあるものだが、実際、それと同類のものである。要するに、それは、私に言わせると、「捕食者」そのものから来るものである。

それは、その思考に捕らえられている限り、一定の「もっともらしさ」を伴うもので、実際に、それが、「確からしい」と思わせるだけのものを、創出し得るのである。たとえば、偶然では起こり得ないような、数字や象徴の一致など、ユングのいう「共時性」を伴うなどである。そこには、確かに、ある現実的な「力」が働いているということである。そして、それは、結果として、「恐怖」を煽るようなものを前面に押し出し、さらにそれを拡大させることになる。

その意味では、統合失調症的状況における「迫害妄想」と、とても近いのである。

だから、こういった「陰謀論的発想」も、決して、ばかげたものと、侮ることはできない。統合失調症の「幻覚」や「妄想」と同様、それに対処する一定の態度というものが必要となる。その「もっともらしさ」、「恐ろしさ」を認めたうえで、「ユーモア」といわずとも、一定の距離をもって接する態度である。たとえば、違う視点から、みられるかどうかを常に意識するなどである。

しかし、逆に、こういったものを、初めから、「あり得ない」ものとして、笑い飛ばしてしまうのは、逆の意味で、囚われているだけだし、いかにも芸がない。(実際に、全くの「ウソ」のみでは、こういったものを生み出すこともできない。)

私は、こういったものは、せっかく、統合失調症的状況における「妄想」と類似のものを、「捕食者」が提供してくれているのだから、是非「免疫」を作るのに、利用してほしいと思う。実際に、統合失調症的状況に陥る機会というのは、普通はなかなかないだろうから、疑似的にでも、類似の体験をして、そのような「捕食者」的な「恐怖」にも抵抗力をつけてほしいのである。そうすれば、万が一、実際にそのような状況に陥ったとしても、必要以上には、混乱しないですむはずである。(全く混乱しないというのは、無理な話である。)

それには、頭から否定してしまうのではなく、こういったことも、「あり得る」かもしれない。あるいは、もし現実にあったとしても、それほど驚かない、というぐらいの受容的態度も必要である。そして、やはり、ある程度は、「陰謀論的発想」に潜む、思考がたもらす「リアリティ」(現実的な「力」)というもの、あるいは、その「恐怖」というものを、実際に味わってもらわなくてはならない。そのうえで、それに巻き込まれないような、抵抗力をつければいいのである。最終的に、「笑い飛ばす」としても、それは何ら構わない。

このようなことは、「陰謀論」のみならず、最近の「ホラー映画」あるいは「エイリアン」のようなSF映画についても言える。一部の陰謀論者によると、こういった映画も、「宇宙人」という存在を、人類に対して敵対的なものと思わせるため、あるいは、恐怖や絶望感を煽るための「陰謀」として作られたものとされる。

しかし、昔ながらの「怪談」と同じで、このような映画にも、一定の真実は、やはり含まれている。だからこそ、多くの人が見に行くのである。表面意識上は、ただのフィクションと分かったうえでの 「娯楽」に過ぎないとしても、集合意識的には、どこかで「真実」の部分を感じ取っている。それで、こういうものも、「捕食者」的な「恐怖」に対する、「免疫」となる面が多分にあると思う。記事でも述べたが、「ホラー映画」の作りなどは、統合失調症的状況における「恐怖」の「演出」と、かなり似たところがあるのである。

ところで、私自身のこのブログについても、あるいは、「ホラー」まがいに、恐怖を煽るかのように感じる人もいるかもしれない。実際、私自身、ある程度は、「恐怖」を喚起することを意識して述べている。

それは、一つには、意識に訴えかけ、注意を喚起するには、一定の「恐怖」というものは必要だからである。「恐怖」というものは、ある意味で、「目覚め」への刺激剤となるのである。(アイクにも、その意識はあると思うが)

しかし、もう一つには、やはり、多くの人は、実際には、統合失調症的体験をするまでは、それと類似の体験をする機会などはないのが普通である。それで、たとえ疑似的、一時的にでも、類似の体験を味わってもらいたいというのがある。そうして、実際に、そのような状況に陥ったときのための、「準備」ないし「免疫」として利用してほしいということである。

2012年3月 4日 (日)

捕食者の弱点と「ユーモア」

前回、「幻覚」(幻聴)や「妄想」に対しては、「ユーモアでくるむ」ことが有力な対処法だと述べた。

それは、要するに、「幻覚」(幻聴)や「妄想」は、それを「まとも」に受け取り、それについてさらに「想像力」や「思考」を膨らませることから、止めなく発展していく性質のものだからである。

どんなに強烈で、「リアル」なものであっても、「幻覚」(幻聴)や「妄想」を、「まとも」に受け取らないことが、対処法の始めの一歩なのである。つまり、それらに即座に反応せず、「突き放す」ような、距離のとれる視点をもつことが重要なのである。そして、それには、「ユーモア」をもって、それらを、「くるみ込む」というのは、非常に有効なやり方である。

しかし、ただそれだけのことではない。一見何のことはないような、このやり方は、もっと本質的な意味で、統合失調症的状況における、強力な対処法といえるのである。

それは、統合失調症的状況に関わる、「捕食者」の「弱点」をつくものがあるからである。

一般に、「精霊」は、ユーモアに長けているものが多い。茶化したり、からかったり、シュールな演出をしたりと、様々な仕方で、人間にユーモアをもって関わるものが多い。ただし、それは、「しゃれ」にならないくらい、強烈に「シニカル」なことも多く、人間の「ユーモア」のセンスとは、また異質のものである。

しかし、「捕食者」について言うと、彼らは、そのような「ユーモア」のかけらもみせたことがない。こちらの「ユーモア」に対しても、何らの反応をみせたこともなく、笑ったことや、「精霊」がときにするような、「嘲笑」すらみせたことがない。「ユーモア」に対しては、どう対処していいか分からなくなるようで、いわば「きょとん」とするのである。要するに、「捕食者」は「笑い」とは無縁の存在のようである。

言い換えれば、彼らは、ある意味「きまじめ」なのであり、「堅物」なのである。そして、そのように「きまじめ」だからこそ、状況の一切を、管理し、支配しないと気が済まないのではないかと思われる。そのような性質が、「捕食者」の、強力で、戦略的な、「管理」と「支配」の志向に通じているようなのである。しかし、それは、逆に言えば、彼ら自身が、「恐怖」や「不安」に支配されているということであり、「ユーモア」をもって、物事に関わることができないということである。

「捕食者」のこのような性質は、強力な攻撃性の元ではあるが、やはり、「弱点」なのだと言わざるを得ない。

だから、「捕食者」や、「捕食者」が操る「エレメンタル」などの攻撃的な「声」に対しても、それに「乗る」のではなく、「ユーモア」をもって対処することは、彼らの弱点を、強力につくことになる。それは、彼らの、攻撃の意表をつくことにもなり、更なる攻撃を牽制することにもなる。たとえ、一瞬であっても、彼らが、狼狽することは請け合いである。

しかし、実際の状況では、それができにくいのも事実である。それは、そもそも、彼らの攻撃が、我々の弱点(コンプレックスやトラウマなど)をついた、強力なもので、戦略的に優れたものであることにもよる。

しかし、もう一つは、我々自身が、統合失調症的状況では、「捕食者」の影響を受けて、先のような捕食者の性質と、ある意味近づいていることにもよる。つまり、この状況では、我々自身が、恐怖と不安に強く支配され、細部に拘り、とてもユーモアの感覚などをもてなくなるのである。

一般に、分裂気質の者というのは、特に周りの者からは、「きまじめ」などとはみなされない者であることが多い。実際、普段は、怠惰で無頓着なところがあり、ある意味そのとおりなのだが、しかし、一面では、神経質で、きまじめな部分も持ち合わせている。統合失調症的状況では、「捕食者」の影響を受けて、そのような面が、極端に表面化するわけである。

しかし、そのような状況にあっても、というか、そのような状況にあるからこそ、何とかユーモアを持とうとすることで、統合失調症者自身のそのような「否定的な流れ」を断ち切ることがてきる。ユーモアは、相手の弱点をつくたでけでなく、こちらの否定的な流れをも変え得るのである。

具体的には、ユーモアと言っても、何も、相手を「笑わせる」ことが目的ではないので、特別のセンスが求められるわけではない。要するに、幻聴の「声」や、自分自身の「妄想」に対して、即座に巻き込まれてしまわずに、「ワンクッション」おく余地が生まれればいいのである。

私は、幻聴の「声」や、自分自身の「妄想」に対しては、軽く「つっこみ」を入れてやるのが、一つの手だと思う。それも、関東風の攻撃的なものより、関西風の茶化すような、包み込むようなものがよい。

たとえば、「なんでやねん」(別に、裏拳でどつく必要はない)とか、「あるかー、そんなもん」とか、「それ、おかしいでしょー」などである。

こんなものでも、自分自身に対しても、相手方に対しても、かなりの効果を発揮するのである。一瞬でも、それらの影響を受けない、「間」が生まれるということである。そして、そのような、「間」の感覚をつかんで、それを広げられるようにしていけばよい。

たとえ、一旦は、感情的に巻き込まれてしまってからでも、思い出すようにして、このような対応をすることでも、決して遅くはない。一瞬でも、それらに、囚われない「間」が取り戻せれば、十分効果はあったことになるのである。

ただし、これらは、口に出して言わないで、心の中で言うように。(本当は、もう十分「危ない」のだが)周りから、「危ない人」だと思われるからである。

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