「座標軸」と「狂気をくぐり抜ける」ことの意味
前回触れたように、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」によって、「狂気をくぐり抜ける」ということの実質的な意味も、明らかになる。
これは、既に、記事『イニシエーションと垂直的方向』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-e8a1.html)及び『成人儀礼としての分裂病』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5f1f.html )で示したことである。が、『深浅さまざまなレベルにおける死と再生」の図を、より分かりやすいものにして、改めて掲げるとともに、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」に注目しつつ、もう一度述べ直してみよう。
「狂気をくぐり抜ける」ということは、簡単に言うと、「狂気」の状態に入りつつ、その状態でのさまざまな苦悩、葛藤を通して、それまでにはあった「何ものか」が、「抜け落」ち、結果として、苦悩や葛藤を越え、全体として前より成長を遂げた、新たな状態へと移行した、ということである。
この過程を、一言で言い表せば、「死と再生」の過程ということになる。「狂気」の状態で「何ものか」が「抜け落ち」るのが、「死」ということであり、結果として、新たな「移行」をなすのが、「再生」ということである。
これは、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」に着目して、捉え直すと、より明確なものとなるのである。
「狂気」の状態では、「水平的方向」と「垂直的方向」の影響力を受けて、いわば「引き裂かれ」た状態となるのであった。ここで、「水平的方向」の影響力とは、霊的存在等による「霊的」な影響であり、「垂直的方向」の影響力とは、「闇」や「虚無」(さらに「捕食者」の影響も、このような力を媒介することがある)による、破壊的な「力」である。それは、その深みにおいて、実際に、「何ものか」を「死」に至らしめるものである。
あるいは、「何ものか」が「死ぬ」からこそ、「垂直的方向」への下降が可能となるともいえる。「垂直的方向」は、ある状態を維持しての「水平移動」とは違って、その状態に変化、それも、破壊という変化を通してこそ、「移動」(下降)が可能となる方向なのである。
しかし、実際には、多くの場合は、捕食者に捕らえられて、そのような「深み」に至ることなく、いわば、「水平的方向」と「垂直的方向」の両方向に引き裂かれた、「宙づり」状態のまま、彷徨うことになる。これが、最も典型的な、「狂気」ないし「統合失調症」のあり方といえる。そこでは、決定的な「破壊」ということも起こらない代わりに、新たな「再生」ということもまた起こらない。はた目にも理解不能な、何ものかに囚われた、
「混沌」たる状態が続くだけである。
しかし、もしその「深み」に至り、ある「何ものか」の決定的な「破壊」が起こったとすると、それは、結果として、その「何ものか」によって浮上することのなかった、「新た」なもの、またはより「原初的な」ものを露わにする。そして、それによる、新たな「生」を可能にする契機となる。つまり、「水平的方向」において、「再生」を遂げる可能性が出てくるのである。
「狂気」とは、「破壊」という現象そのものののように思われがちだが、むしろ、このような「再生」へとつながる、単純明快な「破壊」または「死」が起こらないことから来るものというべきである。「破壊」そのものが「狂気」なのではなく、「破壊」が起こり得る「深み」に至りながら、その「破壊」を「受け入れ」られないことが、「狂気」なのである。
言い換えれば、「狂気」とは、その「死」に瀕している「何ものか」が、「死に切れ」ずに、「あがい」ている状態にほかならない。
ただし、ここで「死ぬ」または「抜け落ち」る、「何ものか」は、その者が、それまでにどのような状態としてあったかということ、さらに、「垂直的方向」のどのような「深み」で、それが起こったか、ということによって、異なって来る。それによって、「再生」のレベルにも、さまざまな違いが出て来る。
つまり、図に示したように、この「死と再生」には、「深浅さまさまなレベル」のものがあり得るわけである。
図では、4つの例をあげたが、これは典型的な例に過ぎない。実際には、その中間形態のようなものもあるであろう。
しかし、この4つの例で言えば、図で示したように、1「成人儀礼のイニシエーション」では、「子供」としての自我のあり方が死に、「大人」の自我として再生する。2「シャーマンのイニシエーション」では、「非霊的」な日常的、人間的な自我が死に、精霊ともつながった、「霊的」な自我として再生する。3「自我の超越」では、端的に、「自我」そのものが死に、または越えられ、より広大な「自己」として再生する。4「自己喪失」では、そのような「自己」も死に、もはや限定のない「意識」そのものとして再生する。
3の「自我の超越」は、「悟り」ともいえ、4の「自己喪失」は、その「垂直的方向」における、「究極的な死」という出来事そのものを捉えたとき、「解脱」ともいえる。
「狂気」との関わりでいえば、3の「自我の超越」に至った典型的な例は、R.D.レインが『経験の政治学』でとりあげている、「超越の体験」の例がある。これは、記事『「超越体験」の例』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-e5ce.html )で、私もさらに詳しい解説をしている。4の「自己喪失」の典型的な例は、B.ロバーツの『自己喪失の体験』があり、これも、記事『自己喪失と狂気 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post-f5cb.html)などで、何度かとりあげた。B.ロバーツの『自己喪失の体験』は、3の「自我の超越」という体験が起こった後の、更なる段階として述べられていて、それが、「自我の超越」を越える、更なる深みでの体験であることを、明確にしている点でも貴重なものといえる。
しかし、一般に、「狂気」において、このような「深み」にまで至り、「悟り」や「解脱」した者として「再生」するなどということは、めったにあるものではない。
そこで、記事『成人儀礼としての分裂病』でも明らかにしたように、一般的には、「狂気をくぐり抜ける」という場合、1の「成人儀礼のイニシエーション」か、2の「シャーマンのイニシエーション」と同様、または類似の結果をもたらすというのが、いいところと思われる。せいぜい、まれに、3の「自我の超越」か、それに「近い」状態での「再生」が見込まれるくらいである。
しかし、そもそも「狂気」では、それを「くぐり抜ける」、つまり、「何ものか」として「死」に、新たな者として「再生」するということ自体が、起こりにくいのであった。
それは、既に見たように、一つには、「捕食者」などに捕らえられて、「水平的方向」と「垂直的方向」に引き裂かれつつ、その「宙づり」状態を彷徨うことが多いことによる。しかし、また、特に「統合失調症」では、「水平的方向」への「再生」ということが起こりにくいだけの、いわば、「身にあまる」「垂直的方向」の破壊力を受けてしまうことも多いことによると思われる。
「身にあまる」とは、それまでにあった状態との関係で、その「何ものか」の「死」をもたらす以上の、より「深い」破壊力を受けるということである。
たとえば、まだ「自我」が十分成熟していないにも拘わらず、自我の「死」をもたらし得るだけの「深み」で、破壊力を受けてしまうなどのことである。このような場合は、「自我」が、まるごと「抜け落ちる」というような形での「死」は起こらず、ただ、未成熟な自我が、ばらばらに「崩壊」するなどの、破壊的な結果だけが露わになりやすいのだといえる。
ただ、そのような形であっても、「垂直的方向」へのそれだけの「深み」へと「下降」するということは、少なくとも、「自我」の一時的な「死」ないし、部分的な「死」は起こっていたとみることもできる。ただそれが、全面的な「死」、または継続的な「死」につながらないために、そのまま「自我の超越」のような「再生」には至らなかったのである。
「狂気」ないし「統合失調症」には、このような意味で、「深み」に至った場合も多いと思われる。このような例では、「再生」には至らないとしても、そのような「深み」をかいま見られているため、その者の手記や言説には、まとまった形ではなくとも、何らかの深い洞察が、窺えることにもなる。
また、このような場合には、図で示したような、典型的な「再生」、つまりその「死」の起こった「深み」に対応する「水平的方向」での「再生」は起こらないにしても、浮動状態を経つつ、結局、それより「浅い」レベルでの「再生」に落ち着くということも考えられる。その場合、「垂直的方向」としては、より「深み」に下降し、一時的な「死」を遂げたが、再びそこから「浮上」し、より「浅い」ところで新たな「生」が継続されたということになる。
この点では、記事でも述べたが、「統合失調症」を体験して多くの年数を経ている者というのは、多くの場合、少なくとも、1の「成人儀礼のイニシエーション」と同様の結果、つまり、自我の「成長」を遂げていると思われるのである。
これは、「成人儀礼のイニシエーション」の本質が、そもそも、一時的な「死」を体験させること、それによって、「死すべき者」、「死を知る者」としての「大人」の自覚をもたらすものであることを考えれば、当然ともいえる。「狂気」ないし「統合失調症」では、上にみたように、まさに、そのような一時的な「死」は、少なくとも体験されているばすだからである。
私自身の場合も、「垂直的方向」としては、まさに、4の「自己喪失」が起こってもおかしくないような、最たる「深み」へと下降したのだが、結局、そこからは浮上し、より「浅い」レベルで、一種「非典型的」な「再生」を遂げたことになるのだと思う。それは、1の「成人儀礼のイニシエーション」から、2の「シャーマンのイニシエーション」、3の「自我超越」まで、全ての要素を含んでいるようにも思う。
いずれにしても、このような、「狂気をぐぐり抜ける」ということの実質的意味は、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」に着目することによって、より鮮明に捉えられることは分かってもらえたと思う。
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