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2012年1月

2012年1月21日 (土)

「座標軸」と「狂気をくぐり抜ける」ことの意味

前回触れたように、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」によって、「狂気をくぐり抜ける」ということの実質的な意味も、明らかになる。

これは、既に、記事『イニシエーションと垂直的方向』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-e8a1.html)及び『成人儀礼としての分裂病』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5f1f.html )で示したことである。が、『深浅さまざまなレベルにおける死と再生」の図を、より分かりやすいものにして、改めて掲げるとともに、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」に注目しつつ、もう一度述べ直してみよう。

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「狂気をくぐり抜ける」ということは、簡単に言うと、「狂気」の状態に入りつつ、その状態でのさまざまな苦悩、葛藤を通して、それまでにはあった「何ものか」が、「抜け落」ち、結果として、苦悩や葛藤を越え、全体として前より成長を遂げた、新たな状態へと移行した、ということである。

この過程を、一言で言い表せば、「死と再生」の過程ということになる。「狂気」の状態で「何ものか」が「抜け落ち」るのが、「死」ということであり、結果として、新たな「移行」をなすのが、「再生」ということである。

これは、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」に着目して、捉え直すと、より明確なものとなるのである

「狂気」の状態では、「水平的方向」と「垂直的方向」の影響力を受けて、いわば「引き裂かれ」た状態となるのであった。ここで、「水平的方向」の影響力とは、霊的存在等による「霊的」な影響であり、「垂直的方向」の影響力とは、「闇」や「虚無」(さらに「捕食者」の影響も、このような力を媒介することがある)による、破壊的な「力」である。それは、その深みにおいて、実際に、「何ものか」を「死」に至らしめるものである。

あるいは、「何ものか」が「死ぬ」からこそ、「垂直的方向」への下降が可能となるともいえる。「垂直的方向」は、ある状態を維持しての「水平移動」とは違って、その状態に変化、それも、破壊という変化を通してこそ、「移動」(下降)が可能となる方向なのである。

しかし、実際には、多くの場合は、捕食者に捕らえられて、そのような「深み」に至ることなく、いわば、「水平的方向」と「垂直的方向」の両方向に引き裂かれた、「宙づり」状態のまま、彷徨うことになる。これが、最も典型的な、「狂気」ないし「統合失調症」のあり方といえる。そこでは、決定的な「破壊」ということも起こらない代わりに、新たな「再生」ということもまた起こらない。はた目にも理解不能な、何ものかに囚われた、
「混沌」たる状態が続くだけである。

しかし、もしその「深み」に至り、ある「何ものか」の決定的な「破壊」が起こったとすると、それは、結果として、その「何ものか」によって浮上することのなかった、「新た」なもの、またはより「原初的な」ものを露わにする。そして、それによる、新たな「生」を可能にする契機となる。つまり、「水平的方向」において、「再生」を遂げる可能性が出てくるのである。

「狂気」とは、「破壊」という現象そのものののように思われがちだが、むしろ、このような「再生」へとつながる、単純明快な「破壊」または「死」が起こらないことから来るものというべきである。「破壊」そのものが「狂気」なのではなく、「破壊」が起こり得る「深み」に至りながら、その「破壊」を「受け入れ」られないことが、「狂気」なのである。

言い換えれば、「狂気」とは、その「死」に瀕している「何ものか」が、「死に切れ」ずに、「あがい」ている状態にほかならない。

ただし、ここで「死ぬ」または「抜け落ち」る、「何ものか」は、その者が、それまでにどのような状態としてあったかということ、さらに、「垂直的方向」のどのような「深み」で、それが起こったか、ということによって、異なって来る。それによって、「再生」のレベルにも、さまざまな違いが出て来る。

つまり、図に示したように、この「死と再生」には、「深浅さまさまなレベル」のものがあり得るわけである。

図では、4つの例をあげたが、これは典型的な例に過ぎない。実際には、その中間形態のようなものもあるであろう。

しかし、この4つの例で言えば、図で示したように、1「成人儀礼のイニシエーション」では、「子供」としての自我のあり方が死に、「大人」の自我として再生する。2「シャーマンのイニシエーション」では、「非霊的」な日常的、人間的な自我が死に、精霊ともつながった、「霊的」な自我として再生する。3「自我の超越」では、端的に、「自我」そのものが死に、または越えられ、より広大な「自己」として再生する。4「自己喪失」では、そのような「自己」も死に、もはや限定のない「意識」そのものとして再生する。

3の「自我の超越」は、「悟り」ともいえ、4の「自己喪失」は、その「垂直的方向」における、「究極的な死」という出来事そのものを捉えたとき、「解脱」ともいえる。

「狂気」との関わりでいえば、3の「自我の超越」に至った典型的な例は、R.D.レインが『経験の政治学』でとりあげている、「超越の体験」の例がある。これは、記事『「超越体験」の例』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-e5ce.html )で、私もさらに詳しい解説をしている。4の「自己喪失」の典型的な例は、B.ロバーツの『自己喪失の体験』があり、これも、記事『自己喪失と狂気 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post-f5cb.html)などで、何度かとりあげた。B.ロバーツの『自己喪失の体験』は、3の「自我の超越」という体験が起こった後の、更なる段階として述べられていて、それが、「自我の超越」を越える、更なる深みでの体験であることを、明確にしている点でも貴重なものといえる。

しかし、一般に、「狂気」において、このような「深み」にまで至り、「悟り」や「解脱」した者として「再生」するなどということは、めったにあるものではない。

そこで、記事『成人儀礼としての分裂病』でも明らかにしたように、一般的には、「狂気をくぐり抜ける」という場合、1の「成人儀礼のイニシエーション」か、2の「シャーマンのイニシエーション」と同様、または類似の結果をもたらすというのが、いいところと思われる。せいぜい、まれに、3の「自我の超越」か、それに「近い」状態での「再生」が見込まれるくらいである。

しかし、そもそも「狂気」では、それを「くぐり抜ける」、つまり、「何ものか」として「死」に、新たな者として「再生」するということ自体が、起こりにくいのであった。

それは、既に見たように、一つには、「捕食者」などに捕らえられて、「水平的方向」と「垂直的方向」に引き裂かれつつ、その「宙づり」状態を彷徨うことが多いことによる。しかし、また、特に「統合失調症」では、「水平的方向」への「再生」ということが起こりにくいだけの、いわば、「身にあまる」「垂直的方向」の破壊力を受けてしまうことも多いことによると思われる。 

「身にあまる」とは、それまでにあった状態との関係で、その「何ものか」の「死」をもたらす以上の、より「深い」破壊力を受けるということである

たとえば、まだ「自我」が十分成熟していないにも拘わらず、自我の「死」をもたらし得るだけの「深み」で、破壊力を受けてしまうなどのことである。このような場合は、「自我」が、まるごと「抜け落ちる」というような形での「死」は起こらず、ただ、未成熟な自我が、ばらばらに「崩壊」するなどの、破壊的な結果だけが露わになりやすいのだといえる。

ただ、そのような形であっても、「垂直的方向」へのそれだけの「深み」へと「下降」するということは、少なくとも、「自我」の一時的な「死」ないし、部分的な「死」は起こっていたとみることもできる。ただそれが、全面的な「死」、または継続的な「死」につながらないために、そのまま「自我の超越」のような「再生」には至らなかったのである。

「狂気」ないし「統合失調症」には、このような意味で、「深み」に至った場合も多いと思われる。このような例では、「再生」には至らないとしても、そのような「深み」をかいま見られているため、その者の手記や言説には、まとまった形ではなくとも、何らかの深い洞察が、窺えることにもなる。

また、このような場合には、図で示したような、典型的な「再生」、つまりその「死」の起こった「深み」に対応する「水平的方向」での「再生」は起こらないにしても、浮動状態を経つつ、結局、それより「浅い」レベルでの「再生」に落ち着くということも考えられる。その場合、「垂直的方向」としては、より「深み」に下降し、一時的な「死」を遂げたが、再びそこから「浮上」し、より「浅い」ところで新たな「生」が継続されたということになる。

この点では、記事でも述べたが、「統合失調症」を体験して多くの年数を経ている者というのは、多くの場合、少なくとも、1の「成人儀礼のイニシエーション」と同様の結果、つまり、自我の「成長」を遂げていると思われるのである。

これは、「成人儀礼のイニシエーション」の本質が、そもそも、一時的な「死」を体験させること、それによって、「死すべき者」、「死を知る者」としての「大人」の自覚をもたらすものであることを考えれば、当然ともいえる。「狂気」ないし「統合失調症」では、上にみたように、まさに、そのような一時的な「死」は、少なくとも体験されているばすだからである。

私自身の場合も、「垂直的方向」としては、まさに、4の「自己喪失」が起こってもおかしくないような、最たる「深み」へと下降したのだが、結局、そこからは浮上し、より「浅い」レベルで、一種「非典型的」な「再生」を遂げたことになるのだと思う。それは、1の「成人儀礼のイニシエーション」から、2の「シャーマンのイニシエーション」、3の「自我超越」まで、全ての要素を含んでいるようにも思う。

いずれにしても、このような、「狂気をぐぐり抜ける」ということの実質的意味は、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」に着目することによって、より鮮明に捉えられることは分かってもらえたと思う。

2012年1月13日 (金)

「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」

私の「狂気」、特に「統合失調症」についてのこのブログの特徴は、1つは、私自身の「体験」に基づくものであることである。それも、単に、一時的や、浅いものではなく、まさに「くぐり抜ける」といえるような、「深み」をも通り抜けて来たものであることである。そして、それは、(表面的にはかなり危うい面もあったが)根底的には、はっきりと明晰な意識を保ち続けて、通り抜けられたものなので、その状態を、意識によって、それなりに明確に捉えられるということがある。

「狂気」ないし「統合失調症」について、それなりに、深く鋭く迫った研究や書物は様々にある。が、やはり、そこに決定的に欠けていると思われるのは、自分自身の体験がないために、思弁や推測、思い込みによって、それに迫るしかない面があり、体験者からすれば、どうしても、「的外れ」と言わざるを得ないものが多いことである。この点には、やはり、「体験」の壁という、いかんともしがたいものが、厳としてある。

私の、このブログでの考察は、一貫して、私自身の「体験」に基づいているため、こういったことは免れているはずである。

しかし、もう一つは、だからと言って、決して「主観」に走らずに、そういった「客観的」な研究や、一般的な見解とも、それなりに照らし合わせた考察がなされていることである。

狂気または統合失調症の体験者の書いた手記とか、ネット上の記事などもまた、様々に多く存在している。それらには、体験者ならではの、「迫力」や「深み」、鋭い「洞察」が感じられるものも多く、やはり、そこには、「体験者」にしか醸し出せないものがあることは確かである。

しかし、一方で、そのような体験者は、その「体験世界」にはまり込みやすく、どうしても、「主観的」な視点に凝り固まりがちである。というよりも、もはや、その者にとって、それ以外に「世界」は存在しないのだから、それ以外の「視点」を持ちうる余地もないという場合も多いであろう。だから、「客観的」または「一般的」な視点を持てなくなることが多いのも、致し方がない。

私は、そのような「体験世界」そのものからは、もはや解放されていることもあり、「体験者」のそのような「欠点」は意識したうえで、一応とも、「客観的」な視点にも気を配って、考察を進めることができる。あるいは、あえて、意識して、そのようにするようにしているということである。

つまり、一言で言うと、私のこのブログは、「狂気」または「統合失調症」について、「体験者」として「体験」そのものに基づきつつ、「客観的」な視点も重視しつつ、考察がなされているところに意義があるということになる。

しかし、もっと具体的に、私のこの「狂気」に関する考察で、最も意義のある点を端的に示すと、それは、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」を明確に打ち出している、ということにあると思う。

実際、「狂気」特に「統合失調症」では、「水平的方向」と「垂直的方向」の両方向に、いわば「引き裂か」れ、それがゆえに、混沌とした、「訳のわからない」状態へと陥り、そこをいつまても、彷徨い続けることになるのである。つまり、自分の陥った状況や、自分に降りかかる現象を、どのようなものとして「位置」づけてよいのか、全く指標のない状態が続くのである。それは、たとえ、「水平的方向」または「垂直的方向」という、一方向の視点だけを持ち合わせていたとしても、決して解消されることはない。実際には、その両方向の視点を、一種の「座標軸」のようなものとして設定できたときに、初めて、それなりに、「位置づけ」られるものとなるからである。

「水平的方向」と「垂直的方向」の意味については、このブログの『用語集』の該当項目を参照してほしいが、私は、基本的に、「水平的」、「垂直的」の対置は、「時間」またぱ「空間」的な推移ないし移行のある方向と、それのない方向という意味でなした。つまり、「水平的方向」は、時間的、空間的な推移ないし移動のある方向で、「垂直的方向」は、時間的、空間的な推移や移動ではなく、いわば、「いま、ここ」の「根底」に直に下降(見方によっては「上昇」)する方向である。

しかし、「狂気」特に「統合失調症」では、「水平的方向」として特に問題になるのは、「霊的な領域」の存在や現象である。つまり、一般的には、「見えない」ものであり、「未知」のものである。それらが、その状況に陥った者の、「混乱」の多くをもたらすのである。しかし、「霊的」なものといえども、「空間性」や「時間性」の中に存在しているものであり、「水平的方向」にあるものであることに変わりはない。あるいは、それらは、「水平的な方向」にあるもののうち、表面には「見えない」、より「深み」にあるものという言い方もできる。

そこで、ごく単純化するなら、狂気に関しては、「水平的方向」とは、「霊的な」領域や存在に関わる方向としてもよい。

それに対して、「垂直的方向」とは、「ある」ということそのものの根底に関わる問題の露わとなる方向ともいえる。具体的には、「虚無」や「闇」の関わる方向である。「狂気」特に「統合失調症」では、これら「虚無」や「闇」などの「垂直的方向」からの影響も多分に受けるのである。

これらは、「闇」のように、一種の「実体性」を孕んでいることもあるが、「霊的」なもののようには、「時間的、空間的」なものとして規定することはできない。それらが、また、そのような状況にある者の、「現実」や自己の「あり様」を、根底から脅かし、覆すのである。

この「垂直的方向」も、単純化して言うならば、「実存的」な方向とすることもできよう。

そして、これら両方向の一方向の視点から、「狂気」をみるというものは、それなりに存在しているのである。

たとえば、『関連書籍の抜粋』でも挙げたが、ダスカロスやシュタイナーは、「水平的方向」(霊的視点)から、「狂気」または「統合失調症」について、かなり詳しく解説している。それらは、「狂気」または「統合失調症」についての、「水平的方向」に関する「混乱」については、多くの説明や、対処の仕方をもたらしてくれる。非常に、貴重なものであることは間違いない。しかし、それらは、やはり、「水平的方向」一辺倒のもので、「垂直的方向」という視点は、全く欠いているといえるのである。それらでは、「垂直的方向」に関する問題については、何らの理解も対処もできるものではないということである。

一方、「垂直的方向」に関しては、実は、一般の「精神医学」の一流派である「精神病理学」にも、ハイデッガーなどの実存哲学に依拠して、鋭く迫ったものは見受けられるのである。それらには、「水平的方向」では決してたどれない、「狂気」の本質に、鋭く迫るものがある。しかし、それらにほぼ共通して言えるのは、抽象的な思弁が多く、ことさら「難解」で、実際には、多くの者に「理解」される余地などほとんどないということである。

また、「水平的方向」に関しては、何らの知見もなく、本来、「水平的方向」に関するものまで、「垂直的方向」から迫ろうとするため、ことさら、ややこしく、難解になっていると思われることである。

「水平的方向」に関するものは、実際に、それなりの知識や経験、対処法を身につけることによって、対処できるはずのものが多いのだが、このような「精神病理学」では、具体的に、何らの対処法も育まれようがない。

そういうわけで、「狂気」または「統合失調症」の「理解」には、その一方ではなく、「水平的方向」と「垂直的方向」という両視点からの「座標軸」のようなものが、是非とも必要なのである。ところが、このような視点をもった研究やネット上の記事などは、驚くほどないのである。少なくとも、私は、今までに見たことがない。

かろうじて、R.D.レインの『経験の政治学』などには、その両視点が一応垣間見られるが、明確な「座標軸」のようなものとはとても言えない。

あるいは、やはり『関連書籍』にあげた、カスタネダの『無限の本質』などには、この両視点が混在しているのが見られる。しかし、ドンファンはともかく、カスタネダは、そのような両視点をはっきりと意識していたとは、とても思えない。それで、それは「理解」の困難なものともなっているし、むしろ、その両方向の「混在」は、「狂気」そのものとも似た、「混沌」たる様相を呈しているともいえるのである。

いずれにしても、ここで、このブログにおける「狂気」の考察についての、最大の意義は、「水平的方向」と「垂直的方向」という「座標軸」の明確な提示だということを、改めて確認しておきたい。

そして、そのような両方向の「座標軸」は、「狂気をくぐり抜ける」ということの、実質的な意味を、深浅さまざまなレベルにおいて明らかにする。記事では、『「イニシエーション」と「垂直的方向」』において、深浅さまざまなレベルにおける「死と再生」』として明らかにしたものだが、そのことは次回に述べよう。

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