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2011年12月

2011年12月23日 (金)

「闇」と「ダークマター」/「ダークエネルギー」

前に、一連の体験の最後に現れて、私を包み込んだ「闇」について述べた。(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/index.html  )それは、前の日記では、たとえとして、「ダークマター」(暗黒物質)に比せられるということを述べていた。

確かに、「ダークマター」は、巨大な質量を有するにも関わらず、光とは相互作用しない「暗黒」の物質で、「原子」として存在する以前の、より根源的な物質と考えられるので、このたとえは、「たとえ」としては十分有意義である。

しかし、「ダークマター」は、あくまでも、物理学的な理論により要請された、「物質」的存在なのであり、私のいう「闇」そのものとは異なるのは明らかである。この「闇」は、ある種の「実体性」はもつものの、「物質的」な存在とは考えらない。「物質的」な存在が、意志を持つかのように、私のところに迫り、私を包み込むなどということはあり得ない。また、「ダークマター」の「暗黒」は、あくまで「見えない」という意味だが、この「闇」は、むしろ、「暗黒」としての性質を、「見える」(だたし、通常の感覚としてではない)ものであるかのように、際立たせている。

ただ、その「実体性」は、まさに、「暗黒の塊」のように、まるで「物質」または巨大な「エネルギー」であるかのような「リアリティ」を伴っている。そこで、「たとえ」としては、「ダークマター」というのが、ピッタリくるのである。

しかし、これを、単純に「霊的な実在」とみなすことも、また適当ではない。

これは、私の理解だが、私は、「闇」を、人間に知覚ないし体験される限りでの、「虚無」の一側面と捉えている。根底的な「虚無」そのものは、本来、一切限定することも、対象化することもできないものである。つまり、それ自体を、知覚ないし体験するということはできないものである。しかし、それは、そのような、「対象化」と「非対象化」ということの狭間での、いわばギリギリの様相として、かろうじて、ある種の「実体」として「知覚」されることは起こり得る。それが「闇」ということである。

それは、前にも述べたように、「虚無」の本来もつ「実体的」な側面ともいえるが、実際には、人間に知覚ないし体験される限りの、「虚無」の一様相という方がふさわしいとも思われるのである。

前に、「霊界の境域」の図(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html)で示したように、「虚無」そのものは、限定できないもので、「物質的世界」にも「霊的世界」にも属さないものである。従って、その一側面である「闇」も、やはり、「物質的なもの」とも、あるいは「霊的なもの」とも、限定づけることはできにくい。言うならば、「非物質的な存在」とでも言うしかない。

しかし、あえて、その「実体性」を捉えようとするならば、それは、まさに、図でも示したように、「物質的なもの」と「霊的なもの」との「境界的」な現象して捉えることもできると思われる。これらのどちらかに、属するとは言えないが、これらの両側面を合わせ持つ、または、それらの両側面の元となる面はある、ということである。

だから、「霊界の境域」においては、また、「闇」との遭遇も起こりやすいということが言える。

一方、「ダークエネルギー」の方は、名前だけ聞くと、より「闇」のたとえとして、適していそうにも聞こえる。が、これは、最近、宇宙が加速度的に膨張していることが発見されたため、その膨張をもたらすエネルギーとして、要請されたものである。どこかに、塊のように偏在するというよりは、「真空」に一様に存する「真空のエネルギー」と解されている。また、膨張を可能にする斥力をもたらすとされるが、実質は何も分かっていない、謎めいたエネルギーである。

このように、具体的レベルでは、「闇」との類似は、あまりみられない。「闇」の「たとえ」として言うならば、やはり、「ダークマター」(暗黒物質)の方が、ふさわしいと言える。

ただ、この「ダークエネルギー」は、今後の「宇宙論」の展開や方向性に、大きな影響をもたらすと思われるので、その意味では、注目されるものである。

2011年12月11日 (日)

「物質」とは何かという問い

いかにも、素朴な問いだが、私にとって、「物質」とは何かという問いが、また持ち上がって来ている。

もちろん、この問題は、昔から、人間にとって本質的な問いであったし、現在も科学者や哲学者にとって、本質的な問いであり続けている。

ただ、私にとっては、この問題は、決して抽象的、形而上的な問いではなくて、自分の経験に沿った、具体的な問題ではあったのである。

それは、もちろん、このブログでも述べた、一連の体験とも関わっている。この一連の体験は、それまで一応とも、堅固なものとして機能していた、外的な「物質的な世界」というものが、いかに脆くも、危ういものかというのを、思い知らされる体験でもあった。

それは、一つには、それまで、ほとんど日常的、現実的なものとしては現れることのなかった「霊的なもの」が、突然、「日常的なもの」のように、この世界に侵入し始めたことによる。むしろ、それまでの「物質的な世界」は、背景に退き、「霊的なもの」が、図と地が入れ替わるように、前景に現れ出したので、それまでの「物質的な世界」は、一気に、堅固さを失い、崩壊するかのように感じられた。

もう一つは、やはりブログでも述べたような、「物質化現象」や「中間的な現象」が、かなり頻繁に現れ始めたことである。(記事   http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html )はっきりと、後まで残る形で「物質」そのものとして現れ出た現象は、そんなに多くはないが、一時的に「物質化」したとしか思えないものや、どちらつかずの「中間的」なものは、かなり頻繁に現れ出ていた。そして、そのようなことは、一連の体験時だけでなく、現在でも続いている。「精霊的存在」自体、一時的には、ほとんど「物質化」して、この世に姿を現すことが可能である。

こうなると、もはや、「物質」なるものが、何ら堅固な基盤を有しているとは思えなくなる。それは、「あってなきもの」というか、「どうにでもなるもの」に過ぎなくなる。それは、実質、「世界そのもの」が、そのように、安定的な基盤を失ったのも同じである。

そうなると、改めて、「物質」とは一体何なのか、ということが、いやでも問われざるを得ないのである。

このような問いは、「霊的なもの」との関係で、抽象的には、納得できる可能性がある。要するに、「物質的なもの」の背景として、「霊的なもの」が存在している。そして、その「霊的なもの」が、ある種「密度」を高め、「凝り固まった」ものが、「物質的なもの」として顕現しているということである。つまり、実質的には、(「目に見えない」)「霊的なもの」が(「目に見える」)「物質的なもの」の根拠となっているわけで、その意味では、「物質的なもの」は、それ自体を終局的な根拠としているわけではない。だから、それ自体で、揺るぎない基盤を有しているわけではないことも、納得はできる。(※1)

シュタイナーやスピリチュアリズムなどでも、ほぼ似たような考えをしている。

その、それまでは「見えなかっ」た、「物質」の背景的な事実が、突然「見える」ものとして、押し寄せて来たために、「世界」の形相が一変したように感じられたということになる。

ところが、具体的、現実的なレベルでは、我々は、「物質的なもの」は、そのような、いわば「仮のもの」などではなく、いかに動かし難く、堅固な基盤を有したものであるかを、感じざるを得ないことが多いのも事実である。

たとえば、単純なところでは、我々は、肉体のちょっとした状態で、精神的にも多くの影響を受ける。肉体が病気になり、熱を出せば、意識も混濁する。これらのことは、ちょっとやちょっとのことでは、変えられない。「物質的なもの」が、堅固な基盤を有していることの一例である。

また、最近では、原発の事故というのが、改めて、「物質的なもの」がもたらす、現実的で、強力に「破壊的」な「力」を、感じ取らされた。もちろん、津波や地震という物理的エネルギーも、そういった破壊的な「力」を、存分にみせつけた。しかし、「原子力」というのは、また違った意味で、より恐ろしく、永続的な、「破壊的」な「力」を改めて意識させたということができる。後にみるように、「原子」というのは、「物質」の根源に関わるもので、「物質の本性」とも言い得るようなものでもあることを思うと、より、「物質」的な「力」としての、根源性を思わせる。

「原子力」も「原子の火」とも言われるように、「火」の一種で、前に述べた、アーリマン的な「火」の一つともいえる。しかし、それはやはり、他の通常の「火」とは、一線を画した、次元の違うものを思わせる。そこには、私も、多く接した、「アーリマン的」なものを越えた、もっと強大で未知のものの現れをも、感じさせるのである。

中沢新一は、他の様々な「エネルギー」に比して、「原子力」というのは、本来「生態圏外」の「エネルギー」を無媒介的に取り出そうとするものということで、その特別さをうまく言い表している。石炭や石油は、地球という生態圏で蓄積されたエネルギーだが、「原子力」というのは、本来、地球生態圏には属さない、太陽内部の現象を、直接、無媒介に、この生態圏で、取り出そうというものである。いわば、「外部」を無理やりに「内部」化しようとするものと言える。

それが、地球という生態圏に「漏れ」出せば、「生態圏」とは相いれない、根本的な「破壊」の働きをするのも当然といえる。

確かに、こういったものを、「安全なエネルギー」であるかのように、利用しようと企てたこと自体が、無謀もいいところだったと思われる。

しかし、一方、そのような技術の元となる、放射性物質というものは、地球にも存している。それは、地球も元、太陽圏に属していたことの名残りであろうが、技術的には、そこから、莫大なエネルギーを取り出すことの可能なものが、現に、地球自体にも存していることを意味している。そして、技術的に取り出し得るか否かは別にしても、我々の身近な物質の元である、「原子」というものが、そのような、信じ難いほどの「エネルギー」を、本来、内に秘めたものであるというのは、確かなことなのである。

このことの意味は、やはり大きいと思う。たとえ、「非生態圏」的な「エネルギー」で、人間のコントロールを越えたものだとしても、それこそが、「物質」の元であるという事実は変わらないのである。(※2)

そうすると、やはり、「物質」とは何かという問いが、改めて、問い掛けられざるを得ない。

先に言ったように、「物質化現象」というのがあり、それは、なかった物質が現れ出るだれけでなく、あった物質が「なくなる」ことも含んでいる。実際、私自身、それを何度か経験しているし、たとえば、心霊治療などでガンが消えるというのも、その一つの例といえる。

そうやって、物質が、まるごとなくなったり、現れたりすることと、物質の元である「原子」に、これだけの「エネルギー」が秘められていることの、ギャップというのは、容易には埋めがたい。「物質」というのは、「幻想」のようでもあれば、信じ難いほど「現実的」な「力」でもあるのである。

今のところ、全体としても、個人的にも、まだまだこのような問いが、解ける見通しは立ちそうもない。しかし、ある程度集中的にそのような問いの糸口が解け始めれば、意外と、それは、脆くも、暴かれて行くような気がする。

そうすると、結局、「物質」とは何かという問いが解けること自体が、それまであった、「物質的なもの」と「霊的なもの」の厳然たる区別を、緩ましめることにつながると思われるのである。「物質的なもの」が、「霊的なもの」の背景の中で、「物質的なもの」として保っていた、堅固な特性を保てなくなるということである。

だから、それは、例えば、日月神示が言うように、「物質的なもの」と「霊的なもの」の境界を失わしめ、それらの融合をもたらすことにつながるということは、十分あり得ると思われるのである。

ただし、逆に言えば、「物質」とは何かという問いも、解けないような状態で、そのようなことが、なし崩しに起こるということも考えにくい。それが、たとえば、私が生きている間に起こるなどとういことは、考えられない。そのような解けない問いは、まだまだ、そのようことが起こり得ないことの、証しにもなっているとも言えるのである。

※1  そのような点では、前に示した「霊界の境域」の図(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html)は、厳密には、正しくないわけである。図では、「感覚的世界」(物質的世界)と「霊的世界」を、別のものであるように示したが、本来は、「感覚的世界」(物質的世界)は「霊的世界」に含まれるように、表さなくてはならない。ただ、図では、両者の「境界」ということを、浮き彫りにさせるために、便宜的に、あのような表し方をしたのである。

※2  ただし、最近の宇宙論では、「原子」というのは、宇宙全体の中では、物質の取り得る形態としては、4%ほどのわずかなものでしかないことが分かっている。その意味では、「原子」というのは、我々にとっての、「身近なレベル」での「物質の元」でしかない。その他のものは、「ダークマター」と「ダークエネルギー」なのであるが、これらは、まだその実質が何であるか、ほとんど何も分かっていない。しかし、そのように、宇宙全体の中では、まだ「物質」の本来の姿が何も分かっていないということ自体、改めて、「物質」とは何かという問いを、浮き彫りにさせるものがある。

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