「火」の両義性と「クンダリニー」
前回、「火」は、神聖視される反面、「アーリマン」存在とも関わる、「破壊的」なものであることを述べた。
要するに、「火」には「両義性」があるわけである。
ブッダが「すべては燃えている」というとき、それは「煩悩」そのものを意味しているが、同時に、それは「煩悩」を焼き尽くすものともなる。あるいは、「アーリマン」存在が絡んでいるという、地震にしろ、火山の噴火にしろ、生命に大きな被害をもたらす、強大な「破壊的エネルギー」である。が、また、同時に、それ自体が、地球にとっては、「浄化」の作用をもたらすものともみれる。
「火」が神聖視され、護摩や火葬などにも使われるのは、やはり、この「火」の「浄化」作用のためと思われる。
シュタイナーも、「アーリマン」存在は、「ルシファー的」な欲望や幻想を「刈り取る」ということを述べているが、それは、結局、「浄化」ということにもなろう。
前回述べたように、一連の体験時に、地球の底から沸き起こる、不穏な「音」ないし「エネルギー」を聞いた(感じた)ということがあった。「地球の底から沸き起こる」というのは、まさに実感そのものとして、感じられるものである。が、それには、当時、地球と「一体化」するかのような、特殊の「意識状態」にあったことも影響していて、地球と関連づけられやすかった面もあるかもしれない。
しかし、これは、自己の身体レベルに局限して言えば、自己の身体の底から沸き起こるものとも感じられる。つまり、いわゆる「クンダリニー」(尾てい骨の底にあるとされる霊的エネルギー)の上昇が起こっていたともいえる。実際、当時、全身が振るえたり、額(チャクラでいえばアジナ)の部分から、黒い固まりのエネルギーか放出されたりと、「クンダリニー」の上昇と関連すると思われる現象も起こっていた。
この「クンダリニー」もまた、神聖な「火」とされる。だから、「ビジョン」として、燃え盛る火を見たのも、このような、内なる状態の「反映」という面があったかもしれない。ところが、この「火」もまた「両義的」である。それは、要するに、エネルギーの通路に溜まっている、「不純物」(思考や感情、情念など、さらに広くは「カルマ」)を「燃やし」ているわけで、潜伏しているそれらに、まさに「火をつけ」て、「現象化」させる働きがあるわけである。
だから、「クンダリニー」の上昇は、それ自体が、「恐ろしい」ものとして実感されるし、実際にも、さまざまな「破壊的」現象を招く恐れがある。一種、「パンドラの箱」を開けるようなものである。たとえば、身体を損傷させたり、発狂するなどのことが報告されてもいる。
しかし、それは、やはり、そういった、「不純物」を燃やし尽くし、現象化させることによって、「浄化」をもたらしてもいるのである。
そして、それは、やはり、先にみたような、地球における、地震または火山の噴火という現象とも、一種相関的な現象かもしれないと思う。つまり、地球における、地震または火山の噴火は、人間でいえば、「クンダリニー」の上昇ということに相当する現象ともいえるわけである。
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