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2011年11月

2011年11月30日 (水)

ダスカロスの接した「統合失調症者」

「霊能者」または「ヒーラー」による、まとまった形の「統合失調症論」は貴重だと言い、ダスカロスの著書を「関連書籍」の抜粋にも挙げた。

ただ、ダスカロスが『太陽の秘儀』で述べていることで、気になるのは、統合失調症者の例として、自分が関わった者をあげているが、それは、医学的には、「統合失調症」というよりは、「境界性人格障害」を思わせる者であることである。確かに、ダスカロスに特別に愛されているという「妄想」をもっていて、ダカスロスに迷惑を掛けるのだが、統合失調症ほど「了解」し難いものではないし、言動も破綻していない。

しかし、ダスカロスが、マルキデスの質問に答えて、「声」の正体などとして述べていることは、確かに、「統合失調症」の場合に、当てはまるものである。これを、「自分自身のエレメンタル」(一種の「別人格」)と言うのであれば、「解離性障害」の場合を言っていると思われるが、「他者のエレメンタル」だと言っており、それは、とりあえず、「統合失調症」の場合を的確に捉えている。

また、この「エレメンタル」は、まとわりついた者の感情を吸い取って成長するから、これに対処するには、「闘う」(感情的に反応する)のではなく、「相手にせず」「無視すること」であるというのも、全く正しいといえる。そうすることによって、「エレメンタル」は、いずれ消滅するか、または本人のもとに帰ると言うのである。

このように、ダスカロスが、「統合失調症」について、一応的確に述べているのは、「統合失調症」について研究したこともあるという、マルキデスの質問に沿う形で、自分の考えを述べているからということもあろう。つまり、ダスカロス自身は、統合失調症についてかなり広く捉えているようだが、マルキデスの質問によって、いわゆる「統合失調症」の場合に的確に絞られた回答が得られたということである。

いずれにしても、ダスカロスが、確かに、「統合失調症」の者と関わり、その体験から、自分の考えをくみ出しているのは間違いないと思われる。

ただ、その場合の「統合失調症者」にしても、実際には、現実に、ダスカロスと接することが可能だった者に限られるはずである。たとえば、重症の患者で、病院に隔離されているような者とは、現実的に、接することはできないであろう。

つまり、ダスカロスのいう、「統合失調症者」とは、「統合失調症」でも、割と軽症の者か、「境界性人格障害」や「解離性障害」のような、神経症系統のものと境界を接するようなものが多いと思われるのである。

だから、ダスカロスが、「統合失調症」について、「エレメンタル」ということを前面に出して説明するのは、「エレメンタル」の影響力全般が話題になっていたこともあるが、そのように、実際にも、(背後の「捕食者」というよりは)「エレメンタル」そのものの影響が強く現れている場合に、多く関わっていたからだということが言える。

実際に、「統合失調症」でも、ダスカロスの想定するような例では、確かにそのような「エレメンタル」の影響が強いのかもしれないと思う。

しかし、私は、典型的な「統合失調症」ということで言うと、やはり、「エレメンタル」だけでなく、背後の「捕食者」の影響を抜きにしては、理解することができないのではないかと思うのである。

2011年11月20日 (日)

関連基本書籍の抜粋

※「関連書籍」は、今後、入れ替えまたは増えていく可能性があります。

私の観点から、統合失調症の理解に大きく役立つと思われる書籍を抜粋してみた。

これらは、「基本的な」部分の理解に役立つと思われるもので、特定の踏み込んだ領域に関するものではない。また、比較的知れわたったもので、入手が容易、かつ読み易いものに絞っている。

ただし、あくまで、このブログで述べているような、私の観点からのものなので、一般的には、特殊と感じられるものも含まれるかもしれない。

記事で言及したものもあれば、記事では触れていないものもある。

〇 『精神分裂病の世界』  宮本忠雄著    (紀伊国屋書店)                        

4314001895    多少古いが、統合失調症の一般的な解説書としては、これがよいと思う。統合失調症者の内面世界にまで踏み込んで、よく分かりやすく記述されているし、さまさまな観点から、統合失調症にまつわる問題が浮きぼりにされている。単なる「解説書」というよりは、「統合失調症」について考える、ヒントの書でもある。しかし、そもそも「統合失調症」というのは、社会の中における一つの「問題」として生起しているので、本来、こういう形のものしか、あり得ないとも言えるのである。また、「実体的意識性」という、統合失調症にとって、欠かせないはずのものを、重視しているのもいい。

関連記事; 「実体的意識性」と「オルラ」
      http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-b854.html

『統合失調症--精神分裂病を解く』   森山公夫著   (ちくま新書)

これまでの既製の観点に縛られず、著者独自の視点で、統合失調症について考察し、捉え直した力作。「迫害妄想」を中心にして、「パラノイア段階」、「幻覚・妄想段階」、「夢幻様段階」という、段階的な発展として、統合失調症を捉えている。現象として現れる面を見る限り、著者の捉え方は、的を得た、正しいものと思われる。しかし、実際には、内面で進行している事態を重視すると、この「発展」段階は、むしろ、既に内面にあるものが、表面に浮上する過程として捉えるべきことは、記事でも述べた。つまり、「パラノイア」ないし「妄想」が発展して、「夢幻様」になるのではなく、「迫害妄想」というのは、既に内面にある「夢幻様状態」が、表面に生起するのを防衛するべく、生じているものとみなすべきなのである。 

関連記事; 9 「妄想」の発展・深化段階
      http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post-1ba0.html

〇  『精神病を知る本』 (宝島社文庫)所収
物語としての精神分裂病」、「精神病にとって「治る」とはどういうことか
 赤坂憲雄著

民俗学が専門の学者だが、精神病、特に「精神分裂病」について、精神医学の「外部」から、その枠を超えて、思想面を中心に、全体としてよく総括されている。内容も、鋭く、的確と思う。「物語としての精神分裂病」では、歴史的背景を踏まえて、精神医学が「物語」の創作者として、根源的に批判されている。「物語」として、特に、「内因性の神話」と「主体喪失の物語」がとりあげられる。これらの「物語」により、「精神分裂病」という、精神医学が治療すべき「病気」が作り上げられ、「分裂病者」という、主体ないし人格のはく奪された人物像が生み出されたのである。そして、その「物語」を解体したうえで、その内実が何であるかについても、一歩踏み出している。決して、「分裂病」は家族や社会により、政治的に作られたという、単純な「反精神医学」ではない。残念ながら、「オカルト」的なものにまでは及んでいないが、精神医学の内部からでは、とてもできない、現在望み得る、全体的視野からの、「精神病」の概観といえる。「精神病」を再考するとき、是非このような概観から始めたい。

「治療」ではなく、「癒し」こそが問題とする、「治る」とはどういうことかの論考も、優れている。「癒し」に向けての過程は、「イニシエーション」であるという視点も示されている。

関連記事; 「物語としての精神分裂病」他

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-07b5.html

 

 〇  影の現象学  河合隼雄著   (講談社学術文庫)

 私が一連の体験を通り過ぎた後、初めに読んだ本がこの本だった。それには、一連の体験で、「影(カゲ)」という言葉が、私にとって重要な「ターム」になっていたこともある。ここで述べられる「影」の概念は、ユングのもので、自我にとって、「未知」である、心の未分化な全体を指している。その「未分化」な「暗い」「影」が、心に深く分け入ることによって、「アニマ」や「セルフ(自己)」などの「元型」として、分化されていく過程を、河合隼雄が、分かりやすく解説している。もちろん、これらは、あくまで、心理学的な、「心」の現象の現れとしての説明である。しかし、自分の体験にとっても、十分当てはまる要素が多く、深く納得し、一種の「カタルシス」を感じた。但し、私は、あくまで、これらの「元型」的なものを、霊的な「実体」として受け取る限りで、深く受け入れられたのである。 

ユングは、晩年「幽霊体験」により、人間の「霊」の存在する可能性を否定できなくなったことは述べた。(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-f47c.html )私は、ユングは、さらにその後、こういった「元型」的な存在についても、人間の場合同様、「実体」として存在する可能性を考慮し始めたのではないかと、密かに思っている。    
                                 

〇  『モーパッサン短編集<3>』(「オルラ」)       (新潮文庫)

なぜ知ったかは忘れたが、この本も、一連の体験の後、割とすぐに読んだもの。やはり、深く、心の琴線に触れ、「カタルシス」になった。『分裂病の少女の手記』(みすず書房)など、統合失調症に陥った者が書いた手記はいろいろとある。モーパッサンも精神を患い、統合失調症と診断されたのだが、「オルラ」は小説ながら、統合失調症に陥った者の、「恐怖」と「焦燥」に満ちた思考過程が、迫真的に描かれている。こういったものは、統合失調症者が書いた手記にも、なかなかないもので、貴重なものである。具体的なレベルで、自分の体験が、決して、「特殊なもの」ではないことを、感じ取れるのも大きい。但し、この「オルラ」という存在そのものは、通常、統合失調症者が出会う「他者」的な存在というよりは、「自己」の一側面である、「境域の守護霊」と解されることは、記事に述べたとおり。

関連記事;  「実体的意識性」と「オルラ」
             http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-b854.html

〇  『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』   ルドルフ・シュタイナー著                                   (ちくま学芸文庫)

この書は、シュタイナーが本などに述べているような、「超感覚的世界」の認識を獲得するには、一定の方法に従って、「瞑想」等の「行」をすることが必要であることを述べたものである。しかし、その過程で、「霊界」の扉が開かれ始めた頃に起こる(「霊界の境域」での)、様々な現象や危険性について、かなり詳しく述べられている。その意味で、「望まず」して、そのような状況に陥った、統合失調症の者にも、参考になることろが大である。特に、霊的現象として、通常まずは、「自分自身の霊的鏡像」を見ることや、モーパッサンの「オルラ」のように、「恐るべき」ものとして、「境域の守護霊」との出会いが生じることなどである。何しろ、霊的なものについては、単純に、それまでの「現実」についての解釈が通用しないことを、多く教えてくれる。また、その過程で生ずるとされる、「人格の分裂」(思考・感情・意志の分裂)というのは、そのまま、シュタイナーの「統合失調症論」としても読める。

関連記事;   「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合
              http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-0247.html

             「統合失調症」という名称

        http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-e246.html

〇  『太陽の秘儀』      キリアコス・C・マルキデス著    (太陽出版)

4884691873  キプロスのヒーラーであるダスカロスが、人間の「現実」を作り出し、影響を与えているものとして、「エレメンタル」(想念形態)というものが、いかに重要なものかを述べたもの。その一例として、「統合失調症」の場合についても、かなり詳しく述べられている。(第二章「狂気の構造と神秘家」)「霊能者」または「ヒーラー」と言われる者が、「統合失調症」についてまとまった考えを述べたものは少ないので、貴重である。「エレメンタル」(想念形態)というのは、「想念」が、霊的レベルで「実体化」したもので、シュタイナーの「霊的鏡像」というのと、ほぼ同じである。日常的には、こういったものが、影響を及ぼすことは、なかなか実感できないが、「霊界の境域」では、確かに、自己の「思い」や「恐怖」といった「感情」が、即座に、「現実」に跳ね返って来るのを、実感できる。だから、「霊界の境域」では、「恐怖」や「欲望」に彩られた「妄想」は、それ自体が、「現実」を生み出す元とも言えるのである。また、「恐怖」などの感情は、この「エレメンタル」も、次に述べる「捕食者」的な精霊も、強力に活性化させる、触媒のような役割を果たす。ダスカロスも言うように、「エレメンタル」に対処するには、「闘う」のではなく、「相手にしない」で「無視」すること(自分自身が、「感情的に反応」せずにいられるようになること)が重要なのである。

関連記事;   ダスカロスの「統合失調症論」との関係
        http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-8fa5.html

        「分裂病」と「エレメンタル」(生き霊)
        http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post-8aca.html

『マイナスエネルギーを浄化する方法』   小栗康平著   (ランダムハウス講談社) 

 (新版 症例X-封印された記憶』 ジービー)

    まず、精神科医の著者が、片岡という霊能者のセラピーを通して、「憑依」なる現象が実際に存在し、その「浄霊」が、明白な効果をもたらすことを認識していく過程が述べられる。そして、著者は、そうであるならば、それを治療法としても生かすべきと考え、片岡と協力して、「憑依霊」を「浄霊」し、あるいは、その基となっている、「マイナスエネルギー」を浄化していくための方法を編み出していく。私自身予想した以上に、いたって、真摯な内容である。

ただ、著者自身断っているように、これらは統合失調症の場合を含んではいない。主に、医学的には、「解離性障害」と診断される場合に関するものである。しかし、統合失調症は、「解離性障害」と紛らわしい部分も多く、実際には両者が混交する場合も多いと思われる。そこで、統合失調症を理解するためにも、「解離性障害」というものを、(「霊的側面」を含めて)一応知っておくことは必要と思われる。(なお、後の『人格解離』という本では、さらに詳しく「内在性解離」について述べられている。)

また、実際に、精神的な疾患に、霊的なものが関わるとすれば、精神科医と霊能者の協力というのは、今後の重要なテーマとなる。著者と片岡の例は、普通はなかなか実現しがたい、そのような例のモデルケースとしても、参照すべき点は多いはずである。

関連記事;   『マイナスエネルギーを浄化する方法』
             http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-7dc0.html

             「人格解離」
             http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-5f44.html

○ 『大笑い!精神医学』   内海聡著    (三五館)

 25428107_10001            「精神医学」の問題、否定されるべき理由を、これ以上ないというくらい、明解に分かりやすく説いた本。薬物療法を中心とする、現代の精神医学を否定するものだが、薬の害悪という目に見える部分だけを否定しているのではなく、あくまで、「精神医学」という枠組みそのものを、全体として否定しているのである。つまり、精神的なある状態を、「病気」として医学の対象とし、治療の対象とするという発想そのものが、根拠のないものであり、搾取のもとであり、害悪であるということである。

私も、一連の体験中に、このような状態の理解は、精神医学では絶対に「ムリ」と見定めたことから、すべての考察が始まっている。だから、観点は違う点もあるが、「精神医学」を否定する点では、多くの点で一致している。何しろ、「精神医学という発想」そのものを、問い直すことが必要なのだが、これはそうするのに格好の本なので、ぜひ参照にしてほしい。

関連記事;  『大笑い!精神医学』  

     http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-633c.html               

       『大笑い!精神医学』対『もう少し知りたい統失の薬と脳』  

    http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-e17a.html                           

○ 『精神医療に葬られた人びと』   織田淳太郎著    (光文社新書)

調査の意味を含めてだろうが、バセドウ病で精神病院に入院した著者の体験記。精神医学や精神医療というよりも、隔離・拘禁の施設としての精神病院ということを、終始問題にしているし、その実際や歴史などがよく概観できる。日本では、入院患者が異常に多く、「社会的入院」といわれる、引き取り手がいないため、退院できずにいる、長期入院患者が多い実情や理由も考察される。初めは、同じように、精神病院への隔離・拘禁を旨としていたが、地域での治療に切り替えられた欧米の場合との対比もされる。また、特に、日本の、近代的精神病院移入前の、地域による共同体的な民間療法が紹介され、いかにそれが否定され、隔離・拘禁の精神病院へと移行していったかが、かなり詳しく述べられているのは貴重である。それは、一過性の、治る状態としての「憑き」から、治らず、社会的に危険とみなされる「病気」への移行でもある。

○ 『精神に疾患は存在するか』   北村俊則著    (星和書店)

精神科医によるものだが、「精神疾患」という概念そのものを問い直し、脳に器質的な障害のあるわけでもない、精神の領域に、「疾患」というものがあるとすることには、根拠がないことを、率直に認める書。「精神疾患」という概念を前提としての治療や施策は、差別と弊害をもたらして来たので廃止してよいとする。過激のようだが、多くの研究に基づいて、説得的かつ穏当に説かれており、至極真っ当な内容といえる。

もちろん、「症状」として現れる現象そのものは認めていて、それは、本来、進化的には適合的だったものが、現代の社会との相互作用により、負の現れをするようになったものとする。精神薬の効果も否定しておらず、「治療」というより、「援助」の施術は必要としており、精神医学そのものの全面否定ではない。それにしても、現代の精神医学が、精神医学の権威も必要性も貶める、このような発想を認めるはずはないのだが、現在とり得る、とりあえずの行き方として、このような発想ぐらいは標準になってほしいものである。

関連記事; 『精神に疾患は存在するか』

  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-27a5.html

2011年11月12日 (土)

「火」の両義性と「クンダリニー」

前回、「火」は、神聖視される反面、「アーリマン」存在とも関わる、「破壊的」なものであることを述べた。

要するに、「火」には「両義性」があるわけである

ブッダが「すべては燃えている」というとき、それは「煩悩」そのものを意味しているが、同時に、それは「煩悩」を焼き尽くすものともなる。あるいは、「アーリマン」存在が絡んでいるという、地震にしろ、火山の噴火にしろ、生命に大きな被害をもたらす、強大な「破壊的エネルギー」である。が、また、同時に、それ自体が、地球にとっては、「浄化」の作用をもたらすものともみれる。

「火」が神聖視され、護摩や火葬などにも使われるのは、やはり、この「火」の「浄化」作用のためと思われる。

シュタイナーも、「アーリマン」存在は、「ルシファー的」な欲望や幻想を「刈り取る」ということを述べているが、それは、結局、「浄化」ということにもなろう。

前回述べたように、一連の体験時に、地球の底から沸き起こる、不穏な「音」ないし「エネルギー」を聞いた(感じた)ということがあった。「地球の底から沸き起こる」というのは、まさに実感そのものとして、感じられるものである。が、それには、当時、地球と「一体化」するかのような、特殊の「意識状態」にあったことも影響していて、地球と関連づけられやすかった面もあるかもしれない。

しかし、これは、自己の身体レベルに局限して言えば、自己の身体の底から沸き起こるものとも感じられる。つまり、いわゆる「クンダリニー」(尾てい骨の底にあるとされる霊的エネルギー)の上昇が起こっていたともいえる。実際、当時、全身が振るえたり、額(チャクラでいえばアジナ)の部分から、黒い固まりのエネルギーか放出されたりと、「クンダリニー」の上昇と関連すると思われる現象も起こっていた。

この「クンダリニー」もまた、神聖な「火」とされる。だから、「ビジョン」として、燃え盛る火を見たのも、このような、内なる状態の「反映」という面があったかもしれない。ところが、この「火」もまた「両義的」である。それは、要するに、エネルギーの通路に溜まっている、「不純物」(思考や感情、情念など、さらに広くは「カルマ」)を「燃やし」ているわけで、潜伏しているそれらに、まさに「火をつけ」て、「現象化」させる働きがあるわけである。

だから、「クンダリニー」の上昇は、それ自体が、「恐ろしい」ものとして実感されるし、実際にも、さまざまな「破壊的」現象を招く恐れがある。一種、「パンドラの箱」を開けるようなものである。たとえば、身体を損傷させたり、発狂するなどのことが報告されてもいる。

しかし、それは、やはり、そういった、「不純物」を燃やし尽くし、現象化させることによって、「浄化」をもたらしてもいるのである。

そして、それは、やはり、先にみたような、地球における、地震または火山の噴火という現象とも、一種相関的な現象かもしれないと思う。つまり、地球における、地震または火山の噴火は、人間でいえば、「クンダリニー」の上昇ということに相当する現象ともいえるわけである。

2011年11月 6日 (日)

「アーリマン」と「火地球」

私のブログにもよく出て来るが、R.シュタイナーというのは、「霊的な事柄」について、よく自身の「超感覚的知覚」や「研究」に基づいて、学術的ともいえる、体系的な記述をしている人物として有名である。

しかし、私が、本当に、シュタイナーに注目することになったのは、前にも述べたが、「ルシファー」と「アーリマン」という二系統の「悪魔論」が、あまりに自分の体験とピッタリ符合するもので、しかも、他にそのようなことを明らかにしている者はいなかったからである。シュタイナー(のみ)が、そこまで、自分の体験にピッタリくることを述べていることの衝撃は、とても大きかった。

ところが、『いかにして超感覚的な世界の認識を獲得するか』など、基本的な事柄を述べているものを除いて、講演集などでは、あまり「まとも」に受け取る気にはなれないようなことを、多く述べているのも事実である。シュタイナーも、講演などでは、かなり、自分独自の見方で、「暴走」してしまった面があるのだと、私は思っているが、二系統の「悪魔論」などの「的確さ」を思うと、そういったものも、何かしらの真実を含んでいる可能性はあるとも思える。
.
そして、この度、新たに出された『天地の未来』( 風濤社)という本では、二系統の「悪魔論」と同じく、自分の体験とあまりにピッタリくるという衝撃を、また受けることになった。

これも、また、「アーリマン存在」に関わるものだが、私の体験が、そういったものとの関わりが深かったので、そうなるのは必然ともいえる。

それは、「火地球」という概念で、「霊的」にみた、「地球の内部」の層には、7つの層があり、その一つのに「火地球」というのがある。そこは、いわば、「アーリマン存在」の拠点のようなもので、そこを足場にして、「アーリマン存在」は地球に対して、さまざまな働きかけをしている。そして、「地震」というのも、その一つという。

少し前にも、とりあげたが、私は、一連の体験のときに、地球と「一体」となるかのような体験をもつことになった(記事 <16 「夢幻的世界」へ>http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/16-6c47.html )。そこで、地球の底から、「つきあげる」ような、強烈なエネルギーの動きと不穏な「音」を聞いたのだが、それは、本当に耐え難い、全身を身振るいさせるようなものだった。記事では、地球そのものの「悲鳴」とも受け取られるような書き方をしたが、実際の感じは、もっと本当に、強烈に、「不穏」で、「破壊的」、ある種の「邪悪な意志」を感じさせるようなものでもあった。それは、まさしく、当時、常に目の前にしていた、「アーリマン存在(捕食者)」から伝わって来るものと通じるものであった。

それは、言い換えれば、「なまはげ」が子供を襲うとき、9・11事件のときの、まさにビルに飛び込まんとする飛行機、また、最近では、堤防を突き破ってまさに陸に襲おいかかろうとする津波などと共通するもので、単なる「破壊性」というのではなく、「有無を言わせぬ」「強引」かつ「圧倒的」な、ある種の「意志」を感じさせる「破壊性」なのである。

ただ、私としては、当時、それが、地球の底から沸き起こって来ることに、不信感を持ったのである。

しかし、シュタイナーの「火地球」に関する記述を読むと、そういったことが、一気にふに落ちた。

シュタイナーは、「地球」の内部の層には、人間の「情念」が溜まって、渦巻いている層もあり、「火地球」というのは、その「情念」のエネルギーとも絡んでいるという。「アーリマン」の活動も、その人間の「情念」を基にしているところがあるのである。(いわば、人間の情念を「燃料」にして、アーリマンがそれに火を灯している。)「地震」というのも、そのように、「アーリマン」による単独の働きというよりは、人間の情念や他の様々な要因が絡んだ、複合的な現象ということなのである。

このように、「アーリマン」は、「火」との関係が深いわけだが、当時も、「火」に関わる現象が多く起きていた。

記事にも書いたように、「夢幻的な状態」では、テレビに様々な「ビジョン」が写し出されたのだが、その中でも強く印象に残っているのが、燃え盛る「火」の映像であった。まさに、3Dのように、立体的で、こちらに迫って来るように、鮮明かつ強烈なものであった。密教では、「護摩」を炊いて、「火」を神聖なものとして扱うし、ゾロアスター教は、「拝火教」ともいわれるように、「火」を崇拝する。

この「火」の「ビジョン」も、確かに「神聖」な感じはするのだが、むしろ、どこか、「情念」的な、どろどろしたマグマのようなものを感じさせもした。だから、感じとしては、ブッダが「すべては燃えている」というときの、「火」に近いといえた。

また、記事にも書いたが、「アーリマン」存在には、「火」に関わる「物質化現象」を起こされたりもしている。割と最近も、全く「暗黒」の背景に、「燃え盛る火」が浮き出るという「夢」を見た。

こういったことも、「アーリマン」と「火」との関わりということから、非常に納得がいくものとなった。

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