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2011年10月 6日 (木)

「幽霊」、「霊能者の知覚」の場合

「幽霊」を見たというような場合、それが「幽霊」であることを、どのように確かめることができるだろうか。

それを、厳密に定める基準などは、ないというべきである。しかし、それぞれ具体的な場合において、もはや他の可能性は考えられないという程度の、「確からしい」確認というのは、いくらでも可能と思われる。

前回みた、私の例で言えば、電話で尋ねたとき、「そのような者は、既に死んでいる」と言われ、そのものの容姿とか特徴がある程度一致していれば、私は、もはや100%疑いなく、「幽霊」だと確認できたと思う。それは、多くの者をも納得させるだけの、「客観的な証拠」とまでは言えないだろうが、実際に、その者に接している私にとっては、もはや主観的には、微塵の疑いの余地もないものとなる。そこには、私が、「この目で見ている」という「知覚」の「リアリティ」という要素も、もちろん働いている。しかし、それは、もはや、単に、「この目で見たから間違いない」というのではなく、それを補強する大きな事実が確認されたことになる。

前にあげた「神示」の言葉で言うと、「幽霊」を「この目で見た」(接した)というのは、「霊の目」といえ、その「幽霊」が、実際に既に死んだ人物であるかどうかに関わる事実というのは、「現界の目」(による確認)ともいえる。つまり、その場合は、「霊の目」や「現界の目」の一方に頼らず、両者の「目」によって、よく「見極め」られたということが言えると思う。

心理学者のユングは、晩年まで、「幽霊」の存在や「魂の死後存続」の問題には、疑問を持っていた。「霊」というのは、心理的な現象で、「普遍的無意識の投影」であると考えていた。しかし、晩年、泊まった宿で、典型的な「幽霊体験」をしたことをきっかけに、「霊」の存在や「魂の死後存続」の問題が否定できないものである発言をもするようになった。

典型的な「幽霊体験」とは、ユングの泊まった部屋に、夜な夜な「幽霊」が現れて、いろいろ苦しめられたというものである。(『オカルトの心理学』講談社+α新書 参照)

ユングは、するはずのない足音や、ドアの開けられる音などを聞き、「幽霊」(老女)そのものの姿をも、鮮明に「この目で見た」。ユングは、それを宿の主人に言い、いろいろと問い詰めた。しかし、宿の主人は、まさかと言って、認めない。しかし、あるとき、その娘たちが、あの部屋にはよく「出る」のだということを教えてくれ、よく何日も泊まっていられると言われる。

ユングは、宿を紹介した知人の教授にも、その部屋で泊まってみることを薦め、その知人も、するはずのない足音や、ドアの開けられる音など様々な現象を体験した。そして、後に、宿の主人も、その部屋を人に貸しても、すぐ幽霊が出るということで逃げられてしまうので、もはや、その宿は手放すしかないことを認めたことを知る。

しかし、ユングは、この事件のことを書いている段階では、非常に曖昧な解釈しかしていない。今回の出来事は、そのような説明ではなかなか説明がつかないが、一般には、このような出来事は、催眠類似の状態による心理的な錯覚ないし幻覚作用、閾識下で知覚された何らかの情報に基づき、意識が「構成した」現象などとして説明できるというに止めている。

しかし、後に、そのような説明が維持できなくなったというのは、やはり、このときの出来事が、大きな要因となっているようである。

ユングは、学者として当然とも言えるが、「この目で見た」からと言って、それを即座に判断せず、いろいろと、「現界」的にも、確かめられることはよく確かめている。そのうえで、さらに、「限界」的に説明がつくのなら、その説明の方を極力取ろうとしている。また、ユングには、「共時性」という考えもあって、これまでは、このような「現象」も、実際に「幽霊」などを持ち出さなくとも、「意味的に関連のある出来事が同時に起こった現象」ということで、説明できるとしていた。

しかし、やはり、この時の、度重なるさまさまな現象を、ひとくくりで、「共時性」ということで片付けてしまうのも、あまりに不自然と思われたのだろう。

私も、やはり、このユングの「幽霊」体験で、これだけの「現界」的な確認がとれたなら、それを「幽霊」と認めることの方が、むしろ「自然」で、「率直な」態度であると思う。何しろ、これもまた、「幽霊」についての、一つの「見極め」の例といえる。

それでは、単に、偶発的な「幽霊」との出会いというのではなく、もっと日常的、一般的に、「霊的なもの」と接しているはずの、「霊能者」の場合は、どうであろうか。

彼らからすれば、そのようなものを「見た」り、「接し」たりることは、もはや、「身近」な、「日常的」なものとなっているので、改めて問うまでもなく、「当たり前」のことになっている、というのが、恐らく実感なのではあろう。が、彼らも、初めから、そうであったのではなく、やはり、何らかの過程を経て、それらが「霊的なもの」であることを、認識することになったはずである。

彼らの場合、もはや、単純に、「自分の目で見た」ということが、そのままで、根拠になるというものではないはずである。それは、偶発的な出来事の場合は、大きな衝撃を伴った一つの「事実」であろうが、日常的な出来事になっている場合には、いわば「当然の前提」であって、それ自体が、特別の根拠というものにはなり難い。むしろ、そのようなことが重なると、たとえば、他の人間の「知覚」との違いなどが浮き彫りにされやすく、実際に、その通りのものが存在するのかどうかという、「疑問」を改めて浮上させることも多いと思われる。

もちろん、「霊能者」にもいろいろいて、「見える」ようになった経緯も、その受け止め方もいろいろであろう。しかし、それなりに真摯な、「本物」の霊能者に限ってみると、彼らが、その存在を自信を持って確信するようになるのは、やはり、前にみたように、「自分の目で見る」という「霊の目」と、それが何らかの形で、現実にあるものと確かめられるという「現界の目」による確認ということが、積み重ねられるからと思われる。

たとえば、私の例のように、「自分の見た」、あるいは「接した」もの(霊)が、実際に、後で、再近死んだ「誰々」ということが確認できたり、その「霊」から教えてもらったことが、後に、現実のとおり正しいものと分かったり、などのことである。

偶発的な出来事では、それが、「現界の目」で確かめられる機会というのも少ないが、日常的、頻繁にこのような体験があれば、それを「現界の目」で確かめられる機会というのも、増えることになる。そして、実際に、そのような「確認」を重ねることによって、いわば、「自分の目で見る」ということの「現実的な意味」を「フィードバック」でき、その積み重ねによって、自分の「見方」にも自信がつき、より洗練されていく。

「霊能者」が見る「霊」とは、人間のものには限らないが、人間の霊の場合に、このような「確認」が積み重ねられれば、直接は、確かめる手立てのない「精霊」などの場合にも、その存在の確信が得られるようになるのであろう。

あるいは、江原啓之の場合もそうだが、霊能者でも、自分の「知覚」のみに頼らず、よく他の霊能者の場合やそれらの研究(たとえば「スピリチュアリズム」)も勉強して、客観的に、見識を高めている者もいる。

そのようにして、霊能者の場合、単に「自分の目で見たから間違いない」などというレベルのものではない、「確信」を得ているものと思われる。

しかし、それは、やはり、あくまで、その本人にとっての「確信」であって、本当に厳密に、「正しい」かどうかというのとは別問題ということはいえる。

「現界の目」による確認というのも、常になされ得るものではないし、そのレベルにもいろいろある。反対の視点から、反駁はいくらも可能であろう。また、他の霊能者の場合と比較、参照されると、そこには、一定の「普遍性」があると言っても、そこに、様々な文化的影響を受けた「見方」が反映されているのも事実である。

そういうわけで、その者にとって、「日常的」で「当たり前」の出来事になっているということは、要するに、それら「霊的なもの」が、その者の「現実」として、矛盾なく取り込まれているということである。そして、その過程には、単に「この目で見た」ということではなく、「現界の目」との照合や確認が、それなりに積み重ねられて、「現実」との矛盾を起こすものではなくなっているということである。

それは、結局、我々が、日常的な「身の回りのもの」について、それらを「現実」として、もはや、「疑う」ということがなくなるのと、全く同じことである。我々が、一般に、あるものを「存在する」と「確信」するのは、結局はそういうことであり、また、それ以上のものであることを望むこともできないのである。

あるいは、「人」については、日常的に接せられていれば、その人物の特徴や個性などが自然と身に伝わり、いちいち存在を確認するまでもなく、その者と認識できるということがある。霊能者の、日常的に接している「霊」の認識というのも、要は、それと同じようなものともいえる。

そこには、本当に、厳密な根拠などはない(必要ない)、ともいえるのである。

しかし、そうなるのは、その過程で、それなりの「見極める」という態度が積み重ねられたからこそ、ということが重要である。そして、そのように、それらの体験が、「日常的なもの」として、「矛盾なく」受け止められるようになるということが、いかに貴重なことかは、次の「統合失調症的状況」の場合と比べてみると、よりはっきりするであろう。

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