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2011年10月14日 (金)

「統合失調症的状況」での「知覚」の場合

偶発的な「幽霊」体験は、一回的、一時的な、「幽霊」との遭遇体験であるのに対して、「霊能者」の場合は、継続的、習慣的な、「霊的なもの」との接触なのであった。
それらに対して、「統合失調症的状況」の場合は、これらの「中間的」な場合とみることができる。

「幽霊」体験のように、一回的、一時的なものではないが、霊能者のように、日常化された、継続的、習慣的なものでもない。それは、ほとんど、偶発的なもののように、突然始まるが、しかし、ある時期に、集中して、それなりに継続的に起こる「現象」である。

これは、言い換えれば、前回みたように、偶発的な「幽霊」体験のように、「幻覚」ということで済ますことは難しいということである。それは、一回的なものではなく、現に起こり続ける、継続した出来事だからである。しかし、霊能者の場合のように、その体験を、「日常的」なものとして、「現実」と矛盾なく取り込むことも難しい。それは、相変わらず、あまりに、「非日常的」で、その者の「現実」を脅かす体験だからである。

そのように、非常に、不安定な位置にあるということである。

このような、「統合失調症的状況」での「知覚」の場合についても、「見極める」とはどういうことか、あるいは、そもそもそれが可能なのか、みていきたい。

まず、「統合失調症的状況」での「知覚」の場合、「幽霊」の場合以上に、それが「現実」の「物理的な知覚」と異なるのかどうかということが、分かりにくいということがある。、まず、第一に、そこから、「確かめ」られる必要があるということである。そして、それが、「物理的なものではない」ということが分かってからが、これまでいう意味での、「見極める」ということの、本当の始まりとなる。

たとえば、何らかの「声」が聞こえるという場合、それが生きた人間のものかどうか、「みかけ」の上からは、容易には判断できない。それが「ある人物の声」というみかけを有す場合、その本人に、実際にそういうことを言ったかどうか確かめるということは、もちろん可能ではある。しかし、「統合失調症的状況」での「声」というのは、通常、「不穏な」内容が多いから、よほど信頼し合える間柄でしか、そのようなことは聞けない。また、通りがかりのような、全くの他人の「声」である場合も多いから、そのようなことはでき難いことも多い。

その意味でも、私もこのブログでしているように、「統合失調症的状況」では、たとえ現実の「物理的な声」のように聞こえても、「物理的な声」ではない(多くの者が共通して聞くものではない)ものがあるのだということを、予め、広く知ってもらうことが望ましいのである。

一般には、これを「幻覚(幻聴)」というわけだが、そのような抽象的な言い方では、ほとんど何の「理解」にも役立たないことは前回みたとおりである。本人にしても、それでは、納得する可能性に乏しい。これには、せいぜい、「物理的な声ではない」ということを、明確にさせる意味しかないというべきである。

ただし、「物理的な声ではない」ということを知ることが、第一に重要なことは、何度も繰り返すとおりである。

しかし、場合によっては、何らかの理由で、それが「物理的な声」ではないことが分かることも多いはずである。

そのような場合、多くの者は、それは、その者による、「内心のテレパシー的な声」であると考える。その者の「声」であることは自明なものとして、それが物理的なものではないにしても、「テレパシー」によって、直接心に伝わったものとするのである。「テレパシー」という現象は、超心理学の実験でも、あること自体は、統計的に確認されているものである。

しかし、もしそうであるとすると、ますます、そのことを確かめる手立ては、ないことになる。「内心のテレパシー」などは、普通意識して発せられるものではなく、無意識になされるものだから、本人さえ、そんなことは、自覚していないからである。

さらに、これをもう少し発展させて、その「声」を、その者の「生き霊」と考えることもできる。しかし、その場合にも、結局、同じようなことが言える。通常、本人自身は、「生き霊」として、誰かのところに「出向い」ているなどということは、自覚しないからである。

これらの考えは、要するに、その「声」の「張本人」が、「知覚」においての「みかけ」のとおり、ある特定の「人物」であることを前提としている。だから、その根拠は、結局、その者の「知覚」なのであり、「この耳で聞いたのだから間違いない」ということに、基づいている。しかし、前回みたとおり、そのようなことは、「霊的なもの」については特に、容易に通用しないことである。「霊的なもの」は、「物理的なもの」以上に、いかようにも、「知覚」され得るからである。

そのような「みかけ」のままの「判断」を、とりあえず、留保するということから、「見極める」ということが始まるのである。

いずれにしても、「知覚」したものが、「物理的なものではない」ということが判明するということは、それを単なる「幻覚(幻聴)」と認めるか、あるいは何かしらの「霊的なもの」(テレパシー等を含めて)の「現れ」と認めるかという、選択を迫られることを意味する。そこで、もし、それを、単なる「幻覚(幻聴)」と認めないなら、何かしらの「霊的なもの」の「現れ」ということを、認めざるを得なくなるはずなのである。

しかし、「霊的なもの」であることを認めるということは、これまでの「物理的な現実」についての「判断」が、通用しないものであることを認めるということである。そして、「幽霊」の場合でみたように、「霊的なもの」は、「物質的なもの」のように、固定的な(多くの者に共通な)「知覚」を生み出すわけではないから、「物理的なもの」以上に、その「知覚」は当てにならない、と認めることでもある。

このように、「霊的なもの」であると認めることは、「知覚」というものが、そのままでは当てにならないことを認めるということでもある。それは、「幻覚(幻聴)」のように、一刀両断に、まるごと否定してしまうものではないが、しかし、その「知覚」が、そのまま、正しいものではないということを、認めるということである。そこで、いわば、必然的に、それをさらに、「確かめる」ということ、「見極める」ということが、起こって来なくてはならないのである。

既にみたように、それが何であるかを、「確かめる」ということは、非常に難しいにしても、少なくとも、「知覚」がそのままでは当てにならないことを認めた以上、「判断」を留保して、より注意深く「観察」を続けていくということは、当然必要となってくる。

だから、その意味では、「霊的なもの」であることを認めるということ自体が、既に、「見極める」ことしかできないことを認めることと同じなのである。本来、「霊的なもの」であることを認めたのなら、いやでも、「見極める」ことが始まらなくては、おかしいのである。

しかし、実際には、それが、容易には認められないのである。多くの「妄想」は、それが「物理的なもの」であるということ、あるいは、何かしら、未知の要素を認めたとしても、ほとんど、それ以前の物理的な経験の延長上に築かれるものとなる。「CIAにつけ狙われる」、「宇宙人に監視される」など、通常は、あり得ない、不自然な形でも、いわば「無理やり」に、そのような解釈が、「選ばれ」てしまうのである。

言い換えれば、「見極める」ということが始まらない=「妄想」のような、ある特定の「解釈」を固定的に信じてしまう、というのは、実際には、そのようなこと(「未知のもの」であること、または「霊的なもの」であること」)を「認めたくない」ということの、現れなのである。

前回、「幽霊」の場合でみたように、それが「霊的なもの」と確認されることにも、かなりの恐怖がつきまとう。「統合失調症的状況」の場合は、さらに、「幽霊」以上に実体のはっきりしないものであって、何か「訳の分からないもの」に、付けまとわれてるいることを認めざるを得なくなるから、なおさらなのである。

結局、この「壁」が乗り越えられるかとうかが、一つの分かれ目なのだが、「統合失調症的状況」の場合、その壁は、いやでも、乗り越えるしかない状況ということが言える。

「幽霊」のような、一回的な出来事なら、いくらでも、「幻覚」やその他の理由をつけて、やり過ごしてしまうことができるだろう。が、その出来事が継続して、もはや、その者の「現実」そのものへと侵入しつつある、「統合失調症的状況」では、そういうこともできない。それは、もはや、正面から受け止めるしかないだけの、切迫した状況なのである。

「物理的なもの」でないことが分かり、しかも、「幻覚(幻聴)」ということでは納得できないなら、何らかの「霊的なもの」の「現れ」であることを、正面から認めるしかないのである。

それは、「幽霊」などの場合以上に、難しいのは確かだとしてもである。

前回みた、霊能者の場合でも、生まれつきの能力者でなければ、あるきっかけにより、突然、「霊的なもの」の「知覚」や「接触」が始まったということである。沖縄の「ユタ」などが典型的で、それを「カミダーリ」と言うが、その場合にも、初期には、ほとんど「統合失調症」と同じ「混乱」状態に陥る。それは、それまでの経験に照らしても、本当に「訳が分からない」もので、いやでも、それまでの経験に基づいた「世界(観)」を、崩壊させかねないものだからである。

「ユタ」の場合は、先輩のユタや、文化的伝統の力も借りて、なんとかそれらを克服し、結局、それらの体験を「日常」と矛盾なく取り込むことができるようになることも多い。が、多くの者に理解される余地すらない、一般の「統合失調症的状況」については、これは、至難の業ともいえる。

あるいは、江原啓之も、能力は生まれつきだったようだが、初期のある時期、それらの体験をうまく取り込むことができずに、統合失調症と近い状態に陥ったことを述べている。

だから、実際には、それらがあまりにも大変だから、現代では、「医療」という「対症療法」的な方法で、「治療」を期すしか手がないという状況になっている、ということが言えるのである。そして、私も、それを必ずしも否定はしない。

しかし、たとえ、「医療」の方法に頼るとしても、よほど、すぐにでも治らない限り、現に自分に起こっていることから解放されるわけではない。だから、それを「見極める」ということを、全くしないで済むということになるわけではない。

結局、嫌でも、自分に、それまでの経験からは理解できない、何か「未知のこと」が起こっているということ、それは、「物質的なもの」ではなく、「霊的なもの」であるということ、そして、それについては、虚心に、「見極め」ていくしか、手はないということを、認めるしかないのである。

それらを踏まえて、これまでも何度も述べたことだが、そのような「声」について、どのように解する「可能性」があるかということを述べておこう。

まず、それは、その本人自身が、内心で「思った」り、「恐れた」りしていることの「霊的な反映」である可能性がある。前々回みたとおり、「霊的な領域」では、内心にあるものが、外部的な現れをすることがある。それは、単なる心理的な「投影」ということではなく、「霊的」レベルにおいては、ある種の「実体」として現れ出るのである。(他の「霊能者」などにも、知覚される可能性がある。)しかし、内心にあるものの現れに過ぎないという意味では、「非実在的」なものともいえる。

さらに、その「声」は、何らかの「霊的なもの(存在)」よって、作出されたものである、という可能性がある。「霊的な存在」が、そのような「声」ばかりか、「映像」をも、ほぼ自由に作出し得ることは、前々回みたとおりである。ただ、それが可能なのは、やはり、本人の内心の「イメージ」に引っかけられるからという面があるので、それには、上のような、本人が、思っていることの「霊的な反映」という要素も含まれる。

あるいは、「霊的な存在」による、全くの「作出」というのではなくても、その「みかけ」の人物の背後から、影響を与えるような形で生じたものという可能性もある。これは、いわば、その人物と霊的な存在との、「共同作業」で生じたものということである。(その意味では、「チャネリング」や「神示」と同じである。)しかし、その場合も、実質的には、「霊的な存在」が主導権を握っているとみた方がよい場合が多いと思われる。

ほかにも、いくらか可能性は考えられるだろう。が、まずは、上のような「可能性」こそが、検討されてしかるべきである。

いずれにしても、「霊的なもの」と認めた段階で、ことはそう単純ではなくなる。要は、「知覚」された「みかけ」をそのまま受け取るのではなく、その背後にはどのようなものが働いているのかということを、さらに「観察し」、または「見極め」続けるというしかない。さらには、自分自身の「内心」にあるものが、外部的な現れをしているのかどうかについても、注意深く「見極め」なくてはならないのである。

しかし、そのように「見極める」について、それらを確かめる手立てというのは、「幽霊」の場合以上に、ないと言わねばならない。それらの、「霊的なもの(存在)」は、人間である必然性はないし、実際、「精霊」のような、人間以外のものである可能性が高い。そういったものについては、現に生きていた者と違って、直接確かめる手立てなどはない。霊能者の場合でも、前回みたように、「幽霊」の場合などを通して、経験を積むことによって、その者なりに、認識されているものと思われる。

その意味では、「統合失調症」の場合、何らかの確かめる手立てというのは、ほとんどないと言わねばならない。だから、「見極める」といっても、それを確かめる手立てというのは、ないに等しいのである。つまり、できることは、「見極める」という態度を維持することだけなのである。残念ながら、何らかの「結論」に、はっきりとたどり着き得ることは、ほとんど期待し得ないのだ。

私の場合でいうと、自分の体験のところで、詳しく述べたように、やはり、「霊的なもの」と認めてからは(そこまでにも、相当の紆余曲折を経ているが)、もはや「見極める」ことしかできなくなった。「悪魔」や「天使」、「妖精」など、知っている「概念」をいろいろ当てはめてはみるものの、起こっていることは、いわば、それらの「概念」を常に、「裏切り」続けるものだった。起こっていることが、それらのまなじっかな「概念」に収まり切らないことは、明らかだった。そのような、概念的な「当てはめ」も、何らかの「解釈」も、いわば、一時的な「慰め」に過ぎないようなものだった。

私は、確かに、たとえある「解釈」を生じても、(そうしそうになったことは何度もあるが)、その「解釈」に凝り固まって(「妄想」を生じて)、それに基づいて行動するということはなかった。それは、「見極める」という態度だけは、維持していた、というよりも、それ以外、できることはなかったからである。しかし、そのことによって、何らかの「結論」が分かるというようなことも、またなかったのである。

結局、その結果は、最終的には、「何もかも分からなくなった」というのが本当のところである。そして、そうなると、もはや「見極める」ということすら、意味がなくなってしまうのも確かである。

今、このブログで述べていることは、その後、少なくとも、10数年の「探求」の結果「分かった」ことであって、その当時としては、とても分かり得ることではなかったと改めて思う。私は、当時も、霊的な事柄については、多少は知識を持っているつもりだったが、そんなものはほとんど役に立たないほど、無意味なものだったといえる。せいぜい、ないよりはマシだったろう、というぐらいである。

そして、もちろん、現在こうやって述べていることだって、そのすべてを「解明」したなどと言えるものではない。「物質的なもの」についても、もちろん、現在分かっていることは「わずか」かもしれないが、「霊的なもの」については、まだまだ何も、「分かっていない」に等しい状態といえる。それが、どのように、「物質的なもの」と違うのか、ということさえ、普通の人は、何も「分からない」状態と思われる。

だから、嫌でも、「見極め」ていくということしか、できないわけだが、その態度を維持している限り、少なくとも、「妄想」的な解釈によって、「つっ走って」しまうということは、避けられることは、明らかにできたと思う。

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