« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月

2011年10月27日 (木)

ダスカロスの「統合失調症論」との関係

「霊能者」や「ヒーラー」といわれる者でも、「統合失調症」について、正面からまとまった考えを披露している者は少ない。前に述べたが、ウィックランドや江原啓之などは、「統合失調症」について、霊(主に人霊)の「憑依」という観点から述べている。が、これには、明らかに「解離性障害」との混同があるので、実際には、「統合失調症」の場合を言っているものとは解せない。

そんな中、キプロスのヒーラーであるダスカロスは、かなりまとまった形で、自分も関わった経験から、「統合失調症」について述べている。(『太陽の秘儀』 第2章 「狂気の構造と神秘家」(太陽出版))

これは、貴重なものなので、ここで、今まで述べて来たことと、ダスカロスの説明を照らし合わせておこう。

ダスカロスは、「統合失調症」について、多少研究したこともあるという社会学者マルキデスの質問に答える形で、考えを述べている。まず、「統合失調症者」が聞く「声」というものは、ただの「幻覚」ではなく、(心霊的に)実際に「存在」するものであることが述べられる。そして、自分も、それに同調すれば、同じ「声」を聞くことができるということを強調する。そうして、その「声」というものは、多くの場合、「他者のエレメンタル」なのだとする。

「エレメンタル」(想念形態)とは、ある者の「思い」が、霊的レベルで、「実体化」したものである。つまり、前々回、可能性の1つとして述べた、内心の思いの「霊的反映」というのと同じである。ただ、ダスカロスは、それが、その本人から切り離されて、独立の「生き物」のように振る舞うことを強調するので、むしろ、「生き霊」と言った方が、ピッタリ来るだろう。

「統合失調症者」は、準備もなく、望まずに、そのような領域に入り込むので、乱れた状態のまま、認識の扉を開けて、「エレメンタル」にまとわりつかれ、その「声」を聞く。しかし、それに「振り回され」て、どうしてよいか分からず、精神の崩壊を来たすのだという。それに対して、「神秘家」は、明確な自覚のもと、そのような領域に入り、物質界との混同を生じることもなく、自分のコントロールのもとに、そのような領域を泳いでいくことができるのだと言う。

ダスカロスの論で、注意すべきは、「統合失調症者」の聞く「声」は、「本人」ではなく、「他者」の発する「エレメンタル」と言っていることである。その意味では、前々回みた中では、私が、「みかけ」のままの発想と言った、「他者のテレパシー」や「生き霊」という見方と、通じることになる。

ただ、ダスカロスも、これら「他者のエレメンタル」は、「本人」が引き出しているのだという言い方もしている。つまり、そこには、前々回の可能性で見たように、本人の内心の「思い」の影響もあるわけである。

また、そもそも、ダスカロスは、これらの論を、「エレメンタル」一般について、その影響の一例として述べている。つまり、「エレメンタル」というものが、実際に「存在」し、それがいかに人間に多くの影響を与えているかということの一例として、「統合失調症」の場合についても述べている。だから、ここでは、「エレメンタル」というものが前面に出されて、あえて、その背後にあるものなどには、言及されていない。

しかし、ダスカロスも、他の著書(『メッセンジャー』太陽出版)では、ネガティブな「エレメンタル」は、「ルシファー存在」と呼ぶ悪魔的存在によって「管理」されている、ことを述べている。つまり、「エレメンタル」の背後には、そのような「霊的存在」の影響があり得るということであり、統合失調症をもたらす、「他者のエレメンタル」の背後にも、そのような影響があるとも解し得るはずである。

ただ、実際には、個々の場合で、その「エレメンタル」の背後に働くものの影響の度合いは、様々であり得るだろう。

私の場合は、その背後に働くものの影響が強く、その方が主導権を握っている、というよりも、むしろ、背後に働くものこそが、「声」を「創出」していると言うべき場合が多かったと思われる。それに対して、「エレメンタル」の背後に働くものの影響は少なく、まさに、「他者のエレメンタル」そのものの影響が強いという場合も、あるのだろう。

しかし、いずれにしても、それらを「見極める」ということは、依然必要なことだし、「みかけ」のままに、「他者の声」ということに囚われると、ダスカロスも言うように、「振り回される」だけに終わる可能性が高いはずである。

2011年10月20日 (木)

「声」発生のメカニズム―図

  Photo_2
以上これまで述べたことを踏まえて、「統合失調症的状況」において、最も典型的と思われる「声の発生のメカニズム」について、図にしてみた。

結局、「統合失調症的状況」において聞かれる「声」というのは、「本人の内心」と「霊的存在の影響」とそれに対する「他者の(無意識的)反応」という、三者が絡み合って生じたものと解される。

ただ、これが、「みかけ」では、「他者」の発する「声」という面しか「見えない」ので、それを単純に、その「他者」によるものとみなしてしまうと、「迫害されている」などの「妄想」が生じてしまうのである。

私は、実際には、「霊的存在」そのものによる「声」や、「他者」そのものによる「声」(としか思えないもの)も聞いているので、「声」のすべてがそうであるということではない。

しかし、人が典型的な「妄想」に陥りやすいような「声」というのは、まず、この三者の絡み合いで生じていると解して間違いないと思う。

そして、「みかけ」に反して、そこで大きな影響を与えているのは、「本人の内心」と「霊的存在の影響」の場合が多いと思われる。だから、「見極める」というのは、結局、その「みかけ」に囚われず、その背後にある、これらの要素について、注意深く「目を行き届かせる」ということなのである。

2011年10月14日 (金)

「統合失調症的状況」での「知覚」の場合

偶発的な「幽霊」体験は、一回的、一時的な、「幽霊」との遭遇体験であるのに対して、「霊能者」の場合は、継続的、習慣的な、「霊的なもの」との接触なのであった。
それらに対して、「統合失調症的状況」の場合は、これらの「中間的」な場合とみることができる。

「幽霊」体験のように、一回的、一時的なものではないが、霊能者のように、日常化された、継続的、習慣的なものでもない。それは、ほとんど、偶発的なもののように、突然始まるが、しかし、ある時期に、集中して、それなりに継続的に起こる「現象」である。

これは、言い換えれば、前回みたように、偶発的な「幽霊」体験のように、「幻覚」ということで済ますことは難しいということである。それは、一回的なものではなく、現に起こり続ける、継続した出来事だからである。しかし、霊能者の場合のように、その体験を、「日常的」なものとして、「現実」と矛盾なく取り込むことも難しい。それは、相変わらず、あまりに、「非日常的」で、その者の「現実」を脅かす体験だからである。

そのように、非常に、不安定な位置にあるということである。

このような、「統合失調症的状況」での「知覚」の場合についても、「見極める」とはどういうことか、あるいは、そもそもそれが可能なのか、みていきたい。

まず、「統合失調症的状況」での「知覚」の場合、「幽霊」の場合以上に、それが「現実」の「物理的な知覚」と異なるのかどうかということが、分かりにくいということがある。、まず、第一に、そこから、「確かめ」られる必要があるということである。そして、それが、「物理的なものではない」ということが分かってからが、これまでいう意味での、「見極める」ということの、本当の始まりとなる。

たとえば、何らかの「声」が聞こえるという場合、それが生きた人間のものかどうか、「みかけ」の上からは、容易には判断できない。それが「ある人物の声」というみかけを有す場合、その本人に、実際にそういうことを言ったかどうか確かめるということは、もちろん可能ではある。しかし、「統合失調症的状況」での「声」というのは、通常、「不穏な」内容が多いから、よほど信頼し合える間柄でしか、そのようなことは聞けない。また、通りがかりのような、全くの他人の「声」である場合も多いから、そのようなことはでき難いことも多い。

その意味でも、私もこのブログでしているように、「統合失調症的状況」では、たとえ現実の「物理的な声」のように聞こえても、「物理的な声」ではない(多くの者が共通して聞くものではない)ものがあるのだということを、予め、広く知ってもらうことが望ましいのである。

一般には、これを「幻覚(幻聴)」というわけだが、そのような抽象的な言い方では、ほとんど何の「理解」にも役立たないことは前回みたとおりである。本人にしても、それでは、納得する可能性に乏しい。これには、せいぜい、「物理的な声ではない」ということを、明確にさせる意味しかないというべきである。

ただし、「物理的な声ではない」ということを知ることが、第一に重要なことは、何度も繰り返すとおりである。

しかし、場合によっては、何らかの理由で、それが「物理的な声」ではないことが分かることも多いはずである。

そのような場合、多くの者は、それは、その者による、「内心のテレパシー的な声」であると考える。その者の「声」であることは自明なものとして、それが物理的なものではないにしても、「テレパシー」によって、直接心に伝わったものとするのである。「テレパシー」という現象は、超心理学の実験でも、あること自体は、統計的に確認されているものである。

しかし、もしそうであるとすると、ますます、そのことを確かめる手立ては、ないことになる。「内心のテレパシー」などは、普通意識して発せられるものではなく、無意識になされるものだから、本人さえ、そんなことは、自覚していないからである。

さらに、これをもう少し発展させて、その「声」を、その者の「生き霊」と考えることもできる。しかし、その場合にも、結局、同じようなことが言える。通常、本人自身は、「生き霊」として、誰かのところに「出向い」ているなどということは、自覚しないからである。

これらの考えは、要するに、その「声」の「張本人」が、「知覚」においての「みかけ」のとおり、ある特定の「人物」であることを前提としている。だから、その根拠は、結局、その者の「知覚」なのであり、「この耳で聞いたのだから間違いない」ということに、基づいている。しかし、前回みたとおり、そのようなことは、「霊的なもの」については特に、容易に通用しないことである。「霊的なもの」は、「物理的なもの」以上に、いかようにも、「知覚」され得るからである。

そのような「みかけ」のままの「判断」を、とりあえず、留保するということから、「見極める」ということが始まるのである。

いずれにしても、「知覚」したものが、「物理的なものではない」ということが判明するということは、それを単なる「幻覚(幻聴)」と認めるか、あるいは何かしらの「霊的なもの」(テレパシー等を含めて)の「現れ」と認めるかという、選択を迫られることを意味する。そこで、もし、それを、単なる「幻覚(幻聴)」と認めないなら、何かしらの「霊的なもの」の「現れ」ということを、認めざるを得なくなるはずなのである。

しかし、「霊的なもの」であることを認めるということは、これまでの「物理的な現実」についての「判断」が、通用しないものであることを認めるということである。そして、「幽霊」の場合でみたように、「霊的なもの」は、「物質的なもの」のように、固定的な(多くの者に共通な)「知覚」を生み出すわけではないから、「物理的なもの」以上に、その「知覚」は当てにならない、と認めることでもある。

このように、「霊的なもの」であると認めることは、「知覚」というものが、そのままでは当てにならないことを認めるということでもある。それは、「幻覚(幻聴)」のように、一刀両断に、まるごと否定してしまうものではないが、しかし、その「知覚」が、そのまま、正しいものではないということを、認めるということである。そこで、いわば、必然的に、それをさらに、「確かめる」ということ、「見極める」ということが、起こって来なくてはならないのである。

既にみたように、それが何であるかを、「確かめる」ということは、非常に難しいにしても、少なくとも、「知覚」がそのままでは当てにならないことを認めた以上、「判断」を留保して、より注意深く「観察」を続けていくということは、当然必要となってくる。

だから、その意味では、「霊的なもの」であることを認めるということ自体が、既に、「見極める」ことしかできないことを認めることと同じなのである。本来、「霊的なもの」であることを認めたのなら、いやでも、「見極める」ことが始まらなくては、おかしいのである。

しかし、実際には、それが、容易には認められないのである。多くの「妄想」は、それが「物理的なもの」であるということ、あるいは、何かしら、未知の要素を認めたとしても、ほとんど、それ以前の物理的な経験の延長上に築かれるものとなる。「CIAにつけ狙われる」、「宇宙人に監視される」など、通常は、あり得ない、不自然な形でも、いわば「無理やり」に、そのような解釈が、「選ばれ」てしまうのである。

言い換えれば、「見極める」ということが始まらない=「妄想」のような、ある特定の「解釈」を固定的に信じてしまう、というのは、実際には、そのようなこと(「未知のもの」であること、または「霊的なもの」であること」)を「認めたくない」ということの、現れなのである。

前回、「幽霊」の場合でみたように、それが「霊的なもの」と確認されることにも、かなりの恐怖がつきまとう。「統合失調症的状況」の場合は、さらに、「幽霊」以上に実体のはっきりしないものであって、何か「訳の分からないもの」に、付けまとわれてるいることを認めざるを得なくなるから、なおさらなのである。

結局、この「壁」が乗り越えられるかとうかが、一つの分かれ目なのだが、「統合失調症的状況」の場合、その壁は、いやでも、乗り越えるしかない状況ということが言える。

「幽霊」のような、一回的な出来事なら、いくらでも、「幻覚」やその他の理由をつけて、やり過ごしてしまうことができるだろう。が、その出来事が継続して、もはや、その者の「現実」そのものへと侵入しつつある、「統合失調症的状況」では、そういうこともできない。それは、もはや、正面から受け止めるしかないだけの、切迫した状況なのである。

「物理的なもの」でないことが分かり、しかも、「幻覚(幻聴)」ということでは納得できないなら、何らかの「霊的なもの」の「現れ」であることを、正面から認めるしかないのである。

それは、「幽霊」などの場合以上に、難しいのは確かだとしてもである。

前回みた、霊能者の場合でも、生まれつきの能力者でなければ、あるきっかけにより、突然、「霊的なもの」の「知覚」や「接触」が始まったということである。沖縄の「ユタ」などが典型的で、それを「カミダーリ」と言うが、その場合にも、初期には、ほとんど「統合失調症」と同じ「混乱」状態に陥る。それは、それまでの経験に照らしても、本当に「訳が分からない」もので、いやでも、それまでの経験に基づいた「世界(観)」を、崩壊させかねないものだからである。

「ユタ」の場合は、先輩のユタや、文化的伝統の力も借りて、なんとかそれらを克服し、結局、それらの体験を「日常」と矛盾なく取り込むことができるようになることも多い。が、多くの者に理解される余地すらない、一般の「統合失調症的状況」については、これは、至難の業ともいえる。

あるいは、江原啓之も、能力は生まれつきだったようだが、初期のある時期、それらの体験をうまく取り込むことができずに、統合失調症と近い状態に陥ったことを述べている。

だから、実際には、それらがあまりにも大変だから、現代では、「医療」という「対症療法」的な方法で、「治療」を期すしか手がないという状況になっている、ということが言えるのである。そして、私も、それを必ずしも否定はしない。

しかし、たとえ、「医療」の方法に頼るとしても、よほど、すぐにでも治らない限り、現に自分に起こっていることから解放されるわけではない。だから、それを「見極める」ということを、全くしないで済むということになるわけではない。

結局、嫌でも、自分に、それまでの経験からは理解できない、何か「未知のこと」が起こっているということ、それは、「物質的なもの」ではなく、「霊的なもの」であるということ、そして、それについては、虚心に、「見極め」ていくしか、手はないということを、認めるしかないのである。

それらを踏まえて、これまでも何度も述べたことだが、そのような「声」について、どのように解する「可能性」があるかということを述べておこう。

まず、それは、その本人自身が、内心で「思った」り、「恐れた」りしていることの「霊的な反映」である可能性がある。前々回みたとおり、「霊的な領域」では、内心にあるものが、外部的な現れをすることがある。それは、単なる心理的な「投影」ということではなく、「霊的」レベルにおいては、ある種の「実体」として現れ出るのである。(他の「霊能者」などにも、知覚される可能性がある。)しかし、内心にあるものの現れに過ぎないという意味では、「非実在的」なものともいえる。

さらに、その「声」は、何らかの「霊的なもの(存在)」よって、作出されたものである、という可能性がある。「霊的な存在」が、そのような「声」ばかりか、「映像」をも、ほぼ自由に作出し得ることは、前々回みたとおりである。ただ、それが可能なのは、やはり、本人の内心の「イメージ」に引っかけられるからという面があるので、それには、上のような、本人が、思っていることの「霊的な反映」という要素も含まれる。

あるいは、「霊的な存在」による、全くの「作出」というのではなくても、その「みかけ」の人物の背後から、影響を与えるような形で生じたものという可能性もある。これは、いわば、その人物と霊的な存在との、「共同作業」で生じたものということである。(その意味では、「チャネリング」や「神示」と同じである。)しかし、その場合も、実質的には、「霊的な存在」が主導権を握っているとみた方がよい場合が多いと思われる。

ほかにも、いくらか可能性は考えられるだろう。が、まずは、上のような「可能性」こそが、検討されてしかるべきである。

いずれにしても、「霊的なもの」と認めた段階で、ことはそう単純ではなくなる。要は、「知覚」された「みかけ」をそのまま受け取るのではなく、その背後にはどのようなものが働いているのかということを、さらに「観察し」、または「見極め」続けるというしかない。さらには、自分自身の「内心」にあるものが、外部的な現れをしているのかどうかについても、注意深く「見極め」なくてはならないのである。

しかし、そのように「見極める」について、それらを確かめる手立てというのは、「幽霊」の場合以上に、ないと言わねばならない。それらの、「霊的なもの(存在)」は、人間である必然性はないし、実際、「精霊」のような、人間以外のものである可能性が高い。そういったものについては、現に生きていた者と違って、直接確かめる手立てなどはない。霊能者の場合でも、前回みたように、「幽霊」の場合などを通して、経験を積むことによって、その者なりに、認識されているものと思われる。

その意味では、「統合失調症」の場合、何らかの確かめる手立てというのは、ほとんどないと言わねばならない。だから、「見極める」といっても、それを確かめる手立てというのは、ないに等しいのである。つまり、できることは、「見極める」という態度を維持することだけなのである。残念ながら、何らかの「結論」に、はっきりとたどり着き得ることは、ほとんど期待し得ないのだ。

私の場合でいうと、自分の体験のところで、詳しく述べたように、やはり、「霊的なもの」と認めてからは(そこまでにも、相当の紆余曲折を経ているが)、もはや「見極める」ことしかできなくなった。「悪魔」や「天使」、「妖精」など、知っている「概念」をいろいろ当てはめてはみるものの、起こっていることは、いわば、それらの「概念」を常に、「裏切り」続けるものだった。起こっていることが、それらのまなじっかな「概念」に収まり切らないことは、明らかだった。そのような、概念的な「当てはめ」も、何らかの「解釈」も、いわば、一時的な「慰め」に過ぎないようなものだった。

私は、確かに、たとえある「解釈」を生じても、(そうしそうになったことは何度もあるが)、その「解釈」に凝り固まって(「妄想」を生じて)、それに基づいて行動するということはなかった。それは、「見極める」という態度だけは、維持していた、というよりも、それ以外、できることはなかったからである。しかし、そのことによって、何らかの「結論」が分かるというようなことも、またなかったのである。

結局、その結果は、最終的には、「何もかも分からなくなった」というのが本当のところである。そして、そうなると、もはや「見極める」ということすら、意味がなくなってしまうのも確かである。

今、このブログで述べていることは、その後、少なくとも、10数年の「探求」の結果「分かった」ことであって、その当時としては、とても分かり得ることではなかったと改めて思う。私は、当時も、霊的な事柄については、多少は知識を持っているつもりだったが、そんなものはほとんど役に立たないほど、無意味なものだったといえる。せいぜい、ないよりはマシだったろう、というぐらいである。

そして、もちろん、現在こうやって述べていることだって、そのすべてを「解明」したなどと言えるものではない。「物質的なもの」についても、もちろん、現在分かっていることは「わずか」かもしれないが、「霊的なもの」については、まだまだ何も、「分かっていない」に等しい状態といえる。それが、どのように、「物質的なもの」と違うのか、ということさえ、普通の人は、何も「分からない」状態と思われる。

だから、嫌でも、「見極め」ていくということしか、できないわけだが、その態度を維持している限り、少なくとも、「妄想」的な解釈によって、「つっ走って」しまうということは、避けられることは、明らかにできたと思う。

2011年10月 6日 (木)

「幽霊」、「霊能者の知覚」の場合

「幽霊」を見たというような場合、それが「幽霊」であることを、どのように確かめることができるだろうか。

それを、厳密に定める基準などは、ないというべきである。しかし、それぞれ具体的な場合において、もはや他の可能性は考えられないという程度の、「確からしい」確認というのは、いくらでも可能と思われる。

前回みた、私の例で言えば、電話で尋ねたとき、「そのような者は、既に死んでいる」と言われ、そのものの容姿とか特徴がある程度一致していれば、私は、もはや100%疑いなく、「幽霊」だと確認できたと思う。それは、多くの者をも納得させるだけの、「客観的な証拠」とまでは言えないだろうが、実際に、その者に接している私にとっては、もはや主観的には、微塵の疑いの余地もないものとなる。そこには、私が、「この目で見ている」という「知覚」の「リアリティ」という要素も、もちろん働いている。しかし、それは、もはや、単に、「この目で見たから間違いない」というのではなく、それを補強する大きな事実が確認されたことになる。

前にあげた「神示」の言葉で言うと、「幽霊」を「この目で見た」(接した)というのは、「霊の目」といえ、その「幽霊」が、実際に既に死んだ人物であるかどうかに関わる事実というのは、「現界の目」(による確認)ともいえる。つまり、その場合は、「霊の目」や「現界の目」の一方に頼らず、両者の「目」によって、よく「見極め」られたということが言えると思う。

心理学者のユングは、晩年まで、「幽霊」の存在や「魂の死後存続」の問題には、疑問を持っていた。「霊」というのは、心理的な現象で、「普遍的無意識の投影」であると考えていた。しかし、晩年、泊まった宿で、典型的な「幽霊体験」をしたことをきっかけに、「霊」の存在や「魂の死後存続」の問題が否定できないものである発言をもするようになった。

典型的な「幽霊体験」とは、ユングの泊まった部屋に、夜な夜な「幽霊」が現れて、いろいろ苦しめられたというものである。(『オカルトの心理学』講談社+α新書 参照)

ユングは、するはずのない足音や、ドアの開けられる音などを聞き、「幽霊」(老女)そのものの姿をも、鮮明に「この目で見た」。ユングは、それを宿の主人に言い、いろいろと問い詰めた。しかし、宿の主人は、まさかと言って、認めない。しかし、あるとき、その娘たちが、あの部屋にはよく「出る」のだということを教えてくれ、よく何日も泊まっていられると言われる。

ユングは、宿を紹介した知人の教授にも、その部屋で泊まってみることを薦め、その知人も、するはずのない足音や、ドアの開けられる音など様々な現象を体験した。そして、後に、宿の主人も、その部屋を人に貸しても、すぐ幽霊が出るということで逃げられてしまうので、もはや、その宿は手放すしかないことを認めたことを知る。

しかし、ユングは、この事件のことを書いている段階では、非常に曖昧な解釈しかしていない。今回の出来事は、そのような説明ではなかなか説明がつかないが、一般には、このような出来事は、催眠類似の状態による心理的な錯覚ないし幻覚作用、閾識下で知覚された何らかの情報に基づき、意識が「構成した」現象などとして説明できるというに止めている。

しかし、後に、そのような説明が維持できなくなったというのは、やはり、このときの出来事が、大きな要因となっているようである。

ユングは、学者として当然とも言えるが、「この目で見た」からと言って、それを即座に判断せず、いろいろと、「現界」的にも、確かめられることはよく確かめている。そのうえで、さらに、「限界」的に説明がつくのなら、その説明の方を極力取ろうとしている。また、ユングには、「共時性」という考えもあって、これまでは、このような「現象」も、実際に「幽霊」などを持ち出さなくとも、「意味的に関連のある出来事が同時に起こった現象」ということで、説明できるとしていた。

しかし、やはり、この時の、度重なるさまさまな現象を、ひとくくりで、「共時性」ということで片付けてしまうのも、あまりに不自然と思われたのだろう。

私も、やはり、このユングの「幽霊」体験で、これだけの「現界」的な確認がとれたなら、それを「幽霊」と認めることの方が、むしろ「自然」で、「率直な」態度であると思う。何しろ、これもまた、「幽霊」についての、一つの「見極め」の例といえる。

それでは、単に、偶発的な「幽霊」との出会いというのではなく、もっと日常的、一般的に、「霊的なもの」と接しているはずの、「霊能者」の場合は、どうであろうか。

彼らからすれば、そのようなものを「見た」り、「接し」たりることは、もはや、「身近」な、「日常的」なものとなっているので、改めて問うまでもなく、「当たり前」のことになっている、というのが、恐らく実感なのではあろう。が、彼らも、初めから、そうであったのではなく、やはり、何らかの過程を経て、それらが「霊的なもの」であることを、認識することになったはずである。

彼らの場合、もはや、単純に、「自分の目で見た」ということが、そのままで、根拠になるというものではないはずである。それは、偶発的な出来事の場合は、大きな衝撃を伴った一つの「事実」であろうが、日常的な出来事になっている場合には、いわば「当然の前提」であって、それ自体が、特別の根拠というものにはなり難い。むしろ、そのようなことが重なると、たとえば、他の人間の「知覚」との違いなどが浮き彫りにされやすく、実際に、その通りのものが存在するのかどうかという、「疑問」を改めて浮上させることも多いと思われる。

もちろん、「霊能者」にもいろいろいて、「見える」ようになった経緯も、その受け止め方もいろいろであろう。しかし、それなりに真摯な、「本物」の霊能者に限ってみると、彼らが、その存在を自信を持って確信するようになるのは、やはり、前にみたように、「自分の目で見る」という「霊の目」と、それが何らかの形で、現実にあるものと確かめられるという「現界の目」による確認ということが、積み重ねられるからと思われる。

たとえば、私の例のように、「自分の見た」、あるいは「接した」もの(霊)が、実際に、後で、再近死んだ「誰々」ということが確認できたり、その「霊」から教えてもらったことが、後に、現実のとおり正しいものと分かったり、などのことである。

偶発的な出来事では、それが、「現界の目」で確かめられる機会というのも少ないが、日常的、頻繁にこのような体験があれば、それを「現界の目」で確かめられる機会というのも、増えることになる。そして、実際に、そのような「確認」を重ねることによって、いわば、「自分の目で見る」ということの「現実的な意味」を「フィードバック」でき、その積み重ねによって、自分の「見方」にも自信がつき、より洗練されていく。

「霊能者」が見る「霊」とは、人間のものには限らないが、人間の霊の場合に、このような「確認」が積み重ねられれば、直接は、確かめる手立てのない「精霊」などの場合にも、その存在の確信が得られるようになるのであろう。

あるいは、江原啓之の場合もそうだが、霊能者でも、自分の「知覚」のみに頼らず、よく他の霊能者の場合やそれらの研究(たとえば「スピリチュアリズム」)も勉強して、客観的に、見識を高めている者もいる。

そのようにして、霊能者の場合、単に「自分の目で見たから間違いない」などというレベルのものではない、「確信」を得ているものと思われる。

しかし、それは、やはり、あくまで、その本人にとっての「確信」であって、本当に厳密に、「正しい」かどうかというのとは別問題ということはいえる。

「現界の目」による確認というのも、常になされ得るものではないし、そのレベルにもいろいろある。反対の視点から、反駁はいくらも可能であろう。また、他の霊能者の場合と比較、参照されると、そこには、一定の「普遍性」があると言っても、そこに、様々な文化的影響を受けた「見方」が反映されているのも事実である。

そういうわけで、その者にとって、「日常的」で「当たり前」の出来事になっているということは、要するに、それら「霊的なもの」が、その者の「現実」として、矛盾なく取り込まれているということである。そして、その過程には、単に「この目で見た」ということではなく、「現界の目」との照合や確認が、それなりに積み重ねられて、「現実」との矛盾を起こすものではなくなっているということである。

それは、結局、我々が、日常的な「身の回りのもの」について、それらを「現実」として、もはや、「疑う」ということがなくなるのと、全く同じことである。我々が、一般に、あるものを「存在する」と「確信」するのは、結局はそういうことであり、また、それ以上のものであることを望むこともできないのである。

あるいは、「人」については、日常的に接せられていれば、その人物の特徴や個性などが自然と身に伝わり、いちいち存在を確認するまでもなく、その者と認識できるということがある。霊能者の、日常的に接している「霊」の認識というのも、要は、それと同じようなものともいえる。

そこには、本当に、厳密な根拠などはない(必要ない)、ともいえるのである。

しかし、そうなるのは、その過程で、それなりの「見極める」という態度が積み重ねられたからこそ、ということが重要である。そして、そのように、それらの体験が、「日常的なもの」として、「矛盾なく」受け止められるようになるということが、いかに貴重なことかは、次の「統合失調症的状況」の場合と比べてみると、よりはっきりするであろう。

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

新設ページ

ガジェット時計Part11(光る玉・バージョン) - ガジェットダウンロードするなら、ガジェットギャラリー
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

コメントの投稿について

無料ブログはココログ