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2011年9月29日 (木)

「幻覚」という「判断」について

「霊的なもの」については、「この目で見た」ということ(知覚)に頼らず、さらに「見極め」ていくことが必要と言った。ここで、「見極め」ていくというのは、安易に「知覚」に頼った判断をしないで、判断を「留保」するということが前提となっている。というよりも、むしろ、この、「判断を留保すること」―ということは、自分が「見たもの」が、何か「分からない」ものであることを認めること―、そうすることができるということ、こそが、重要なのである。

言い換えると、「見極め」ようとする態度自体が重要なことであって、それが何であるかについて、即断したり、あれこれ、詮索したり、考察して、何らかの結論に至るということが重要なのではない。「霊的なもの」に触れたときには、とりあえず、容易に判断ができないということを、認めてしまうことができるかどうかが、一つの分かれ目なのである。

それは、それが、「霊的なもの」という以上は、それまで自分が接して来た「身の回りのもの」=「物質的な物」とは、性質の違うものなのだから、当然と言えば当然である。しかし、人は、これができ難く、どうしても、それまで自分がして来た判断の延長上に、それをも「押し込め」てしまおうとするのである。それには、何か「分からない」ものに触れているという状態は、強い不安を呼び起こすということもある。

「統合失調症的状況」の「妄想」という問題も、実は、ほとんど、このような問題に帰すことができるのだが、それについてはまた後に詳しく述べよう。

しかし、そもそも、それが「霊的なもの」と認めることも、一つの「判断」なのではないかと言うなら、確かにそれはそうである。しかし、それは、新たな「判断」というよりは、それまでの「身の回りの物」=「物質的な物」についてしてきた、惰性化した判断を、とりあえず「止める」、「棚に上げる」ということに重点がある。いわば、消極的な意味の「判断」なのである。

もし、これをしないとしたら、逆に、それは、自ずと、それまで「物質的なもの」についてしていたのと同様の判断を、それにも、あてはめるしかないことになる。それは、それ自体が、既に、「判断」の継続ということになる。そして、その場合は、ほぼ、それを「幻覚」と判断するしかないことになるだろう。(あるいは、統合失調症でもよくあるように、何らかの「電波」的な技術を持ち出して、それによって創出された「映像」なり「音声」と解することにもなる)

しかし、実際には、「幻覚」という判断も、「この目で見たから間違いない」という判断とほとんど裏腹の、根拠の薄い「即断」というべきなのである。

一般に、「幽霊」などは、よく足がない絵が描かれるが、うすぼんやりとした、不明瞭なものと思われている。しかし、実際には、「生きている人間」と同じように、ほとんど「実体的なもの」として、「鮮明」に見ることも多いはずである。そこで、その者も、その「予想外」の「リアリティ」の衝撃という影響もあって、「この目で見たのだから間違いない」などと、(他に根拠など必要ないかのような)判断をしてしまいがちである。そこでは、「見える」ということが、そのように通常の身の回りの「もの」と同じように生じているので、そういうものを通常確認しているのと同じレベルで、「この目で見たのだから間違いない」などと、判断されることにもなるのだろう。

しかし、また、「幽霊」には、うすぼんやりとしたものや、形の定かでないもの、一瞬だけ知覚に留まるようなものもある。

そのような場合には、それは、確かに、一般に「幽霊」といわれるものとイメージ的には合致するのだが、確かな「実体」という「みかけ」が薄い分、そんなはずはない、あれは「幻覚」だったのだということで、 済まされることになりやすいのだろう。

それは、言い換えれば、「幻覚」というものもまた、まさに「幽霊」と同じように、曖昧で、うすぼんやりとしたものと思われているということである。だから、「生きている人間」と同じように、「実体的」なものとして見えるときは、「幻覚」であるはずがないという意味で、「この目で見たのだから間違いない」などと言われ、まさに「幽霊」そのもののように、曖昧にうすぼんやり見えるときは、「幻覚」だろうということで済まされることにもなる。

実際には、「幽霊」が曖昧でうすぼんやりしたものとは限らないように、「幻覚」というのも、曖昧でうすぼんやりしたものとは限らない。「夢」や「幻覚剤による幻覚実験」などでも、いくらでも、鮮明で、実体的なものはある。

結局、そこには、一般に行き渡った、「幽霊」というもののイメージや、「幻覚」というもののイメージが大きく影響しているのである。

また、一方、「幻覚」という概念が、非常に曖昧で、とらえどころのないものであるのも確かなことである。「幻覚」というのは、「存在しないものを知覚する」ことだと言われるが、その「存在しない」ということは、どうやって決められるのか。それは、突き詰めれば、一般に、「多くの者が共通して知覚しない」ということ、あるいは、もう少し概念化して言うと、「物質的なものとして存在を確認することができない」ということになろう。

しかし、「幽霊」などは、もともと、誰にも知覚されるものとはされていないし、そもそも、「物質的なもの」ではないのだから、それも当然である。もし、「物質的もの」だけが「存在する」ということが、予め前提にされて、「幻覚」と言われるのであれば、それは、「幻覚」か否かは、「物の見方」からくる相違でしかないことになる。また、「幽霊」を「見る」という人は、多くはないかもしれないが、一定の程度いて、決して、ある者だけとか、限られた人にだけ起こることではない。また、その「知覚」というのも、決して、人によって、全く「デタラメ」ではなく、ある程度の共通性や普遍性がみられるものである。だから、通常の「物質的なもの」が、多くの者によって「共通して見られる」ことによって、「存在の根拠」とされているのであれば、結局、それとは、ほとんど「程度問題」ということにもなる。

ということで、ある者が「見た」というものが、「幻覚」であるということも、また、「積極的」な意味では、ほとんど確証し得るものではない。また、「幻覚」という概念自体にも、どれほどの積極的な意味があるか、疑問なのである。

私も、ほぼ「幽霊」としか考えられないものを、2度ほど見、また体験しているが、それは、「生きてる人間」と全く同じように、「鮮明」で、「実体的」なものであった。そのうち、一度は、友人と一緒にいて、友人も確認しているので、私だけの主観的な知覚ではない。さらに、もう一度は、何と、当時私の住んでいたアパートを、新聞の勧誘員として訪ねて来て、直接接触したのである。

いずれも、状況からは、生きている「人間」であるとは考えにくく、幽霊としか思えないものである。あるいは、一瞬にして、いる場所が変わっているなど、それを補強する、「現象」も起こしていた。

ただ、私の場合、それが、「幽霊」であるという、確かな確認はできなかった。2度目の方は、かなり年配の年老いた女性が、まさに、「幽霊」のように、不気味な「雰囲気」を漂わせながら、ドアの前で無言で立ち尽くす様子だったのだが、そのまま伝票を置いて立ち去って行った。その(はっきりと物質的なものとして残った)伝票には、当時私が住んでいた市とは2つほど離れた市の営業所と、その者の名前が書いてあった。そんなところから勧誘に来るはずもなく、私も不審に思って電話してみたのだが、結局、「そんなはずはない」ということで、曖昧にぼやかされてしまった。私も、もっと、本気で問い詰めれば、いろんな手がかりが得られたかもしれない(たとえば、かつてそのような者がいたが、既に死んでいるなど)のだが、あえてそれはしなかった。そのときは、まさか「幽霊そのもの」とまでは思っていなかったが、本当に、「幽霊」だと「分かって」しまうのも、また恐ろしいという思いもあったと思う。

このように、本当に「幽霊」と確認することも難しいのだが、逆に、本当に「幽霊」だと「確認」されてしまうことにも、かなりの「恐怖」や「抵抗」がつきまとうのである。だから、この点からも、安易に、「見たもの」を「幻覚」ということで済ましてしまうということが、起こりやすいのである。実際、そのような場合は、非常に多いはずである。

「この目で見たのだから間違いない」というのも、知覚に頼った「即断」だが、あれは「幻覚」だったのだということで済ませてしまうのも、また、惰性や否定的感情に基づいた、安易な「即断」というべきなのである。

結局、そのような「即断」をしないということは、判断を「留保」するということしかあり得ないということである。「霊的なもの」というのも、一つの「即断」というなら、正確には、「霊的なものである可能性」も含めながら、広い視野をもって、「見極め」ていくことをしていくしかないわけである。                                    

次回は、さらに、「幽霊」の場合や「霊能者の知覚」の場合について、「見極める」ということはどういうことかをみていきたい。

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