« 「キツネの家畜化」と「原人間の人間化」 | トップページ | 「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合 »

2011年9月 8日 (木)

精霊、神々の「言葉」の「面白さ」

「日月神示」も「大本神諭」もそうだが、これらの自動書記で書かれた「言葉」は、数字やひらがな、(象徴的な)記号などが組合わさってできたもので、一見で判読できるものではない。

たとえば、「日月神示」の場合、「富士は晴れたり日本晴れ」という有名な言葉て始まるが、これは、原文では、「二二八八れ十二ほん八れ」となっている。(「ウィキペディア」に簡単な記述がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%88%E7%A5%9E%E7%A4%BA#.E6.97.A5.E6.9C.88.E7.A5.9E.E7.A4.BA.E5.8E.9F.E6.96.87.E3.81.A8.E8.A7.A3.E9.87.88  さらに、原文について詳しくは、たとえば、このようなサイトで見れる。 http://akaruitonari.at.webry.info/201011/article_3.html   )

これら様々な文字の組み合わせ自体が、一種独特な表現の仕方で、まさに、通常の「人間的なもの」からは、掛け離れたものを思わせる。意味的には、まるで「つかみはOK!」といわんばかりの印象的な表現で、神々にとっても、やはり「つかみ」は重要なことなのか、と思わせる。

「神示」自身が、「数字」というのは、様々な「意味」の畳み込まれた、神々にとって普通に使われる「文字」なのだといっている。確かに、「数字」は、「象徴性」、「多義性」の強い「言葉」であろう。

が一方、これらの、数字とひらがなの入り乱れた文字は、決して、見た目として、「神聖さ」を感じるものではなく、どこか、滑稽な、ユーモアさえ漂わせている。

また、ところどころ現れる、「―ぞ」とか「―であるぞ」などの言葉使いは、まさに「神」的権威のような、「強烈」な印象を与えるもので、「押し付けがましい」印象すら与える。が、一方、どこか、逆に、親しみやすさやユーモラスな感じも与えている。また、これが、「神示」全体に、独特のリズムと味を与えているともいえる。神示は、「書き言葉」なのではあるが、その独特の「口調」が聞こえてきそうですらある。

「―と申してあろうが」というのも、よく出て来るが、これは口癖になっているようにも思われ、本当に、前に「申してあった」かどうか、疑わしかったりする。

このように、「神示」や「神諭」の「言葉」は、独特の個性や権威、さらにユーモアなどが混在して、不思議な「面白み」を醸し出している。

ところで、私が、接していた「精霊」や「捕食者」、「境域の守護霊」なども、やはり、これに似た、一種独特の「言葉」を使っていたのである。

「神示」とは、また異なるが、皆、ある種の「強烈さ」を湛えていたし、常に、どこか、「ユーモラス」なものでもあった。ただ、これらとのやりとりは、「書き言葉」ではなく、「話し言葉」でされたので、それは、「言葉」自体というよりも、独特の「口調」によっても、強められていた。

そこで、まずはこれらの「存在」の「言葉」に共通する、いつかの要素を挙げてみよう。

まず、確認すべきは、それは、物理的な「音声」としての「言葉」ではなく、テレパシー的な「言葉」であったことである。ただし、それは、十分、人物の「声」そのものと混同されるだけの、「声」としての「形態」(実体)を備えている。特に、人の背後から聞こえて来るときなどは、その人物そのものの「声」と混同してもおかしくないほどである。ところが、人とは無関係に、人のいない部屋その他の場所でも、「直接」聞くことができ、それは、「テレパシー的」(非物理的)なものであることが明らかである。

次に、「神示」や「神諭」も、とりあえず、「日本語」であったわけだが、私が聞いた「言葉」も、やはり、「日本語」そのものである。ただ、「日本語」といっても、「神示」がそうであるように、そこには、どこか、独特で、「普通でない」ものもある。たとえば、「捕食者」は、「神示」のように「―ぞよ」などとは言わないが、かなり強烈な「―だぞ」とか、「―なんだよ」という、強い口調と言葉を使う。また、時々、言葉としては、「日本語」そのものでも、全体として「意味」のよく分からない、「シュール」な言葉も使う。

「捕食者」は、私のことは、「オマエ」とか「ホンニン(本人)」(これは、私の「境域の守護霊」を「カゲ(影)」と呼ぶこととの対比である)と呼び、自分または自分たちのことは、「オレ」とか「オレラ」と呼んだ。これも、妙に「人間的」である反面、やはり、一種独特である。

「記事」にも書いたが、最後の方では、「捕食者」とはまた違って、それほど強くはないが、やはり人を惑わす存在である「精霊」(一般的にいう「低級霊」や「邪霊」そのものと解してもよい)が、いわば私の「お腹に住みついた」。この存在は、もっと、「言葉使い」の特徴がはっきりしている。「―じゃねえよ」とか「―だよ」など、強烈な言葉を使うが、どこか「いきがっ」て、ことさら強がっていることが明らかで、ヤクザで言えば、「チンピラ」同様の言葉遣いである。

また、ときに、意味不明な、あるいは「シュール」な言葉を使うのも同じで、例えば、「おまえ、<イキ>するんじゃねえよ」などと脅してきたが、<イキ>とは「息」なのか、意味ありげではあるが、それにしても、意味不明である。

また、これは、昔よく出で来ていたのが、使っていたのを「思い出し」たのだが、「いけすかねえなー」というのが口癖のような存在もいた。しかし、こんな言葉は、人間的にはもはや死語だろうし、当時、私は、こんな言葉を知りもしなかった。つまり、これらの存在が使う言葉は、「日本語」といっても、必ずしも、私が知っている言葉とは限らない。

ともあれ、こういったシュールで曖昧な言葉は、想像力を刺激し、こっちがあれこれ、意味を詮索すると、変な「連想」をもたらし、余計、「恐れ」が増大してしまう。だから、いずれにせよ、これらの存在の言葉は、「真に受け」てはならないのである。

また、これらの存在の多くは、いわゆる「男言葉」であるが、私が「アニマ」と名付けた「精霊」や、その他のいくらかの「精霊」は、明らかな「女言葉」を使っていた。「―のよ」とか「―よ」などである。映像的なものを伴うときは、「みかけ」としても、やはり、人間でいえば、「男」のようであったり、「女」のようであるような違いがある。

このような「言葉」使いは、「話し言葉」だからこそ、明確に出て来た違いといえ、「話し言葉」には、そのような存在の「個性」のようなものが、端的に現れやすいのだといえる。

しかし、これらの「言葉」は、私に聞かれた段階で、確かに、明確な「形態」(実体)を備えているといえども、本来、「テレパシー的」なもので、もとから「客観的」に、そのようなもの(誰にも共通するようなもの)として、定まっているものとは言い難い。

つまり、これらの「言葉」は、私以外の者が聞く場合には、また違った表れ方をするものと思われる。端的には、私が、日本人でなかったら、これらの言葉は、どう聞こえるのか、と言えば、それは、その聞く人の慣れ親しんだ、「母国語」で聞こえるというほかない。つまり、その「言葉」は、聞く側の人の文化や経験によって、いくらでも、変わり得るものである。

つまり、これらの「言葉」は、物理的な「言語」のように、発せられた時点で、「客観的」に定まっているものではなく、あくまで、聞く側の私によって、あるいは私との「関係」において、「言葉」として「変換」されたものということである。

その「変換」ということが、なぜ、どのようにして、しかも瞬時に、ほとんど細かなニュアンスまで伝えるように、見事になされるのか、不思議としか言いようがない。その「変換」ということが、私の「脳」でなされるのか、あるいは「潜在意識」でなされるのか、「エーテル体」のような霊的部分でなされるのか、それも不明である。

しかし、このような「変換」の「システム」があるらしいことは、確かなことで、それには、「私」が聞くのである限り、「私」が関わっていることも確かなようである。ただし、この「変換」ということは、「私」の経験や主観によって、一方的になされるのではなく、彼らの存在の方でも、「変換」そのものにも、かなりの影響を与えていると解される点がある。

つまり、彼らは、「変換」ということには「ノータッチ」というわけではなく、ある意味で、どのように「変換」されるかまで「意識」して、その基となる「テレパシー的な言葉」を発しているようだ、ということである。

だから、それは、「私」または、私との「関係」において、「変換」されたものと言うのである。

しかし、それが「変換」されるということは、それ以前に、やはり一種の「原言語」というか、ある「意味の基」というべきものがあり、それが、通常、我々がいうところの「言葉」として「変換」されるということになるはずである。(その意味では、「ソシュール」や「ラカン」がいうような、「言語以前に<意味>はなく、<意味>は、言語の体系によって生まれるに過ぎない」という言語論は、一面の真実ではあっても、全く正しい訳ではないことになる。この点については、いずれまた述べよう。)

そして、このような「変換」ということは、「神示」や「神諭」のような書き言葉についても言え、「チャネリング」のような「言葉の伝達」についても、言えるはずのことである。つまり、表に現れた、それらの「言葉」そのものは、自動書記した者やチャネラーによって「変換」されたものである。その意味では、「神示」や「チャネリング」は、それを受け取る者との、一種の「共同作業」ということになる。だから、それを受け取る者の、経験や個性も、入り込んでいるものというべきである。

また、「チャネリング」同様、「憑依」のような場合にも、このことは言える。「憑依」した霊がある者に憑き、それが、その者の「口」を借りてしゃべるような場合だが、その場合も、それが表に「言葉」として現れたレベルでは、それは、既にその憑かれた者を通して、「変換」されたものなのである。だから、よく、「外国の憑依霊が憑いているのに、日本語でしゃべるのはおかしい」などということが言われるが、それは、既に変換されたものだから、批判として成り立たない。(だたし、実際には、そのような「憑依」の「見世物」は、「ショー」としてなされたものが多いから、元々、「おかしい」のが多いのは確かである。)

いずれにしても、この「変換」ということには、いろいろと「不思議」と「謎」が満ちている。が、その分、いろいろと、それについて「面白い」発想も浮かぶ。

たとえば、日本人には、「日本語」として聞こえると言ったが、自然に「多元語」を身につけたような者には、いろいろな言語が混在して聞こえるのか。とか、日本語以外の「英語」や「中国語」などでも、これらの「言葉」の口調やニュアンスが、言語的に表現されるのか。それは、どのようになのか。

また、「日本語」にも、いろいろな方言がある。では、それらは、様々な地方の人には、その地方の言葉で聞こえるのか。

「日月神示」が下りた岡本天明は、関東の人のようである。が、「大本神諭」が下りた出口なおは、京都の綾部出身である。それで、「神諭」が、関西弁で下りるなどということがあってもよさそうだが、「神諭」の口調も、「日月神示」と大変よく似た、「ぞよ」口調である。これは、「書き言葉」ということもあるし、やはり、「日本古来」または「地球古来」の、普遍的な「神」とされていることが、大きく影響しているのだろう。このようなものは、「変換」においても、地方的な変化は、被りにくいということである。

この点は、「捕食者」なども、やはり、「神示」のように、強く普遍的な面があるので、そう大きな地方的変化は、被らないはずである。

しかし、一般の「精霊」とか「邪霊」というのは、私は、いくらでも、地方的な変化を受け得ると思う。つまり、たとえば、関西人に対してなら、「コテコテ」の「関西弁」で、言いかけて来るということが、あり得るのである。それに、「精霊」には、ユーモアにたけるものも多いので、「ボケ」をかましたり、「ツッコミ」を食らわしたり、あるいは、ノリのいい精霊なら、こちらが「ボケ」たら、「ノリツッコミ」で返すなどということもあり得るのである。

(ちなみに、私自身は、子供のころ、何度か転校したが、中学からこの時までずっと東京に住んでいた。で、精霊の言葉なども、東京的というか、関東的な口調という面があったと思う。それとの対比でいうと、関西の特に「邪霊」は、相当「きつい」関西のヤクザ風の言葉を使うとも想像できる。)

まあ、現在では、かつてのような地方の方言は失われて来ているから、それほどの違いはないと思われるが、「関西弁」は今も十分に生きているから、「関西弁」をしゃべる精霊いうのは、まだまだ多いと思われるのである。

また、先にも、少し述べたように、これらの「変換」ということを考えると、そもそも「言語とは何か」、「意味とは何か」ということも、より興味深い問題となる。

結局、これら、彼らの「言葉」のユーニークさというのは、その「変換」ということを通しても、何かしら、十分反映されるということである。それは、実際に「生」で接してみると、本当に、「生き生き」したもので、人間の発する言葉では味わえないものである。それは「捕食者」のような、「恐ろしい」存在についてもいえる。

統合失調症の者が、それらの発する「言葉」に「囚われる」というのは、ある意味で、この「言葉」の「生きた」「魅力」(魔力)に、「捕らえられ」ているともいえるのである。その、外面的な面(意味内容)だけ捉えれば、はたからは、なぜそんな言葉に「囚われる」のかよく分からない。しかし、「生」で接することから来る、その外面には伝わり難い、「生きた」「言葉」の「力」は、どうしても、その者を捕らえて、離さないところがあるのである。

« 「キツネの家畜化」と「原人間の人間化」 | トップページ | 「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合 »

精神世界」カテゴリの記事

コメント

はじめまして ふと思いついたことなんですけど、精霊たちはどこから生まれたのでしょうか。
人間から生まれる精霊っていると思いますか。幻聴の霊たちに対抗するためには人間たちが自分自身から善い霊を生み出して守ってもらえばいいのではないでしょうか

精霊も「魂」をもった「霊的存在」なので、その大元(普通は「神」と呼ばれる)から生まれたのでしよう。しかし、人間から生み出される「精霊」もいます。その意味では、人間にも「神」と似た「創造」能力があるということになります。ブログでは、「エレメンタル」(想念形態)という言い方で、これについても、述べてます。「生き霊」とも言います。「幻聴」の「声」は、このような他者のまたは自己の「エレメンタル」である可能性が多いにあります。

人間が、よい働きをするというか、「害」を及ぼさない「エレメンタル」を多く生み出せば(そういう「思考」習慣が優っていれば)、害ある「エレメンタル」の影響から、護られたり、緩和されるということはあると思います。しかし、現時点で、そのようなことはなかなかなく、また、現に「幻聴」を聞いて惑わされるような状態では、このような建設的な思考を生み出すことも、難しいでしょう。

私としては、「護ってもらう」という発想よりも、そのような状態に陥った以上、とことん「エレメンタル」なり「精霊」なりを、自分で「見極め」ていく、「知る」ことによって「越え」ていくという方向を、進めたいと思っています。

解答ありがとうございます。
シュタイナーにガイストやデーモン、ファントムといった概念があるのをネットで知りました。
それは自我やエーテル体、アストラル体に侵入、浸透するそうです

連投すみません

さきほど、捕食者が自分の道徳を食べて自足できるような進化をし、彼らも生きることを願いながら
神は捕食対象になるような悪い感情さえも無駄にはしないと考えたところ、
「ひぎゃあ」という声が聞こえてきました。
また、彼らは私の場合、夜に現れます。 隣人を装っていると思います

もうこれで投稿を控えます
先ほどの 「彼らも生きる」という発言で気を悪くされた方がいそうなので
胸に秘めておくべきでした

「ひぎゃあ」というのは、どういう響きなのかにもよりますが、ユーモアある「声」のような感じもしますね。

「捕食者」や「捕食者的な精霊」が、「隣人を装う」というのは本当のことで、それを隣人そのものと思うことから、多くの「妄想」が生じています。「声」を聞く人も、「捕食者」や「精霊」を認めたくないようですね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/575359/52674258

この記事へのトラックバック一覧です: 精霊、神々の「言葉」の「面白さ」 :

« 「キツネの家畜化」と「原人間の人間化」 | トップページ | 「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合 »

新設ページ

ガジェット時計Part11(光る玉・バージョン) - ガジェットダウンロードするなら、ガジェットギャラリー
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

コメントの投稿について

無料ブログはココログ