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2011年9月18日 (日)

「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合

前回、「霊的なもの」の「言葉」は、それを聞く(書く)者によって、あるいは、その者との関係で、「変換」されたものであることを述べた。

しかし、それならば、「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合はどうなのか、ということも当然問題になって来よう。

実を言うと、やはり、「視覚的映像」の場合も、現に見られた「映像」は、元々定まっているというものではなく、それを見る者との関係で、「変換」されたものと言うべきなのである。だから、同じものを見ていても、「見る者」によって、いくらでも、違うように見える可能性はある。ただし、「視覚的映像」の場合、「言葉」の場合ほど、「変換」において、多くの「差異」が生じる余地は少ないともいえる。「言葉」の場合に、「原言語」のようなものがあると言ったが、映像の場合も、その元となる「原映像」というものがあって、それは、実際の「視覚」に「変換」されるのに、「言語」の場合ほどの、差異は生じないと思われるのである。

ただし、「映像」には、また、もともと、「音声」(意味)の場合ほど「明確」でない要素も多く、それは後にみるように、違った意味で、多くの「差異」を生むということもいえる。

いずれにしても、「霊的なもの」の「視覚的映像」に、どの程度「共通」の要素があり、どの程度見る側による「差異」があるのか、何人かの霊能者によって、具体的に比較、検証してみたら面白いと思うのだが、なかなかそのようなことがなされることもないようだ。

あるいは、そのような「映像」は、「変換」されたものというよりは、見る側の内心にあるイメージなどが、「投影」されることによって生じた差異と解することもできる。「霊的なもの」は、「声」の場合にもみたように、決して、思われているほど、「曖昧」とした「実体」のないものでなく、「物質的なもの」と区別がつかないほど明確に現れる場合もある。しかし、全体として、「曖昧」なことが多く、あるいは、「夢」の場合と同様、複雑だったり、変形しやすかったりするので、明白な認識が難しい場合も多い。

そういった「曖昧」で、不明確な対象には、内心の「投影」というこどか働きやすく、その不明確さを、内心のイメージなどの「投影」により、補うということが起こりやすい。(曖昧な図形が何に見えるかで、心理状態を判断する「ロールシャッハ・テスト」は、この応用である)それで、「霊的なもの」の「映像」にも、見る側による「差異」が生じることになるわけである。

さらに、「霊的領域」では、内心の「思い」や「イメージ」は、もはや抽象的なものではなく、実際に、「霊的なエネルギー」として、ある「形態」を持ち得るものともなる。それが、ある「霊的なもの」を被うようにして、その者の「視覚」に映ずるということで、(単なる「投影」ではく)いわば、「実体的」なレベルでも、様々な「差異」が生じる可能性がある。この場合、実際には、ほとんど、自分自身の「イメージ」の「霊的反射」を見ているわけである。

R.シュタイナーも、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』などで、霊的世界に参入した当初には、人は自分自身の欲望や思考の反映である、「霊的鏡像」を見ると言っている。それで、自分がどのようなものを、霊界に持ち込んでいるか、十分「自己認識」したうえでないと、霊的なものの認識を誤るということである。

さらに言うと、「精霊」などは、自分の形姿や何かのものを、ほとんど「自分が見せたい」ように、「見せる」こともできる。つまりは、「幻覚」的な「映像」を「作り出し」て、「見せる」ことができるので、厄介である。狐などに「化かされる」というのは、要するに、こういうことを意味している。さらに、「捕食者」などは、ある者の「内心」の状態に「引っかける」ようにして、「幻覚」的「映像」を生み出すこともできる。ある者が、「恐怖」していたり、「コンプレックス」や「トラウマ」をもっていることに、関わるような「幻覚」を、あえて生み出して、混乱や苦痛をより強めることができるということである。

あるいは、ある者が、内心に強い「妄想」を持っていたら、その「妄想」に沿うような形での「幻覚」を生み出すこともできる。たとえば、「CIAに追われる」という「妄想」を強く持っていたら、実際に、自分の廻りに、それらしい、「黒ずくめの男」を「見る」かもしれないのである。

これらのことは、信じ難いと言うかもしれないが、実際にはないものを、あるように見せたりすることは、人間の「催眠術士」にも可能なことである。これらは、要するに、「暗示」や、先に見た「投影」の機制を利用している訳で、それらの存在のものも、結局は、その応用(拡張)に過ぎないとも言えるのである。

カスタネダのドンファンも、カスタネダほかの数名の弟子たちがいるところで、「しないこと」の状態に入り、彼らが自分をどのように「見える」かという実験を行っている。そうすると、弟子たちは、まるっきり違ったふうに、ドンファンを「見た」。カスタネダは、黒いマントをかぶった、海賊風の格好のドンファンを見たが、他の者は、ずきんをかぶった修道士のような格好だったり、ボロをまとった田舎風のインディアンというふうだった。(『呪師に成る』p283~)

ドンファンは、弟子たちの「すること」に引っかけただけだと言っているが、「すること」とは、要するに、ある「知覚」ないし「現実」を、安定的なものとして保とうとすることを意味している。これも要するに、結局は、弟子たちの内心の「イメージ」に「引っかけた」のだといえる。先の「精霊」たちが、「幻覚」を生み出すのと同じようなことである。

このようなわけで、「霊的なもの」の「映像」においても、見る者によって、様々な「差異」は生じるものである。むしろ、曖昧な要素の多い、「霊的なもの」では、見る者による「差異」は、果たしなく広がり得るともいえる。だから、前に「神示」が言っていたように、「自分の目で見たのだから間違いない」などということは、いかに当てにならないかということが、分かろうというものである。ドンファンが、弟子たちに、そのような実験をしたのも、「知覚」というものが、いかに当てにならないかを、知らしめるためといえる。

それで、「霊的なもの」については、そのような「目」(知覚)に頼らず、さらに「見極め」ていくことが必要なわけだが、次回は、いくらかそのような例をあげてみたい。

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コメント

あなたの記事が面白いです。ファンになりそうです(照笑)

蛇足ですが
この禅マスターの世界観が印象的でした。
図解があって興味深かったです。

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