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2011年9月

2011年9月29日 (木)

「幻覚」という「判断」について

「霊的なもの」については、「この目で見た」ということ(知覚)に頼らず、さらに「見極め」ていくことが必要と言った。ここで、「見極め」ていくというのは、安易に「知覚」に頼った判断をしないで、判断を「留保」するということが前提となっている。というよりも、むしろ、この、「判断を留保すること」―ということは、自分が「見たもの」が、何か「分からない」ものであることを認めること―、そうすることができるということ、こそが、重要なのである。

言い換えると、「見極め」ようとする態度自体が重要なことであって、それが何であるかについて、即断したり、あれこれ、詮索したり、考察して、何らかの結論に至るということが重要なのではない。「霊的なもの」に触れたときには、とりあえず、容易に判断ができないということを、認めてしまうことができるかどうかが、一つの分かれ目なのである。

それは、それが、「霊的なもの」という以上は、それまで自分が接して来た「身の回りのもの」=「物質的な物」とは、性質の違うものなのだから、当然と言えば当然である。しかし、人は、これができ難く、どうしても、それまで自分がして来た判断の延長上に、それをも「押し込め」てしまおうとするのである。それには、何か「分からない」ものに触れているという状態は、強い不安を呼び起こすということもある。

「統合失調症的状況」の「妄想」という問題も、実は、ほとんど、このような問題に帰すことができるのだが、それについてはまた後に詳しく述べよう。

しかし、そもそも、それが「霊的なもの」と認めることも、一つの「判断」なのではないかと言うなら、確かにそれはそうである。しかし、それは、新たな「判断」というよりは、それまでの「身の回りの物」=「物質的な物」についてしてきた、惰性化した判断を、とりあえず「止める」、「棚に上げる」ということに重点がある。いわば、消極的な意味の「判断」なのである。

もし、これをしないとしたら、逆に、それは、自ずと、それまで「物質的なもの」についてしていたのと同様の判断を、それにも、あてはめるしかないことになる。それは、それ自体が、既に、「判断」の継続ということになる。そして、その場合は、ほぼ、それを「幻覚」と判断するしかないことになるだろう。(あるいは、統合失調症でもよくあるように、何らかの「電波」的な技術を持ち出して、それによって創出された「映像」なり「音声」と解することにもなる)

しかし、実際には、「幻覚」という判断も、「この目で見たから間違いない」という判断とほとんど裏腹の、根拠の薄い「即断」というべきなのである。

一般に、「幽霊」などは、よく足がない絵が描かれるが、うすぼんやりとした、不明瞭なものと思われている。しかし、実際には、「生きている人間」と同じように、ほとんど「実体的なもの」として、「鮮明」に見ることも多いはずである。そこで、その者も、その「予想外」の「リアリティ」の衝撃という影響もあって、「この目で見たのだから間違いない」などと、(他に根拠など必要ないかのような)判断をしてしまいがちである。そこでは、「見える」ということが、そのように通常の身の回りの「もの」と同じように生じているので、そういうものを通常確認しているのと同じレベルで、「この目で見たのだから間違いない」などと、判断されることにもなるのだろう。

しかし、また、「幽霊」には、うすぼんやりとしたものや、形の定かでないもの、一瞬だけ知覚に留まるようなものもある。

そのような場合には、それは、確かに、一般に「幽霊」といわれるものとイメージ的には合致するのだが、確かな「実体」という「みかけ」が薄い分、そんなはずはない、あれは「幻覚」だったのだということで、 済まされることになりやすいのだろう。

それは、言い換えれば、「幻覚」というものもまた、まさに「幽霊」と同じように、曖昧で、うすぼんやりとしたものと思われているということである。だから、「生きている人間」と同じように、「実体的」なものとして見えるときは、「幻覚」であるはずがないという意味で、「この目で見たのだから間違いない」などと言われ、まさに「幽霊」そのもののように、曖昧にうすぼんやり見えるときは、「幻覚」だろうということで済まされることにもなる。

実際には、「幽霊」が曖昧でうすぼんやりしたものとは限らないように、「幻覚」というのも、曖昧でうすぼんやりしたものとは限らない。「夢」や「幻覚剤による幻覚実験」などでも、いくらでも、鮮明で、実体的なものはある。

結局、そこには、一般に行き渡った、「幽霊」というもののイメージや、「幻覚」というもののイメージが大きく影響しているのである。

また、一方、「幻覚」という概念が、非常に曖昧で、とらえどころのないものであるのも確かなことである。「幻覚」というのは、「存在しないものを知覚する」ことだと言われるが、その「存在しない」ということは、どうやって決められるのか。それは、突き詰めれば、一般に、「多くの者が共通して知覚しない」ということ、あるいは、もう少し概念化して言うと、「物質的なものとして存在を確認することができない」ということになろう。

しかし、「幽霊」などは、もともと、誰にも知覚されるものとはされていないし、そもそも、「物質的なもの」ではないのだから、それも当然である。もし、「物質的もの」だけが「存在する」ということが、予め前提にされて、「幻覚」と言われるのであれば、それは、「幻覚」か否かは、「物の見方」からくる相違でしかないことになる。また、「幽霊」を「見る」という人は、多くはないかもしれないが、一定の程度いて、決して、ある者だけとか、限られた人にだけ起こることではない。また、その「知覚」というのも、決して、人によって、全く「デタラメ」ではなく、ある程度の共通性や普遍性がみられるものである。だから、通常の「物質的なもの」が、多くの者によって「共通して見られる」ことによって、「存在の根拠」とされているのであれば、結局、それとは、ほとんど「程度問題」ということにもなる。

ということで、ある者が「見た」というものが、「幻覚」であるということも、また、「積極的」な意味では、ほとんど確証し得るものではない。また、「幻覚」という概念自体にも、どれほどの積極的な意味があるか、疑問なのである。

私も、ほぼ「幽霊」としか考えられないものを、2度ほど見、また体験しているが、それは、「生きてる人間」と全く同じように、「鮮明」で、「実体的」なものであった。そのうち、一度は、友人と一緒にいて、友人も確認しているので、私だけの主観的な知覚ではない。さらに、もう一度は、何と、当時私の住んでいたアパートを、新聞の勧誘員として訪ねて来て、直接接触したのである。

いずれも、状況からは、生きている「人間」であるとは考えにくく、幽霊としか思えないものである。あるいは、一瞬にして、いる場所が変わっているなど、それを補強する、「現象」も起こしていた。

ただ、私の場合、それが、「幽霊」であるという、確かな確認はできなかった。2度目の方は、かなり年配の年老いた女性が、まさに、「幽霊」のように、不気味な「雰囲気」を漂わせながら、ドアの前で無言で立ち尽くす様子だったのだが、そのまま伝票を置いて立ち去って行った。その(はっきりと物質的なものとして残った)伝票には、当時私が住んでいた市とは2つほど離れた市の営業所と、その者の名前が書いてあった。そんなところから勧誘に来るはずもなく、私も不審に思って電話してみたのだが、結局、「そんなはずはない」ということで、曖昧にぼやかされてしまった。私も、もっと、本気で問い詰めれば、いろんな手がかりが得られたかもしれない(たとえば、かつてそのような者がいたが、既に死んでいるなど)のだが、あえてそれはしなかった。そのときは、まさか「幽霊そのもの」とまでは思っていなかったが、本当に、「幽霊」だと「分かって」しまうのも、また恐ろしいという思いもあったと思う。

このように、本当に「幽霊」と確認することも難しいのだが、逆に、本当に「幽霊」だと「確認」されてしまうことにも、かなりの「恐怖」や「抵抗」がつきまとうのである。だから、この点からも、安易に、「見たもの」を「幻覚」ということで済ましてしまうということが、起こりやすいのである。実際、そのような場合は、非常に多いはずである。

「この目で見たのだから間違いない」というのも、知覚に頼った「即断」だが、あれは「幻覚」だったのだということで済ませてしまうのも、また、惰性や否定的感情に基づいた、安易な「即断」というべきなのである。

結局、そのような「即断」をしないということは、判断を「留保」するということしかあり得ないということである。「霊的なもの」というのも、一つの「即断」というなら、正確には、「霊的なものである可能性」も含めながら、広い視野をもって、「見極め」ていくことをしていくしかないわけである。                                    

次回は、さらに、「幽霊」の場合や「霊能者の知覚」の場合について、「見極める」ということはどういうことかをみていきたい。

2011年9月18日 (日)

「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合

前回、「霊的なもの」の「言葉」は、それを聞く(書く)者によって、あるいは、その者との関係で、「変換」されたものであることを述べた。

しかし、それならば、「霊的なもの」の「視覚的映像」の場合はどうなのか、ということも当然問題になって来よう。

実を言うと、やはり、「視覚的映像」の場合も、現に見られた「映像」は、元々定まっているというものではなく、それを見る者との関係で、「変換」されたものと言うべきなのである。だから、同じものを見ていても、「見る者」によって、いくらでも、違うように見える可能性はある。ただし、「視覚的映像」の場合、「言葉」の場合ほど、「変換」において、多くの「差異」が生じる余地は少ないともいえる。「言葉」の場合に、「原言語」のようなものがあると言ったが、映像の場合も、その元となる「原映像」というものがあって、それは、実際の「視覚」に「変換」されるのに、「言語」の場合ほどの、差異は生じないと思われるのである。

ただし、「映像」には、また、もともと、「音声」(意味)の場合ほど「明確」でない要素も多く、それは後にみるように、違った意味で、多くの「差異」を生むということもいえる。

いずれにしても、「霊的なもの」の「視覚的映像」に、どの程度「共通」の要素があり、どの程度見る側による「差異」があるのか、何人かの霊能者によって、具体的に比較、検証してみたら面白いと思うのだが、なかなかそのようなことがなされることもないようだ。

あるいは、そのような「映像」は、「変換」されたものというよりは、見る側の内心にあるイメージなどが、「投影」されることによって生じた差異と解することもできる。「霊的なもの」は、「声」の場合にもみたように、決して、思われているほど、「曖昧」とした「実体」のないものでなく、「物質的なもの」と区別がつかないほど明確に現れる場合もある。しかし、全体として、「曖昧」なことが多く、あるいは、「夢」の場合と同様、複雑だったり、変形しやすかったりするので、明白な認識が難しい場合も多い。

そういった「曖昧」で、不明確な対象には、内心の「投影」というこどか働きやすく、その不明確さを、内心のイメージなどの「投影」により、補うということが起こりやすい。(曖昧な図形が何に見えるかで、心理状態を判断する「ロールシャッハ・テスト」は、この応用である)それで、「霊的なもの」の「映像」にも、見る側による「差異」が生じることになるわけである。

さらに、「霊的領域」では、内心の「思い」や「イメージ」は、もはや抽象的なものではなく、実際に、「霊的なエネルギー」として、ある「形態」を持ち得るものともなる。それが、ある「霊的なもの」を被うようにして、その者の「視覚」に映ずるということで、(単なる「投影」ではく)いわば、「実体的」なレベルでも、様々な「差異」が生じる可能性がある。この場合、実際には、ほとんど、自分自身の「イメージ」の「霊的反射」を見ているわけである。

R.シュタイナーも、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』などで、霊的世界に参入した当初には、人は自分自身の欲望や思考の反映である、「霊的鏡像」を見ると言っている。それで、自分がどのようなものを、霊界に持ち込んでいるか、十分「自己認識」したうえでないと、霊的なものの認識を誤るということである。

さらに言うと、「精霊」などは、自分の形姿や何かのものを、ほとんど「自分が見せたい」ように、「見せる」こともできる。つまりは、「幻覚」的な「映像」を「作り出し」て、「見せる」ことができるので、厄介である。狐などに「化かされる」というのは、要するに、こういうことを意味している。さらに、「捕食者」などは、ある者の「内心」の状態に「引っかける」ようにして、「幻覚」的「映像」を生み出すこともできる。ある者が、「恐怖」していたり、「コンプレックス」や「トラウマ」をもっていることに、関わるような「幻覚」を、あえて生み出して、混乱や苦痛をより強めることができるということである。

あるいは、ある者が、内心に強い「妄想」を持っていたら、その「妄想」に沿うような形での「幻覚」を生み出すこともできる。たとえば、「CIAに追われる」という「妄想」を強く持っていたら、実際に、自分の廻りに、それらしい、「黒ずくめの男」を「見る」かもしれないのである。

これらのことは、信じ難いと言うかもしれないが、実際にはないものを、あるように見せたりすることは、人間の「催眠術士」にも可能なことである。これらは、要するに、「暗示」や、先に見た「投影」の機制を利用している訳で、それらの存在のものも、結局は、その応用(拡張)に過ぎないとも言えるのである。

カスタネダのドンファンも、カスタネダほかの数名の弟子たちがいるところで、「しないこと」の状態に入り、彼らが自分をどのように「見える」かという実験を行っている。そうすると、弟子たちは、まるっきり違ったふうに、ドンファンを「見た」。カスタネダは、黒いマントをかぶった、海賊風の格好のドンファンを見たが、他の者は、ずきんをかぶった修道士のような格好だったり、ボロをまとった田舎風のインディアンというふうだった。(『呪師に成る』p283~)

ドンファンは、弟子たちの「すること」に引っかけただけだと言っているが、「すること」とは、要するに、ある「知覚」ないし「現実」を、安定的なものとして保とうとすることを意味している。これも要するに、結局は、弟子たちの内心の「イメージ」に「引っかけた」のだといえる。先の「精霊」たちが、「幻覚」を生み出すのと同じようなことである。

このようなわけで、「霊的なもの」の「映像」においても、見る者によって、様々な「差異」は生じるものである。むしろ、曖昧な要素の多い、「霊的なもの」では、見る者による「差異」は、果たしなく広がり得るともいえる。だから、前に「神示」が言っていたように、「自分の目で見たのだから間違いない」などということは、いかに当てにならないかということが、分かろうというものである。ドンファンが、弟子たちに、そのような実験をしたのも、「知覚」というものが、いかに当てにならないかを、知らしめるためといえる。

それで、「霊的なもの」については、そのような「目」(知覚)に頼らず、さらに「見極め」ていくことが必要なわけだが、次回は、いくらかそのような例をあげてみたい。

2011年9月 8日 (木)

精霊、神々の「言葉」の「面白さ」

「日月神示」も「大本神諭」もそうだが、これらの自動書記で書かれた「言葉」は、数字やひらがな、(象徴的な)記号などが組合わさってできたもので、一見で判読できるものではない。

たとえば、「日月神示」の場合、「富士は晴れたり日本晴れ」という有名な言葉て始まるが、これは、原文では、「二二八八れ十二ほん八れ」となっている。(「ウィキペディア」に簡単な記述がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%88%E7%A5%9E%E7%A4%BA#.E6.97.A5.E6.9C.88.E7.A5.9E.E7.A4.BA.E5.8E.9F.E6.96.87.E3.81.A8.E8.A7.A3.E9.87.88  さらに、原文について詳しくは、たとえば、このようなサイトで見れる。 http://akaruitonari.at.webry.info/201011/article_3.html   )

これら様々な文字の組み合わせ自体が、一種独特な表現の仕方で、まさに、通常の「人間的なもの」からは、掛け離れたものを思わせる。意味的には、まるで「つかみはOK!」といわんばかりの印象的な表現で、神々にとっても、やはり「つかみ」は重要なことなのか、と思わせる。

「神示」自身が、「数字」というのは、様々な「意味」の畳み込まれた、神々にとって普通に使われる「文字」なのだといっている。確かに、「数字」は、「象徴性」、「多義性」の強い「言葉」であろう。

が一方、これらの、数字とひらがなの入り乱れた文字は、決して、見た目として、「神聖さ」を感じるものではなく、どこか、滑稽な、ユーモアさえ漂わせている。

また、ところどころ現れる、「―ぞ」とか「―であるぞ」などの言葉使いは、まさに「神」的権威のような、「強烈」な印象を与えるもので、「押し付けがましい」印象すら与える。が、一方、どこか、逆に、親しみやすさやユーモラスな感じも与えている。また、これが、「神示」全体に、独特のリズムと味を与えているともいえる。神示は、「書き言葉」なのではあるが、その独特の「口調」が聞こえてきそうですらある。

「―と申してあろうが」というのも、よく出て来るが、これは口癖になっているようにも思われ、本当に、前に「申してあった」かどうか、疑わしかったりする。

このように、「神示」や「神諭」の「言葉」は、独特の個性や権威、さらにユーモアなどが混在して、不思議な「面白み」を醸し出している。

ところで、私が、接していた「精霊」や「捕食者」、「境域の守護霊」なども、やはり、これに似た、一種独特の「言葉」を使っていたのである。

「神示」とは、また異なるが、皆、ある種の「強烈さ」を湛えていたし、常に、どこか、「ユーモラス」なものでもあった。ただ、これらとのやりとりは、「書き言葉」ではなく、「話し言葉」でされたので、それは、「言葉」自体というよりも、独特の「口調」によっても、強められていた。

そこで、まずはこれらの「存在」の「言葉」に共通する、いつかの要素を挙げてみよう。

まず、確認すべきは、それは、物理的な「音声」としての「言葉」ではなく、テレパシー的な「言葉」であったことである。ただし、それは、十分、人物の「声」そのものと混同されるだけの、「声」としての「形態」(実体)を備えている。特に、人の背後から聞こえて来るときなどは、その人物そのものの「声」と混同してもおかしくないほどである。ところが、人とは無関係に、人のいない部屋その他の場所でも、「直接」聞くことができ、それは、「テレパシー的」(非物理的)なものであることが明らかである。

次に、「神示」や「神諭」も、とりあえず、「日本語」であったわけだが、私が聞いた「言葉」も、やはり、「日本語」そのものである。ただ、「日本語」といっても、「神示」がそうであるように、そこには、どこか、独特で、「普通でない」ものもある。たとえば、「捕食者」は、「神示」のように「―ぞよ」などとは言わないが、かなり強烈な「―だぞ」とか、「―なんだよ」という、強い口調と言葉を使う。また、時々、言葉としては、「日本語」そのものでも、全体として「意味」のよく分からない、「シュール」な言葉も使う。

「捕食者」は、私のことは、「オマエ」とか「ホンニン(本人)」(これは、私の「境域の守護霊」を「カゲ(影)」と呼ぶこととの対比である)と呼び、自分または自分たちのことは、「オレ」とか「オレラ」と呼んだ。これも、妙に「人間的」である反面、やはり、一種独特である。

「記事」にも書いたが、最後の方では、「捕食者」とはまた違って、それほど強くはないが、やはり人を惑わす存在である「精霊」(一般的にいう「低級霊」や「邪霊」そのものと解してもよい)が、いわば私の「お腹に住みついた」。この存在は、もっと、「言葉使い」の特徴がはっきりしている。「―じゃねえよ」とか「―だよ」など、強烈な言葉を使うが、どこか「いきがっ」て、ことさら強がっていることが明らかで、ヤクザで言えば、「チンピラ」同様の言葉遣いである。

また、ときに、意味不明な、あるいは「シュール」な言葉を使うのも同じで、例えば、「おまえ、<イキ>するんじゃねえよ」などと脅してきたが、<イキ>とは「息」なのか、意味ありげではあるが、それにしても、意味不明である。

また、これは、昔よく出で来ていたのが、使っていたのを「思い出し」たのだが、「いけすかねえなー」というのが口癖のような存在もいた。しかし、こんな言葉は、人間的にはもはや死語だろうし、当時、私は、こんな言葉を知りもしなかった。つまり、これらの存在が使う言葉は、「日本語」といっても、必ずしも、私が知っている言葉とは限らない。

ともあれ、こういったシュールで曖昧な言葉は、想像力を刺激し、こっちがあれこれ、意味を詮索すると、変な「連想」をもたらし、余計、「恐れ」が増大してしまう。だから、いずれにせよ、これらの存在の言葉は、「真に受け」てはならないのである。

また、これらの存在の多くは、いわゆる「男言葉」であるが、私が「アニマ」と名付けた「精霊」や、その他のいくらかの「精霊」は、明らかな「女言葉」を使っていた。「―のよ」とか「―よ」などである。映像的なものを伴うときは、「みかけ」としても、やはり、人間でいえば、「男」のようであったり、「女」のようであるような違いがある。

このような「言葉」使いは、「話し言葉」だからこそ、明確に出て来た違いといえ、「話し言葉」には、そのような存在の「個性」のようなものが、端的に現れやすいのだといえる。

しかし、これらの「言葉」は、私に聞かれた段階で、確かに、明確な「形態」(実体)を備えているといえども、本来、「テレパシー的」なもので、もとから「客観的」に、そのようなもの(誰にも共通するようなもの)として、定まっているものとは言い難い。

つまり、これらの「言葉」は、私以外の者が聞く場合には、また違った表れ方をするものと思われる。端的には、私が、日本人でなかったら、これらの言葉は、どう聞こえるのか、と言えば、それは、その聞く人の慣れ親しんだ、「母国語」で聞こえるというほかない。つまり、その「言葉」は、聞く側の人の文化や経験によって、いくらでも、変わり得るものである。

つまり、これらの「言葉」は、物理的な「言語」のように、発せられた時点で、「客観的」に定まっているものではなく、あくまで、聞く側の私によって、あるいは私との「関係」において、「言葉」として「変換」されたものということである。

その「変換」ということが、なぜ、どのようにして、しかも瞬時に、ほとんど細かなニュアンスまで伝えるように、見事になされるのか、不思議としか言いようがない。その「変換」ということが、私の「脳」でなされるのか、あるいは「潜在意識」でなされるのか、「エーテル体」のような霊的部分でなされるのか、それも不明である。

しかし、このような「変換」の「システム」があるらしいことは、確かなことで、それには、「私」が聞くのである限り、「私」が関わっていることも確かなようである。ただし、この「変換」ということは、「私」の経験や主観によって、一方的になされるのではなく、彼らの存在の方でも、「変換」そのものにも、かなりの影響を与えていると解される点がある。

つまり、彼らは、「変換」ということには「ノータッチ」というわけではなく、ある意味で、どのように「変換」されるかまで「意識」して、その基となる「テレパシー的な言葉」を発しているようだ、ということである。

だから、それは、「私」または、私との「関係」において、「変換」されたものと言うのである。

しかし、それが「変換」されるということは、それ以前に、やはり一種の「原言語」というか、ある「意味の基」というべきものがあり、それが、通常、我々がいうところの「言葉」として「変換」されるということになるはずである。(その意味では、「ソシュール」や「ラカン」がいうような、「言語以前に<意味>はなく、<意味>は、言語の体系によって生まれるに過ぎない」という言語論は、一面の真実ではあっても、全く正しい訳ではないことになる。この点については、いずれまた述べよう。)

そして、このような「変換」ということは、「神示」や「神諭」のような書き言葉についても言え、「チャネリング」のような「言葉の伝達」についても、言えるはずのことである。つまり、表に現れた、それらの「言葉」そのものは、自動書記した者やチャネラーによって「変換」されたものである。その意味では、「神示」や「チャネリング」は、それを受け取る者との、一種の「共同作業」ということになる。だから、それを受け取る者の、経験や個性も、入り込んでいるものというべきである。

また、「チャネリング」同様、「憑依」のような場合にも、このことは言える。「憑依」した霊がある者に憑き、それが、その者の「口」を借りてしゃべるような場合だが、その場合も、それが表に「言葉」として現れたレベルでは、それは、既にその憑かれた者を通して、「変換」されたものなのである。だから、よく、「外国の憑依霊が憑いているのに、日本語でしゃべるのはおかしい」などということが言われるが、それは、既に変換されたものだから、批判として成り立たない。(だたし、実際には、そのような「憑依」の「見世物」は、「ショー」としてなされたものが多いから、元々、「おかしい」のが多いのは確かである。)

いずれにしても、この「変換」ということには、いろいろと「不思議」と「謎」が満ちている。が、その分、いろいろと、それについて「面白い」発想も浮かぶ。

たとえば、日本人には、「日本語」として聞こえると言ったが、自然に「多元語」を身につけたような者には、いろいろな言語が混在して聞こえるのか。とか、日本語以外の「英語」や「中国語」などでも、これらの「言葉」の口調やニュアンスが、言語的に表現されるのか。それは、どのようになのか。

また、「日本語」にも、いろいろな方言がある。では、それらは、様々な地方の人には、その地方の言葉で聞こえるのか。

「日月神示」が下りた岡本天明は、関東の人のようである。が、「大本神諭」が下りた出口なおは、京都の綾部出身である。それで、「神諭」が、関西弁で下りるなどということがあってもよさそうだが、「神諭」の口調も、「日月神示」と大変よく似た、「ぞよ」口調である。これは、「書き言葉」ということもあるし、やはり、「日本古来」または「地球古来」の、普遍的な「神」とされていることが、大きく影響しているのだろう。このようなものは、「変換」においても、地方的な変化は、被りにくいということである。

この点は、「捕食者」なども、やはり、「神示」のように、強く普遍的な面があるので、そう大きな地方的変化は、被らないはずである。

しかし、一般の「精霊」とか「邪霊」というのは、私は、いくらでも、地方的な変化を受け得ると思う。つまり、たとえば、関西人に対してなら、「コテコテ」の「関西弁」で、言いかけて来るということが、あり得るのである。それに、「精霊」には、ユーモアにたけるものも多いので、「ボケ」をかましたり、「ツッコミ」を食らわしたり、あるいは、ノリのいい精霊なら、こちらが「ボケ」たら、「ノリツッコミ」で返すなどということもあり得るのである。

(ちなみに、私自身は、子供のころ、何度か転校したが、中学からこの時までずっと東京に住んでいた。で、精霊の言葉なども、東京的というか、関東的な口調という面があったと思う。それとの対比でいうと、関西の特に「邪霊」は、相当「きつい」関西のヤクザ風の言葉を使うとも想像できる。)

まあ、現在では、かつてのような地方の方言は失われて来ているから、それほどの違いはないと思われるが、「関西弁」は今も十分に生きているから、「関西弁」をしゃべる精霊いうのは、まだまだ多いと思われるのである。

また、先にも、少し述べたように、これらの「変換」ということを考えると、そもそも「言語とは何か」、「意味とは何か」ということも、より興味深い問題となる。

結局、これら、彼らの「言葉」のユーニークさというのは、その「変換」ということを通しても、何かしら、十分反映されるということである。それは、実際に「生」で接してみると、本当に、「生き生き」したもので、人間の発する言葉では味わえないものである。それは「捕食者」のような、「恐ろしい」存在についてもいえる。

統合失調症の者が、それらの発する「言葉」に「囚われる」というのは、ある意味で、この「言葉」の「生きた」「魅力」(魔力)に、「捕らえられ」ているともいえるのである。その、外面的な面(意味内容)だけ捉えれば、はたからは、なぜそんな言葉に「囚われる」のかよく分からない。しかし、「生」で接することから来る、その外面には伝わり難い、「生きた」「言葉」の「力」は、どうしても、その者を捕らえて、離さないところがあるのである。

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