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2011年8月25日 (木)

「日月神示」の言葉2

全体の本筋からは、多少外れることだろうが、私は、次のような言葉も、特に印象に残った。

せわしくさせているのざぞ。せわしいのは神の恵みざぞ、今の世にせわしくなかったら、臣民くさって了うぞ。せわしく働けよ。    

今の世の人々は、何かと忙しくしているが、それは、「神の恵み」によりそうさせているのだという。そうしなければ、今の人々は、「腐って」しまうから、と言うのである。

私は元来、怠惰で、あまり動かない方だが、昔から、よく、周りの人を見ていて、「何を、(必要以上に)そんなに忙しくしているのか」と思ったものだった。しかし、最近は、そうしていなければ、「危ない」というか、そうしている限り、なんとか、「まとも」でいられるのだなあということを、実感することが多い。

つまり、「忙しく」していることで、一種の「安定」を保っていることが明らかである。その「安定」している間は、確かに、「まとも」で、「害」もない感じである。しかし、それは、いかにも、「危なっかしい」もので、それを取り払ってしまったら、容易に崩れてしまうような感じである。そうなったら、それは、周りの者をも巻き込むような、「害」ともなりかねない。

だから、この言葉には、深く納得せざるを得ないものがある。

確かに、「忙しくする」ということ、そうできるということ、そのものが、一種の「救い」のようになっているのである

「忙しく」することで、自分の抱えている、様々な「問題」や、焦燥感などの感情に囚われずに済み、また、無為にボッーとしたりしないで済んでいるのである。つまりは、何とか、「腐らず」に済んでいるわけである。言い換えれば、「忙しく」していない状態、本来のあるがままの状態の方が、かえって、「耐え難い」状態となっているのである。

とりあえず、それを取り払うことなど、とてもできそうもないほど、「危なっかしい」人が多いのである。

「神示」が、「忙しく」させるのは、「神の恵み」と言うのは、一方で、「神の御用」とも言われるような、特別の「役目」を負わせているという意味もあるようである。

しかし、これは、もっと一般的な意味で言われていることも明らかである。つまり、特に積極的な意味合いではなく、あえて、一見「無意味」のような「仕事」や「やること」を、奪わずにやらせているという、「消極的」な意味合いもあると思われる。

つまり、「神の恵み」とは、一種の「皮肉」交じりの「恩情」でもあるわけである

さらに、「忙しく」させるということでは、前に、「怠け者を懲らしめるスネカ」(このブログに転載はしていない)という、「なまはげ」の地方的バリエーションを紹介した。これは、「なまはげ」同様、「鬼」のような存在だが、子供が「怠けている」のを脅かし、叱責して、「忙しく」働かせようとするである。このように、「捕食者」的な存在の一つの役目としては、人を「怠け」、「止まら」せないように、「忙しく」、「動かせ続ける」というのがある。集団的な管理のうえで、必要なことだし、それにより発するものが、霊的、エネルギー的な意味で、資源や食糧になるからである。

「神示」も、「悪にも役目がある」というように、この点では、「捕食者」もまた、「神」の「裏面」として、「神」の「意図」に貢献しているものと言わねばならない。

だから、「神示」が、「忙しくさせる」というのは、実際には、文字通り「恵み」や「恩情」に尽きるものではなく、神の「意図」または「都合」そのものなのだということも言えるのである。もちろん、「神示」では、一切、そんなことには触れられてはいない。

「神」の側から一方的に下される、「神示」や「預言」というものは、そういうものでもあろう。

その意味では、この言葉は、確かに、「真実」であると同時に、二重に「皮肉」のようなものも感じさせる。                            

ところで、「統合失調症的状況」というのは、まさに、上にみたような、人を「忙しく」させる「恵み」や「システム」から、逸脱してしまうことだともいえる。良くも悪くも、統合失調症的傾向のある者は、このような「システム」に、うまく乗れないのである。そして、それは、言い換えれば、「忙しく」している限り、逃れていられるようなものが、いずれは眼前に迫り、いやでも、向き合わなければならない状況を迎えるということでもある。「神示」が言うように、それは、人を「腐らせる」ような状況でもあろう。

とはいえ、「忙しく」していなければ、そうなるというのであれば、本来、それは、元々そうなるしかなかったということである。だから、「忙しく」させることは、本当の意味では、何ら「救い」になるはずもない。言わば、「対症療法」のようなものである。しかし、「神示」が言うのは、それでも、今の世の人には、この「対症療法」を外すことはできないということであろう。

実際、今後も、当分の間は、人々は、このように「忙しく」していることによってこそ、何とか「腐らず」に済んでいるいるという状況が、まだまだ続くと思わざるを得ない。

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