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2011年8月15日 (月)

「日月神示」の言葉

日月神示」(ひふみ神示)というのは、岡本天明という人物に自動書記によって下ったという「神示」で、「お筆書き」とも言われる。このような「神示」は、これまでにもいろいろあって、出口なおに下りた「大本神諭」が有名である。「日月神示」は、それらを受け継ぐ形で、新たに下りたものたが、これまで下りたのは「筆先」で、今回のは、「筆の元」だという「面白い」言葉もある。

中矢伸一という人の分かりやすい解説書(「日月神示」徳間書店)もあるが、今回、「神示」の抜粋である『ひふみ新世紀』(岡本天明著  太陽出版)をざっと読んでみた。

「大本神諭」もそうだが、独特の、強烈で、力強く、リズミカルな表現が特徴で、内容的にも、確かに、人間を越えたところからのものであることを、感じさせるものがある。その「強烈さ」は、多分に、「押し付けがましい」ほどで、ある意味、私が接していた「捕食者」とも共通する面がある。あるいは、モーゼに下りたユダヤの神との共通性も感じる。

ただし、それは、内容が「正しい」かどうかとは、また別の問題である。

内容的には、要するに、全体として、かつて「みろくの世」といわれた「世の立替、立て直し」が、近くに迫っていることを、強く訴えかけているのである。それが、今回のは、人間界だけではなく、神々の世界も含めた「三千世界」の「立替、立て直し」であることが、強調されている。

スウェデンボルグなどでも、かつて「霊界の審判」ということが、何度か行われたことが言われているが、それは、いわば「悪の排除」という面か強かった。それに対して、「神示」では、今回のは、「悪を排除」するのではなく、「悪をも抱き参らせる」というこが強調されている。このように、「善悪」(「高低」でもある)を越えた視点が、全体を通して、強く貫かれているのも特徴である。

悪を悪と見るのが悪」とか「罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方。神のやり方はその罪をも憎まず」という、「激しい」言葉もある。

この「物質世界」と「霊界」(神界)の仕組みが全体として組み替えられ、「半霊半物質」の世界となるということも言われる。

また、「天災」については、「海のつなみ気をつけてくれ。石流れて、木の葉沈むと申してあろうが。今がその世ざぞ。」とか「天災や地変は大き肉体の応急措置の現れであるぞ。部分的に、人間苦しめるように思うてはならん。」という言葉もある。

「大き肉体」とは、もちろん地球のことであろう。実際に、「応急措置」が必要なほど、地球の(内部)状態が、人間によって大きくかき乱されたとことは間違いないと思われる。私の「統合失調症的状況」でも、「地球」と一体になるかのような状況があったが、そこでも、地球の状態は大きく危惧されたことだった。(記事としては、<16 「夢幻的世界」へ> http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/16-6c47.html

まあ、何しろ、言ってしまえば、最近流行の「宇宙人」系統ではなく、日本または地球古来の「神々」から下された、「アセンション」の啓示ということになろうが。

これだけを捉えれば、むしろ、警戒心を強める人も多いだろうが、個々の「言葉」には、それら「チャネリング」系のものと比べても、印象深く、納得できるものも多い。

そんな中に、次のような言葉がある。

自分の目で見たのだから間違いないと、そなたは我を張って居るなれど、それは只一方的の真実であるぞ。独断は役に立たんぞと申してあろうが。見極めたうえにも見極めねばならんぞ。霊の目も一方しか見えんぞ。霊人には何でも判っていると思ふと、大変な間違い起こるぞ。一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは一方が違うぞ。

これは、まさに、前回示したような、「霊界の境域」に入ったときに、どのようなことが生じるのか、また、どのように振る舞ったらよいのか、ということを述べたものとしても読める。

「霊界の境域」では、これまでの経験からすれば、「未知」の現象に多く見舞われることになる。多くの者は、そこで「起こる」ことを判断するのに、これまでの経験によって、慣れ親しんで来た、「知覚」の「リアリティ」ということに頼る。つまり、「自分の目で見た」(耳で聞いた)ことが、そのまま「真実」であるという視点に拘る。「統合失調症的状況」でも同じで、「自分の目で見、自分の耳で聞いたこと」)を、それまでの経験と全く同じに、そのままの「真実」と判断することから、「幻覚」の問題が生じる。

「妄想」でも、「CIAにつけねらわれる」とか、「現実の誰かや組織に迫害を受けている」というのは、そのような「幻覚」をもとに、それを、それまでの経験の延長上に引き寄せて、「解釈」しているのである。つまり、自分がこれまで「見たり」「聞いたり」してきたことによって、構成された「世界観」、神示のいう「現界」という一方的な視点で、解釈しているのである。

ところが、「霊界の境域」では、ある時点まで来ると、もはや、それらこれまでの経験に照らした解釈は、成り立たないというところに追い込まれる。何らかの、「未知」の現象、それも、「目に見えない」または「霊的」というべき、これまでの経験からかけ離れた現象が生じているということを、認めざるを得なくなるのである。

そうなると、「妄想」でも、「神」や「宇宙人」に監視または操作されているといった内容が、出てくることになる。それは、これまでの「自分の目で見たもの」、「現界」の視点が通用しなくなっているので、今度は、神示のいう、「霊の目」の視点が、極端に持ち上げられているのである。そして、そこで出会われる「霊人」(これには、「人間の霊」のほか、「精霊」、「神々」などを含む)の言うことや、なすことを、極端に真に受けて、それに振り回されるということが起こるのである。

実際に「霊界の境域」に入ると、自分は、「霊的」な面に関して、いかに「無知」で、「無力」であるかを思い知らされるので、このような領域で目の前にする、「霊人」に対して、必要以上に、恐怖心や依存心が生じるのは、致し方のないことではある。

しかし、「神示」が言うように、「霊人」だからと言って、「何でも判っている」かのように思うと、「大変な間違いが起こる」。むしろ、「霊人」には、人間を惑わすだけの存在も多いし、そうでなくとも、我々が思う以上に、多くのことを「判っている」わけではないのである。

「現実の目」という視点のみで見ても「誤る」が、「霊的な目」という視点のみで見ても、また誤る。要は、「現実の目」にも、「霊的な目」にも頼らず、偏らず、ただ「見極めて行く」しか手はない、ということになる。

ところが、「神示」では、「立替、立て直し」ということで、前回の図で示した、「感覚的領域」とか「霊的領域」という、これまでの枠組そのものが、これからは大きく揺らぎ、または取り払われるということが、言われているのでもある。つまり、それらの世界は、混交し、「境界」を失って、いたるところが、ある意味、ことごとく、「霊界の境域」そのものになるということである。「霊界の境域」は、もはや、特殊のものではなく、この世界そのものが、「霊界の境域」と化すということである。

そして、その兆候は、確かに、十分現れているとみることができる。(神示では、「神がかり」の多さなどが、兆候としてあげられている。)

その意味では、「神示」で言われていることは、もちろん、単に「統合失調症的状況」という特別な状況に対して言われてるのではなく、今後この世界で生きていく、多くの者が、まさに直面にする状況を先取りして、言われていることなのである。

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精神世界」カテゴリの記事

コメント

ティエムさんのブログを偶然見つけ、たまに思い出してはぼんやりと読み続けるうち、気付けば2年ほど経っていました。
私は学生で、海外で幻覚剤の連続的な使用経験があり、その体験と統合失調症的体験の類似性から、ティエムさんのブログに興味を持ちました。現代の若者では幻覚剤の使用経験自体はさほど珍しいものではなく、同じ体験をしている友人はある程度います。
とはいえ、そのような経験に志向性を持つ私の友人達は、もともと分裂気質的、内面的であり、条件が揃えば統合失調症の発症もありえたのでは、と思わせるような人物が多いです。

ところで、私や友人達に共通するのは、シャーマニズム、瞑想、夢、幻、精神世界等への強い興味です。
あくまで健康的で意識的な探求という形を取っていますが、やはり統合失調症的なものとの強い関連性があるのではないかと思っています。

不躾な質問になって恐縮ですが、ティエムさんは、シャーマニックドラミング、座禅、ヨガなど、何らかの手法を用いた瞑想を意識的に行っていますか?
また統合失調症的と呼ばれるある種の神秘体験を何らかの意識的な手法によって再現することは可能だと思いますか?
私的な領域の話ですので、問題がない範囲で教えていただければと思います。

コメントありがとうございます。

「幻覚剤」によって、「日常的な現実」とは異なる何らかの体験をされ、「統合失調」にも現実的なレベルで興味をもち、親近感をもたれたのだと思います。

私のブログ記事でも、「幻覚剤」については、(もちろん「危険」を承知のうえでのことですが)、管理された状況で、一時的に使用する限り、自覚的な形での、「統合失調状況」の擬似的な体験となり、その理解に、最も資するのではないかと述べています。

ただ、仰るとおり、幻覚剤の体験に興味をもつこと自体、「統合失調」への親和性があるともいえ、そのような傾向のない人は、むしろそのような体験に「嫌悪感」が強いと思いますので、なかなか幻覚剤を試してみようなどとは 思わないのかもしれません。

以下に、「幻覚剤」に関する記事を、いくつかあげておきます。

幻覚剤の「使いよう」( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-9d96.html)
伝統文化の儀式と幻覚剤、分裂病 ( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-a813.html)
「幻覚世界」を表した本 1-天国と地獄 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/1-55fa.html
「幻覚世界」を表した本 2-統合失調的「夢幻世界」( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/2-c390.html )

もし、まだお読みでなければ、いずれも、興味をもって読んでもらえると思います。

「シャーマニックドラミング、座禅、ヨガなど、何らかの手法を用いた瞑想を意識的に行っていますか?」

一連の体験をする以前に、座禅やかなり激しい瞑想を行っていた時期はあります。それが、一連の体験に影響した可能性もあります。これらを、自分流に行うことは、危険であるのは確かなことです。最近は、毎日ではないですが、身体的な体操としてのヨガと、簡単で短い瞑想を行っているだけです。

「統合失調症的と呼ばれるある種の神秘体験を何らかの意識的な手法によって再現することは可能だと思いますか?」

記事でも述べていますが、「統合失調」そのものは、意識的な手法で目指される「神秘体験」や「超越体験」そのものとは、異なるというより、それらから、意識的な手法によらないからこその、「ズレ」を起こすものといえます。一言で言えば、「望まずして、そのような体験領域に入ってしまう」のであり、意識的に準備された場合と違い、混乱や破壊的要素が前面に出てしまいます。また、記事では、「アーリマン存在」や「捕食者」と言っていますが、それらの「邪悪」な存在に絡めとられて、破滅に追い込まれる可能性も高まります。やはり、「統合失調」そのものは、破壊的で危険なものと言わざるを得ません。

ただし、いかなる「神秘体験」や「超越体験」も、慣れ親しんだある状態からの「飛躍」である限り、ある程度の混乱と破壊は必ず伴うともいえます。そして、それらと「統合失調」との共通点は、明らかにあるといえます。

「統合失調」状況をくぐり抜けることで、結果的に、それらの「神秘体験」や「超越体験」に至るという可能性もあるわけです。さらに、もっと言えば、「統合失調状況」には、「悪」の本質や、すべての存在の根底にある「虚無」を知る体験など、それらの「神秘体験」や「超越体験」では得られ難い、独自の領域もあります。だから、一概に、否定的なものだというわけではありません。もちろん、それらは、大きな危険と引き換えである限りのものですが。

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