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2011年7月 3日 (日)

「父」の「権威」と「なまはげ」の「権威」

ラカンの「統合失調症論」は、難解でややこしいと思われているようである。しかし、その要点を切り詰めてみれば、以外と単純で明快なことを言っているのである。

第一に、「言語論」として、「言語」が「現実」を反映するのではなく、「言語」がその「意味作用」で、「現実」を「創出」するのだということ。

第二に、「統合失調症」になる者は、幼児期に、この「言語」の「意味作用」の最も根底的な働きをする「父の名」を身につけなかった(「排除」された)ということ。そのために、言語の「意味作用」が不安定で、壊れやすく、同時に「現実」も不安定であること。

第三に、「統合失調症」を発病するときには、この「排除」された「父の名」が、その者に、「圧倒的な他者」として「回帰」するということ。それは、壊れかかった、「言語」の「意味作用」または「現実」を、「再構築」する必要に迫られてのもので、「妄想」というのも、その「父の名」のまわりに築かれる、そのような試みの一つであること。

ラカンは、「現実」とは、「言語」の「意味作用」により「創出」されるものとする。「言語」の「意味作用」以前に「現実」なるものがあるわけではなく、あるいは、たとえあったとしても、それは人間とは没交渉の何ものかであるに過ぎない。「知覚」のようなものも同じで、「言語」の意味作用の影響なしに、あるものではない。しかも、そのような「言語」の「意味作用」とは、何か確かな根拠があって生じているわけではなく、全く恣意的なものである。

だから、統合失調症ならずとも、我々がいう、「現実」なるものは、何ら確たるものではない。ただ、多くの者に、「言語」的に共有される限りで、その「意味作用」によって支えられて、固定的なもののように現じているだけである。言い換えれば、そのような「言語」の「意味作用」が機能しなくなれば、「現実」なるものは、容易に崩壊してしまう。

そのような、本来根拠のない「言語」の「意味作用」を、固定的なものとして支えるのには、その根底に、何か、強力な「権威的」または「秩序的」な働きがなければならない。

ラカンは、それが、「父の名」だという。「父の名」とは、「父」そのものではなく、あくまで「名」=「言語」であり、「父」の「権威」のように、その「意味作用」を根底から支える働きをなす「言語」である。

ちょっと、具体的には、なかなか把握しづらいものだが、しかし、そこに、西洋文化の伝統的な、「父性的」な「権威」としての「神」が投影されていることは疑いないだろう。「父の名」とは、要するに、「言語」の次元に映し出された「神」なのであり、実質は、「神の名」なのだと言ってもいい。

いずれにしても、多くの者は、それによって、「現実」という「意味世界」を、固定的なもののように、支えられている。しかし、統合失調症になる者には、それが欠けているというのである。幼児期に、「父の名」という「権威」を、十分に身につけなかったために、「言語」つまり、「他者」と共有する「意味」の「世界」への移行が、うまくいかなかったとするのである。

だから、その者の「言語」の「意味作用」も、「現実」も不安定なものであり、何らかのきっかけで、「崩壊」の危機に瀕しやすい。

しかし、その者も、実際に、そのような危機にいたったときには、無意識の奥底に排除されていた、「父の名」を回帰させるという。だたし、それは、もはや言語的意味の世界ではなく、それが崩壊して、露わになった「身体的」な(その意味ではより「リアル」な)混沌たる世界へと回帰する。その回帰した、「権威的なもの」が、「圧倒的な他者」として迫るのである。

しかし、その「父の名」の回帰は、壊れかかった「言語」の「意味世界」を、何とか修復しようという試みでもある。「妄想」や「幻覚」は、「圧倒的な他者」として回帰した、「父の名」を廻って構築される。それは、もはや、多くの者と共通するものではあり得ないが、少なくとも、何らかの「意味世界」を構築し、「言語」的「意味世界」である「現実」そのものの崩壊は、免れようとするのである。

このように、ラカンの説は、「現実」とは何かについての、深い洞察と結びついていて、かなり強力な説得力をもつ。統合失調症を、何ら「異常」のことではなく、むしろ、人間に宿命的な本来の状態が露わになることとみていることも、共感できる。ただ、具体的なレベルにおいては、前回みた、「圧倒的な他者」を「父」(の記憶)とみる説の延長上にあるものといえる。

人は、幼児期に、「言語」的な「意味世界」へと移行する前には、母親との、閉じた「想像的」で「幻想的」な、「鏡像的世界」にいる。そこから切り離す役割をするのが、「父の名」で、それにより、「言語」という客観的な、「意味」の「世界」への移行が起こる。それは、欲望充足的な閉じた「世界」をつき壊し、「禁止」と「掟」の支配する、「他者」の(集団的)「世界」へと強制的に移行させるものである。だから、それは、象徴的に「ファルス」などともいわれ、その働きは、「去勢」ともいわれる。「統合失調症」になる者は、「父の名」が「排除」されていて、「去勢」に失敗し、「言語」的「意味世界」への移行がうまくいかなかったとするのである。

「統合失調症者」は、実際、「言語」の「意味作用」の「崩壊」をもたらすことが多く、それに伴って「現実」も「崩壊」するという点については、間違いないことといえる。ただ、その「言語」の「意味作用」が、ラカンのいうような、「父の名」によって支えられているのかどうかについては、西洋の場合はいざ知らず、アジアや日本の場合には、疑問と言わざるを得ない。また、「現実」が「言語」の「意味作用」によって「創出」されるという点も、確かに真実というべきだが、本当に、それのみに尽きるかどうかには、やはり疑問がある。

ただ、前回もみたように、「父」(の記憶)が「圧倒的な他者」として「回帰」するということ自体は、あり得ることで、西洋の場合には、そういうことが、特に多いのであろう。

しかし、日本の場合、ラカンのいう意味での、「言語的世界」への移行であるかどうかは別にして、幼児または子供を、「他者」の「支配」する集団的「世界」へと「移行」させるのに、大きな役割を担ったと解されるものがある。それは「なまはげ」である。
      
日本は、「母性的な文化」といわれ、「父」に、子供を集団的「世界」への移行をもたらすだけの「権威」が期待されていたとも思えない。しかし、日本には、「親」の外にも、「なまはげ」の「鬼」という、「親の言うことを聞かない子供」を「脅か」し、「叱責する」という形で、集団的な「秩序」を教える役目を担うものがいる。「なまはげ」の儀式には、そういったことも、含みみることができる。

「なまはげ」の「鬼」は、「父」などよりも、強力で、「圧倒的」な存在であり、子供も真に恐怖する、逆らいがたい存在である。その「恐怖」は、実際、強力に、内心に植え付けられる。ラカンのいう「去勢」というのにも、匹敵するだけの働きをする。そのような存在が、最終的に、子供を「他者」の支配する「世界」、「社会」というよりも「世間」へと移行させることを、「保証」していたのだといえる。

しかし、考えてみれば、西洋の「父の権威」ないし「父の名」というのも、父性的な「唯一絶対の神」という「超越的」なものを、背後に抱えてこそ、それだけの働きを期待し得るものであった。とすれば、日本の場合に、それが、「なまはげ」の「鬼」という「超越的」な存在によって、支えられているとしても、別に不思議はなかろう。

それは、儀式では、親とは別のものとして現れているが、実際には、親の背後で、「憑依的」に「力づけ」をする存在として、現れると解することも可能である。実際、子供のころ、「鬼を見た」という者は、結構いるし、「親」の「背後」に「鬼を見た」という者も、結構多い。

このように、「父の権威」ないし「父の名」といっても、それが単独で、「他者」の支配する集団的な「世界」への移行をもたらすというような「力」を持ち得るものではない。そこには、何らかの、もっと「根源的」な「他者」の働きが、少なくとも、その「父」の背後に重なるようにして、「投影」ないし「現れ」出ているのである。

しかし、「統合失調症」になる者が、そのような「父の名」を身につけず、「排除」しているということは、そのような、「他者」の「世界」へと移行させるだけの「権威」や「恐れ」を欠いているということである。単に「親」がというのではなく、「父性的な神」にしても、「なまはげの鬼」にしても、ある意味で、「統合失調症候補者」に対する「権威づけ」に失敗したのである。言い換えれば、「統合失調症候補者」は、真に「他者」の「権威」も「恐れ」も身につけることなく、「他者」の支配する「世界」へとほうり出されたに等しい。

それで、「統合失調症候補者」は、ある意味で、「恐いもの知らず」であり、「万能」である。しかし、「他者」の支配する「世界」は、そのようなものでは成り立っておらず、そのようなものを許すほど寛容でもない。「統合失調症候補者」は、そのような「世界」に、適応できる見込みは薄い。

「統合失調症候補者」は、「対人恐怖」などとして、「他者」を恐怖するということが言われる。しかしこれは、実際には、「他者」そのものが「恐い」のではなく、「他者」への「恐怖」によってこそ成り立っている「他者の集団」が、何か「得たいの知れないもの」のように思えて、「恐ろしい」のである。彼には、むしろ、多くの「他者」の間で共有されている、「他者」に対する「恐怖」が理解できないのである。しかし、「世間」または「社会」という「集団的世界」は、そういったものでこそ成り立っている。

だから、いずれは、そのような「集団的世界」との「齟齬」が、露わにならざるを得ない。統合失調症を発病する契機とは、まさに、そのような「齟齬」が、隠すことのできないほど、露わになったときだと言える。ラカンによれば、そこで、彼は、初めて、自分に「欠け」ていたもの、それまでは、「排除」していた「父の名」を、無意識の深みから、回帰させるのだという。つまり、「他者」の「恐怖」というものの根底にある「父の名」が、彼にも、「圧倒的な他者」として呼び起こされるのである。

しかし、この「圧倒的な他者」は、何も「父の名」である必然性はない。それは、幼児期または子供期に、「親」とは別に、または「親の背後」から、現れ出ていたが、その者に真に影響を与えることができずにいた、「なまはげの鬼」=「捕食者」かもしれないのだ。

ここにいたって、ついに、「捕食者」も、自分の真に「恐るべき」性質を思い知らせるときが来たのだ…。

次回は、私自身の場合を振り返って、幼児期または子供期に「捕食者」とどのような出会いをしていたか、それが「統合失調症的状況」に陥ることに、どのように関係していたか、を述べよう。

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コメント

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面白いです。

どっかで 今 症候最中の人に役立てば と祈願されていたけれど、どうだろう。
下手に知的に理解してうっかり満足しちゃうと、心と身体のレベルまでリアライゼーションするモチベーションがなくなって失敗するのかな。

故河合隼雄は山中康裕の教育分析をしていたけれど、
山中「はい、先生の書いておられた、『影の現象学』や「アニマ問題」ですよね」
河合「そういう風に、安易にテクニカル タームを使わんことです。現象や夢自体をしっかりと見つめ、対象そのものや、自分自身のことをキッチリと点検することから...」

が印象的でした。

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