« 用語集 | トップページ | 「神」も「解離」する!? »

2011年6月 8日 (水)

「許して前を向く日本人」

漫画家のいがらしみきおが、昨日付け朝日新聞朝刊で興味深いことを言っていた。(タイトル「許して前を向く日本人」)

いがしらみきおは、「神」や「宗教」を問う漫画も書いている。自分は、「人を信じる」ということを疑うようになって、人間は何のために生きるのかとか、世界とは何かなどを、問うようになった。

ところが…

今回の震災では、被災を受けた人やその周りの人など、互いに手を取り合って励まし合ったり、協力し合っている姿が印象的である。そこには、「人を信じる」ということが、一貫して伺われる。テレビなどの報道でも、「人」の話ばかりで、「神」がどうのこうのということが言われることはない。

今回のような大きな震災でも、多くの日本人は、起こったことは「許し」て、「前向き」に、「人を信じる」ということを続けているようにみえる。

これは、自然災害(一般には「不可抗力」と思われている)だから、ということではない。かつては、原爆を落とされたことにも、同じような対応をしている。今回も、やはり、日本人は、「神」を「許し」て、「前を向いて生きる」ことを続けていくのだろう、ということを述べていた。

これは、「いいとか悪い」とかではないと言っているし、別に「揶揄」する意図でもないようである。ただ、多少違和感を感じつつも、日本人というのは、そういう風であることを、改めて感じたということであろう。

これは、確かにそうで、私も、同じような感じをもった。外国などが、驚く点も、やはり、大規模な被害を受けたにも拘わらず、自暴自棄になったり、暴動じみたことがほとんど起こらず、人々が協力しながら、前向きに生きている姿なのだと思う。日本人が、表向き「無宗教」であることを知ると、なおさら、この驚きも膨らむのだろう。

欧米などでは、「神」は信じても、「人」は信じないということが、当たり前のように行き渡っている。むしろ、「神」を信じるということで、何とか、人と人のつながりや、慈善などの行いも、つなぎ留められているのであろう。その「神」を信じるということさえ取り払ってしまえば、むしろ、人を「信じる」ということも、更に有り難いものとなる。中国では、現在、そのような傾向がかなりはっきり出ている。「許す」という点でも、中国とは大きな違いがある。

(ちなみに、日本で、約束をするときの言葉に、「ウソついたら針千本飲ーます!」というのがあるが、これに対応する中国の言葉は、「ウソついたら、首吊って死んでも、百年は許さない!」である。日本のは、一見残酷だが非現実的で、実際には行いようのないものだが、中国のは、何ともリアルな話である。ただ、百年という限定があるのが、救いか。)

そのような「信仰」もないのに、「人を信じ合える」という姿は、やはり、外国にとっては、大きな驚きなのだろう。

これは、いがらしも、「神のない宗教」のようなものと言っているが、決して、単純な「無宗教」のなせる技ではない。これまでもみて来たところで言えば、日本人の「世間」への「信仰」の、「いい面」が表れたものと言うべきである。ここでは、「世間」は、一種の「人と人のつながり」を表象するもの、「運命共同体」的な「共同意識」を表すものとなっている。そこには、狭い土地へ多くの者がひしめき合って生きている日本人の現状や、「単一民族的」な民族的幻想も、働いているだろう。が、いずれにしても、震災という大きな出来事をきっかけに、そのような「共同意識」が強く表に表れ出ていることは、確かと思われる。

この日本人の、「世間信仰」にみられる、「楽天的」というか、「ナイーブ」ではあるが、前向きの「共同意識」は、確かに独特で、何か「犯し難い」ものがあると感じられる。それは、実際、いがらしも言うように、大きな「自然災害」でも、戦争や「原爆」のような人為的な災害でも、崩れることはなかったわけだし、今後も、容易には、覆されることはないと思える。

私は、これまで「世間」について、「悪い」面を多くあげつらって来て、そこには、「捕食者」のような存在も入り込み、むしろ、それを通してこそ、「人と人の間」の確執を拡大したり、人の集団の支配を強化して来たということを述べた。それは確かにそうであり、今も十分深刻な事態であるはずなのだが、しかし、その「捕食者」ですら、このような意味の「共同意識」は、容易に打ち砕くことはできないかのようにみえる。

それが、どこから来るのか、容易には、理解しかねるが、ある種の「宗教性」といえるもので、確かに、そこには、何か独特の、犯し難いものがあることは、まず認めておきたい。私は、このような「世間」的な「共同意識」からははみ出すことが多いし、いがらしのように違和感も感じるが、それにしても、そのこと自体は、否定できないことで、また、私自身の中にも、そのようなものがあることは、やはり感じるのである。

ただ、私としては、その「違和感」というか、その「世間」的な「共同意識」が、「悪く」出る方のことにも、触れておきたい。それは、一つには、その反面として、これまでも何度かみたように、そのような「世間」からはみ出る者を、ことさら「排除」したり、「差別」するなどのことが起こることである。分裂気質の者などは、やはり、そのような憂き目に遭いやすい。分裂気質の者が、「被害妄想」的な発想をしやすいのも、普段から、そのような「世間」に対する、「違和感」や「不適応感」を抱えていることが、大きな理由の一つである。

また、いがらしも言うように、「人を信じる」ことを疑うこと、つまり、そのような「世間」の「共同意識」から離れてこそ、人間や世界などの、本質的な問題を、問うということも起こり得るはずである。しかし、このような「世間信仰」は、そのようなことを問うこと自体を、「許さない」という面が強い。それは、その「世間」的な「共同意識」自体が、一種の「宗教的」な「価値観」ないし「感情」でできているので、むしろ、人間や世界などの、本質的な問題を問うというのは、そのような、現にある「宗教」に対する「反逆」とみなされることにもなる。「世間」というもの、それ自体が、一種の「安全」や「保証」を与えてくれるものなので、そんなことを問うのは、そのような「世間」に対する「不信仰」の表明以外ではなくなるわけである。

さらに、それは本来、一種明らかに「宗教的」なものなのに、自分自身を「無宗教」的なものとみなしている。だから、むしろ、何か「宗教」的なものに関わることなどは、この「世間」からは、「毛嫌い」される傾向がある。そこには、「世間」が、現代の「唯物論」的な発想と、奇妙に結びついて、歪なものになっている、ということもあるというべきだが。

さらに、その「世間信仰」の「楽天性」ゆえ、「原発」でもそうだが、危険や危機管理の意識が薄く、育たないばかりか、「危険」を訴えかけること自体が、同じく、その「世間信仰」に対する「反逆」であるかのようにみなされるという問題もある。

この「世間」的「共同意識」は、震災という特別の出来事で、改めて確認されたものだが、それは、普段から常に潜在的にあるものが、よりはっきりとした形で、浮上したに過ぎないともいえる。それは、今回の震災のような非常事態の時には、「よい」面として働くが、、普段から、日本人を強烈に縛るものでもある。そのように、「よい」面もあるからこそ、いがらしも言うように、容易に、それを超えるような見方や変化を起こさせない、強力な足かせのようになっているとも思われるのだ。

それは、一つには、この「世間信仰」が、何となく育まれた「無自覚」的なものであることにもよると思われる。今回の震災は、改めて、日本人にとって、自分らの根底にある、そのような「世間信仰」そのものを、自覚的に問い直す機会にもなり得るはずである。

« 用語集 | トップページ | 「神」も「解離」する!? »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

胸の中にもやもやとわだかまっていたものを、鮮やかな手つきで捌いていただきました。

その通り! 快哉を叫びたくなります。

ブログをお読みいただき、コメントまでいただきありがとうございます。
今後とも、興味をお示しいただければうれしいです。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/575359/51890270

この記事へのトラックバック一覧です: 「許して前を向く日本人」:

« 用語集 | トップページ | 「神」も「解離」する!? »

新設ページ

ガジェット時計Part11(光る玉・バージョン) - ガジェットダウンロードするなら、ガジェットギャラリー
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

コメントの投稿について

無料ブログはココログ